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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.182 2007/09/30(第182号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在974名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.知られるものの魔法を破るには

2.写経ニサルガダッタ:【31 注意を過小評価してはならない】の2

3.ネットワークビジネス・ミニ講座:【「経済身体」の上下の歪み】

4.編集後記:まだ、そんなことに興味があるかなぁ……。
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■ 1.知られるものの魔法を破るには
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十月に入ったとたん、昨日までとは打って変わった寒さのなかを雨霧がゆっく
りと左に流れていきます。

久しぶりの寒さもいいものです。

好きですね、こういう落ち着いた懐かしいような感じ。

……小学生のころ、日曜日ごとに弁当を持って野外に絵を描きに出かけていた
ことを思い出しました。

どんな風景にも固有の情緒があるんですよね。

当たり前ですけど。

描いているのはその固有の情緒なんです。

そういうふうに言葉にして自覚していたわけではありませんが、そんなことは
言うまでもない自明のことでした。

だから、日曜日ごとに新しい情緒を求めて歩きまわるわけです。

作為というのはまったくありません。

どうやってその情緒を写し取ることができるかだけです。

風景写真家がどんな思いでカメラを構えるのかは知りませんが、たぶん、似た
ような思いで朝からときには日暮れ時まで、ある風景に向き合っていました。

懐かしいという言葉の意味を創っていたのかもしれません。

生きる意味も、生きる目的も必要なかったあのころが、記憶するかぎりのもっ
とも美しいときでした……。

でも……、生きているうちにいろんな汚れを身につけますよね。

だから、むろん、中原中也の「汚れちまった悲しみに」という言葉の意味はわ
かります。

死ねないから生きているだけなのに……、生きる目的に汚れて、成功に汚れて、
どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ……、なんて思ってましたが、やっと展望が
開けてきました……。

すべては彩り、すべては汚れ……、そしてすべての現れは非在……。

すべてはわたし在るがゆえに在る。

ずいぶん、単純な風景が開けてきたものです。

……。^^;

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

……この頃、ちょっとわからないことがあるんです。

それは自分が誰かってことです。

もちろん、自分としては、この肉体として現象し、いまたまたま pari と名乗
っている人間だという前提で考えてはいます。

とは言え、この名前をもつ肉体に自己同化したところに、求める平安(幸せ)
はありえないという一般的理解ももっています。

なんとかその自己同化を外せないかと、藻掻いてもいるわけです。

で、この肉体として物理次元に現象し、知覚の対象となった存在は、知覚する
当体ではありえないという論理的「理屈」自体は、とおの昔に納得しているわ
けです。

そしてニサルガダッタにも、彼(?)の「実際の体験」がわれわれのものと、
「何も違わない」ということを教わっていて、それも納得しています。

----------------------------------------------------------------------
 私の実際の体験は何も違わない。
 違いは私の評価と態度にある。
 私もあなたと同じ世界を見ている。
 だが、同じように見てはいない。
 何も神秘的なことはないのだ。
 誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
 あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
 ようにあるのだ。
 もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
 離して現れる。
 そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
 私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
 だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。
 
              『I AM THAT 私は在る』(p140-141)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

ここではご丁寧に、

> 何も神秘的なことはないのだ。

とまで、念を押してくれています……。

うーん。(-_-;)

そうすると、ちょっと変なんですよね。

わたしはこの pari という人間への自己同化を懸命に外したいと思っているわ
けです。

そして論理的には、物理現象として顕現している物質自体が自分ではありえな
いという理屈に同意しているわけです。

少なくともわたしというものを、“動く人体”と同定はできない、と思ってい
ます。

最近では、夜間にエレベーターへの乗降能力を駆使してビル掃除をする自動ロ
ボットが実現しているそうです。

でも、誰もその“掃除ロボット”に給料を払おうとは発想しません。

“掃除ロボット”は、たしかに動いて仕事はするけれども、われわれがもつよ
うな意識を持っていないことを知っているからです。

給料を払わなくても“掃除ロボット”は文句を言わないと、知っています。

ただ、ロボットに働いてもらうために、電気や油や、なにか“餌”に似たもの
を供給してやらなければならないだけだ、と。

だから、わたしと“掃除ロボット”には違いがあります。

通常われわれは、その違いの部分を「意識」と呼んでいるわけです。

この動く肉体が自分なわけではなくて、痛みや快楽や、幸福や不幸を感じるそ
の「意識」が自分なのだと。

そして、いわゆる精神世界情報では、じつは、そのコンテンツとしての意識内
容さえ自分ではない、と教えるでしょう。

それは大空に浮かぶ雲のようなもの、わたしをよぎるさざ波としての思考にす
ぎない……なんて話は、たぶんこのメルマガを読んでくださっている方なら、
たいてい、いちどくらいは耳にしたことがあると思います。

そこに一連の思考過程はあっても、別に「あなた」という個人が独立して存在
するわけではないのだ、と。

そこに存在が確認されるのは、ある一塊りの連想野の鍵盤が叩かれて起こった
一連の連続音の反響のようなもので、それは単なるプロセスにすぎない。

そこに「わたし」というような独立した実体はいないのだ、と言ったような話
です。

とはいえ、そんな坊主の説教みたいなことを言われたって、現に「わたし」と
いう感覚があるじゃないか、というのがわれわれの言い分です。

すると、たぶん聞こえてくるのは、その“一連の連続音の反響”が「わたし」
を出現させるわけではなくて、すでに存在している「わたし」がその“一連の
連続音の反響”に自己同化するのだ、ということだろうと思います。

“一連の連続音の反響”が記憶を通じてひとつの調べとなるように、すでに存
在する「わたし」が、一塊りの連想野に起こる連続した思考プロセスに興味を
もったとき、そこに自己同化が発生して、それを自分だと思うのだ、と。

まあ、理屈っぽく聞こえるかもしれませんが、このあたりまでは、通い慣れた
道とも言えます。

だから、掃除ロボットとわれわれ人間は違うわけです。(-_-;)
      (↑そんなこと、お前に言われんでもわかってるって。(^_-) )

掃除ロボットのまわりには意識の自動発生もなければ、したがって、掃除ロボ
ットの行動に自己同化する者もいない。

しかし、一定程度以上の有機物の集合が存在するところには、意識が自動発生
するらしいですね。

足立育朗さんによれば、プレアデス語で「エクサピーコ」というらしいです。
『波動の法則――宇宙からのメッセージ――』
https://www.ascensionkan.com/books/adachi-1.html

そうするとその意識波動(コンテンツとしての意識)に「わたし」が興味を持
って、この物理次元にわたしが発生する、というわけです。

以前わたしは、そのコンテンツとしての意識内容を可能にする可能根拠の意味
で<意識>という言葉(というか書き方)を使っていました。

そして、その<意識>こそが自分なんだという立場で書いたのが、
『21世紀へ指導原理 OSHO』(1994年、牡神社刊)でした。
https://www.ascensionkan.com/work/

それはそれで間違っているというわけでもなくて、宇宙の一隅にあるひとつの
哲学的風景だと思います。

それは『神の使者』のアーテン(イエスの弟子タダイ)ふうに総括するなら、
<意識>という一元論への萌芽を内包した、「意識」と「物質」、「見る者」
と「見られるもの」の二元論的風景でした。

その後、ナンダンから本を譲り受けて、ニサルガダッタに出会うわけです。

これは言うまでもなく、完全な【「実在」一元論】です。

ニサルガダッタから、「意識」と「物質」、「見る者」と「見られるもの」と
いうのは、同じもの(「應無所住而生其心」=マインド)の両端なんだ、とい
うことを教わりました。

知る者と知られるものが同じだ、というクリシュナムルティや和尚の言葉は聞
いたことがありました。

でも、それは何か神秘体験のような響きで聞こえたものですから、具体的な意
味の包含がわからなかったのです。

わたしのようなタイプのマインドには、「意識」と「物質」はマインドの両端
なんだ、と言ってもらった方がずっとわかりやすくて。

ああ、それならわかる、という気がしました。

言葉の上だけでわかったような気がしちゃうのも、ちょっと善し悪しですけど。

……ま、それはそれとして、とにかく現象世界に対応する“目安”というか、
基本スタンスが決まるわけです。

変転きわまりない現象世界のなかに自分はいない、そうではなくて、現象世界
全体がわたしに対して起こっているのだ、という話はとても納得のいくもので
した。

わたしこそが世界の存在を可能にしている実在なのだ、というお話です。

----------------------------------------------------------------------
 世界とはマインドの表面だ。
 そしてマインドは無限なのだ。
 私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
 マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
 マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
 のだ。
                          『私は在る』(p503)
----------------------------------------------------------------------

……とまあ、こういうことを言葉として聞いたわけです。

うん。(-_-;)

それで、(ここまでおさらいして)最初に戻るわけですが、……ちょっとわか
らないことが出てきたんですよね。

最初にも言ったように、自分が誰か、あるいは誰としてふるまうか……です。

むろん、いまの自分は日常的には、習慣でこの肉体に自己同化した「エゴ」と
してふるまっているわけですし、それ以外のスタンスというのもおかしなもの
なんですが……。

ただですねぇ、実力はそうだとして、意識的に選択する態度をどこまで、いつ
まで「エゴ」として通すのか……なんですよねぇ。

こういうのも、ちょっとおかしいんですけどね。

言っていること伝わります? (*^_^*)

そりゃ、もちろん、ここでマインドでも止まってくれたら言うことないんでし
ょうけど、急にそんな無理なことを言っても仕方ないし。

じゃ、それまでは、みっちり「エゴ」を演じなければならないってのも、なん
かこう、しっくりこなくて……。

だって、ニサルガ師匠も、

> 誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。

って言ってるわけでしょ。

観念としてなら、

> 世界とはマインドの表面だ。

とか、

> 私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。

とか、それから

> マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
> マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
> のだ。

……と、そういうことは(観念として)了解可能です。

むしろ、そうであってほしいと思う。

しかも、

> あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
> ようにあるのだ。

と、いうわけですよ。

で、次はちょっと厳しいですが、

> もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
> 離して現れる。

というわけです。そしたら……

> そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。

と。(>_<)

「欲望と恐れ」の体験なら、飽きるほど経験ずみなわけです……。

それに比べてニサルガダッタの位置は、

> 私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
> だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。

というわけです。

どうもこっちの方がよさそうに見える。

でももちろん、それが自分の実力ではないから、常時そんなことを憶えていら
れるわけじゃないのは、わかりきっています。

……。(-_-)

しかし……、とは言っても、じゃ、身の程をわきまえ、謙虚にふるまって、し
っかり世界を実在と見なす「エゴ」をこそ自分が演ずべき態度と考えるべきな
のか……。(-_-;)

やっぱり、それは変だよなぁ、と思うんですよ。

事実、ニサルガダッタも、

----------------------------------------------------------------------
 外側の世界だけが実在だと信じているかぎり、あなたはその奴隷なのだ。
 
                       『私は在る』(p441-442)
----------------------------------------------------------------------

と言ってるわけでしょ。

何も自ら好んで、奴隷の役回りを選択する必要もないような気がするんですよ
ねぇ。

しかも、ニサルガダッタの提案は、

----------------------------------------------------------------------
 それから自由となるには、あなたの注意が観照者である「私は在る」に引き
 つけられなければならない。
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

というわけです。

だったら、無意識のときは仕方ないけれど、気がついたときくらいは観照者の
ふりをしてもいいんじゃないか、って……そうも思うんですよね。

----------------------------------------------------------------------
 もちろん、知る者と知られるものは二つではなくひとつだ。
 だが、知られるものの魔法を破るには、知る者が最前面にもたらされなけれ
 ばならない。
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

って、ニサルガダッタも言っているわけですから……。

> 知られるものの魔法を破るには、

やっぱり「魔法を破る」必要があるわけですよね……、重い言葉です。(-_-;)

それにはまず、

> 知る者が最前面にもたらされなければならない。

うーむ。(-_-)

そして、「知る者」も「知られるもの」も、

----------------------------------------------------------------------
 どちらも主要なものではなく、どちらも言い表すことのできない、つねに新
 しく、つねに今にあり、言葉に置き換えようのない、マインドよりもすばや
 い体験の記憶の反映……
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

なんだそうですけど。

ニサルガダッタからこの回答を引き出した質問者はとっても気弱な、自虐的な
人です。(少なくとも言葉面は。(^_-) )

いろいろ泣き言を並べて、こんな自分にも「希望はあるのでしょうか? それ
とも遅すぎるのでしょうか?」と訊くわけです。

すると、ニサルガダッタは彼にこう答えます。

----------------------------------------------------------------------
 あなたには何の間違いもない。
 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。
 欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなた
 の身体に築かれた個人なのだ。
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

と。

考えてみてください、

> 欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなた
> の身体に築かれた個人なのだ。

というわけです。

これ……、わたしもそうだと思うんですよ。

そしたら、ニサルガダッタにこう保証されて、しかも自分でもそう思うのに、
なおかつ、いや、欲望をもち、恐れ、苦しんでいるのがわたしなんです、と言
う必要があるんだろうか、と、ちょっと思っちゃったんですよね。^^;

意味、通じてます? (^^;)

ニサルガダッタは駄目押ししています。

----------------------------------------------------------------------
 あなたは個人ではない。
 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっして見失って
 はならないものだ。
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

と。

これは、

----------------------------------------------------------------------
 通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必要なのだ。
                         『私は在る』(p442)
----------------------------------------------------------------------

……ということなんだそうですけど、われわれはこのことをニサルガダッタの
言葉としてすでに知ったわけです。

だったら、思い出した瞬間くらい、わたしは個人ではない、って思ってもいい
んじゃないかなって……。

責任とか、誠実さとか、謙虚さとか、そういういろんな世間的価値というか、
人間的価値というか、そういうものを伝える言葉がありますよね。

「責任」ってなんなのか、「誠実さ」ってなんなのか、「謙虚さ」ってなんな
のか、ちょっとわからなくなるとことろがあります。

外側の世界の奴隷になりたいとは思わないけれど、かといって、ただいま現在、
世界(=世間)のなかで生存している(=と思っている)のも否定できかねる
わけですから。

これでも、以前はもっとずっと威勢良く否定してきたんですけどね。

だいぶ、身の程を知らされて、ちょっと反省したりしたものだから。^^;;

ニサルガダッタは、全身全霊で抵抗しなさい、って言うのかもしれないけど、
急に「屋根が落ちて」きても困るしね。(^_-)

……で、自分は誰だと言うべきなのか、よくわからなくなって。

やっぱり、単なる習慣とは言え、一年以上も続けて同じような言葉を読み続け
ていると、何が何だか、何をどう考えるべきなのか、よくわからなくなるとこ
ろがありますね。

わたしはこういうお喋りの流れを見ている……、なんて言いたくなる瞬間もで
てくるかもしれません。^^;

……。(-_-)

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.写経ニサルガダッタ:【31 注意を過小評価してはならない】の2
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

上がったり下がったり、前に進んだり後退したりしながら、じょじょにじょじ
ょに、心配能力が減衰していくようでもあります。

もしかして、それが「注意を過小評価してはならない」ってことなのかもしれ
ません。(^_-)

ニサルガ師匠も、

> 即座の結果を求めてはならない。

と言っていますしね。

いずれにしろ、起こるものは起こるわけでしょうし、何が起こったところで、
「わたし」が変わることはないわけですから安心です。

非在の現象と思いの世界のなかで変化があり、虚構の心配が減少していくだけ
なんだろうと思います。

では、【31 注意を過小評価してはならない】の2回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

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 質問者 実在とは何でしょうか? 主観的なものでしょうか、それとも客観
     的なものでしょうか? 私には客観的宇宙が実在であり、私の主観
     的精神は絶えず変化し、はかないものだと考える傾向があります。
     あなたは内なる主観的状態を実在と主張し、外的な具体的世界の実
     在を否定しているようです。
 
 マハラジ
 主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。
 それらには何の実在性もない。
 無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。
 それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。
 
 質問者 この不変の要因とは何でしょうか?
 
 マハラジ
 あなたがそれを見る能力をもつまでは、私がそれにさまざまな名前を与えた
 り、いろいろな方法で指し示したりしたところで、助けにはならないだろう。
 視界のかすんだ人は、あなたがいかに彼に見るように促しても樹の枝の上に
 いるオウムを見ないだろう。
 よくても、あなたの示す指を見るくらいだろう。
 まずあなたの視界を清めることだ。
 じっと見つめることよりも、どう見るかを学びなさい。
 そうすればあなたはオウムを見るだろう。
 見ようとする熱望も必要だ。
 自己知識には明晰(めいせき)性と真剣さの両方が必要なのだ。
 あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠
 実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。
 ヨーガには妥協といったものは存在しない。
 もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
 さい。
 誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
 (いまし)めとなる。
 その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。
 妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。
 なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
 だ。
 
 質問者 私は禁欲生活の価値を認めます。しかし実際には、私はぜいたくば
     かりしています。快楽を追い、苦痛を避けることは、私のなかにと
     ても深く染み込んでいて、理論上はとても生き生きとした私の高い
     目的意識も、日々の生活に根を下ろしていないのです。私のことを
     正直ではないと言ったところで助けにはなりません。なぜなら、私
     はただどうやって正直になればいいのかわからないからです。
 
 マハラジ
 あなたは正直でも、不正直でもない。
 精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことくら
 いしか役に立たないからだ。
 問題はあなたのものではない。
 それはただあなたのマインドの問題なのだ。
 あなたをあなたのマインドから分離することからはじめなさい。
 あなたはマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こす
 ように堅く決心しなさい。
 
 質問者 私は「私はマインドではない。私はその問題に関わらない」と自分
     にくり返し言いつづけるかもしれません。しかし、マインドもその
     問題もそのまま残るでしょう。だからといって、それは私が充分真
     剣ではないからだ、もっと真剣になりなさいとは、どうか言わない
     でください。私は知っていますし、認めもします。ただどうか教え
     てください。どうすればいいのでしょうか?
 
 マハラジ
 少なくともあなたは尋ねている。
 はじめるには充分だ。
 熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。
 あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。
 即座の結果を求めてはならない。
 あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。
 知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋
 さが見られるようになるだろう。
 それらを目的とする必要はない。
 あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。
 なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結
 果だからだ。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p142-143)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

ふーん。

何かこう、集中的に攻めてくる感じですね。(-_-)

> 質問者 実在とは何でしょうか? 主観的なものでしょうか、それとも客観
>     的なものでしょうか? 私には客観的宇宙が実在であり、私の主観
>     的精神は絶えず変化し、はかないものだと考える傾向があります。
>     あなたは内なる主観的状態を実在と主張し、外的な具体的世界の実
>     在を否定しているようです。

うん。

> マハラジ
> 主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。

ああそうか。

「見る者」も「見られるもの」も、ともに変化し、はかないものなのか。

> それらには何の実在性もない。

「見る者」も「見られるもの」も、たんにマインドの両端を指すにすぎず、そ
れらには何の実在性もない、と。

> 無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。

無常なるものが何を背景にし、何を根拠にして存在しているか見いだしなさい。

> それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。

あらゆる知覚可能な体験の背景として、永遠に不変の要因が存在している、と。

> 質問者 この不変の要因とは何でしょうか?
> 
> マハラジ
> あなたがそれを見る能力をもつまでは、私がそれにさまざまな名前を与えた
> り、いろいろな方法で指し示したりしたところで、助けにはならないだろう。

これは、質問者に対応して全体の叡智から響きだした回答かな。

> 視界のかすんだ人は、あなたがいかに彼に見るように促しても樹の枝の上に
> いるオウムを見ないだろう。

これは、じつに意外性とリアリティに富んだ回答だなぁ。

> よくても、あなたの示す指を見るくらいだろう。
> まずあなたの視界を清めることだ。

はい。

> じっと見つめることよりも、どう見るかを学びなさい。

これは、どういうことが言いたいのか……。

> そうすればあなたはオウムを見るだろう。

はい。

> 見ようとする熱望も必要だ。

どういう熱望について言っているのか……。

> 自己知識には明晰(めいせき)性と真剣さの両方が必要なのだ。

素直で明晰なマインドの論理性と、沈黙に向かう真剣さ、の意味かな。

> あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠
> 実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。

おお……。

すばらしい言葉……。

なるほど……。

> ヨーガには妥協といったものは存在しない。

そうか。

妥協そのものが、無意味な“ぶちこわし”なんだ。(-_-;)

> もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
> さい。

そんな。(-_-;)

> 誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
> (いまし)めとなる。

そうなのか。

> その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。

(>_<)

……通常は、あらゆる人間の状態だよなぁ。

> 妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。

そうか。

> なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
> だ。

妥協というのは「真剣さの欠如」を表しているのか……。

なるほど……、そういう言葉の使い方なのか。

> 質問者 私は禁欲生活の価値を認めます。しかし実際には、私はぜいたくば
>     かりしています。快楽を追い、苦痛を避けることは、私のなかにと
>     ても深く染み込んでいて、理論上はとても生き生きとした私の高い
>     目的意識も、日々の生活に根を下ろしていないのです。私のことを
>     正直ではないと言ったところで助けにはなりません。なぜなら、私
>     はただどうやって正直になればいいのかわからないからです。

この人……、とっても正直な言い方とも言えるけど。

> マハラジ
> あなたは正直でも、不正直でもない。

おお、またこの言い方だ。

> 精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことくら
> いしか役に立たないからだ。

なるほど。

「精神状態に名前を与えること」は、「容認または否認を表す」ことくらいし
か役に立たないのか。

自分の精神状態に名前を付けてみても、それはたんにその状態を肯定している
か否定しているかをひとに宣伝するくらいの意味しかない、ということかな。

> 問題はあなたのものではない。
> それはただあなたのマインドの問題なのだ。

これこれ……。

あなたは、あなたのマインドではないのだ、と。

> あなたをあなたのマインドから分離することからはじめなさい。

それ……します。(;_;) (←泣くなって、バカだなぁ。)

> あなたはマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こす
> ように堅く決心しなさい。

問題があっても、それは「わたし」の問題じゃなくて、たんにわたしのマイン
ドの問題なんですよね。

カンチン、カンチン。(^^)/

> 質問者 私は「私はマインドではない。私はその問題に関わらない」と自分
>     にくり返し言いつづけるかもしれません。しかし、マインドもその
>     問題もそのまま残るでしょう。だからといって、それは私が充分真
>     剣ではないからだ、もっと真剣になりなさいとは、どうか言わない
>     でください。私は知っていますし、認めもします。ただどうか教え
>     てください。どうすればいいのでしょうか?

よくぞ言った。

でも、たとえ「マインドもその問題もそのまま残」ったとしても、そのマイン
ドもその問題も、じつは、「わたし」じゃないんだよね。

ただ、「わたし」が自己同化した「個人」が、そのマインドとその問題を自分
のものだと主張したがっているだけで……。

> マハラジ
> 少なくともあなたは尋ねている。
> はじめるには充分だ。

はい。

> 熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。

わかりました。

> あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。

やってみます。

> 即座の結果を求めてはならない。

はい。

> あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。

(;_;)

> 知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋
> さが見られるようになるだろう。

(-||-)

> それらを目的とする必要はない。

おお……。

> あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。

わかった。

> なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結
> 果だからだ。

ああ……、そうなのか。(-_-;)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/


        …………○…………○…………○…………



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■ 3.ネットワークビジネス・ミニ講座:【「経済身体」の上下の歪み】
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ここで急にトーンが変わって……、

「誰が仕事をしているのか?」の時間です。(*^_^*)

これから時代がどういうふうに展開していくにせよ、まだまだこの肉体で生き
る必要がありますよね。

(もうその必要を卒業しているという方は、こんなメルマガを読んだりなさっ
 てもいないでしょうし。(^_-) )

なので、ネットワークビジネスの時代的必然性ということから、触れていきた
いと思っています。

面白くなればいいんですけど……。^^;

ずっと以前に「経済身体論」というのを書いたことがあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol033.html#2

それは要するに、
(1)「地球」という“生態系”と
(2)「人体」という“有機体”の間に、両者を媒介する中間構造体として
(3)「経済」という“人為的構造体”が挟まっているという話でした。

そして、両端の「地球」と「人体」が真の有機体であるのに対して、「経済」
だけは人間の「頭」が構想した“部分最適化構造”だ、というわけです。

そのため、その「経済」の有機構造としての未熟さの“つけ”が、回り回って
両端の「地球」と「人体」を疲弊させているのが「環境問題」なのだと。

じゃ、「経済」という構造体を有機体として見たとき、どこが未熟で不自然な
のか、ということを考えたのが「経済身体論」です。

それは動物圏も植物圏もすべて「人体」に代表させた、ものすごくナイーブで
大雑把な議論ですが、それだけに、とても直感的で見晴らしがいいので、まあ
わかりやすいです。(*^_^*)

じゃ、「地球」と「人体」という両端の有機体を媒介する人間の「経済」行動
を、「経済身体」という有機体として考えたとき、何が不自然で、どこが未熟
なのかというと……。

それを有機体としてみたとき、「経済身体」には、
1.【「経済身体」の上下の歪み】
2.【「経済身体」の左右の分離】
という二つの歪みがある、というのが論点でした。

「経済身体」の細胞は「人間」であり、中を流れる血液は「オカネ」です。

つまり「経済身体」のなかで起こるあらゆる活動(生産・流通・消費)に付帯
して「オカネ」が流れ、「経済身体」内の全細胞に酸素を供給する、というイ
メージです。

「経済身体」が“まっとうな”有機体なら、「経済身体」内のどこかの細胞に
酸素が届かなくてその細胞が死滅したら、それを放置することは有機体全体に
とって致命的ですから、そのままにして置くことはありえません。

また身体内のどれかの細胞が、不要な細胞だということもありえません。

したがって、「経済身体」内の全細胞の全活動が必要であり、全身の全細胞に
血液を流して酸素を供給する、というのが有機体としての本来の姿です。

その観点からすると、「経済身体」の循環系である金融ネットワークには、
1.上下の歪み:「オカネ」の上昇志向DNA
2.左右の分離:生産と消費の分離
という二つの歪みがある、というわけです。

「オカネ」の上昇志向DNAとは、全身の細胞に血液を供給する動脈パイプと
全身から血液を回収する静脈のパイプの太さに差がある、ということです。

むろん、回収パイプ(静脈)の方が、利息の分だけ太くなっているわけです。

したがって、心臓(実体経済の金融中枢=中央銀行)から送り出す血液より、
つねに利息の分だけ余分の「オカネ」が回収されることになります。

その余分な「オカネ」は、「経済身体」の心臓から、頸部という隘路を通り抜
けて上へと送り込まれて、頭部に蓄積されることになります。

一方、全身の細胞の方では、提供した経済活動に見合う「オカネ」が供給され
ないため、つねに一種の“酸欠傾向”を呈することになります。

全身の細胞は、つねにその分のエネルギーを環境から補給せざるをえない。

「経済身体」全体として見れば、活動が「経済身体」内で円満に自己完結して
いないわけで、その在り方がつねに地球生態系への搾取圧力(=環境負荷)と
なってしまうということです。

「経済身体」と「地球生態系」の間では、そういう永続不能の搾取関係が発生
しますが、いっぽう「経済身体」内部にも固有の違和が発生します。

それは、「経済身体」の頭部に蓄積した「オカネ」による脳充血状態です。

これが「マネー経済」という最終的にはコントロール不能になる「経済身体」
内の異物(=ガン細胞)です。

そして、この【「経済身体」の上下の歪み】を最終段階で極大化する役割を
担うのが、二番目に挙げた【「経済身体」の左右の分離】です。

なかなか、本筋の「ネットワークビジネス」までたどりつけませんが、まあ
ゆっくり行きましょう。(*^_^*)

今日も時間切れなので、ここまでにして置きます。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

m(_ _)m


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■ 4.編集後記:まだ、そんなことに興味があるかなぁ……。
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今日は十月一日(土曜日)です。

昨日まではっきり聞こえていた蝉の声が、寒い今日は聞こえませんね。

九月いっぱいは鳴いているんですね。

まだまだ、わかりませんけどね。

作家の宇野千代さんは、晩年、「私この頃、もう死なないような気がするの」
とおっしゃったそうですね。(^^;)

じつに、面白い言い方です。

それにあやかって、「わたしこの頃、もう不幸にはならないような気がする」
ぐらいは言ってみようかなぁ。^^;

「もう死なないような気がする」に比べたら、ずいぶん控え目だと思うけど。

それともまだまだ不幸になるつもりかしら……、このわたし。(^_-)

まだ、そんなことに興味があるかなぁ……。

いや、今日もけっこう遅くなりました。

それでは、おやすみなさい。


<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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