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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.286 2009/9/27(第286号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 952名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.問題のないところにいる

2.写経ニサルガダッタ:【20 至高なるものはすべてを超える】の1回目

3.編集後記:まあ……流されて行くだけです。
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■ 1.問題のないところにいる
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わたしは本当は問題のないところにいるんですよね。

なのに、すぐに問題を掴(つか)んでしまう。

そして問題のなかで何が何だかわからなくなってしまう。(;_;)

いったいどうしてこんなことがあるんだろう、とか……。

「何故にすべては始まってしまったのか?」とか……。

そうして……、何やら見通しのない世界のなかで途方に暮れる……。

あるいは破れかぶれになり、自暴自棄になり、不幸になり、悲しくなり……。

そうかと思ったら、今度は気分が変わって、楽しくなり、嬉しくなり、幸福に
なり、舞い上がって、天にも昇るような気持ちにもなる……。

(もっとも、このごろはめったにそんな気持ちにもならないけど。(^_-) )

そうやって、すぐに右往左往するけれど……。

でも、本当はわたしは問題のないところにいるんですよね。

だって、じつはすべての現象はわたしが「在る」からあるんですから……。

すべての“現れ”“状況”はわたしからリアリティをもらって存在している。

わたしが眠ったり、無視したりすれば、もうそれだけで消えてしまう。

その程度のものです。

これは間違いない。

だって、たしかに「私は在る」という感覚はわたしのものであって、わたしの
前の状況がそう言っているわけではないですもんね。

わたしの問題は、わたしがリアリティを与えた“現れ”のなかで、わたしが望
ましい形を想像し、わたしがそれを願うことで……起こっている。

これも間違いない。

ふーむ。(-_-;)

わかったような……わからんような……。

ま、いっか。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

問題というものは本当は存在しないのだ……と思い出してみるのも……悪くな
いのかもしれません。

いえ、ほんと。

なんだか、こっちまでそんな気がしてきました。(^_-)

一見、“世の中の現実”というのは客観的に存在していそうにも見えます。

でも、われわれって、ほかの人が“現実”と見なしているものを、けっこう、
平気で、簡単に無視したり、否定したりしますよね。

だいたい、他人の現実なんて、たいていの人はそんなにまともに気にしてもい
ません。

(他人の現実を気にする(というパフォーマンスをする)のが自分のビジネス
 のひとは別ですが、うん。(-_-) \←…… (\_/) )

ほかの人の“現実”なら、それがそのひとの想像にすぎないことが、ごく簡単
に見えていたりする。

それに、いわゆる自分の“現実”にしても、まさか赤ん坊のころから、こんな
“現実”を背負っていたわけじゃないでしょうし……。

つまり、自分の現実だって、その時々の自分の連想野で変化しているのはよく
わかります。

ということは、客観的に存在する“世の中の現実”などというものは、じつは
存在しない、ということでしょう。

実際に存在する“世の中の現実”とは、それぞれのひとが自分のマインドのな
かで対応に明け暮れている想像上の“現実”ですよね。

それは間違いないでしょう。

昔どこかで、数学者の岡潔さんが“向こうから歩いてくる二人の人がまったく
別の世界に住んでいるのがわかった”みたいなことを書いていました。

へー、すごいことを言うなぁ、と思ったので、いまでもこうして憶えているの
ですが……、でも、今になってみると、その意味はよくわかりますよね。

岡潔さんは、じつは誰もが別の世界に住んでいる、ということをおっしゃりた
かったのでしょう。

これがニサルガダッタとなると言い方はもっと“キツイ”です。(^_-)

----------------------------------------------------------------------
 あなたは考え違いしているのだ。
 世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。
 あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
 あなたが創造し、破壊するのだ。
                          『私は在る』(p113)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

こうですからね。(^^;)

何をかいわんや、です。

しかし、こういう一見“超絶的”とも見える言葉も、ニサルガダッタがつねに
語っている言葉から推し量ると、そう荒唐無稽とばかりも言えない感じです。

> あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。

(@_@)

ヤダ! (>_<) ⌒★?

……。

(-_-;)

おそらく、わたしは……、一瞬一瞬……、その態度によって、自分が住む世界
を創造しているんじゃないでしょか……。

困った、困った。(;_;)

イヤンなっちゃうなぁ……。(*-_-*)

あ。(*@_@*)

あんた、見てたのね。(*_*)  ⌒★?

(*^_^*)

ま、かたいこと言いっこなし。

いずれにしても……本当は問題は存在していないんだし。

それどころか……すべての“現れ”は本当は存在しないんだし。

――え、ウソや! (@_@)

ただ……現れているだけで……。

――(>_<)

  そんなん、大袈裟に言うなって。

  やっぱり、あるんやんか。

いや、違うよ。

すべての“現れ”は非存在だよ、存在していないんだよ。

――え、存在してないの? (?_?)

うん、ただ現れているだけで……。

――やっぱり、あるやんか。(>_<)

違うよ!

「在る」のは“現れ”を見ているひとだも。

“現れ”は、現れてるだけだよ。

テレビ画面のなかのドラマと同じ。

面白くなければ、リモコンで消せばいい。

そしたら、そのドラマは消える。

そのドラマのなかの現実は消える。

それが“現れ”……それが現実というものだよ。

現実は、現れているだけなんだ。

存在しているように見えるだけ。

映画が光の戯れとして現れているだけで、実際に確かめてみたら、存在してい
るのは白いスクリーンだけ……みたいなもんなんだ。

実際に存在しているのは、その現実を見ている者だけなのさ。

――ほら、見ろ!

  やっぱり、見てるもんは、じっさい、いるやんか。

  喧嘩して、殴られたら、痛いやんか。(>_<)
  
  メシ食わなんだら、腹へるやんか。
  
  わしは、そこんとこを言うとるんじゃ。

あ、それは身体のことでしょ? (@_@)

――そうじゃがな、身体のこっちゃがな。

  きまってるやんか。
  
でも……身体は、“現れ”だよ。

――それがとうした。

  リモコンで消せばいい、とでも言うんか! (\_/)

うん……。(*-_-*)

まあ、そうなんだけどね……。

たしかに……これが……なかなか……じっさい……難しいんだけど。(=_=)

テレビ画面のなかのドラマは、絵空事だとわかっているけど……。

テレビを消したあとに残る……身体が入っているこの現実は……どうも絵空事
とは思いにくいからね。

でも……それは……身体が入っているこの現実に対しては……欲望が働くから
だと言うんだよねぇ。(-_-;)

欲しいものを想像したら、手に入らない状況も想像することになる。

欲望を持てば……恐怖も涌いてくるわけさ。

でも……じつは……この身体は……「見る者」じゃなくて「見られるもの」の
一部……たんなる“現れ”の一部だって言うんだよねぇ……。

> 個人はけっして主体ではありえない。
> あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。(p83)

って。

ただ、身体という観念……身体という名詞が……誤解の基なんだとも。

----------------------------------------------------------------------
 あらゆる方法で自分自身を考えてみなさい。
 ただ、身体という観念をもちこんではならない。
 そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
 身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそうとする私た
 ちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
                          『私は在る』(p153)
----------------------------------------------------------------------

身体が知覚対象であることは間違いないよね。

だから、身体が“現れ”の一部であることは間違いない……。

となれば……全体の一部として……すべてがすべての原因である“生命現象”
という不可避的な運命に……巻き込まれているんだろうなぁ。

その意味では……テレビのなかのドラマと同じだから……身体のなかのわたし
は……そのシナリオ展開を自分の好みに合わせて誘導することはできない。

その映画のなかにいるかぎり。

それにその“自分の好み”そのものだって……知覚可能・想像可能なたんなる
“現れ”の一部にすぎないわけだし。

だから、ジニャーニはこう言うわけだよなぁ。

----------------------------------------------------------------------
 身体は生まれ、身体は死ぬ。
 だが、それが私にとって何だというのだろう?
 身体は意識のなかで来ては去っていく。
 そして意識はその根底を私のなかに置いている。
 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
                          『私は在る』(p112)
----------------------------------------------------------------------

すべては、わたしがいるから……存在している。

これは、ほんとに、間違いないことだよ。

この眼前に展開するすったもんだは、すべて「私は在る」のゆえにあるんだ。

すべては、わたしから流れ出しているんだ。

けっきょく……わたしはもともと問題のないところにいるんだよね。

> 水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。(p85)

わけだから。

だから……その“問題のないところ”からわざわざ出て……問題の構成要素を
発明して……そのなかで“問題のない状態”を模索すること自体が……。

……愚かしいんだろうなぁ……。(-_-;)

> マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
> 不幸にするのだ。(p538)

あ、はい。(@_@)

わかります。

----------------------------------------------------------------------
 マインドへの隷属に反抗しなさい。
 あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
 そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
                          『私は在る』(p538)
----------------------------------------------------------------------

はい。(;_;)

> 光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?(p85)

わかります。

> 至高なるものはすべてを可能にする。
> それだけだ。(p85)

はい。

わたしは……本当は問題のないところにいるんですよね。

そして「マインドと自己同一化すること、ただそれだけが」わたしを幸福に、
あるいは不幸にするんですよね。(;_;)

わたしの「束縛は自分が創造したもの」なんですよね。

そしてその「執着と反感への鎖を」まだ断ち切れないでいるんですよね。

まだまだ確信がたりないんですよね……。(/_;)

わかっています……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【20 至高なるものはすべてを超える】の1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「個人」と「実在」を橋渡しするものを「観照者」と言うようですね。

「個人」と「観照者」の間と「観照者」と「実在」の間では、どちらのほうが
隔たっているのかは知りませんが……。

でもたぶん、確かなことは、「個人」と「観照者」のあいだはマインドで旅す
ることができるのでしょうが、「観照者」と「実在」のあいだにはギャップが
あるのでしょう。

マインドはそのギャップを超えることはできないのだ、というような言葉を聞
いた覚えがありますから。

この章では、そのマインドで捕らえられない「実在」を、ニサルガ師匠は可能
なかぎりの言語表現で伝えてくれています。

では、【20 至高なるものはすべてを超える】の1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属
     性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょ
     うか?
 
 マハラジ
 あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。
 マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。
 
 質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、
     そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)
     に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者
     (ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラ
     ナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生
     命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表
     現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人
     を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱し
     てしまうのです。
 
 マハラジ
 個人はけっして主体ではありえない。
 あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。
 あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた
 時間と空間において観照者として現れたのだ。
 その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡
 すのだ。
 
 質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで
     何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。
 
 マハラジ
 それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。
 
 質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?
 
 マハラジ
 いいや。
 彼らはまったく反駁(はんばく)しあっているのだ。
 彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。
 
 質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。
 
 マハラジ
 なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。
 ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私
 は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」た
 ちと彼らの要求から自由になる。
 「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。
 それを手放すことはできない。
 しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分
 け与えることができる。
 ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。
 
 質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それ
     に存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるも
     のについてはどうでしょう? どのようにして私自身を至高なるも
     のとして知るのでしょうか?
 
 マハラジ
 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。
 源を知るということは、源として在るということだ。
 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
 の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。
 それが源であり、無尽蔵の可能性だ。
 
 質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのため
     にあるのでしょうか?
 
 マハラジ
 それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。
 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。
 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
 って低次のものは多数として現れる。
 
 質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?
 
 マハラジ
 これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。
 言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。
 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。
 
 質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?
 
 マハラジ
 それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではな
 い。
 それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。
 それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。
 それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在
 しているのだ。
 
 質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すの
     でしょうか?
 
 マハラジ
 それは意識に誕生を与えるのだ。
 それ以外のすべては意識のなかにある。
 
                         『私は在る』(p83-84)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属
>     性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょ
>     うか?

ふーん。

> マハラジ
> あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。

なるほど。

> マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。

そうか……。

> 質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、
>     そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)
>     に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者
>     (ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラ
>     ナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生
>     命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表
>     現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人
>     を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱し
>     てしまうのです。

そうそう。

どうしても……マインドのなかで実在を探しちゃうんだよね。(;_;)

> マハラジ
> 個人はけっして主体ではありえない。

はい。

> あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。

わかります。

> あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた
> 時間と空間において観照者として現れたのだ。

理解できます。

というか……唯一納得できる説明です。

> その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡
> すのだ。

はい。

その橋の片側に幸福と不幸の世界、つまり欲望と恐怖の世界があり、もう片側
に至福の世界、つまり無欲の世界があるわけですね。

> 質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで
>     何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。

一瞬一瞬、揺れるよね。(*-_-*)

> マハラジ
> それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。

はい、群衆に乗っ取られた世界です。

> 質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?

うう……。

> マハラジ
> いいや。
> 彼らはまったく反駁(はんばく)しあっているのだ。

やっぱり。

> 彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。

民主党と自民党みたいな……そういう役割なのだと。(-_-) \←……

あ、いやいや、そうじゃないや。

「ただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として」、その通り「あるがままに」
見ればいいんだ。

> 質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。

たしかに。

> マハラジ
> なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。

アチャ。(>_<)

> ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私
> は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」た
> ちと彼らの要求から自由になる。

なんと。(@_@)

でも……そのとき覚えていられるかなぁ。(-_-;)

> 「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。

その通りです。

> それを手放すことはできない。

間違いありません。

> しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分
> け与えることができる。

ああ……、そうか。

> ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。

「自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ」……。

確かです。

> 質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それ
>     に存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるも
>     のについてはどうでしょう? どのようにして私自身を至高なるも
>     のとして知るのでしょうか?

うん。

> マハラジ
> 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。

わかります。

> 源を知るということは、源として在るということだ。

おお……。

「源を知るということは、源として在るということだ」

そうだろなぁ。(-_-)

> あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真
> の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。

はい。

「恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき」……。

> それが源であり、無尽蔵の可能性だ。

はい……。

> 質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのため
>     にあるのでしょうか?

おお、なるほど。

> マハラジ
> それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。

(?_?)

> 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。

真空のなかに個々の生命体はたくさん現れるが、真空はひとつだ……、みたい
な意味かな。

> 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにと
> って低次のものは多数として現れる。

高次と低次……次元の関係というのは、包含関係とも言えるなぁ。

> 質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?

これはどういう意味なんだろう。(?_?)

根本創造主みたいなものがいるのでしょうか、というような意味かな。(?_?)

> マハラジ
> これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。

はい。

> 言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。

「言語上のレベルでは、すべてが相対的」……。

なるほど。

> 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。

はい、それは理解できます。

> 質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?

うう。

> マハラジ
> それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではな
> い。

わかります。

> それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。

ああ……、なるほど。(@_@)

「それは現在のなかに」在る、そして「むしろ感覚的なものとしてある」。

> それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。

そういうことか……。

> それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在
> しているのだ。

それは今のなかに、今の質のなかに、そして価値のなかに、すべての源として
すべてのなかにあるのか……。(-_-)

> 質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すの
>     でしょうか?

うーん。

どういう意味だろう……。(-_-)

あ……、そのままの意味か。

> マハラジ
> それは意識に誕生を与えるのだ。

……。(-_-)

あ……、これもそのままの意味か。

> それ以外のすべては意識のなかにある。

そうだ……目的とか……意味とか……そういうことではないんだ。

そういうものはすべて「意識のなかにある」のだから……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


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        …………○…………○…………○…………


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■ 3.編集後記:まあ……流されて行くだけですね。
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何ごとにも興味を失っていくようでもあります。

と同時に、現象世界のなかでの執着や心配が残っているのも事実です。

とにかく……いろいろ……ものから整理していってみています。

これがけっこう……一点一点……捨てたり燃やしたりするのに……躊躇しちゃ
ったりして……面白いですよ。(^_-)

自分の愚かさが……よくわかる……。

いまの境遇が……特に不幸だとも……思えません。

むしろ……とっても……安定しているかも……夢のなかの話ですけど。

ただ……夢のなかでの何かを願うことは……あるのか……ないのか……。

なさそうだなぁ……。

嫌悪感が……足りないとも……思えないし……。

(嫌悪感も……現れだなぁ。(-_-) )

なにか……もっと純な何かが……必要なのか……。

まあ……流されて行くだけですね。

気分がいいとか……気分が良くないとか……そういうことはどうでもいい。

ふ。

ふてくされてるかな。(^_-)

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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