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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.258 2009/3/15(第258号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 986名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.わたしは人間ではない

2.写経ニサルガダッタ:【42 実在とは表現不可能なもの】の1回目

3.編集後記:ただ怠惰になっていくばかりで……。
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■ 1.わたしは人間ではない
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そぼ降る雨というのか……、春の雨ですね。

古くからの習慣に押し流されて、マインドはいつの間にかまた、自分が幸福な
のか不幸なのか、これでいいのかどうなのかと、うろうろするようです。

マインドとは、つくづく“藻掻き”のワークホリックですね……。

でも、藻掻いているのは現象している意識の状態にすぎない。

わたしが藻掻いているわけではない。

ただ……わたしは藻掻いている意識の状態に自己同化することはあるんですね。

そして、自分が何なのかを忘れる……。

そのままでいい……、そのままでいい。

幸福も不幸も、わたしの前に現れるだけ。

わたしが、幸福や不幸であるわけではないのだから。

幸福も不幸も、現象世界の何らかの原因によって引き起こされた意識の状態は、
すべて現象のなかの縁起によって創造されたものにすぎない……。

つかの間の“現れ”です。

わたしはすぐに間違って、自分がその幸福や不幸なのだと勘違いする。

でも、わたしはその“意識の状態”を見ているだけ。

わたしがその“意識の状態”であるわけではない。

その“意識の状態”は、単にスクリーン上に描き出された、つかの間の映像と
意味にすぎない。

むろん、そのような“映像と意味”のなかで、幸福を求め、不幸を避ける努力
を追求する……、という“選択”もありえます。

もしも、それが(自覚的な)“選択”ならば……。

しかし……“現れ”は、ただ一瞬“現れている”だけ。

わたしは、それを“掴む”ことはできないんですよね……。

この“映画”は、わたしのために上映されているものですらないらしいから。

いつも聞かされていると、だんだんそんな気もしてきます……。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

山本七平さんに『「空気」の研究』という著作があります。

非常にユニークな優れた“日本人論”でした。

過去形でも何でもなくて、現在の日本もこの本の叙述の中にすっぽりと収まる
でしょうけど……。

言霊のさきわう国……日本。

この国を支配するのは「空気」という、いわば“完全無責任絶対権”であって、
この国では論理はこれに対抗できない……。

とまあ、乱暴にくくれば、そういう論旨だったと思います。

特定の「空気」が支配している“場”では、「論理」はとうていその「空気」
の敵ではなかったのでしょう。

「論理」は“その場”に前提されている「空気」を覆せなかった……。

“理屈を言い募る”ことを美的と感じなかったこの国では、言葉のうえで冷静
で客観的な論理を展開することは、あまり奨励されなかったのでしょう。

だから、この国ではそういう技術はあまり洗練されなかった。

冷静に客観的な事実を比較考量することは、いわば“不純”と感じられたのだ
と思います。

逆に、損得勘定を抜きにした“一途な思い(=感情的な思いこみ)”のほうが、
“純粋”と感じられたのでしょうね。

でも、そうなると、一方的な熱気にはやる「空気」の暴走を止める手段が、こ
の国では存在しなくなってしまう。

(むろんそれは善し悪しの問題ではなく、たんなる“条件づけ”、いわば映画
 を創る場合の“約束事”みたいなものでしょうけど。)

しかし、うまくしたもので、そういう世界にも、「空気」を“ポシャらせる”
それなりのマナーがあったわけです……。

山本七平さんが指摘したのは、「水を差す」という古来の方法です。

----------------------------------------------------------------------
 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだ
 が、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口
 にすることによって、即座に人々を現実に引きもどすことを意味している。
 
                        『「空気」の研究』(p97)
----------------------------------------------------------------------

この国のマナーでは、その場の「空気」を否定するような(真正面の)「論理」
は展開できなかった。

しかし、まったく“理屈”ではない単純な事実に、ポロっと触れることはかろ
うじて許されたわけでしょう。

すると、“一瞬にしてその場の「空気」が崩壊”して、みんなは“正気”にも
どったのだと思います。

ちなみに、山本七平さんの『「空気」の研究』は次の三章からなっています。

----------------------------------------------------------------------
 「空気」の研究
 「水=通常性」の研究
 日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
----------------------------------------------------------------------

つまり、山本七平さんによると、「水」とは「通常性」のことなのです。

熱せられて舞いあがった「空気」を“現実に引きもどす”には、「通常性」で
ある「水」を“差さ”なければならない、というわけでしょうね。

あ……。(@_@)

なんで、こんなことを思い出したのか……? (^^;)

どうやら、たんに「水を差す」という言葉からの連想だったようです。(*^_^*)

……毎週、“「水を差す」ような言葉ばかり書いて、すみません”という感じ
でしょうかねぇ。

わたしは……ニサルガダッタの言葉が好きです。

でも、ニサルガダッタの言葉は、あまりにも“寄り道”のない端的な言葉なの
で……、誤解の余地がないですよね。

“方便”じみた表現は、およそほとんど現れない。

すると、結局、われわれエゴが紡ぐ夢に対する完全な否定だけが語られる……。

まるで、夢も希望もないような話ばかりが続くことになりますよね。

せっかく希望に満ちた世界が展開しそうなのに、そういう夢をすべて破壊して
しまうみたいな。

どこか……、「水を差す」みたいな感じもあるかもしれません。

とはいえ、ニサルガダッタに「水」を差されて、われわれが自分の“現実”に
引きもどされる、というわけじゃありません。

ニサルガダッタの言葉が伝えようとしているのは、まさにわれわれの“現実”
の全否定ですから。

ということは、ニサルガダッタは、われわれの夢を破って、彼の“現実”に引
きもどそうとしているわけでしょうね。

まあ、“彼”(などという人間)がいるとしての表現になりますけど。

“「水を差す」ような言葉ばかり書いて、すみません”という感じには、それ
なりの“妥当性”があるかもしれませんね。(^^;)

結局のところ、われわれエゴの願いは、この現在の身体ぐるみでの安楽・救済
ということだろうと思います。

ところが、覚者の言葉は必ず、それがありえないことを伝えることになる。

それは諦めなさい、と。

あなたはそんな“ちっぽけな”“けちくさい”存在ではないのだ、と。

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 霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
 あきらめることが第一歩なのだ。
 だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
 なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
 深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
 い。
 ただそれを忘れるだけだ。
                          『私は在る』(p381)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

いわれを聞けばありがたや……。(-||-)

まことに……ありがたいような話ではあります。

しかし、ある意味では、“ありがたすぎる”ような話でもあります。(^_-)

いや……、なにもわたしは、そこまで大袈裟なことを望んではいないのです。

この身ひとつの安楽で充分なんですけど…… (*-_-*)、と言いたくもなる。

(^^;)

ところが、こちらは“ランクを下げて”“謙遜”したつもりでも、そうは問屋
が卸さない。

“この身ひとつの安楽”を求めるかぎり、それこそ、どこまで続く泥濘(ぬか
るみ)ぞ……、です。(>_<)

----------------------------------------------------------------------
 私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
 自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
 私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
 ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
 る。
                          『私は在る』(p129)
----------------------------------------------------------------------

そんな……。(/_;)

われわれエゴとしては、なんとかしてこの現象世界のなかでの体験ぐるみで、
“自分”というものを救い出したい。

しかし、その願いは、はてしない混乱を起動するしかないらしい。

なぜなら、わたしが知覚するものはすべてわたしのものではないらしい。

> 本当にあなた自身のものを意識することはない。

アチャ。(>_<)

----------------------------------------------------------------------
 本当にあなた自身のものを意識することはない。
 あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのものでもない。
 
                          『私は在る』(p463)
----------------------------------------------------------------------

そんな……。(/_;)

じゃ、わたしのものは、何だって言うの?

> あなたのものとは知覚の力であり、あなたが知覚しているものではない。

わたしのものとは……知覚の力、わたしが知覚しているものではない……。

うーむ。(-_-;)

> 人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
> だが、あなたは人ではないのだ。

(*_*)

わ、わ、わたしは……、人間ですらないの? (@_@)

----------------------------------------------------------------------
 あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
 だが、映像はあなたではない。
                          『私は在る』(p463)
----------------------------------------------------------------------

わたしのものとは「映画のスクリーン、光、そして見る力」……。

でも、映像はわたしではない……。(;_;)

わたしは、pariというこういう身体をもった人間じゃないのかぁ。(-_-;)

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 個人とは単なる誤解の結果だ。
 実際には、そのようなものはないのだ。
 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
 続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
 マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
 は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
 実際には、個人というものは存在しない。
 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
 
                          『私は在る』(p360)
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“ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけ”……。

(-_-;)

ただわたしが……この身体に自己同一化しているだけなのか。

----------------------------------------------------------------------
 真実への道は虚偽の破壊を通っていくものだ。
 偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなけれ
 ばならない。
 そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。
 身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている
 神が現れる。
 このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類(たぐい)の体系
 がはじまるのだ。
 すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保
 護し、支持するためのものだ。
 あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさ
 い。
 そうすれば恐れは去る。
 すべての苦しみは終わるのだ。
                          『私は在る』(p321)
----------------------------------------------------------------------

(T_T)

自分が“身体であるという確信”が最悪のもの……か。

そこから……“世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている
神が現れる”。

“すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保
 護し、支持するためのもの”……。

わたしは身体ではない。

それどころか、わたしは人間ですらない……。

わたしは「生まれることも、死ぬこともできないもの」……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【42 実在とは表現不可能なもの】の1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

この章で語られていたことも、はじめて読んだころは、まったく響きませんで
した。

こんなスゴイことが語られていたとは、まったく気づかなかったです。

だから、何回目かに読んだ今回も、ある意味でまったく内容に期待していなか
った……。

この、“期待していない”ときに訪れる“不意打ち”というのが素晴らしいん
ですよね。

今回の最初の部分は、ちょっと変わった質問者の問いとの関連で、じゃっかん、
ゆるいテンポで始まります。

では、【42 実在とは表現不可能なもの】の1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 私のなかで、古い自己から独立した新しい自己が出現したことに気
     づきました。それらはともかく共存しています。古い自己はその習
     慣的在り方を続け、新しい自己は古い自己をそのままにさせ、しか
     もそれ自体はそれと同一化しません。
 
 マハラジ
 古い自己と新しい自己の間にある主な違いとは何だろうか?
 
 質問者 古い自己はすべてを定義し、説明したがります。それはものごとが
     言葉の上で互いにつじつまの合うことを求めています。新しい自己
     は記憶されたことがらとの関係性を求めず、ものごとをありのまま
     に受け入れ、言葉上の説明を気にかけません。
 
 マハラジ
 あなたは習慣的なものと霊的なものの違いに、完全に変わることなく気づい
 ているだろうか?
 新しい自己と古い自己の態度はどのようなものだろう?
 
 質問者 新しい自己は古い自己をただ見るだけです。それは親しくもなく、
     敵対もしていません。それはただ古い自己をほかのすべてとともに
     受け入れるだけです。古い自己の存在を否定しませんが、その価値
     と効力は受け入れません。
 
 マハラジ
 新しい自己とは古い自己の完全な否定だ。
 許容された新しさは本当の新しさではない。
 それは古い自己が取った新たな態度にすぎないのだ。
 真に新しい自己は古い自己を完全に抹殺する。
 二つが一緒に在ることはできない。
 そこには自己を露(あら)わにする過程、古い概念や価値の受け入れを変わ
 らず否定しつづける過程があるだろうか?
 あるいはそこには相互の黙認があるだろうか?
 何がそれらの関係だろうか?
 
 質問者 そこに特定の関係はありません。それらは共存しているのです。
 
 マハラジ
 あなたが古い自己と新しい自己を語るとき、誰を思っているのかね?
 二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているとい
 うことだ。
 どうして二つの自己を語ることができようか?
 
 質問者 一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は
     観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。
 
 マハラジ
 なぜ二つの自己なのかね?
 束縛と自由の間には何の関係性もありえない。
 共存という事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。
 ひとつの自己だけが存在する。
 そしてそれはいつも今、在るのだ。
 新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相
 なのだ。
 自己とは単一のものだ。
 あなたがその自己なのだ。
 あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分という観念をもっている。
 しかし、観念は自己ではない。
 たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか?
 新しい自己か?
 
 質問者 二つは衝突しています。
 
 マハラジ
 どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう?
 衝突は古い自己の特質なのだ。
 新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。
 新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。
 新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。
 衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はい
 ない。
 衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだ
 ろうか?
 
 質問者 私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知って
     いた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それら
     を新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。
 
 マハラジ
 古い自己があなた自身なのだ。
 原因なく、自我の汚れもなく、突然出現する状態を、「神」と呼ぶがいい。
 種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在のな
 かに突然栄光に満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがい
 い。
 それはまったく予期できず、しかも必然的なもの、かぎりなく親しく、しか
 ももっとも驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なもの
 だ。
 なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。
 それはひとつの法のみにしたがう。
 自由の法だ。
 何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在
 ではありえない。
 実在に発展というものはない。
 実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないものだ。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p205-206)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

おお……。

(-||-)

> 質問者 私のなかで、古い自己から独立した新しい自己が出現したことに気
>     づきました。それらはともかく共存しています。古い自己はその習
>     慣的在り方を続け、新しい自己は古い自己をそのままにさせ、しか
>     もそれ自体はそれと同一化しません。

なんか……、この方、ある種の状態にいらっしゃるようで……。

> マハラジ
> 古い自己と新しい自己の間にある主な違いとは何だろうか?
> 
> 質問者 古い自己はすべてを定義し、説明したがります。それはものごとが
>     言葉の上で互いにつじつまの合うことを求めています。新しい自己
>     は記憶されたことがらとの関係性を求めず、ものごとをありのまま
>     に受け入れ、言葉上の説明を気にかけません。

へー。

> マハラジ
> あなたは習慣的なものと霊的なものの違いに、完全に変わることなく気づい
> ているだろうか?
> 新しい自己と古い自己の態度はどのようなものだろう?

もう少し、確認作業が続けられるようです。

> 質問者 新しい自己は古い自己をただ見るだけです。それは親しくもなく、
>     敵対もしていません。それはただ古い自己をほかのすべてとともに
>     受け入れるだけです。古い自己の存在を否定しませんが、その価値
>     と効力は受け入れません。
> 
> マハラジ
> 新しい自己とは古い自己の完全な否定だ。
> 許容された新しさは本当の新しさではない。

なるほど。

この質問者が語る「新しい自己」は“許容された新しさ”と判定されたものと
見えます。

> それは古い自己が取った新たな態度にすぎないのだ。

なるほど……。(-_-)

> 真に新しい自己は古い自己を完全に抹殺する。
> 二つが一緒に在ることはできない。

はい。

> そこには自己を露(あら)わにする過程、古い概念や価値の受け入れを変わ
> らず否定しつづける過程があるだろうか?
> あるいはそこには相互の黙認があるだろうか?
> 何がそれらの関係だろうか?

確認作業が続いているようです。

> 質問者 そこに特定の関係はありません。それらは共存しているのです。
> 
> マハラジ
> あなたが古い自己と新しい自己を語るとき、誰を思っているのかね?
> 二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているとい
> うことだ。

あ、なるほど。(@_@)

> どうして二つの自己を語ることができようか?

おお。

> 質問者 一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は
>     観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。
> 
> マハラジ
> なぜ二つの自己なのかね?

ふむ……。

> 束縛と自由の間には何の関係性もありえない。

そうか……。(-_-)

> 共存という事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。

わかります。

> ひとつの自己だけが存在する。
> そしてそれはいつも今、在るのだ。
> 新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相
> なのだ。

はい。

> 自己とは単一のものだ。
> あなたがその自己なのだ。

ああ……。

> あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分という観念をもっている。

たしかに。

> しかし、観念は自己ではない。

そうか。(-_-)

> たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか?
> 新しい自己か?

うーむ。

> 質問者 二つは衝突しています。
> 
> マハラジ
> どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう?
> 衝突は古い自己の特質なのだ。

そうか……。

> 新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。

はい。

> 新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。

わかりました。

> 新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。

わかります。

> 衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はい
> ない。

はい。

> 衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだ
> ろうか?

ああ、そういう……ことか。

> 質問者 私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知って
>     いた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それら
>     を新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。
> 
> マハラジ
> 古い自己があなた自身なのだ。

空想が破壊された……。

> 原因なく、自我の汚れもなく、突然出現する状態を、「神」と呼ぶがいい。

(@_@)

> 種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在のな
> かに突然栄光に満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがい
> い。

あ、そうか。(@_@)

「新しい自己」に切り替わる瞬間を描写しようとしているのか……。

> それはまったく予期できず、しかも必然的なもの、かぎりなく親しく、しか
> ももっとも驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なもの
> だ。

はい。(-||-)

> なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。

……。

> それはひとつの法のみにしたがう。
> 自由の法だ。

おお……。

> 何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在
> ではありえない。

(@_@)

そうか……。

「何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくもの」……、
それは「実在ではありえない」……。

(-||-)

> 実在に発展というものはない。

はい。(;_;)

> 実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないものだ。

はい。

「実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないもの」……。(-||-)

マインドながらに、そうあって欲しいと思います。

……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここ↓に置いてあります。
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        …………○…………○…………○…………


▼『アセンション館通信』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。


        …………○…………○…………○…………


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        …………○…………○…………○…………



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■ 3.編集後記:ただ怠惰になっていくばかりで……。(*-_-*)
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この一時的な“現れ”のなかで、特に幸せになろうとはしないこと……。

とりあえず、かろうじて思い出そうとするのはそれくらいです。

今のところ、ただ怠惰になっていくばかりで……。(*-_-*)

> 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
> 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
> いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
> これが絶対的な真理なのだ。(p351)

「いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない」……。

とにかく……、そんな言葉にでもすがるしかなくて……。

それでは、また。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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