━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆ 『アセンション館通信』vol.139 2006/12/3(第139号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称したある「個人」に虜になった
観照者が覗き見た風景の報告です。(なんちゃって。(*^_^*))
内容は人畜無害ですが、あまり上昇・下降とは関係がなくなってきました。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「自己同化」の三層(その2)
2.編集後記: これだけ理屈をこねられたら、いいや。
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■ 1.「自己同化」の三層(その2)
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12月に入って今日も雲ひとつない素晴らしい晴天です。
日本は縦に長い国ですから、いろんな天気があって全国的に晴れているわけじ
ゃないんでしょうけど。
やっぱり土曜日になるとマインドを働かせたくていそいそとコンピュータに向
かったりして、相変わらず変な理屈でご迷惑をおかけしています。(-_-;)
思いなしか、少しマインドから脂気が抜けてきたような気もするんだけど、で
も、まあいいや、今日もまたマインドをフル回転させて楽しもうっと。
『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/
みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?
「私は在る」って、ほんとに不思議です。
“わたしが在るがゆえにこの世界がある”ことは、じつに客観的な事実であり、
このことを否定できる人は誰もいないだろうと思います。
じゃ、そのわたしを無くすことができるのか?、と言ったら、そんなこと、誰
にもできゃしないんですよね。
われわれにできるのは、せいぜいこの肉体を滅ぼすことくらいです。
でも、身体が死んだって、われわれの「世界」が無くならないらしいことは、
こんな妙なメルマガをご覧になっているみなさん、全員同意なさるでしょ。
身体が死んだら、たいてい“当人”は次の「世界」に向けて旅立つらしいじゃ
ないですか。
そういう話は、最近ではもう枚挙にいとまがありませんものね。
たとえば、最近の有名どころでは、『地球村』の高木善之さんの臨死体験なん
て読まれたことありません?(『転生と地球』 )
https://www.ascensionkan.com/books/tensei.html
もし、本人の言い分では信じられないと言うなら、職業柄そういうことを最も
信じないタイプの方の証言だって、いまではいくらでもあります。
これ↓は、比較的早い時期の証言のひとつ。(『「あの世」からの帰還』 )
https://www.ascensionkan.com/books/recollection.html
もし、ひとつやふたつの証言を一般化するのは問題じゃないか、と言うなら、
(多分、そんなことをおっしゃるタイプの方はこんなメルマガ読んでないでし
ょうけど ^^;)「死の臨床」の世界的権威キューブラー・ロス博士はこんな
ふうに言っています。
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何千年もの間、私たちはあの世に関するものを「信じる」ように仕向けられ
てきました。しかし、私にとってはもはや信じるかどうかの問題ではありま
せん。知るかどうかの問題なのです。
みなさんが心から知りたいと望むのなら、この知識をどうすれば得ることが
できるのか、みなさんに話してあげることもできます。
知りたくなければ、それでいっこうに構いません。みなさんもどっちにせよ
死ねば分かることだからです。
『死後の真実』(E・キューブラー・ロス)
https://www.ascensionkan.com/books/afterdeath.html
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で、まあ、とにかく、われわれにとって、この“われわれの世界”は永遠に無
くならないらしい、ってことです。(@_@)
こんなこと、先刻ご存知でしょ。
(ここで「われわれ」という言葉を使いましたが、われわれという複数の個別
の人間がいるのかどうかは、ひとまず措いておきましょうか。(^_-)
でないと、あんまりいろんな文脈を一緒に突っ込むと、何がなんだか、かえ
って、わからなくなっちゃいますから。)
要するに、“われわれの世界”は永遠に無くならない、わけです。
“死ねば”すべてにおさらばできる、わけじゃないんです。(^_-)
「空無」のなかから、一瞬、「この世」に“生まれて”きて、“死んだ”ら、
また、「空無」のなかに跡形もなく消失してしまう……、というわけにもいか
ないらしいんですよね。
もし、“「空無」のなかに跡形もなく消失してしまう”ことができるんなら、
それはそれで、さっぱりしていいのかもしれませんが、どうも実情はそうもい
かないらしい。
「サヨナラだけが人生さ」なんて、太宰治さん、かっこのいいようなことを言
ってましたけど、どうも当節、時代が進んで、どうやらそうも言ってられない
らしいことがわかってきました。(^_-)
どっかで「サヨナラ」したら、別のどこかで「コンニチハ」しなければならな
いらしい。
「旅の恥はかき捨て」なんて言葉が、ひどく牧歌的に思われてきます。
“恥をかき捨て”ていいような場所は、どうやら無くなっていくようですよ。
どうやってみても、“わたしの世界”からは逃れられないらしいです。
それはどこまでも、いつまでもついてくるらしい。
むろん、変化はします。
現象世界に“在った”ものが“無くなって”しまうような変化は、しょっちゅ
うのことでしょう。
でも、“あなたの世界”は無くならない、ってわけです。
(この「世界」の意味は微妙ですが。^^;
どこかから、「永久にそうでなければならないことはないのだ」なんて言葉
が聞こえてきそうで。)
しかし、それにしても「私は在」りますよね。
考えてみると、たしかに、「私は存在しない」と言えるようなときは、いくら
待っても来ないわけです。
でも、……そうなると、「わたし」って、いったい、何なんだってことにもな
りますよね。
……というわけで、前回の話の流れに戻ると、一方には「私は在る」というの
がつねにあるわけです。
これは、いかなる状況においても必ず「在る」らしい。
なにしろ、「常在」だっていうんですからね。(^_-)
そして、もう片側には、“身体は滅ぶ”というのがある、という話の流れでし
た。
そして、その「私は在る」が“身体は滅ぶ”にリンクするとこれが厄介 (>_<)、
という話でした。
その両端をつなぐのが「自己同化」です。
「自己同化」のもっとも単純なプロトタイプとして、「自己同化」の第0層、
“映画館の中の自己同化”という比喩を見てみたのでした。
“身体は滅ぶ”は変化の相ですから、いうなればドラマです。
ドラマは、チラチラと点滅しながら“向こう側”のスクリーン上で演じられて
います。
そのスクリーン上のドラマを、観客であるわたしは“こちら側”の客席から観
ている、という構図でした。
そして、スクリーン上のドラマの主人公の状況に応じて、観客であるわたしも
いっしょに、動揺し、感動しています。
さて、そこで問題です。
そのとき、そのドラマは“どこで起こっているのか?”です。
やっぱり、いくら画像がチラチラと点滅しているとは言っても、そのドラマが
スクリーン上で“起こっている”というのは無理ですよね。
ドラマが“起こっている”のは、そのドラマを観て情動しているわたしの側で
だと思います。
そこまで確認しておいて……、と。
さて、本番の「自己同化」の第1層(“物理空間の中の自己同化”)では、こ
のドラマの舞台は、いっきょに、われわれが存在する“現実の世界”になった
のでした。
そして「自己同化」の対象は、このわたしの身体です。
これが、つらい。(>_<)
だって、“わたしの身体”って、このわたしのことですからねぇ。(-_-;)
たしかに、そうなんですが、ただニサルガダッタによると、この「自己同化」を
判定する基準は……、
「知覚されたものは知覚者ではありえない」
だっていうんですよね。
たしかにねぇ。(-_-;)
“映画館の中の自己同化”では、スクリーン上にはその映画を知覚する者はい
ないわけです。
“物理空間の中の自己同化”でも、物質としての脳細胞も、心臓も、すべて肉
眼で、または何らかの計器を使って知覚することができるわけですから、その
意味では、脳細胞や心臓が「わたし」だと強弁するのは無理ですよね。
むしろ逆に、「わたし」は、内視鏡のこちら側から脳細胞を見ている側にいる
だろう、と考えた方が素直ですよね。
つまり、スクリーンが映画を知覚しないように、身体は身体を知覚しない、っ
てわけです。
だから、身体は「わたし」ではない。
身体を自分だと思うのはわれわれの「自己同化」だ、ってわけです。
はい、証明終わり……。
これで、われわれ身体のことを心配する必要がなくなりましたね。(^_^)v
(*^_^*)
――え、でもそんなこと言ったって、生活できなくなったらエライことだぜ。
食えなくなったら、死んじゃうじゃん。(@_@)
ま、ま、抑えて抑えて。^^;
これは、話ね、ニサルガダッタって人が言っているハナシ。(^_-)
そういうふうに、われわれは“自分”の身体に自己同化してるって話です。
――まあ、話だけならいいけどさ……。
われわれの五感は知覚対象を粗大物理次元に制限された認識器官です。
だから、五感情報で判断せざるをえないわれわれにとっては、この視覚的に絶
えず確認できる「身体」が放つメッセージ性は強烈かつ支配的です。
「身体」への自己同化は、必然的・不可避的とも言えると思います。
ただ、たしかに上でも言ったように、“身体は滅ぶ”というドラマを、その滅
ぶ「身体」が観ているというのは、どう考えても論理的に辻褄が合わない。
だとすると、やっぱり“身体は滅ぶ”というドラマを“こちら側”で観ている
存在がいる、ということにならざるをえない。
やっぱり、それが心悩ませている“わたし”ということだと思います。
そこで、「自己同化」の第2層が登場するわけです。
…………○…………○…………○…………
第2層:「あなたはマインドではない。
知覚されたものは知覚者ではありえない――その2」
肉体は「わたし」じゃないにしても、この身体のなかにこの身体の生存を心配
しているわたしがいるじゃない、って話です。
その心配したり上手く行って喜んでいる「思い」がわたしじゃないか、と。
このことに反対する人は、よほどヘソの曲がった人以外は、まあ、いない。
この「自己同化」の第2層は“心理空間の中の自己同化”とでも言ったらいい
んでしょうか、わたしにかぎらず大部分の方の普段の居住空間です。^^;
この「自己同化」の第2層は、第1層の副産物みたいなものなんでしょうが、
でも、普通は、われわれはそんなことは忘れて、その時々の「気分」を自分だ
と思っています。
子供の頃は、失敗の記憶がありませんから、都合のいい楽しいことばかりを想
像していますが、だんだん、失敗したり痛い目にあったり、大人に注意された
りしているうちに、今度は自分も大人になって、いつの間にか、生きなければ
ならないのだと、信じるようになっています。
“肉体の生存”、ひいては“肉体の生存の可能性”を巡って、さまざまの推測、
思惑、思考が駆けめぐり、いろいろな情動を引き起こし、それがその人の信念
(=連想野)を構築していきます。
そうしたら今度は、その「信念」を脅かす状況・情報に対して、身構え、敵対
し、戦いを挑み……、といった現実を創造することになる。
われわれの頭は、スィッチオフできなくなったラジオみたいに、心配環境音楽
が鳴りっぱなしという状態。
いえ、もちろん、そうじゃない方もいるでしょうけどね。^^;
ワクワク環境音楽が鳴りっぱなしという方だっているかもしれないし。(^^)/
で、ニサルガダッタは、この頭の中で鳴り続けている心配環境音楽もワクワク
環境音楽も、すべてひっくるめて「あなたではない」と言うわけですよね。
まあ、ニサルガダッタにかぎらず、悟った方はだいたいそういうふうにおっし
ゃいます。
ニサルガダッタが、その根拠として提出するのが、「自己同化」の第1層のと
きと同じ論拠「知覚されたものは知覚者ではありえない」というわけです。
この判定基準に照らせば、そりゃ、たしかに、われわれはその心配環境音楽も
ワクワク環境音楽も知覚できるわけですから、その意味では、それは「わたし」
ではない。
和田先生がおっしゃったように
「気分は自分ではない 自分は気分の外にある」
ということになります。
「自己同化」第2層の“心理空間の中の自己同化”は、第1層の“物理空間の
中の自己同化”から派生しながら、それとは異なる固有の領域であることは確
かですし、それなりの固有の自己同化の様相を発展させていくわけです。
でも、いずれにせよ、それはいわば“生きている間”のことです。^^;
肉体の崩壊とともにこの“心理空間の中の自己同化”は解体する、と考えるの
が素直でしょうね。
じゃ、肉体の崩壊をも超えて持続する「自己同化」というのもあるんでしょう
か?
そこで登場するのが、「自己同化」の第3層です。
…………○…………○…………○…………
第3層:「あなたは感情ではない。
知覚されたものは知覚者ではありえない――その3」
この第3層までくると「自己同化」を外すと言っても、ちょっと半端じゃあり
ませんよね。(^_-)
たぶん、この「自己同化」を外したら、もうその人は人間じゃないでしょう。
『人間失格』。(*^_^*)
あはは。
ま、大人しく言えば、人間卒業なんでしょうね。
この「自己同化」の第3層を、ちょっと語弊があるかもしれませんが (^^;)、
“霊的空間の中の自己同化”とでも呼んでみようかと思います。
「感情」って、精神世界ではいろんな意味で使われる言葉ですよね。
たとえば、リサ・ロイヤルさんがチャネリングしたゼータ・レチクル星人情報
なんてのがあります。
手っ取り早く、昔書いた文章(『[宇宙人]内なる訪問者』の私評 )を引用す
ると……。
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私評:
ゼータ・レチクル星人という存在の概要が日本語の世界に紹介されたのは
本書が初めてかもしれない。「グレイ」などと呼ばれる“邪悪な”宇宙人に
よる地球人の「誘拐」として一括して語られていたテーマが、ここで初めて
まったく別の姿を現した。
元々地球人と非常に類似していたゼータ・レチクル星人が、苦しみの主た
る原因であった「感情」の超克を意図し、自分たちの遺伝子から徐々に「感
情」を排除したこと、そしてついにはまったく「感情」のない固有の種族を
形成するに至ったこと、そして今度は逆に、その「感情」の欠如ゆえに生命
的な危機に陥っていると。
それはまことに不思議な、それでいていかにも納得できるSF的なストーリ
ーだった。
そして“生への意志”を再獲得するために、今彼らは地球人の「感情」の
遺伝子を求めて接触してきているという。
現在まだ自分の「感情」に振り回されて苦悩し続けている我々地球人と、
「感情」の回復を目指すゼータ・レチクル星人とのある種の混血が今始まろ
うとしている。
その現時点に、両種の混血種族の進化した姿である(あの有名なバシャール
の)エササニ星人が未来から介入してきているというのだ。
林望先生の向こうを張って、なんとも「宇宙は愉快だ」と言いたくなろう
というものではないか。
https://www.ascensionkan.com/books/visitor.html
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ラムサなんかの言葉でも、「感情」というのは転生を通じて蓄積されるある種
の感性、自分の選択の方向指示器という感じがしますよね。
「感情」というのは、いわば多次元宇宙を旅する者のための霊的コンパスなの
かもしれません。
また「感情」が現実を創造するというのは、精神世界本の間でのひとつの普遍
的認識でもあるようです。
いずれにせよ、「感情」というのが“蓄積された経験智のバランス感覚”のよ
うなものらしい、という感じは伝わってきます。
「思考」が“ある限られた情報範囲内での論理的主張”を意味するらしいこと
からすると、「感情」というのは“限られた情報範囲内”では論理的とは思え
ない方向を指示することがあるのも納得されます。
“ある限られた情報範囲内”を前提にするなら、「感情」というのはかならず
しも論理的ではありえないわけです。
「感情」というのは、論理的「思考」よりは、むしろ芸術的「感性」に似てい
るかもしれません。
ある意味で、それは自分そのもののアイデンティティ、みたいなところもある
わけです。
だって、科学者が自説にこだわる程度よりは、芸術家が自分の感性にこだわる
程度の方が強いでしょ。
あ、それは関係ないか。(*^_^*)
精神世界情報では“「感情」が現実を創造する”と言うし、「感性」は「論理」
よりもずっと自分に近いように思われるから、「感情」こそが「世界」を創造
する自分なのかな、と思っていると……。
ここでも、ニサルガダッタという人はちょっと変わっているんですよねぇ。(-_-;)
ニサルガダッタにかかっては、すべて変化するもの、創造しうるものは、“何
か外側に”起こっているんだ、って言うんですよねぇ。(-_-;)
それはあなたにではなく、その“外側に”起こるのだ、と。
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何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
『I AM THAT 私は在る』(p540)
http://tinyurl.com/s747u
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こう言われちゃうと、もうどうしようもありません。^^;
なにしろ、意識さえも「わたし」ではないわけですから。
ただ、ここでニサルガダッタが言う意識がコンテンツを指していることは、断
っておく必要がありそうですけどね。
空と雲の比喩で言うなら、ニサルガダッタの言う「意識」は雲に当たります。
ニサルガダッタは、すべて起こっていることはあなたではない、すべてはあな
たに起こっているのだ、って言うんですよねぇ。(-_-;)
この人は、どうしようもない人ですね。
(*^_^*)
もう時間だな。
今回は、こんなところで。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記: これだけ理屈をこねられたら、いいや。
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いやー、満腹するまで、理屈をこねました。(^^)/
これだけ理屈をこねられたら、いいや。
ああ、今日もいい日だった。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m)
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