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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.133 2006/9/10(第133号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガは“アセンション情報の広告塔メルマガ”です。

つまり、“アセンション”という言葉の流通拡大を手段として、
地球住民の“集合意識”の基盤を“ゆるめ・ひろげ”ることによって、
地球が向かう新しい光り輝く世界への次元移動を、できるだけ自然で、
スムーズなものにすることを目的に週刊で発行されています。(^_-)


◇◇ このメルマガが想定する“アセンション”◇◇

“アセンション”という言葉を聞いたことがない方は、発信サイトで
https://www.ascensionkan.com/demae/ascension.html
このページ↑をご覧ください。

また、特にこのメルマガが想定している“アセンション”という言葉の意味合
いについては
https://www.ascensionkan.com/demae/ascension_m.html
このページ↑をご覧ください。

これまで地球の次元上昇サポートを背後支援に絞ってこられたETの方々が、
ファーストコンタクトに向けて国勢調査を開始されました。
https://www.ascensionkan.com/demae/ET_message.html
ここ↑をご覧ください。

要するに、グレゴリオ歴2012年12月22日をひとつの仕切として、これからわず
か7年ほどの間に、前後のつながりを辿れなくなるほどの大激変を通過して、
われわれは光り輝く圏域に移行するという、なんともはや嬉しいような、恐ろ
しいようなお話に“悪乗り”して行こう、という楽しい話題を振りまいていま
す。(^^)/

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◇◇ もくじ ◇◇

1.「わたし」は「わたし」の執着

2.旧稿再掲:〔比較と競争〕の5――「比較」の根拠とは何か

3.写経ラムサ:【第15章 輪廻転生】より

4.写経ニサルガダッタ:
  【71 自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶ】より

5.編集後記: 地球さんは、今日もまた新しい朝を運んできてくれた。
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■ 1.「わたし」は「わたし」の執着
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マインドの中に生き、そのマインドを自分だと思いながら、しかもマインドと
して生きる「苦」からの脱出を図る……。

        <マインドの外側に苦は存在しない>

……そんな言葉を遠い木霊のように聞かされて、自ら自己同化したマインドの
ワンセット、「魂」と呼ばれる一連の記憶ごと、マインドの外側に出られない
ものか……、などとあがく。

たしかに、どう考えてもそれからは逃れられないらしいある堅固な何かがあっ
て、それを無自覚に「わたし」などと呼びながら、「わたし」は「苦」から離
れたいのだ、などとほざく。

いわゆる「わたし」が「苦(楽)」への執着そのものに他ならないらしいこと
を薄々感じながら、それでも、「わたし」は「苦」はいやなんですよね、など
と不見識な言葉を漏らす。

かといって「快楽」そのものの耽溺に突っ走るほどの度胸もエネルギーもない。

「わたし」を振り切りたい、などとふざけたことを言う。

「わたし」を振り切れるようなら、誰も苦労はせんわい。

「わたし」は存在すると主張するのが「わたし」なのだから。

その「わたし」がどうやって「わたし」を振り切ろうというのか。

無意識の陰に必死に隠れてきた「わたし」は存在しないという事実を、まとも
見守れるようになる以外に、ゲームセットなどあるはずもないではないか。

「わたし」はそれまで勝手に苦しむがいいのだ……。(-_-;)

……。(-_-)

(@_@)

あ、馬鹿な独り言を言っちゃって……。^^;

いやー、相変わらずちょっと蒸し暑いですね。^^;;;

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”にお付き
合いいただく時間がやってまいりました。(^^)/

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

「わたし」というのは、要するに、あるリアリティの根拠がひとつのマインド
セットに自己同化した姿を言うんでしょうね。

「わたし」という固定的な実体は存在しないでしょうが、刻々に変化して記憶
を蓄積していくいわゆるひとつの“マインドセット”は存在するわけでしょう
し ^^;、「私は在る」というこの素朴な感覚を存在させている“あるリアリテ
ィの根拠”は確かに「在る」わけです。

だって、それがなければ、わたしは何も悩まなくていいし、こんな『アセンシ
ョン館通信』なんてメルマガも存在しないわけですから。^^;

あ、変化するものは非在だったっけ。(^_-)

じゃー、何も問題はないわけだけど、厄介なことに、この「わたし」のことは
どうしてくれるのよ?、なんて言うのがいるんですよねぇ、これが。

そいつが最後の出番で必ず出てくる……。

澤木興道老師が若いころ随身していた丘宗潭(おかそうたん)老師は、入室し
てきたある独参者に「一大事をお示し願います」と乞われて……

「ウーム、たれの一大事か」と言ったそうです。

「ヘェイ、私のでございます……」
「ナニイ、貴様のか、貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか、ウフフ……」

とおっしゃったとか。(-_-;)

なかなかその“貴様一人ぐらい”がどうでもよくなくてねぇ。

この“まるで悪魔が毒気を吹いたような”「貴様一人ぐらい、どうでもいいじ
ゃないか、ウフフフ……」が、後々澤木興道老師をずいぶん支えてくれたそう
ですけど。

まあ、それはそうとして、この「わたし」が最後にはいつでも顔を出す。

時には“死にたい”とか、また時には“死にたくない”とか駄々をこねて。

この駄々をこねているのは、「わたし」が自己同化した“マインドセット”。

その“マインドセット”を存在させているのは「わたし」……、というんだか
ら、ちょっとややこしい。

……こんなこと、言葉でいくら言ってもしょうがないだろう、とは思いつつ、
でも、もしかして薄皮の一枚ぐらい剥がれるんじゃないか、なんて思ったり。

「わたし」が自己同化した“マインドセット”というのは、別の言葉で言えば
“心の趣味”とも言える。(-_-;)

「わたし」が自己同化している感情のこと。

何度も言い換えるけど、それは「わたし」がフォーカスしている趣味、波動帯
のことだよね。

「わたし」の“フォーカス”、「わたし」の“執着”以外に「わたし」を縛っ
ているものなんてない……。

じっさい、そうなんだよねぇ。(=_=)

……たしかに、プレアデスの方々がおっしゃるように、

----------------------------------------------------------------------
 何千年にもわたる巧妙な陽動作戦によって、人類は、自分たちの世界を創造
 することができる力と天賦の才能の、真の性質を理解することから遠ざけら
 れてきました。
 何千年にもわたって、個人的な力が不足しているという、制限的な思い込み
 が、世界中で事実として受け入れられてきました。
 これは、あなた方の注意力を、この思い込みに集中させることによって達成
 されました。
         「ガイア・アセンション」シリーズ:解説『この時代!』
                     第5回 認識を拡大する(II)
 http://www21.0038.net/~gaia-as1/era.cmt5.html
----------------------------------------------------------------------

なんて言い方はありますよ。

それも間違いなく事実なんでしょう。

その“思い込み”から抜け出られる可能性なんて皆無だったという時代とか地
域も、たしかに、あったでしょう。

そういえば、最近BSで溝口健二監督の『山椒太夫』という映画を放映してま
したが、何百年前の話なのか現在の常識とはまたずいぶん違っていました。

「人買い」がいる時代の、丹後の国の話でしたから。

ところで、われわれの子供のころは、『安寿と厨子王』という絵本がどこの本
屋にもごく普通に置いてありましたが、今は『安寿と厨子王』なんて絵本はあ
るのかしらね。

ああいう時代を通して、地球は長く“神々の畑”として管理されてきた、とい
うことなのかもしれません。

ロバート・モンローさんの『魂の体外旅行』によれば、そこで収穫されるもの
は「ルーシュ」というんだそうですけど。
https://www.ascensionkan.com/books/journeyf.html

普通の言葉で言えば、“感情エネルギー”ということにでもなるのかしら。

それも地球の管理者達は、ゲテモノ好きで、恐怖とか心配とか嫉妬とか、きわ
めて低くて荒々しい粗野な波動がメインの収穫物なんだとか。

だからその収穫効率を高めるためには、いろいろ波動調整をしたということな
のかもしれません。

こういうこと全体をすべて“目的論的”な言い方で説明するには、ちょっと、
無理がありますよね。

成長とか、進化とか、学習とかね……。

“こじつけ”は“こじつけ”で、それなりの有効範囲はあると思います。

でも、地球を体験しているわれわれが、何もそんな子供っぽい話に付き合わな
くともねぇ。(←急に強気になったりして。(^_-))

そういう“道徳話”を超越していくには、結局、「時間幻想」を突破するしか
手はないんだろうと思います。

でも、「時間幻想」を突破することはマインドにはできないからなぁ。

以前、ある状況下で、<虎の皮宇宙>というイメージが浮かんだことがあった
っけ。

このメルマガでも、一度「<虎の皮宇宙>論」というのを書いたことがありま
す。

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 それは、漆黒の大空間に浮かぶ“巨大な虎の皮”のイメージです。
 
 その<虎の皮宇宙>では、毛羽だった“表側”(=上側)には、無数の毛が
 生えていて、それぞれの毛は、虎の皮の“縞”によって区分けされています。
 
 ま、言ってみれば、「階層」であり「次元」だよね。
 
 でも、その一本一本の毛は、じつは、同じものに“根づいて”いるのね。
 つまり、同じものを<根拠>にして、存在してるんです。
 
 無根拠を根拠にして存在しているその<虎の皮宇宙>の“裏側”は、じつは、
 “のっぺら”とした<一枚のなめし皮>なんです。……
 
 https://www.ascensionkan.com/mm/vol012.html#2
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と。^^;

多次元宇宙とそれを“裏張り”している<一なるもの>を視覚化しようと思っ
たんでしょうね。

大宇宙の中のあらゆる次元に存在するあらゆる意識存在は、現在自分がどこに
フォーカスしていようとも(つまり、表側の「虎の皮」のどの一本の毛を演じ
ていても)、そのときその場で、自分の根拠を掘って行きさえすれば、いつで
も、“裏側”である<一枚のなめし皮>に到達できるんだ……、と。

まあ、そんなことをイメージしてみたかったわけです。^^;

いまどこでどんな状況にいる者でも、いまのこの瞬間に完全であり、そのこと
を知りうるというのでなければおかしい、と思ったから。

ポール・フェリーニさんに顕現したキリスト意識なら、

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 しかし、どれほど神からへだたっているように感じたとしても、あなたと神
 との距離は思いひとつぶんだけなのです。たったいま、この瞬間に、あなた
 は救われます。
 覚えておきなさい、友よ、たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄
 ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、
 です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、
 です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい、「わたしはた
 ったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」
 もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに“聖なる存在”のぬくもりを
 感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその“聖なる存在”のこと
 を思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。このシンプルな実習はけ
 っして失敗しません。ためしてごらんなさい。
                        『無条件の愛』(p118)
                       http://tinyurl.com/fduq7
----------------------------------------------------------------------

というふうに言うんでしょうか。

しかし、“裏側”はそうではあっても、<虎の皮宇宙>の“表側”は、顕現す
る多次元宇宙そのものです。

そこには、構造もあれば、階層もあり、位置もあれば、位相もある。

だからその中では、成長も、進化も、意味も、目的も、ありうるわけです。

そうなったら、正誤も、善悪も、聖俗も、大小も、上下も、あらゆる二極と、
それゆえの“騒音”が発生せざるをえない。

それは、わかる。

でも、どうも“成長物語”というのが論理的にしっくりこない感じがあって。

いや、もともと“成長物語”が嫌いだったわけじゃないんですよ。^^;

というか、結構、好きな方だったんだけど。(*^_^*)

それが達成できそうな感触があったころはね。^^;

でも、どうやらそれが不可能らしいと思われるようになると、もっともらしい
“成長物語宇宙論”が、なんか“こじつけ”のように思えてきた。

そうしたら、ちゃんと、そういうものをすべて「非在」だと言ってくれる人を、
自分の現実に呼び出すんだよねぇ。(^_-)

「わたし」が“それに存在を与える”わけです。(^_-)

あはは、言葉だけは、威勢がいいや。(^^)/

なにしろ、一週間に一度の“マインド無礼講”ですからね。

……。

……ただね、ここでちょっと問題があると言えば、ある。(-_-;)

つまり、この……、「わたし」ってのがなかなかの曲者なんですわ。

「わたし」って、「わたし」が自己同化しているマインドの位相のことだから、
これは「わたし」の“心の趣味”のことでしょ。

簡単に言うと「わたし」の波動、「わたし」の執着のことです。

アチャ。(>_<)

……。(-_-;)

……そりゃ、<虎の皮宇宙>はあるかもしれませんよ。

宇宙は<虎の皮>でできていて、自分の根拠を深く掘り進めさえすれば、現象
宇宙を裏張りしている<実在>にまで辿り着けるかもしれません。

しかし、自分がフォーカスした“一本の毛”を、当の「わたし」がバリバリに
“演じたい”となったら、どうしようもない。

そうなったら、“一本の毛”は“一本の毛”であって、すべての毛を存在させ
ている<一枚革>の側にはフォーカスできませんからね。

「わたし」って<実在>の仮代表が囚われた「檻」とも言えるけど、<実在>
が存在を与えた「檻」だって威張ってみても、当の本人が“わしゃ檻だ”って
断固として主張たんじゃ、他の誰にもどうしようもない。

するとたちまち、構造も階層も位相も位置も、成長も進化も意味も目的も、さ
らには、正誤も善悪も聖俗も上下も、そして、何より生死が、リアルに立ち上
がってきちゃう。(;_;)

まわりじゅう、そういう“騒音”だらけ。

くまった、くまった。

いやー、やっぱ、精神世界もそんな簡単じゃないわ。(>_<)

これなら、いっそ、“非存在”の「世界」の中で頑張った方がいいかな。

いやいや、それもなかなか難しいでしょうよ。

それにあんた、もうそんなに、エネルギーないんとちゃう? (^_-)

まったく。

お説のとおりだす。(/_;)

やっぱり、細々とでも、本家返りを目指して、地道に行かなあきまへんなぁ。

そうだす、あんさん、そうせなあきまへん。

なんせ、アセンションでっせ、アセンション。

こんなチャンス、あんさん、めったにありまへんがな。

はいな、そんなら頑張りまっさ。

そうしなはれ。

なんやこう、ごっつ、はずかしな。(*^_^*)

今日は、こんなところで。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.旧稿再掲:〔比較と競争〕の5――「比較」の根拠とは何か
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前回に続いて、『21世紀への指導原理 OSHO』から新しくHP掲載した
-------------------------------------------------
第八章  競争原理の射程距離 −−比較と競争−−
-------------------------------------------------
の内容のご紹介です。

これまで、ここに旧稿をご披露してきたのは、じつは、ひたすら、今回のこの
文章(「比較」の根拠とは何か)をご紹介したかったからです。

と言っても、この文章だけを最初にお見せしても、ちょっと、冗談みたいで、
焦点が合わないだろう、と思ったというわけです。

われわれの地球文明が、これまでの経済社会の基本原理であった「競争原理」
をいよいよ卒業していこうとするときには、それがいったいなんだったのか、
それはどんな根拠による原理だったのかを、ちゃんと、整理しておく必要があ
ると思います。

それなりに、ちゃんと“葬送の辞”を述べてあげなくちゃね。^^;

「競争原理」の方だって、これまでの地球経済でこれだけ“番を張ってきて”、
“葬送の辞”もなしでは、ちょっと去るに去れないでしょうよ。(^_-)

例によって、詰まった文はお断り、という方は飛ばしてくださいね……、と言
いたいところですが、できれば、漫画でも読むつもりで、立ち読みしていただ
けると嬉しいけど。(*^_^*)

わたしなんかのマインドだと、けっこう、面白いと思うんですけどね。

では、「第八章 競争原理の射程距離――比較と競争――」より

その五回目 “「比較」の根拠とは何か” です。

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 『21世紀への指導原理 OSHO』より
 
 ■「比較」の根拠とは何か
 
 そのエゴによって支えらた抽象的価値とは何か。
 何を根拠に、私たちは内面を比較するのか。
 何を根拠にして、内面の「比較」が当然可能だと私たちは思っているのか。
 「比較」が可能であるためには、その「比較」の対象は測定可能な何かの量
 に換算されなくてはならないだろう。
 端的に「比較」できるのは目に見える物質的存在しかない。
 とすれば、人間の内面を「比較」するには、それを何らかの意味での目に見
 える物質的な量に置き換えなければならないはずだ。
 
 三個の林檎が二個の林檎より多いことは確かだ。それを疑う必要はない。
 けれども、三個のりんごを持つ者が二個の林檎を持つ者より幸福であると判
 断されるとしたら、そこには大きな前提が差し挟まれていることになる。
 それは、人間の内面は、その人の(何らかの意味での)持ち物によって計測
 できるという前提だ。
 これはかなり疑問のある大胆な前提だが、もしそういう前提が許されるとし
 たら、確かに人間の内面も「比較」できるのかもしれない。
 
 持ち物がりんごなら個数で勘定できるが、走る速さとなれば記録に置き換え
 なければならない。
 では、りんごの場合は明らかに一個より二個の方が価値が高いと考えられる
 のに、百メートル走の記録の方は、なぜ二十秒より十秒の方が価値が高いと
 考えられるのか。
 無論、りんごの場合は個数の多い方が、百メートル走の記録の場合は、速度
 の速い方が価値が高いと考えられているわけだ。
 では、駄目押しにもう一歩。
 りんごの数はなぜ多い方が、走る速さはなぜ速い方が価値が高いのか。

 何故だろう。その根拠は何なのか。
 それらの目に見える量は、何かの根拠を媒介にして、その人の内面の状態を
 表す指標としての役割を担わせられている。
 「比較」可能な外在的な量を、人間の内面と繋【つな】ぐその根拠とは何か。
 その外在的な量のどちらの極性が積極的な価値であり、どちらが消極的な価
 値であるかの判断に私たちが迷わないのは何故か。
 その判断の根拠とは何か。
 恐らく、私たちは無意識の内に“死の不安”を媒介として、それを間接的根
 拠として「比較」が可能だと思っているのではないだろうか。
 私たちは「死」からの距離を測っていたのだ。
 私たちがオリンピックで、百メートルを九秒台で走破した者を、十秒台で走
 った者より優者とするのは、彼の方が「死」を免れる度合いが高いと考えて
 いるからではないだろうか。
 
 無論、実際の「比較」で、私たちがそんなことを意識するわけではない。
 「比較」は無意識の中に深く入り込んだ大きな<ソフト>になっており、通
 常私たちは「比較」の根拠を意識したりはしない。
 私たちはただ、当然のこととして「比較」するだけだ。
 だが、煎じ詰めれば「比較」とは、“死の不安”を天秤ばかりの支点に据え、
 人間の内面をその不安からの距離(=安全度)として推測することだったの
 だ。
 その安全度はさまざまな方向性を持ち、その方向はさまざまな尺度で測られ
 るだろう。
 すなわち、物質的富、能力、権力、名誉、権威、等々というように。
 だが、これらの尺度はもともと、人間の内面の幸福を測る尺度を意図したも
 のではなかったし、内面を測る尺度などあるはずもなかった。
 
 ゴッホの生存中に、その絵が表す彼の内面を計測しえた者はいないが、彼が
 死んでその絵の世間的評価が定まってからは、その絵を億の金で評価(計測)
 する者は跡を絶たない。
 そこで評価されているのが、その絵を描いたゴッホの内面ではなく、その絵
 の世間的財産価値であることは誰もが知っている。
 絵を描いていたゴッホの内面は、その絵の世間相場が無に等しかったときも、
 億の金で評価されるときも、いかなる計測(比較)をも拒む固有の世界とし
 て、固有の幸福と不幸をたたえて聳え立っていたのだ。
 「比較」とは恐らく、物理次元に固有な“死の恐怖”を根拠に成立していた。
 それはもともと、太古の時代から引きずってきた“死の恐怖”の影の中でし
 か成立しない“後ろ向きの<ソフト>”の残り滓【かす】だったのだ。
 自らの苦闘によって生きていると信じている世界でしか意味を持ちえない幼
 い<ソフト>だった。
 もともと“生かされている”ことを知っている新しい世界に存在できるよう
 なものではなかったのだ。
 
 ところが、私たちはその時代遅れの根拠を基に、途方もない不幸を生み出し
 た。
 私たちは「比較」という病んだ<ソフト>で自らを縛った。
 私たちは、ただ理由もなく幸せだった自分の子どもたちを、ひたすら他の子
 どもたちとの「比較」によって不幸になるように条件づけを開始する。
 私たちのかけがえのない生の一瞬一瞬は、絶え間ない「比較」によって汚染
 された。
 その結果私たちは、無用な惨めさと、最後には自分を切る刃物となる無用な
 優越感で身をさいなむことになった。
 私たちは劣等感と、優越感に引き裂かれ、人の不幸によって喜び、自分の幸
 福を無意識のやましさに変換する病的なエゴを形成することになった。
 実際の自分の内面より、他者との「比較」という外側の根拠に幸福の証しを
 求めた。
 自分が幸福になるために他者との「比較」を、言い換えれば、他者の相対的
 な不幸を必要とするようになっていたのだ。 (p330-333)
 
 https://www.ascensionkan.com/work/08hika_05konkyo.html
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もし読んでいただけたのなら、ありがとうございます。

m(_ _)m


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■ 3.写経ラムサ:【第15章 輪廻転生】より
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

           『ラムサ ホワイトブック』
            http://tinyurl.com/o8go3

からの情報を引用してご紹介しています。

いつも言うことですが、“無断引用”であり“無料宣伝”です。^^;

どこかからお叱りを受けたら、即座に消滅するコーナーですので、ご承知おき
ください。

今回は、「第15章 輪廻転生」からです。

ラムサの話は、いつも非常に論理的かつ包括的でとても納得ができます。

自分の感情体が納得するのがわかります。

「論理的」という言葉を、自分は“感情的に納得できる”という意味で使って
いたんだな、とつくづく思います。

ここでは「輪廻転生」ということを、じつに「論理的」に、つまりわれわれが
“感情的に納得できる”ように、説明してくれています。

それはニーチェがいうような「永劫回帰」ではないのだと……。

----------------------------------------------------------------------
 生徒 なるほど、でも、あなたの言っていることがどうもよくわかりません。
    あなたは、人生というものは輪の中をぐるぐるとまわっているような
    ものだ、というふうに言っているように思えます。その繰り返しの輪
    に終わりはないのですか?
 
 ラムサ
 マスターよ、生きることはひとつの輪の中をまわり続けることではないし、
 同じことの繰り返しでもない。
 生命はつねに変化しており、しかもそれは、絶え間なく続いていくためにあ
 らゆる瞬間ごとに進化しているのだ。
 生命はすべてを内包しており、それ自身が存在することによって、つまり、
 それ自身の「在ること」によって、次の瞬間を創り出しているのである。
 それは、それぞれの存在が持つ態度に応じて、それぞれの存在によって瞬間
 ごとに創造されている。
 変化のサイクルが繰り返しに見えてしまうのは、生きることに対する態度の
 ためなのだ。
 
 輪廻転生というものは確かにひとつの真実だ。
 だが、それは単に、その人間の態度が体の死を許したために、ひとつの体を
 置いていき、ここか、あるいは物質の天界にあるどこかほかのところで、も
 うひとつの体を身につけるだけのことなのだ。
 
 人はなぜここに戻ってくるのだろうか?
 それは戻ってきたいからだ。
 あなたは自分がここに「戻される」のだと思っているのだろうか?
 苦労して産道を通り、まわりの人々の自我(エゴ)に完全に依存するだけの
 ために、自分がいたどこかの天界から追い出されて、化身の中に戻されるの
 だと思っているのだろうか?
 
 マスターよ、あなたをここに戻らせた宣告など存在しないのだ。
 なぜなら、あなたの意志に反して、あなたに何かをさせることができる者な
 ど誰もいないからだ。
 あなた自身が、ここに戻ってくることを決意したのだ。
 あなた自身が、もう一度この天界で表現することを望んだのだ。
 だから、もしあなたが自分の苦しみを誰かのせいにしたいならば、あなたは
 自分自身をしっかりと見つめてみる必要がある。
 あなたの美しさやあなたの在り方、そしてあなたの人生が悲しいものになる
 か、すばらしいものになるかは、まったくあなた次第なのである。
 そして、あなた方はそろそろこのことを知るべきである。
 
 この天界での輪廻転生を強制される存在などひとりもいない。
 だが、この場所に永遠とも言えるほど長い間生きていると、人間はこの場所
 しかないと思い始めてしまうのだ。
 そして、人間が自分の体を失い、自分が感情的に執着していたものや、ここ
 にあるさまざまなおもちゃから離れてしまうと、この場所に急いで戻りたい
 というふうに、すぐにでも思い始めるのだ。
 なぜなら人間は、天国はここしかないと思っているからだ。
 そして、そう思う存在にとっては、実際にそうなのである。
 
 あなたがここにいるただひとつの理由は、あなたがここにいたいからであり、
 あなたの存在の内面に、ここで満たすべき何らかの必要性があるからだ。
 そして、その必要性とは、この「幻の天界」で体験したい喜びや悲しみ、憐
 憫や怒りや苦痛といったものを表現することであり、それらを好きなだけ体
 験することだ。
 そして、それが嫌になったり、うんざりしたときには、あなたは自分の態度
 を変えて、何か別の感情を体験することができるのである。
 それほど単純なものなのだ。
 
                『ラムサ ホワイトブック』(p317-319)
                       http://tinyurl.com/o8go3
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

いや、見事ですね。

コメントできるようなこともありませんが、ちょっと連想ゲームを。

> ラムサ
> マスターよ、生きることはひとつの輪の中をまわり続けることではないし、
> 同じことの繰り返しでもない。

この「同じことの繰り返しでもない」というのは、とても論理的だと思います。

宇宙内のすべての素粒子の位置まで完全に同じ条件が整うことなどありうると
考える方が不自然だし、もしそういうことができるとしたら、それはいわゆる
根本創造主(とやら)が望んだ場合だけでしょう。

しかし、それでは根本創造主の自己否定になってしまうでしょうから。

> 生命はすべてを内包しており、それ自身が存在することによって、つまり、
> それ自身の「在ること」によって、次の瞬間を創り出しているのである。

<実在>が「世界」を存在させている、と。

> それは、それぞれの存在が持つ態度に応じて、それぞれの存在によって瞬間
> ごとに創造されている。

これは、間違いないでしょうね。

> 変化のサイクルが繰り返しに見えてしまうのは、生きることに対する態度の
> ためなのだ。

これ。

このメッセージが、ここのひとつの中心ですよね。

> 輪廻転生というものは確かにひとつの真実だ。
> だが、それは単に、その人間の態度が体の死を許したために、ひとつの体を
> 置いていき、ここか、あるいは物質の天界にあるどこかほかのところで、も
> うひとつの体を身につけるだけのことなのだ。

このことも、ずいぶん、簡単なことになるみたいだけど。

> 人はなぜここに戻ってくるのだろうか?
> それは戻ってきたいからだ。

このメッセージが、もうひとつの中心でしょうね。

> あなた自身が、ここに戻ってくることを決意したのだ。
> あなた自身が、もう一度この天界で表現することを望んだのだ。

ここを読んでいて、別の本『あなたの神話』(1996年、コスモ・テン刊)
https://www.ascensionkan.com/books/unbound.html
の叙述を思い出しました。

----------------------------------------------------------------------
 わたしたちはあなたがたが誕生によって地球に入り、死によってそこから出
 ていくのを何百回となく見てきました。
 そしてあなたがたがどんなところに自分を見出しても満足しないことを知っ
 ています。
 からだのなかにいるとき、あなたがたは恐れと不安に満ち、あらゆる策を弄
 して人間という状況から逃れようとします。……(中略)……
 
 そして長年の虐待と無視によって、また敵意と苦しみによって、ついにあな
 たは物質的形態の限界からスピリットの自由へととおりぬけることに成功し
 ます。
 しかしあなたはそれでしあわせになるどころか、フラストレーションを感じ
 ます。
 あなたが切望するのは、いまある知識をすべてもったままふたたび生きるこ
 と、ふたたび五感を持って生きること、そうやってからだによって与えられ
 る限界や、地球が与えてくれる予測可能なことを、またもやほしがります。
 形態の状態にあるときは自分の限界を嘆くのに、スピリットになると質量の
 喪失を嘆くのです。
                     『あなたの神話』(p100-101)
                       http://tinyurl.com/gcnjl
----------------------------------------------------------------------

(>_<)

こりゃ、何ともはや。

無い物ねだりとは、よう言うたもんですなぁ。(←知らんぷり (^_-))

> だから、もしあなたが自分の苦しみを誰かのせいにしたいならば、あなたは
> 自分自身をしっかりと見つめてみる必要がある。

へぇ。

> この天界での輪廻転生を強制される存在などひとりもいない。
> だが、この場所に永遠とも言えるほど長い間生きていると、人間はこの場所
> しかないと思い始めてしまうのだ。

(;_;)

> そして、人間が自分の体を失い、自分が感情的に執着していたものや、ここ
> にあるさまざまなおもちゃから離れてしまうと、この場所に急いで戻りたい
> というふうに、すぐにでも思い始めるのだ。
> なぜなら人間は、天国はここしかないと思っているからだ。
> そして、そう思う存在にとっては、実際にそうなのである。

(>_<)

> あなたがここにいるただひとつの理由は、あなたがここにいたいからであり、
> あなたの存在の内面に、ここで満たすべき何らかの必要性があるからだ。
> そして、その必要性とは、この「幻の天界」で体験したい喜びや悲しみ、憐
> 憫や怒りや苦痛といったものを表現することであり、それらを好きなだけ体
> 験することだ。

そうなんだぁ。

あーあ、面白かった。(←知らんぷり (^_-))

……。

(-||-)

今日はここまでです。

m(_ _)m


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■ 4.写経ニサルガダッタ:
   【71 自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶ】より
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さて、今日のニサルガダッタ師匠からの写経です。

今回ニサルガ師匠が語っておられることは、実践論そのものです。

もっとも、実践できるかどうかは、また別ですけどね。(^_-)

方向、狙いについて語っています。

言葉としては、すべて一度は聞いたことがあるような言葉ばかりかもしれませ
ん。

写経だから、当然とも言えますが。

どなたか読んでいらっしゃる方があるかもしれないと思えば、こういうことを
続けることができます。

そうすると……、いいことがあるかも。(*^_^*)

例によって、写経の箇所をすべて通しで最初に掲載しておきます。

本文だけ書いてもらえば充分という方は、あとは飛ばしてくださいね。

もともとコメントできるような言葉なんかないので。

では、【71 自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶ】からです。

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 質問者 しかし、個人は除去されたくないのです。
 
 マハラジ
 個人とは単なる誤解の結果だ。
 実際には、そのようなものはないのだ。
 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
 続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
 マインドの中で、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人は
 一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
 実際には、個人というものは存在しない。
 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
 師は見守る者に言う。
 「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
 『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
 「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
 あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
 に帰したのだ。
 ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
 あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
 で、不変なるものとともにとどまりなさい。 
 
 質問者 それはいつ起こるのでしょうか?
 
 マハラジ
 それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
  
 質問者 どの障害でしょう?
 
 マハラジ
 偽りへの欲望と真実への恐れだ。
 個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
 像している。
 まったくそうではない。
 彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
 彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
 のだ。
 
 質問者 もし私が排除されたなら、何が残るのでしょうか?
 
 マハラジ
 何も残らない。あるいはすべてが残るのだ。
 アイデンティティの感覚は残る。
 だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。
 存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。
 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
 放されることなのだ。
 
 質問者 そして、個人の痕跡は何も残らないのでしょうか?
 
 マハラジ
 夢や子供時代の記憶のような、漠然とした記憶は残る。
 結局、覚えておくような何がそこにあるというのだろうか?
 たいてい偶然の、そして無意味な一連の出来事でしかない。
 欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗だ。
 覚えておくような何かがそこにあるだろうか?
 個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
 殻を破りなさい。
 
 質問者 殻を破るように誰に頼めばいいのでしょうか? 誰が殻を破るので
     しょうか?
 
 マハラジ
 記憶と自己同一化の拘束を破りなさい。
 そうすれば、殻はひとりでに破れるだろう。
 そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
 あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
 く、あなたが実在を与えるということだけだ。
 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
 ものごとはそのままだ。
 なぜなら、あなたがそれをそれとして受け入れるからだ。
 受け入れるのをやめなさい。
 そうすればそれは消える。
 何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
 の前の現れる。
 それを欲望と恐れなしに見なさい。
 そうすればそれは実体を失う。
 快楽と苦痛はつかの間のものだ。
 そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純で、たやすいのだ。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p360-361)
                       http://tinyurl.com/s747u
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なるほど……。

> 質問者 しかし、個人は除去されたくないのです。

これは「個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ」というニサルガ師匠の言
葉に対する応答です。

たぶん、ほぼわれわれ万人の言葉ですよね。^^;

> マハラジ
> 個人とは単なる誤解の結果だ。
> 実際には、そのようなものはないのだ。

言葉としてはよく聞くけど、一向に信じてない。(*^_^*)

> 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
> 続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。

なるほど。

そういうものが、「見守る者の前を駆け抜けていく」。

> マインドの中で、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人は
> 一見独立したように見える存在を獲得するのだ。

つまり、「わたし」が実在を与える。

> 実際には、個人というものは存在しない。
> ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。

<実在>が「檻」に捕らえられる、と。

> 師は見守る者に言う。
> 「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
> 『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。

ああ、“あなたのものは何ひとつない”という言い方か。

なるほど。

> 「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。

“あなたのものは何ひとつない”のだから。

> 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。

騒音のないときの「私は在る」には……。

> あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
> に帰したのだ。

それらは、もはやすべて存在しない。

> ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。

「私は在る」だけがいまも、そしてつねに在る。

> あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
> で、不変なるものとともにとどまりなさい。 

見守る者としてとどまりなさい。

> 質問者 それはいつ起こるのでしょうか?

いいこと、訊きましたね。

> マハラジ
> それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。

うん。

> 質問者 どの障害でしょう?

さらに、いいことを訊いた。

> マハラジ
> 偽りへの欲望と真実への恐れだ。

これが、今日のメッセージのエッセンスでしょうか。

取り除くべき障害は“偽りへの欲望と真実への恐れ”。

取り除くべきは、実在しない幻への欲望と、唯一実在する真実への恐れ。

> 個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
> 像している。
> まったくそうではない。
> 彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
> 彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
> のだ。

これは何度も聞かされたから、合点承知の助。

> 質問者 もし私が排除されたなら、何が残るのでしょうか?

このひと、またいいこと訊いた。

> マハラジ
> 何も残らない。あるいはすべてが残るのだ。
> アイデンティティの感覚は残る。

ほう。

> だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。

うん。

> 存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。

そうか。

> 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
> 放されることなのだ。

これが、実践論としてのひとつの“狙い目”なんでしょうか。

何が「檻」に捕らえられているのか?

「檻」に捕らえられているものは実際に存在するのか?

「檻」は実際に存在するのか?

> 質問者 そして、個人の痕跡は何も残らないのでしょうか?

確認ね。

> マハラジ
> 夢や子供時代の記憶のような、漠然とした記憶は残る。

ほう。

> 結局、覚えておくような何がそこにあるというのだろうか?

まったく。

> たいてい偶然の、そして無意味な一連の出来事でしかない。

こういうときは、ニサルガ師匠、強烈な言い方をするよなぁ。

> 欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗だ。

おお。

> 覚えておくような何かがそこにあるだろうか?

たしかに、それが“欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗”だけだったらね。

> 個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
> 殻を破りなさい。

殻(から)は実在するのか。

> 質問者 殻を破るように誰に頼めばいいのでしょうか? 誰が殻を破るので
>     しょうか?

ちょっと、無責任かも。

あ、いまは、誰かに頼めるのかな。^^;

> マハラジ
> 記憶と自己同一化の拘束を破りなさい。

無視するのかなぁ。

> そうすれば、殻はひとりでに破れるだろう。

“記憶と自己同一化の拘束を破”れたらね。

> そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。

なるほど。

「わたし」が<いまここ>だから……。

> あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
> く、あなたが実在を与えるということだけだ。

はい。

> あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。

このことを理解する者は誰なんだろう?

> ものごとはそのままだ。
> なぜなら、あなたがそれをそれとして受け入れるからだ。

これは、
「あなたがそれをそれとして受け入れるからこそ、ものごとはそのままなのだ」
の方が、わかりやすいかな。

> 受け入れるのをやめなさい。
> そうすればそれは消える。

そのためには、少なくともそれに気づいていなくてはならないよな。

> 何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
> の前の現れる。

(@_@)

そういうことか。

……これが、「世界」の創造ということか。

> それを欲望と恐れなしに見なさい。

これが、実践論。

それを見るときの自分の感情に気づいていること。

> そうすればそれは実体を失う。

“それを欲望と恐れなしに見”ることができれば、“それは実体を失う”。

> 快楽と苦痛はつかの間のものだ。
> そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純で、たやすいのだ。

こういう言葉を他でも聞いたことがあるけど……。

「無視する方が単純で、たやすい」かどうか。(-_-;)

習慣的な機械過程は、なかなか強力だから。

たやすいかどうかはわからないけど、無視することは可能だよな。

それに気づいてさえいれば。

たぶん、これが“狙い目”なんだろうな。

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

よろしければ、気が向いたときにお付き合いください。


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■ 5.編集後記: 地球さんは、今日もまた新しい朝を運んできてくれた。
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今日もまた、朝が白んできた。

好きというのか。^^;

人畜無害、人畜無害。

地球さんは、今日もまた新しい朝を運んできてくれた。

というわけで今回も……。

前号に続いて、著者のご了解を得ている「祈願文」という内容の文章を掲載さ
せていただきます。

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17.2001.7.7 地球さんへ

            【 祈 願 文 】 

56億年の永きにわたり、多くの魂に学舎を提供されてきた、地球さん、
本当にありがとうございました。
満身創痍でボロボロになりながらも、一言の愚痴も言わず、ただひたすら
大いなる愛で耐えてこられたあなたに、深く感謝いたします。
もうすぐ光の次元へ戻られるとのことですが、一日も早く傷を癒され、
元気な姿で光に還られますよう心よりお祈りいたします。
天の父よ、天の母よ、どうか私達の祈りを聞き入れ、地球さんにたくさんの
癒しの光をお送り下さい。

           海よ山よ空よ森よ川よ    よみがえれ

         生きとし生けるもの全て  よみがえれ

            地球よ         よみがえれ
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<(_ _)>

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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m)
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