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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.151 2007/02/25(第151号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってます。現在811名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.いずれにしろ、「私は在る」

2.写経ニサルガダッタ:【51 苦痛と快楽に無関心でありなさい】(3)

3.編集後記:だから、しつこく、「私は在る」を思い出す
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■ 1.いずれにしろ、「私は在る」
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また今日も“マインド全開”で好きな理屈が考えられる。

嬉しいなったら、嬉しいな♪ (^^)/

雨が降ってはいないけれど、視界の上半分を占める空は白く縁取られた灰色の
雲で90%は覆われていて、ちょうど頃合いのマインド日和です。

時々雲間から日差しが差し込んで、戸外が明るくなります。

たしかに、明るくなったらそれはそれで嬉しいんだけど、でもそのマインドの
動きをそう気に病まなくてもいいんだ、とも思うし。

いずれにしろ、「私は在る」。

よし、今日はこの線で行こう。(^-^)v

これは、かんちん、かんちん。(^^)/

いずれにしろ、「私は在る」。

これほど確かなことはないや。

どんなに頑張ったところで、「私が無くなる」わけじゃないし。(^_-)

どんなに途方に暮れたところで、「私が消える」わけじゃないんだから。

いずれにしろ、「私は在る」。

「私が在る」がゆえに、すべては在る。

たしかに、わたしは「身体」に自己同化しているけれど、でも、それもこれも、
「わたし」在るがゆえに可能な“勘違い物語”。

いずれにしろ、「私は在る」。

相変わらず、強気と弱気の間で、言いたい放題の勝手なご託を並べています。

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
「私は在る」噺にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

「どーもわからん……」(-_-;)
     ↑
   (これ黒沢映画『生きる』の左朴全 調です。^^; )

いろいろ“困って”、瞬間、瞬間に、マインドが右往左往しているんですが、
なにしろ、よくよく思ってみれば、何に困っているのやら……。

たしかに、困っている“自分”はいたはずなんですが、しかし、それがどうも
変なんですよね。

わたしは、こう言っちゃなんですが、別にこれ以上、この身体に自己同化した
「エゴ」として存続したいわけじゃないんですよね、うん。(-_-;)

身体に自己同化した「個人」として、一定の“成績”を上げたいと思っている
わけでもないんです。

「エゴ」として“見苦しくなくありたい”なんて言ったって、そんなもん、あ
んさん、よーいわんわ、ですわ。

「エゴ」自体が“見苦しい勘違い”そのものだというのに、「エゴ」として
“見苦しくなくありたい”なんて……。

そんな……。(>_<)

にもかかわらず、(不本意にも)わたしが頑張ったり、困ったりしなければな
らないとしたら、それは間違いなく、この身体に自己同化した「エゴ」として
の存続を意図してのこと以外にはありえないわけです。

ね。(^_-)

ちょっと、理屈に合わへんでしょ。

ちょっと、変や、思いません?

やっぱり、「どーもわからん……? (-_-;)」(左朴全 調)ですがな。

これは……、理屈じゃないところで、混線してますわな。

わたしが断固、いや、わいは「エゴ」じゃ、身体に自己同化した「エゴ」のど
こが悪いんじゃ。

これからバリバリ頑張って、わいをバカにしてけつかった奴らを見返してやん
のじゃ……、とでも言っているのならわかりますよ。

それならそれで、筋が通っているし、いっそ我ながら応援してやりたい、くら
いのもんです。

ところが、そうじゃない。

わたしの「エゴ」はすっかりショボくれて、いまの若い正蔵さんのお父さんの
林家三平さんみたいに「生きててどうもしみませーん」なんて調子ですよ。

これで、どうして生きてる甲斐があるのか、ですよ。

わたしは、断固、訴える!! (\_/)

わたしは、なにゆえに、困る必要があるのか?、と。

(@_@)

いやー……。(*^_^*)

やっぱり、甘くてどうも……、もとへ、生きててどうもしみましぇーん、って
感じかなぁ。

いや、しかし、ここにも勘違いがある。

これは、こうあるべきじゃない。(-_-;)

わたしは、今さら何も、困る必要も、恥ずかしがる必要もないんじゃないか。

だいたい、困ったり、恥ずかしがったりしているのは誰か……、だ。(-_-;)

唯一の実在「わたし」が、困ったり、恥ずかしがったりするわけはない。

“困ったり”、“恥ずかしがったり”が、「わたし」に起こっているだけだ。

もちろん、恥ずかしがっているのは身体に自己同化したわたしです。(;_;)

そして、それもこれも「私は在る」のゆえ。

「私は在る」のゆえに、世界があり、世界在るがゆえに、うんたらかんたらの
プロセスを通じて、登場人物としての肉体が映画の中に現れ、その肉体の振る
まいに応じて、その習慣的反応パターンの束として、登場人物の“「エゴ」の
ようなもの”が現れる……、と。

そしたら、そのあるか無きかの一瞬の揺らぎのパターンを、マインドとの境界
面から観察していた「観照者」が、一瞬、観察のベクトルを、気づきの光から、
興味・関心のベクトルに転じた瞬間、自己同化が発現して、映画の中に“わた
し”が現れている……と。

すると本来自由な「観照者」は、やたらな息苦しさを感じて、思わずもがく。

ところが、「観照者」の気づきの光は、すべてを実現する万能の光。

たちまち、“縄の燃えがら”は“蛇”に変じて「観照者」に襲いかかってくる。

恐怖に捕らえられた“観照者”は、すでに本来の姿から離れて、“わたし”と
なって映画のなかを助けを求めて逃げ回る……。

ふーむ。(-_-;)

正常に戻すには、このちょうど同じプロセスを“巻き戻す”しかないわけか。

時間や空間はマインドが生みだした幻想にすぎないわけだから、「観照者」が
映画の中に入ってくる全過程はマインドの貯蔵庫のなかにある。

映画の中に取り込まれた“わたし”は、今度は「気づきの光」を使って、その
全過程を逆に辿らなくてはならない、と。

「気づきの光」を使って、今度は“蛇”を“縄の燃えがら”に戻し、自ら本来
の「観照者」にもどって、その自由を回復しなければならない……。

なるほどなぁ。

こりゃ、順に行ってるわ。

しかし、そのためには、その“蛇”に興味を失っていなければならない。

“自分”が登場するその「映画」に興味を失っていなければならない。

そりゃ、その「映画」が、“自分”の臨終の場面だけでできているっていうん
なら、わけもないですよ。(^_-)

ところが、誕生から始まって、北京オリンピックの出場選手になるようなスペ
シャル場面まで組み込まれているような映画となったら、こりゃ、ヤバイ。

ちょっとや、そっとのことじゃ、飽きがこない。

やっぱり、「観照者」に戻ろうか、それともこのまま「映画」に出ていようか、
悩んじゃうよなぁ。

戻ろかなぁ、戻るのよそうかなぁ♪

いやー、たいていは、自らはまったこの狭い狭い世界の方が“面白そうで”、
戻らないんだよなぁ……、きっと、なぁ。(-_-;)

この不自由さが懐かしい……、なんて、気の利いたことを言って。

だから、本気で、ホントに戻りたい……となったら、そりゃ、戻れるわけです
よ。

「求めよ、さらば、与えられん」って、きっと、そのことだと思います。

でも、何よりもその前に、世界にトコトン、うんざりしていなくちゃならない
んだよなぁ。

誰も、自分の興味には勝てないんだから。

だから、また記憶を失って、まっさらから始めるって、半端な話じゃないと思
うんですよね。

だって、また“やる気満々の”最初から、お母さんの期待に添って、まわりの
世間に合わせながら、始めるわけでしょ。

なにしろ、マインドとは、そして世界とは、“興味”を、“欲望”を実現させ
るための装置なんですから。

これは、気の遠くなるような話ですよ。

ニサルガ師匠もこう言っています。

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 マハラジ
 ……実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。
 知覚されないが、それは知覚をひき起こす原因であり、感じられないが、感
 覚をひき起こす原因だ。
 非存在でありながら、それは存在に誕生を与える。
 それは動きの不動なる背景なのだ。
 ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じるこ
 とだろう。
 
 質問者 もし私がそれであるのならば、私が生まれてきた原因は何なのでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人
 として現れる。
 その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。
 満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。
 身体との自己同一化は常に新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造が明
 確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。
 解放をもたらすのは明晰性だ。
 なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
 できないからだ。
 それは死ぬ。
 そして永遠に死ぬのだ。
 だが、その記憶は残る。
 そしてそれらの欲望と恐れも。
 それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。
 実在は、それにはまったく関わらない。
 だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。
 
               『I AM THAT 私は在る』(p399)
 http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

うーむ。(-_-;)

> 過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人
> として現れる。
> その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。
> 満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。

……結局、いずれにせよ、望みはかなっているわけですよねぇ。

何か困ることがあって、“自分”が困りたがっているうちは、それはそれで、
いいとしか言いようはないんだろうなぁ。

“自分”が困りたがっている間は、“自分”が困る状況を支えている「世界」
の存続は保証されているわけだから……。

自ら困りたくなるような「世界」にはまって、“自分”で困りたがっている癖
に、“自分”が困るような「世界」は不届きだなんて、そんなふうに「世界」
に苦情を言ってみてもねぇ。

それは“織り込み済みのそのような苦情”として、「世界」内部で処理でされ
てしまって、それっきりなんじゃないだろうか。(-_-;)

> 身体との自己同一化は常に新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造が明
> 確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。

「身体との自己同一化は常に新しい欲望をつくりつづけ」るのか……。

この過程には止め処がないわけだ。

そのプロセス自体のなかに“自動停止装置”みたいなものは組み込まれていな
いんだな。

他動的、外圧的な、“介入停止”なんてのもないんだろう。

それと似たような“サイクル”みたいなものが、ある次元で、一応あらかじめ
納得づくで設定してあったとしても、それも別のフェーズへの“踊り場”程度
のものでしかないのかもしれないし。

> その束縛の構造が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。

本当に頭に来るには、それなりの手間暇がかかっているわけだよなぁ。

そうやって、通常の“立入禁止”の立て看板を無視して、埒を超えて、裏側か
ら「世界」が存在しないことを理解した者だけが、「世界」と無縁に、「世界」
を超越して、在ることができるわけか。(-_-;)

何に縛られているのかを明確に理解するより、その“金縛り”を解くことはで
きないんだ。

> 解放をもたらすのは明晰性だ。

ひとつの生涯で、いくつもの生涯にわたって自ら創造し、自らはまってきたパ
ターンを洞察し、そして明晰に理解するより、他に手はないんだ。

> なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
> できないからだ。

変化を求め、体験を求めるかぎり、求めるその同じエネルギーが、変化や体験
を創造していくわけだものなぁ。(-_-;)

自ら意図して止まる以外に、止まる方法なんてないんだ。

その止め処のなさを見抜き、どんな変化も成長も成熟も進化も、けっしてそれ
自体で不変なるものに導いてくれるわけではないことを知って、自ら体験に対
する欲望を放棄する以外に、停止することはできないんだ。

> それは死ぬ。

そうか。

しかし、明晰な洞察によって、欲望は死ぬことができる。

> そして永遠に死ぬのだ。

そして、そのとき、欲望は永遠に死ぬ。

> だが、その記憶は残る。
> そしてそれらの欲望と恐れも。
> それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。

なるほど。

そして、非在の“個人”たちのなかで、幻想としての「世界」は存在し続ける
わけか。

> 実在は、それにはまったく関わらない。

そうか。

> だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。

そうか……。

……だから、……言いようによっては、何も問題がないとも言えるわけか。

いずれにしろ、「私は在る」んだから。

(-_-;)

わたしが何かって……ことだよなぁ。

そうやって、和尚に出会い、ニサルガダッタに出会ったわけか……。

……そして、苦し紛れに……、ついに「私は在る」にたどり着いた。

「私は在る」を覚えていなければならないようなら、それはそれでいい。

いずれにしろ、「私は在る」。

「私は在る」を覚えていられないなら、それもそれでいい。

いずれにしろ、「私は在る」んだし、それは「わたし」として、永遠にわたし
の背後で待っているのだから。

「わたし」の側には何の問題もない。

いずれにしろ、存在するのは「わたし」だけなのだから。

ただ、非在のわたしが、もう少し問題の側で彷徨っていたいだけ……。

非在のわたしが、もう少し“自分”は存在するという幻想の中にいたいだけ。

非在のわたしが、もう少し問題を抱えていたいだけ。

いずれにしろ、「私は在る」。

だから、たしかに、通路は保証されている。

でも……。

でも、もしわたしが問題のある側に“自分”を置いていたら? (@_@)

(-_-;)

……そうか、そのときか……、「私は在る」が本当に力を発揮するのは。

でも……、わたしが本気にするまで、「わたし」は永遠に待っている。

大事なことがあるなら、それはそれでいい。

大事なことがないと言うなら、それもそれでいい。

それもこれもすべて、「私は在る」がゆえの夢。

いずれにしろ、「私は在る」。

……。(-_-;)

(@_@)

……。

(*^_^*)

あーあ、エラそうなこと言いたい放題して、面白かった。(^^)/

> 実在は、それにはまったく関わらない。
> だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。

(-||-)

今日は、これくらいで。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【51 苦痛と快楽に無関心でありなさい】(3)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

何が自分を磔(はりつけ)にしているのか……。

そんなことを、ニサルガダッタは語ってくれます。

この磔から自分を解放するには、短気で暴力的な抵抗は、あまりうまくいかな
いみたいですね。

何が自分を磔にしているのかを洞察し、自ら意図して、そこから降りなければ
ならないらしい。

では、【51 苦痛と快楽に無関心でありなさい】の最終3回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

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 質問者 「私は神である」と考えることはできるでしょうか?
 
 マハラジ
 自分自身を観念と同一化してはならない。
 もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であ
 るか知らない」と言うだけだろう。
 もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もな
 い。
 もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。
 忍耐強くそのなかにとどまりなさい。
 ここにおいては忍耐が智慧なのだ。
 失敗を思ってはならない。
 この仕事に失敗はありえないのだ。
 
 質問者 私の思考がそうさせないでしょう。
 
 マハラジ
 放っておきなさい。
 闘ってはいけない。
 それについて何もしないことだ。
 それが何であれ、あるがままにしておきなさい。
 抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。
 ただ無視しなさい。
 見過ごすのだ。
 「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚え
 ていなさい。
 すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。
 体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。
 関心をもたないことが自由をもたらすのだ。
 しがみつかないこと、それだけだ。
 世界は無数の輪(リング)でできている。
 それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
 あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 あなたの耽溺を放棄しなさい。
 ほかに何も放棄するものはない。
 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
 そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
 努力せずに在りなさい。
 
 質問者 人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。
 
 マハラジ
 する必要があることはしなさい。
 抵抗してはならない。
 あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬
 間から瞬間へと活動的でなければならない。
 成長することに反抗する子供のようであってはならない。
 型にはまった身振りや態度は助けにならないだろう。
 完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにし
 なさい。
 あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。
 超えていきなさい。
 そしてすべてを置き去りにしなさい。
 
 質問者 しかし、永遠に残されるような何かがありうるのでしょうか?
 
 マハラジ
 あなたは二十四時間休みなしのエクスタシーのような何かが欲しいのだ。
 エクスタシーは来ては去っていく。
 人間の脳は、必然的に長期の緊張に耐えられないからだ。
 長引くエクスタシーは、非常に純粋で微妙なものでないかぎり、脳を焼き切
 ってしまうだろう。
 自然のなかでは何ひとつ停止しているものはない。
 あらゆるものが脈打ち、現れては消えていく。
 心臓、呼吸、消化。
 睡眠と目覚め――誕生、そして死、すべては波のように来ては去っていく。
 循環反復運動、周期性、両極の調和のとれた交替が法則なのだ。
 生命のパターンに対抗しても無益なだけだ。
 
 もしあなたが不変なるものを求めるならば、体験を超えていきなさい。
 私が「私は在る」をつねに覚えていなさいと言うとき、それは「繰り返しそ
 れに戻ってきなさい」という意味なのだ。
 いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。
 ただ、沈黙だけが自然な状態だ。
 沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。
 マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈
 黙へと立ち返る。
 あるいはむしろ、沈黙の背景に反してすべての体験が起こるのだ。
 
 さあ、あなたがここで学んだことが種子となる。
 表面上は、あなたは忘れてしまうかもしれない。
 しかし、それは生き、芽吹きの季節は訪れ、生長し、花を咲かせ、実を結ぶ
 だろう。
 すべてはひとりでに起こるだろう。
 あなたは何もしなくてもいいのだ。
 ただ、それを妨げてはならない。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p259-261)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-_-)

……。

(=_=)

……、ああ、嬉しいなぁ。

質問者は、今回の部分の前のところで、

> あなたが愛しているのはあなた自身であり、すべてである生命なのだ。
> それをその全体性において認識しなさい。

とニサルガダッタに激励されたんでしたね。

それで、出てきたのが次の質問です。

> 質問者 「私は神である」と考えることはできるでしょうか?

なんとなく、ニサルガダッタの応答が推測できるような。^^;

> マハラジ
> 自分自身を観念と同一化してはならない。

うん。

どこか別のところで、「実在」というのは観念ではない、という意味のことを
言っていましたね。

> もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であ
> るか知らない」と言うだけだろう。

そういうわけだ。

> もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もな
> い。

まったく。^^;;

> もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。

うん。

これは、われわれの分相応で、けっして、背伸びした話でも、飛び跳ねた話で
もないですよね。

だって、「私は在る」もん。

「私は存在しない」とは言えないもん。

> 忍耐強くそのなかにとどまりなさい。

そうか、しつこく迫ってやろっと。

> ここにおいては忍耐が智慧なのだ。

うーん。

わかった。

> 失敗を思ってはならない。

うん。

> この仕事に失敗はありえないのだ。

おー。\(^O^)/

> 質問者 私の思考がそうさせないでしょう。

あら、気弱。

> マハラジ
> 放っておきなさい。

ふふん。

> 闘ってはいけない。

う。

> それについて何もしないことだ。

わった。

> それが何であれ、あるがままにしておきなさい。

そうする。

> 抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。
> ただ無視しなさい。

はい。

> 見過ごすのだ。

う。

> 「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚え
> ていなさい。

やったね。(^_^)v

> すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。

うん。

……まだ、そこまでは思い出せないけど、ま、固いこと言いっこなし。^^;

> 体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。

とことん、利用してやるぞ。

> 関心をもたないことが自由をもたらすのだ。

やっぱり。

そして、じっさいは、この「関心をもたないこと」に手間暇がかかるんだ。

だって、「関心をもたない」ためには、理解が先行していなければならないん
だから。

> しがみつかないこと、それだけだ。

うん。

> 世界は無数の輪(リング)でできている。

う? (@_@)O

> それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
> あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
> そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。

おー! (*_*)

これ↑、イメージあるなぁ。

すばらしい!!

われわれは、自分で自分を磔にするんだ。

自分の鉤(フック)をまっすぐにさえしたら……。

> あなたの耽溺を放棄しなさい。

はい。

> ほかに何も放棄するものはない。

(;_;)

> 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。

言うてくれるなオッカサン。

え、アッチノホウニイッタニカアラン。:-O

オラ、シーラン、ぺ。

ええ、本日は晴天なり、本日は晴天なり……、あれ、マイクがおかしいな。

> そうすれば自由の世界はあなたのものだ。

自由は、もうちょっと待つ、うん。(-_-;)

> 努力せずに在りなさい。

オッケー、スコシズツ、ダイジョブアルネ。

> 質問者 人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。
> 
> マハラジ
> する必要があることはしなさい。

おー。

オガアジャン、コノシト、ヤサシイ。

> 抵抗してはならない。

わった。

> あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬
> 間から瞬間へと活動的でなければならない。

そうか。(-_-;)

……、まあ、しゃーないか。

> 成長することに反抗する子供のようであってはならない。

なるほど。

シャクだけど、この際、聞き流しておこう……。

> 型にはまった身振りや態度は助けにならないだろう。

なるほど。

> 完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにし
> なさい。

はーるばる来たぜ、函館ぇ♪

それーができるくらいならぁ♪

> あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。

(;_;)

> 超えていきなさい。
> そしてすべてを置き去りにしなさい。

わった。

> 質問者 しかし、永遠に残されるような何かがありうるのでしょうか?
> 
> マハラジ
> あなたは二十四時間休みなしのエクスタシーのような何かが欲しいのだ。

あ、この応答は、質問者の状況に応対しているんでしょうね。

> エクスタシーは来ては去っていく。
> 人間の脳は、必然的に長期の緊張に耐えられないからだ。
> 長引くエクスタシーは、非常に純粋で微妙なものでないかぎり、脳を焼き切
> ってしまうだろう。

はい。

> 自然のなかでは何ひとつ停止しているものはない。

はい。

> あらゆるものが脈打ち、現れては消えていく。
> 心臓、呼吸、消化。
> 睡眠と目覚め――誕生、そして死、すべては波のように来ては去っていく。
> 循環反復運動、周期性、両極の調和のとれた交替が法則なのだ。

はい。

「両極の調和のとれた交替」は法則なんですね。

> 生命のパターンに対抗しても無益なだけだ。

わかりました。

> もしあなたが不変なるものを求めるならば、体験を超えていきなさい。

はい。体験を超えていきます。

> 私が「私は在る」をつねに覚えていなさいと言うとき、それは「繰り返しそ
> れに戻ってきなさい」という意味なのだ。

はい、繰り返し「私は在る」に戻ります。

> いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。

……そうなのか。

> ただ、沈黙だけが自然な状態だ。

(-_-)

> 沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。

はい、わかります。(-_-;) (←おめ、ほんとか。(^_-) )

> マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈
> 黙へと立ち返る。

ああ……。

> あるいはむしろ、沈黙の背景に反してすべての体験が起こるのだ。

(?_?)

(これは、ちょっと誤訳かも……。

 against the background of silence かな……、
 
 「あるいはむしろ、沈黙の背景に対してすべての体験が起こるのだ」か……
 
 こんなことは、もちろん福間さんはご存知なんだけど、翻訳の最中にはうっ
 かりした誤訳は避けられないんです。)

> さあ、あなたがここで学んだことが種子となる。

(^^)/

> 表面上は、あなたは忘れてしまうかもしれない。

(-_-)

> しかし、それは生き、芽吹きの季節は訪れ、生長し、花を咲かせ、実を結ぶ
> だろう。

ウレジイ。(;_;)

> すべてはひとりでに起こるだろう。

う。

> あなたは何もしなくてもいいのだ。

(-_-)

> ただ、それを妨げてはならない。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

よろしければ、気が向いたときにお付き合いください。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:だから、しつこく、「私は在る」を思い出す
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

毎週一回、たっぷり、ニサルガダッタを思い出す。

“自分”がどんなにマインドに自己同化していても、それはとてもいいリズム
を作ってくれるようです。

期待しないで、誠実に、しつこく、「私は在る」を思い出す。

森羅万象、すべては「私が在る」がゆえに在る。

そして「私は存在しない」状態を、わたしは心配する必要はない。

たとえ、そんな状態があったところで、そんなものをわたしが知ることはでき
ないし、そんなものがわたしに触れることもありえないから。

すると、すべては「私が在る」がゆえに在ることは、この上もなく確か。

「世界」は、「宇宙」は、わたし在るがゆえに在る。

わたしは、ただその「世界」を、その「宇宙」を作って、そこで迷子になって
いるだけ……。

恐るべきは、わたしの想像力、たしの創造力だけ……。

だから、わたしは、しつこく、「私は在る」を思い出す。

ああ、今日も書いた。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m)
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