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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.144 2006/01/07(第144号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆----------------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ
という言葉を信じた者の、仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害だけど、これを書くことが夢から覚める役に立つのかどうか?
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◇◇ もくじ ◇◇

1.“入院ハイ”

2.写経ニサルガダッタ:【93 人は行為者ではない】

3.いただいたお手紙から:i am さん

4.「ご投稿・情報提供」(随時): 「ただ在る」ことについて

5.編集後記: 2007年が明けましたね。
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■ 1.“入院ハイ”
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今年最初の土曜日。

雨に振り込められた、とっても静かで地味な天気です。

眼前の光景は、ゆっくりと左から右に移動していく霧に覆われています。

ときに左側の集落がすっぽりと霧の中に消え、その雨霧が右に流れて山を覆い
尽くしていくかと思えば、今度は左側の霧の中から集落が姿を現し、右側の視
界がすっかり霧で覆われてしまう。

この現れのなかに、いろいろな思いの層があるような気がします。

眼前の風景の中に吸い込まれてしまえば、それはそれでしあわせです。

でも、その風景とは無縁な“思い”のなかに在れば、胸はふさがれている。

そして、悲しいような気分を眼前の光景に投影したりします。

地味なのは天気なのか気分なのか……。

悲しいような気分はあるけれど、この気分は「わたし」ではない……、そう教
わりました。

この気分は「わたし」に起こっているのだと。

「私は在る」だけです。

……。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

エゴとして生きるということは、とっても悲しいことですね。

あ、これもひとつの気分ですけど。^^;

気分は「わたし」ではありませんから。

わたし、下垂体の腫瘍という“口実”のお陰で病院に入っていられたときは、
とっても幸せでした。

ほとんど、“入院ハイ”といってもいい状態だったと思います。

今は世間に戻って“元の木阿弥”をやっていますが、ときどき、あれは何だっ
たんだろう、と思うことがあります。

ふたつの病院を体験しました。

最初の病院での体験は、まるで特別待遇の別荘暮らしのようでした。^^;

その病院では、自分でできると思うことでも、何から何まで看護士さんがやっ
てくれました。

にわか片目のわたしは、立って歩くこと自体を禁じられていて、すべての移動
は車椅子でした。

自分では“何もしなくていい”というお墨付きをもらっているどころか、まさ
に自分の病室内にあるトイレに一人で行くことすら“禁じられて”いました。

これはこれで、わたしにとってはとても快適でした。(*^_^*)

なにしろ、自分はあらゆる判断や行為から免責されているわけですから。

そしてこの病院での看護士の方々の患者に対する態度は、まるでホテルの従業
員の客に対する態度を連想させるものでした。

ここで唯一(取るに足りない)問題があったとすれば、それはあまりの過保護
のせいか、夜通しほとんど眠れないことが多かったことくらいです。^^;

ところが、つぎに転院した病院での体験は、最初の病院のときとはまたずいぶ
ん異なりました。

言ってみれば、次の病院での体験は、わたしにとっては“映画の中”を歩いて
いるような感じでした。

この病院では、入院患者はすべて自助自立が期待されていて、看護士さんたち
の役割はあくまでも医療に関するもの、患者との関わりは患者の自助をサポー
トすること、という感じでした。

ひとりで歩けますかと問われたのを幸いに、車椅子に飽きていたわたしは、む
ろん、歩けますと答え、自分で歩く権利と責任を獲得しました。

前の病院ですべて車椅子で移動していたわたしは、ここに来たとたん、病室の
ある七階から自分でエレベーターを使い、渡された検査票を片手に、地下一階、
地下二階にあるいろいろな検査室をひとりで探し回ることになりました。^^;

これはこれで、じつに素晴らしい体験でした。

なぜなら、それでなくても馴染みのない初めての病院空間は、片目のわたしに
はまたとない“夢の中”そのものとして映ったからです。

その“夢の効果”を高めるために、ときどきわざと手で右目の瞼を開けてまわ
りの確認して見たりしました。

まわりの光景は、割れた二枚のガラスにでも映し出されたように、二重の光景
となって現れました。

その“夢の中”の病院空間を移動している人たちは、すべて何かの偶然で隣り
合わせた患者たちであり医師たちでした。

しかしその全員に共通しているのは、誰もが“現実”を生きている(と思いこ
んでいる)ことでした。

そこに、なぜか自分だけが“これが夢だ”と知っているのです。(^_-)

なにしろ、他のいっさいの情報を遮断して、四六時中そういう言葉にだけ触れ
ているわけですから。

自分だけが、いわば“魔法の眼鏡”をかけているわけです。

これは、一種いわく言い難い、秘かな楽しみであり解放感でした。

エレベーターの中で誰かと隣り合うときも、どこの検査室の受付に検査票を出
すときも、どこの待合室のベンチに並ぶときも、自分はその世界に属していま
せん。

耳鼻科の検査を受けるときも、眼科の検査を受けるときも、体内波動の検査を
受けるときも、MRIの筒の中でも、自分はその世界に属していません。

その世界を“見ている自分”がいるだけです。

その自分について言えることはただひとつ、「私は在る」だけ。

(-_-;)

……。

(*^_^*)

そんなに素敵なところに行っていたのなら、どうして戻って来たんだ、って思
うでしょ。(^_-)

まったくです。

あの“入院ハイ”から家に帰ってきて、どうしてあれが続かないのだろうと、
自分でも思いました。

そして、少しわかったことがあります。

あの病院という環境の中、入院という状況の中に在って、いまの生活的日常の
中に無いものが少し見えてきました。

情報の遮断ということもあります。

病院の中で何よりもありがたかったのは、テレビも見なくてもいいこと、新聞
も読まなくていいことでした。

しかし、言うまでもありませんが、そんなことは家に帰ってきてからだって、
したくなければしなければいいだけのことです。

しかし、あの入院の状況の中に在ったもの、そしていまの日常の中に無いもの
が、たしかにありました。

それは、“自分にはどうしようもない”という完全な「選択肢の欠如」です。

何のかんの言っても、別に歩行が許されようが許されまいが、そんなこととは
関係なく、じつは、脳腫瘍の入院患者としての自分には、自分の状況に関して
ほとんどまったく何の選択肢もありませんでした。

つまり、“状況の解決に関して何らかの能力を持っている”という、通常なら
当然想定される「幻想」から、完全に解放されていたということです。

“自分にできることは何もない”という圧倒的な「安心」が、あの“入院ハイ”
を裏打ちしていたものでした。

“できることは何もない”ということは、取りも直さず“何もしなくていい”
ということです。

そのいわば“無力感”があまりにも安定していたため、通常ならサバイバルに
向けて走り出さずにはいないマインドのエネルギーを、思うさま「私は在る」
に誘導することができたのでしょう。

しかし、別荘生活は終わりました。^^;

今度は“自分にもできることがある”かのような幻想が戻ってきました。

“現実”に対処しようとして、マインドははやり立っています。

こうなっては、もうどうしようもない。(>_<)

また「映画」のなかの住人に戻って、サバイバル競争にうつつを抜かすより他
はないのか。

さて、ここがひとつの理解の境目です。

(*^_^*)

今日は、これくらいで。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【93 人は行為者ではない】
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今回は、前段の続きになっています。(なんちゃって。(*^_^*))

いや、前々から、ここはどうにも理解できないところなんです。

というか、理解できたような気がしない分、かえって“まし”なのかもしれま
せんが。

なにしろ、タイトルからして【人は行為者ではない】って言うんですよね。

このことさえ解ったら、あとは何とかなるんじゃないか、なんて気もするんだ
けどなぁ。(-_-;)

しかし、フリードマンさんか、ディクシットさんか、どちらの努力か知りませ
んけど、編集者の方も頑張ってますよねぇ。

【人は行為者ではない】

マインドにとって、とっても違和感のある表現でしょ。

いったい、どんなことを言ってるんだろうって、思いますよね。

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

あとは、わからん、わからんって、むにゃむにゃ、寝言を言っているだけです
から。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 私は人生のはじめのころから、不完全さという感覚につきまとわれ
     てきました。高校から大学、就職、結婚、そして裕福になっていき、
     つぎに起こることこそ私に平和を与えてくれるはずだと想像するの
     ですが、平和はやってはこなかったのです。
 
 マハラジ
 そこに身体と、身体との同一化との感覚があるかぎり、欲求不満は避けられ
 ないものだ。
 あなたが身体とは完全に異なり、相容れないものだと知ったときにだけ、
 「私は身体だ」という観念に不可避の恐れと欲望の入り交じった状態から休
 息を見いだすのだ。
 単に恐れをなだめたり欲望を満たしたりすることでは、あなたが逃避したが
 っている空虚な感覚を取り除くことはできない。
 ただ自己知識だけがあなたを助けることができるのだ。
 自己知識ということで、私はあなたが何ではないのかということの完全な知
 識を意味している。
 そのような知識は到達可能であり、最終的なものだ。
 だが、あなたが何であるかを発見していくことに終焉はありえない。
 発見していけばいくほど、より多く発見することが残るのだ。
 
 質問者 そのためには、私たちは異なった親と学校をもち、違う社会に生き
     なければなりません。
 
 マハラジ
 あなたに環境を変えることはできない。
 だが、あなたの態度を変えることはできる。
 非本質的なことに執着する必要はないのだ。
 ただ本質的なことだけが正しい。
 本質的なことのなかにのみ平和は在るのだ。
 
 質問者 私の求めているものは真理であり、平和ではありません。
 
 マハラジ
 あなたが平和でないかぎり、真実を見いだすことはできない。
 静かなマインドは正しい知覚にとって欠かせないものだ。
 それはまた、真我の実現にとっても要求されるのだ。
 
 質問者 私はあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つ
     だけの余裕がありません。
 
 マハラジ
 それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。
 実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって、あなたによって
 なされるのではない。
 
 質問者 もし私がただものごとをあるがままに起こらせたなら、どうしてそ
     れが私の思うように起こると確信できるのでしょうか? もちろん、
     私はそれを私の欲望に沿うように変えていくべきです。
 
 マハラジ
 あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あ
 なたに起こるのだ。
 どちらにせよ、あなたに変えることはできない。
 あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。
 それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ。
 何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。
 すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。
 光のなかには何もない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。
 あなたはただの光なのだ。
 
 質問者 もし私がただの光なら、どうしてそれを忘れてしまったのでしょう
     か?
 
 マハラジ
 忘れてはいない。
 あなたが忘れ、そして思い出すのはスクリーン上の画像のなかだけだ。
 あなたがトラになった夢を見たからといって、人であることをやめたわけで
 はない。
 同じように、あなたはスクリーン上の画像として現れた純粋な光であり、ま
 たそれとひとつになったものでもあるのだ。
 
 質問者 すべてが起こるだけなら、どうして心配しなければならないのでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 まさしくそのとおりだ。
 自由とは心配からの自由なのだ。
 あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
 れに注意を払うことはやめなさい。
 それらを来ては去っていかせなさい。
 それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。
 
 質問者 もし私が起こっていることから注意を背けたなら、何によって私は
     生活していけばいいのでしょうか?
 
 マハラジ
 またしてもそれは「もし私が夢を見るのを止めたら、どうすればいいのでし
 ょう?」と尋ねるようなものだ。
 止まりなさい。
 そして見るのだ。
 「次は何か?」と心配する必要はないのだ。
 つねに次はやってくる。
 生命ははじまりも終わりもしない。
 不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
 のだ。
 数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
 ない。
 生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
 の源に戻っていくのだ。
 
 質問者 もし人生がそれほど素晴らしいものなら、どうして無知が現れたの
     でしょうか?
 
 マハラジ
 あなたは患者を看ずに病気を扱いたいのかね!
 無知について尋ねる前に、まず誰が無知なのかを調べなさい。
 あなたが無知だと言うとき、感情と思考の現状に無知という観念を押しつけ
 たことをあなたは知らないのだ。
 それが起こるときを調べてみなさい。
 完全な注意を払いなさい。
 すると、あなたは無知といったものはまったく存在せず、ただ不注意があっ
 ただけだということを知るだろう。
 あなたが心配することに注意を払いなさい。
 ただそれだけだ。
 結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起
 こしていることなのだ。
 あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。
 そして無知という問題は消え去る。
 質問の答えを待つ代わりに、誰が尋ねているのか、何がそれを尋ねさせるの
 かを見いだしなさい。
 あなたはすぐに、それが恐れと苦痛に駆りたてられたマインドが尋ねるのだ
 と知るだろう。
 そして恐れのなかには記憶と期待、過去と未来がある。
 注意はあなたを現在に連れ戻す。
 今、そして今のなかにある存在はつねに手に入る状態だ。
 だが、気づかれることはまれなのだ。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p499-501)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

ふーむ。

なにやらどうも、チンプンカンプン、たぶん、これを読まれている方のなかに
は、これ↑がお解りになる方もいらっしゃると思うので、できれば、どなたか
教えていただきたいと思います。

もう、この先は読んでいただかなくてもいいんですが。

> 質問者 私は人生のはじめのころから、不完全さという感覚につきまとわれ
>     てきました。高校から大学、就職、結婚、そして裕福になっていき、
>     つぎに起こることこそ私に平和を与えてくれるはずだと想像するの
>     ですが、平和はやってはこなかったのです。

とっても、ごもっともって感じですよね。

> マハラジ
> そこに身体と、身体との同一化との感覚があるかぎり、欲求不満は避けられ
> ないものだ。

なるほど、そういうことなのか。

> あなたが身体とは完全に異なり、相容れないものだと知ったときにだけ、
> 「私は身体だ」という観念に不可避の恐れと欲望の入り交じった状態から休
> 息を見いだすのだ。

これをマインドだけで理解するということは、かなわぬ夢なのか。

> 単に恐れをなだめたり欲望を満たしたりすることでは、あなたが逃避したが
> っている空虚な感覚を取り除くことはできない。

それはそうだと思うけど。

> ただ自己知識だけがあなたを助けることができるのだ。

じゃ、やっぱり、マインドだけで理解することはできないモノかな?

> 自己知識ということで、私はあなたが何ではないのかということの完全な知
> 識を意味している。

お! (@_@)

「あなたが何ではないのかということの完全な知識」

これは、マインドが理解可能ってことでないの。

そうだよ、自分が“何ではないのか”は、マインドで理解できるはずだよ。

> そのような知識は到達可能であり、最終的なものだ。

うん。

“到達可能”、“最終的”、マインドの理解の到達範囲内のことか? (-_-;)

マインドによる理解の到達圏内のことだと思いたい。

> だが、あなたが何であるかを発見していくことに終焉はありえない。

なるほど。

> 発見していけばいくほど、より多く発見することが残るのだ。

そういうことか。

> 質問者 そのためには、私たちは異なった親と学校をもち、違う社会に生き
>     なければなりません。

うん、その意見もわかる。

> マハラジ
> あなたに環境を変えることはできない。

こう言うんだよなぁ、マハラジは。

> だが、あなたの態度を変えることはできる。

はい。

> 非本質的なことに執着する必要はないのだ。

そうかぁ。

> ただ本質的なことだけが正しい。

あ。(@_@)

> 本質的なことのなかにのみ平和は在るのだ。

そうなんだ。

> 質問者 私の求めているものは真理であり、平和ではありません。

わたしの今の気分なら……。^^;

> マハラジ
> あなたが平和でないかぎり、真実を見いだすことはできない。

なるほど。

> 静かなマインドは正しい知覚にとって欠かせないものだ。

わかります。

> それはまた、真我の実現にとっても要求されるのだ。

はい。

あ、「自己知識」という言葉と「真我の実現」という言葉を区別して使ってい
るんだ。(@_@)

ヤッター。\(^o^)/

「自己知識」というのは、マインドの到達圏内のことだ!!

> 質問者 私はあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つ
>     だけの余裕がありません。

プ。(>_<)

わかるけど、言ったもんだね。

> マハラジ
> それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。

(@_@)

ここか……。

> 実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって、あなたによって
> なされるのではない。

ここが、わかるような、わからんような。

なんか、これがわかれば……、という気もするんだけど。

> 質問者 もし私がただものごとをあるがままに起こらせたなら、どうしてそ
>     れが私の思うように起こると確信できるのでしょうか? もちろん、
>     私はそれを私の欲望に沿うように変えていくべきです。

この人、ウェスタンだね。

インド人の求道者ならこんな言い方しないから……。

> マハラジ
> あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あ
> なたに起こるのだ。

これ難しい言い方だよねぇ。

重訳(マラティ語→英語→日本語)ということもあるだろうけど。

「あなたの欲望は」、「それを満たすこと」によって、あるいはそれが「満た
されな」かったことによって、「あなたに起こるのだ」という意味かなぁ。

それなら……、

> どちらにせよ、あなたに変えることはできない。

「どちらにせよ、あなたに(は、その欲望を)変えることはできない」という
ことになるかもしれない。

> あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。

そりゃ、信じてますよ。

ここで頑張れば何とかなるかもしれない、と信じるから頑張るんで……。(-_-;)

> それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ。

カー! (>_<)

「それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ」なん
て言ったって……、それがいったい何を意味しているものやら。

じゃ、自分が行為していると信じ込んでいるだけで、じつは、自分の行為も、
その行為の結果も、すべては映画のストーリーとして「単に起こるだけ」だっ
ていうわけ?

> 何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。

え!? (@_@)

うーん、なんか聞き捨てならない感じ。

「何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない」って、
いったいどういうことよ?

「何ひとつ」ってどういう意味?

わたしの行為の結果は「何ひとつ」わたしによるものではない、ってこと?

それ、どういうこと?

わたしの行為は、「何ひとつ」(わたしの行為の)結果に影響を及ぼすことは
できない、ってこと?

そんなことあるかよ!! (>_<)

ちゃんと“わたしの行為”に対応して、それなりに結果が変化するじゃない。

もし「何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない」っ
て言葉を真っ正直に受け取れば、あなたの世界で起こっていることは、それ自
体が固有の映画であって、その世界に自己同化してあなたがどんなに藻掻こう
とも、そんなことにはいっさい頓着なく、あなたとは無関係に、勝手に展開す
る、っていうことになるじゃない。

まじかよ……、ったく。

> すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕(あら)わにされる。

オガアチャン……。(T_T)

> 光のなかには何もない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。

ドウイウコトヨ?

> あなたはただの光なのだ。

オラスラネ。

> 質問者 もし私がただの光なら、どうしてそれを忘れてしまったのでしょう
>     か?

ケッパレ。

> マハラジ
> 忘れてはいない。

(?_?)O

> あなたが忘れ、そして思い出すのはスクリーン上の画像のなかだけだ。

忘れたり、思い出したりは、「スクリーン上の画像のなか」でだけ……。

> あなたがトラになった夢を見たからといって、人であることをやめたわけで
> はない。

それはわかるけど……。(-_-)

> 同じように、あなたはスクリーン上の画像として現れた純粋な光であり、ま
> たそれとひとつになったものでもあるのだ。

何を言っているのやら……。

> 質問者 すべてが起こるだけなら、どうして心配しなければならないのでし
>     ょうか?

まったく。

> マハラジ
> まさしくそのとおりだ。

そんな。

> 自由とは心配からの自由なのだ。

ああ、それはわかるけど。

> あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
> れに注意を払うことはやめなさい。

「結果に影響を与えることはできないと自覚し」てないよ。(;_;)

自覚してないから、頑張ってるんじゃない。

「欲望と恐れに注意を払」ってるんじゃない。

下垂体の腫瘍だっていうんなら、もうお手上げだけど……。

でもそのときだって、「結果に影響を与えること」ができると思って頑張って
くださった先生たちのお陰で、治ったんだし……。

あ、それも「スクリーン上の画像のなか」でだけか……。

> それらを来ては去っていかせなさい。
> それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。

いったい、どうしたらいいのよ……。

でも、こう聞いただけで、「欲望と恐れに注意を払うこと」をやめる人もいる
んだろうなぁ。

それも「スクリーン上の画像のなか」でだけのことなんかなぁ……。(-_-)

> 質問者 もし私が起こっていることから注意を背けたなら、何によって私は
>     生活していけばいいのでしょうか?

アチャ。

しっかし、さすがはウェスタン、よくぞ訊いてくれたよこの人。(^_-)

> マハラジ
> またしてもそれは「もし私が夢を見るのをやめたら、どうすればいいのでし
> ょう?」と尋ねるようなものだ。

これは……。(-_-;)

取りつく島がないとも言えるが、しかし……。

“「もし私が夢を見るのをやめたら、どうすればいいのでしょう?」と尋ねる
 ようなものだ。”

……。(=_=)

ちょっと、ゆっくり考えてみよう……。

こうしか言えないのかもしれない。

> 止まりなさい。
> そして見るのだ。
> 「次は何か?」と心配する必要はないのだ。
> つねに次はやってくる。

おお……。

> 生命ははじまりも終わりもしない。

たしかに。

> 不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
> のだ。

うん。

> 数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
> ない。

なるほど。

> 生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
> の源に戻っていくのだ。

「生命もまた」(欲望のように)、「あらゆる形態をいっぱいに満たし、その
 形態が崩壊したとき、その源に戻っていくのだ。」

> 質問者 もし人生がそれほど素晴らしいものなら、どうして無知が現れたの
>     でしょうか?

(^^)/

> マハラジ
> あなたは患者を看ずに病気を扱いたいのかね!

(@_@)

> 無知について尋ねる前に、まず誰が無知なのかを調べなさい。

ははー。

その無知な人が本当にいるのかどうか……。

> あなたが無知だと言うとき、感情と思考の現状に無知という観念を押しつけ
> たことをあなたは知らないのだ。

ああ、そういう言い方か。

> それが起こるときを調べてみなさい。

難しい。

> 完全な注意を払いなさい。
> すると、あなたは無知といったものはまったく存在せず、ただ不注意があっ
> ただけだということを知るだろう。

そうなんだ。

> あなたが心配することに注意を払いなさい。

む。

> ただそれだけだ。

(-_-)

> 結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起
> こしていることなのだ。

あ、なるほど。

> あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。
> そして無知という問題は消え去る。

そうなの?

> 質問の答えを待つ代わりに、誰が尋ねているのか、何がそれを尋ねさせるの
> かを見いだしなさい。

(@_@)

> あなたはすぐに、それが恐れと苦痛に駆りたてられたマインドが尋ねるのだ
> と知るだろう。

あっ、そういうことか……。

“あなた”が尋ねているのではなく、そのような“マインドの状態”が尋ねて
いるのだ、ということか。

> そして恐れのなかには記憶と期待、過去と未来がある。

ああ、それは確かだろうなぁ。

> 注意はあなたを現在に連れ戻す。

なるほど。

> 今、そして今のなかにある存在はつねに手に入る状態だ。

(-_-)

……これはどういう意味なのか。

「私は在る」ということなのか……。

> だが、気づかれることはまれなのだ。

ふーん。(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

よろしければ、気が向いたときにお付き合いください。


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■ 3.いただいたお手紙から:i am さん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

お気が向いたときに、たまに何か書いていただけると嬉しいです。
なにか、ご要望など伺えるとありがたいです。
E-mail:pari♪jk2.so-net.ne.jp
      ↑ここは“@”にしてくださいね。(*^_^*)

こちらでも。
E-mail:parichan@gmail.com

勝手に掲載させていただくかもしれません。もちろん、掲載は困る、と書いて
おいていただければ、そんなことはしませんが。^^;

ハンドル名(=ここでの掲載名)もお願いしますね。


       …………○…………○…………○…………


今回も i am さんからメールいただきましたので、ご紹介させていただきます。

[件名]:143号の感想
----------------------------------------------------------------------
 pari さん、こんにちは、i am です。
 新年をむかえ、いよいよ2007年になりましたね。
 
 > ……。(-_-;)
 > インドに行けばまたあの時間に出会えるのか……と
 > 後から何度か思った、朝靄の中のあのダルの店の木陰の席。
 > 
 > それが“そこに属さない者”の視点で眺めたとたんに、
 > 「世界」はあのような「悠久の時間」を現出するのかもしれません。
 
 143号の、
 この部分、ジーン…ときました。
 
 pari さんが体験した時空が、
 時間も距離も越えて、私にも伝わってきました。
 
 「悠久の時間」って、いいですよね。
 
 > 質問者 爆発の前に探求はないのでしょうか?
 > マハラジ 爆発力は実在からやってくるのだ。
 
 そして、写経の部分の、この教え、が心に残りました。
 
 i am
----------------------------------------------------------------------

i am さん、いつも感想をありがとうございます。

m(_ _)m


       …………○…………○…………○…………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 4.「ご投稿・情報提供」(随時): 「ただ在る」ことについて
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

E-mail:pari♪jk2.so-net.ne.jp
      ↑ここは“@”にしてくださいね。(*^_^*)

こちらでも。
E-mail:parichan@gmail.com

できればハンドル名もお願いします。


        …………○…………○…………○…………


今回、ギリギリにハイアーセルフ33さんから情報が送られてきました。^^;

それも大量の情報ですよ。

[件名]:「ただ在る」ことについて
----------------------------------------------------------------------
 みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。
 
 このところ毎回の、パリさんのニサルガダッタからの写経ですが、今回思う
 ことがありました。
 
 (二サルガダッタ)
 > 真我実現のためにすべての必要要因が揃った状況が
 > 生じなければならないのだ。
 > このことで落胆することはない。
 > 「私は在る」という事実にとどまることが、
 > 別のチャンスをすぐにつくり出すだろう。
 > なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。
 
 ここで氏は、「私は在る」という事実にとどまることが、
 真我実現のための、別のチャンスをすぐに創造する、といっています。
 
 この原理については、「それはなぜなのか」といった、もっと詳細な情報が
 あった方が、「私は在る」という自覚になることを人は意図すると思うので
 すね。
 
 これだけでは、「あっ、そう」という感じで素通りしてしまいかねません。
 
 多くの読者は「私は在る」ということを、これほど二サルガさんが強調する
 のはなぜなんだろうかと、不思議に感じていると思います。
 
 そこで以前にも投稿したのですが、ラムサの語る「ただ在ること」のすばら
 しい理由(効果・効能)という「メリット」について、充分知っておくのが
 いいでしょう。
 
 そうすればマインドは、「私は在る」という自覚や、「ただ在る」という状
 態になることを、強く望み、意図しだすことになりやすいでしょうから。
 
 私の理解によれば、「私は在る」という自覚は、「ただ在る」という状態に
 なるための入り口といえます。
 
 それではラムサの「ただ在る」についての情報です。
 
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 「ただ在る」ことについて
 〜ラムサホワイトブック2004.9.30改訂初版版より抜粋〜  
 
 P146
 神が「在る」のと同じように、自分も「在る」というのは、在るがままの自
 分でいるということなのだ。あなたが単に「在る」という状態でいるとき、
 あなたは果てしない状態、無限の状態となっており、創造的で自由なのだ。
 あなたはどんなものでも許す者であり、動きであり、平安であり、喜びであ
 る。あなたは純粋なエネルギーであり、パワフルな指向性であり、すべての
 フィーリングであり、すべての思考なのだ。
 
 自分の存在のすべて、自分の呼吸すべてをかけて自分自身になり、自分自身
 を愛し、自分の美徳が人生の中に入ってくるのを許すこと。これが神が在る
 のと同じように在るということである。
 
 ただ単に自分自身に対して、あるがままでいることを許すのだ。
 つまり「在る」という状態でいることだ。あなたが「ただ在る」とき、あな
 たは全てである。神になるということは、「私は在る」ということなのだ。
 
 P168
 けっして真実を探し求めていけない。「ただ在る」ことだ。
 「ただ在る」とき、あなたは無限の宇宙とひとつになっているのである。
 
 P176
 生命は「ただ在る」のだと理解すれば、あなたは自分の能力を最大限に生か
 した人生を創造する自由と力を持つことができるようになる。そしてあなた
 は、次の瞬間に自分が何をしていようと、自分がすべての生命と共に振動し
 ていることを確信していられるのだ。そしてその次の瞬間にも、さらに次の
 瞬間にも、そしてその先にやってくるすべての瞬間にも、そうやって振動し
 続けていくことを確信していられるのだ。
 
 マスターよ、生命にはひとつの計画があるわけではない。
 あるのは、「ただ在る」ことだけなのだ。「在る」という状態でいることは、
 自己表現の中で最も偉大なものなのだ。
 「在る」ということだ。存在よ、重要なことはあなたが「在る」ということ
 なのだ。それだけが重要なことなのである。
 
 P180
 マスターよ、善もなければ悪もない。
 ただ「在る」ということだけがあるのだ。「在る」という状態の中では、す
 べてのものは「自己を満たしているか」という点においてのみ評価される。
 つまり魂がそれ自身を英知で満たしていくために、魂が必要としている感情
 的な体験を実現しているかどうか、という観点からのみ見られるのだ。
 
 P188
 完璧さといったようなものはない。
 存在するのは「在る」ということだけなのだ。生命の「在る」という状態の
 中では、あらゆる瞬間にあらゆるものが変化し進化している。
 したがって「完璧な状態」というものが確立されることはけっしてないので
 ある。
 
 私が認めるのは「在る」ということだけだ。
 それは神である自己が何かになっていくのを妨げる法や理想がまったく存在
 しない状態だ。「在る」という状態の理解の中では、自分のやりたいことの
 他に、人生でしなければならないことは何もない。
 
 P191
 この今という瞬間の「在る」という状態だけが存在するのだ。
 重要なのは今である。あなたは「今」という瞬間の産物なのだ。あなたは自
 分の人生を、「今」という瞬間の中で生きている。あなたの未来は、この今
 の中で創造されるのだ。
 
 この今という瞬間の中で、「ただ在る」状態として真に生きるということは、
 自己を表現したり、拡大したりするのを妨げる法や支配や規則なしに生きる
 ということなのだ。
 あなたが「在る」という状態で生きるとき、重要なのは「今」だけである。
 つまり過去でも未来でもなく、今だけが重要なのだ。なぜならそれこそがま
 さに神が生きている場所だからだ。
 
 P192
 マスターよ、あなたがここにいるのは神になるためだ。
 そして神になるためには、自分の存在からあらゆる法、あらゆる教義上の信
 念、あらゆる儀式的な習慣を取り去り、自らの思考プロセスにおいて限りな
 いものにならなければならない。
 
 もしあなたが限りない表現の自由を望むならば、つまり決して死ぬことのな
 い体と、「ただ在る」ことの平安と喜びを望むならば、あなたが今生きてい
 る人生は完全に無限であることを知りなさい。
 あなたがそれを知ったとき人生は無限になる。
 なぜならあなたが自分の存在の中で、どんなことを真実として望もうと、ど
 んなことを真実として知ろうと、それはその通りになるからだ。これこそが
 あなたが自分の王国の中で受け容れる必要がある唯一の法である。
 
 P200
 あなたが幸せで喜びにあふれ、自分自身を愛し、「ただ在る」ことを自分に
 許す瞬間をより多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生命のもつ神の
 力へと近づいていく。
 
 もしあなたが、「自分が人生で求めるものは、すべて自分を幸せにするため」
 という生き方で人生を生きるならば、あなたは最も壮大な運命を生きること
 になる。あなたは奇跡的なことをやり遂げる。あなたは自己と神への愛の驚
 くべき手本となるのだ。
 あなたという偉大なる美、素晴らしい神秘を体験し理解するのである。
 
 P207
 「ただ在る」状態でいるのを自分に許し、あなたの存在の内なる促し、内な
 るフィーリングに耳を澄ませば、あなたの驚くべき自己をさらに偉大な叡智
 と永遠の喜びへと拡大していくために最も必要としていることを、あなたは
 いつも体験していることになるのだ。
 (中略)
 
 「あなた」こそが人生の目的なのだ。あらゆる者がこれやあれをしなければ
 ならないという考えを超越すれば、つまり自分の運命はこれだあれだという
 考えを超越し、「ただ在る」という本来の状態に入り、明晰さと共にその瞬
 間の中に生きるならば、これまで知っていたものよりも、はるかに壮大な幸
 せと、はるかに大きな自由を見出すことになる。
 
 つまり生命の中への解放、生きるということのあるべき真の姿を見出すこと
 になる。それこそがあなたの目的である。「ただ在る」ことだ。
 
 P209
 この天界に人間が存在し始めた頃、人間はまだ自分が神であることを知って
 おり、同じ化身のまま数千年も生き続けていた。というのも、「ただ在る」
 という状態で人間が表現していた限りない思考の純粋性が、体を不死のもの
 にしていたからだ。
 
 P215
 自分の存在の内面において、自分は卑しい存在なのだと「知っている状態」
 になったのと全く同じように、あなたが今自分は神なのだと自分の存在の内
 で知れば、あなたは自分のすべてにおいて神になる。
 純粋な思考である「第七のレベルの理解」と呼ばれるもの、すなわち「ただ
 在る」という究極の状態(これはあなた自身があらゆるものの究極の力とな
 っている状態だが)に戻るためには、父が自分の内面に宿っていることをた
 だ知るだけでいいのだ。
 
 P216
 自分が神であることを知っている状態は、「ただ在る状態」において達成さ
 れるからだ。というのも、神とは「存在すること」であるからだ。それはす
 べての生命が「在る」という状態である。「ただ在る」状態でいる、つまり
 あなたがどんな表現をしていようと、単純に自分本来の姿でいることを自分
 に許している状態でいるということは、「父」と全く同じようになるという
 ことなのだ。そしてそれを達成するには、ほんの一瞬しかかからない。
 ほんの一瞬の間に実現するのである。
 
 神とは、この「今」という瞬間のことだ。無限とはこの「今」という瞬間な
 のである。
 「永遠なる神」になるということは、この今という永遠の中にのみ生きるこ
 となのだ。というのも神はそのようにして生きているからだ。
 
 「ただ在る」ことだ。そうすればあなたはすべての生命が「ただ在る」とい
 う状態、その絶え間ない継続性とひとつになり、あなたの体もその継続性に
 なるべく自ら上昇していく。そうすればあなたはもはや死ぬ必要はない。
 あなたはすべての天界を超越して第七の天界まで行き、そこですべてのもの
 の究極の形である思考そのものになることができるのだ。これは真実である。
 
 P217
 今や新しい学びが起こる時期である。だが実際にはそれはまったく新しいも
 のではない。あなたは魂の奥深くで、真実とは何かを知ることになる。なぜ
 なら真実は、あなたが教義上の信念というよどみを超えて、ずっとそこにあ
 り続けた思考と理解の天国を見ることを可能にしてくれるからだ。
 
 あなたの首から縄がはずされ、喜びのフィーリングが表に出始め、それが魂
 の内で高まってくるにつれて、あなたは「ただ在る」状態の中で、本来の自
 分であるこの荘厳なる神になり始めるのだ。
 
 P218
 光の時代は人間を無限の思考へと、そして「ただ在る」ことの愛と喜びと自
 由という崇高なる王国へと連れ戻してくれるのだ。
 
 P236
 マスターよ、私はいま自己を表現しており、在るがままの自分でいながら幸
 せな状態でいる。そしてあなた方がここで見ている姿でない時、私は「ただ
 在るもの」、すなわち全てのものが生まれてくる基盤になっているのだ。
 なぜなら第七のレベルとは、思考の総体であり、巨大な「空」(ヴォイド)
 であるからだ。
 
 それはあなた方の惑星を軌道に保ち、細胞をひとつにまとめ、永遠のかなた
 にまで存在する全てのものを包含している。そしてあなたが第七のレベルの
 存在になると、もはやレベルというものすら無くなる。「ただ在る」だけな
 のだ。その状態では、存在するものすべてのフィーリング、すべての「知っ
 ている状態」のフィーリング、すべての思考のフィーリングにあなたはなる
 のである。
 
 P249
 他の宇宙からここにやってきた者たちが、それらの都市を見下ろした時に見
 るのは、様々な色の光でできた濃密な網目状のものである。それは極めて制
 限された意識が生み出す低い振動数の思考であり、それが光の場として現れ
 ているのだ。
 
 それらのものよりも振動数の高い「超意識」の思考とは「在ること」、存在、
 生命、調和、ひとつであること、絶えることのない継続性などの思考だ。
 それらは愛の思考であり、喜びの思考であり、天才の思考である。それらは
 無限の思考であり、本当はこれらの言葉による表現さえ超えたものである。
 というのも無限の思考からのフィーリングを言葉で言い表すことなどできな
 いからだ。
 
 P270
 限りない状態に戻り、喜びと「ただ在る」ことの自由を体験するためには、
 あなたは再び自分をひとつにまとめているものにならなければならない。
 
 P288
 あなたが「ただ在る」とき、あなたはすべてのものの「在る」という状態と
 整合状態にある。その整合状態を通して、あなたは自分の望むどんなもので
 も手に入れることができるのだ。そしてそうするためにあなたがすべきこと
 は、「ただ在る」ことの他には何もない。
 
 あなたの存在の神が、あなたの考えていること、望んでいることを何でも引
 き寄せ、あなたのところにそれがやって来るのである。あらゆる外的な手段
 をつくすことに忙しい者たちは、この内的な手段の無意味なまねごとをして
 いるだけなのだ。「ただ在る」とき、あなたはすでにすべてを持っており、
 すべてのものになっているのだ。
 
 あなたが「ただ在る」とき、そしてすべての思考を受け容れることを自分に
 許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。そのときあなたがこ
 れまでに知りたいと思ってきたことのすべてを、瞬く間に知ることができる。
 
 自分の思考に価値判断を下さず、それらが魂の中で感情として実感されるこ
 とを許すとき、あなたは単に「在る」ということと、在るものすべてに対し
 て心を開くことによって、ひとりの無限の神として生きているのだ。そのと
 きあなたは自分の「神なる自己」の純粋なチャネルとなり、神の精神の純粋
 な単純さに近づくのである。
 
 P303
 「ただ在る」ことの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることがで
 きるのである。
 
 Love and Peace ハイアーセルフ33
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 〜日常に精神世界の情報を生かしてゆくための〜
  スピリチュアル・メッセージ活用研究会
 H P :http://homepage2.nifty.com/haruhi33/
 Eメール:haruhi33@nifty.com
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いやー、はるさん、驚きました。(@_@)

はるさんがニサルガダッタに反応したことにも驚きましたが、このラムサ情報、
全部、手入力してくださったんですか? (*_*)

それにしてもまた、ずいぶん、たくさんありましたねぇ。

みなさん、「ただ在る」ことについてのラムサの言葉をこれだけ集めるのは、
これ、大変なことですよ。

(@_@)

あっ、そうか……。(^_-)

わかった。(^_^)v

それにしても、はるさん、今回も情報提供ありがとうございました。

m(_ _)m


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■ 5.編集後記:2007年が明けましたね。
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2007年が明けましたね。^^;

肉体年齢のせいかどうか、このごろしきりに肉体に自己同化したエゴとして生
きることの悲しさ恥ずかしさを感じます。(なんちゃって。(*^_^*))

勝手に恥ずかしがるのが、その最たるものなんだろうけど……。

こんなに恥ずかしいのに、【人は行為者ではない】なんて言われると、それが
理解できない。

いや、むろん、理解したいんですよ。

理解したいんだけど、わたしのマインドに収まらないんです。

別に自分を改善する必要がないことはわかりました。

それはわかった。

そして、どうやら“自分”という実体は存在しないらしい、ということも理屈
としては納得しつつあります。

でも、【人は行為者ではない】とはなぁ。(-_-;)

それだけに、自分が入れ込んでいるこの世界が、本当に“自分”の思いとは無
関係に、勝手に展開する独自の「映画」だということが納得できたら、それは
ちょっとしたことだよなぁ、と思えてきたということです。

何が何でも、楽になりたいですからね。(*^_^*)

ああ、今日も書いた。

いい日だった。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m)
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