━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆ 『アセンション館通信』vol.287 2009/10/4(第287号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))
マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;
内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 952名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.視聴カプセル『今回の生涯』
2.写経ニサルガダッタ:【20 至高なるものはすべてを超える】の2回目
3.いただいたお手紙から:i am さん
4.編集後記:実力とはまったく関係ないことはよくわかっています。
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■ 1.視聴カプセル『今回の生涯』
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先程来の雨のあと、ちょっと日が射したと思ったら、また一面の薄曇りのした
で小鳥たちの嬉しそうなさえずりが聞こえてきています。
けっこう盛んなさえずりなので声が聞こえる方へ目をやると、右下に降りてい
く道脇の樹々の梢あたりに小鳥たちが飛び交っているのが見えます。
あれは何の樹だったんだっけ……。
小鳥たちが何かの木の実に群がっているんでしょうね。
あの樹のなかには、けっこう、百羽くらいの小鳥たちが群がっているのかもし
れません。
何の思いもなく、ただ生命現象のなかに織り込まれているだけなのだとしたら、
やっぱりそのほうが上等かも。(^_-)
まあ、上等だとか下等だとか言っても、たんなるマインドのなかでの“噂話”
ですけどね。
そういうのをすぐ編み出すのが、言葉というものの自動過程なんでしょうね。
何の思いも浮かばずに、ただ見ていられたらいいんでしょうけど……。
まあ、焦らずに行きましょう。
これもひとつの風景です。
あ、また日が射してきた。
今日は、暑くなるのかも……。
(^^;)
というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/
みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?
夢のなかの光景に反応して、いろいろな思いが湧いてくるものですね。
われわれは通常、光景が自分の外側にあって、思いが自分の内側にあるものだ
と思っているわけですが……。
ニサルガ師匠が言うには、じつはそれは逆なんだそうですね。
「眼前の光景」は自分が投影している内界で、「思い」が今ここにたむろして
いるマインドの愚かさに応じて、外側から押しつけられるものなのだとか。
ほんとですかね? (@_@)
(そんなん、こっちの了解も得んと、勝手にやってもろたら困るがな。(>_<)
なんて言っても、駄目かも。
誰がはじめたものやらわからんですから……。)
それにしても、もしほんとなら、まったく厄介なゲームを始めたものです。
いや、ほんま。
“愚かさ”ってなんや (?_?)、ってはなしになりますが、むろん、例の定番、
“欲望と恐れ”ってわけなんでしょうね。
あ、もしかしたら、そんなことをニサルガダッタが言うわけない、と思ってら
っしゃる方もいるかもね。
これまでにも引用しているので、もちろん知っている方もいるでしょうけど。
あることないこと、そんなに融通無碍に発明してもらっては困ります (=_=)、
と思われる方もいるかもしれないので、一応、虎の威を借りておきます。
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たったひとつ、あなたには誤りがある。
あなたは内面を外面に見て取り、外面を内面として見ているのだ。
あなたの内側にあるものをあなたの外側にあると見なし、外側にあるものを
あなたの内側にあると見なしているのだ。
マインドと感情は外側にあるのだ。
だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。
あなたは世界が外界のものだと信じている。
だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。
これが混乱の根本であり、新たな爆発がその混乱を正すわけではない。
あなた自身で考え抜かなければならないのだ。
ほかに道はない。
『私は在る』(p258)
http://tinyurl.com/s747u
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ヒエー!! (*_*)
ホントなんですかね、これ↑。(@_@)
ニサルガダッタって、もっと正統派の真面目な人なんだと思っていた、こんな
ハリウッドのSFファンタジーまがいのことを言う人だとは……。(>_<)
って、思いました? ^^;
“ハリウッドのSFファンタジーまがい”かどうかはともかく、わたしが勝手
に捏造した話でないのは、これでわかっていただけたと思います。
> マインドと感情は外側にあるのだ。
> だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。
ほら↑、ちゃんと、ニサルガダッタがそう言っているでしょ。
> あなたは世界が外界のものだと信じている。
> だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。
それにしても、こんなねぇ。(-_-)
ま、“外側”とか“内側”とかいう言葉自体、便宜的なものではあるでしょう
が……。
しかし、いくらニサルガダッタが慈悲に溢れていても、現れの世界を叙述する
便宜である言葉を、絶対の真理に変容するわけにもいかないでしょう。
現れの世界のなかに、絶対の真理を求めるのは無理です。
それは“無い物ねだり”というものですよね。
ニサルガダッタは慈悲のかぎりを尽くして、われわれが自らつくり出した牢獄
から出るための“考える手段”を差しだしているだけだと思います。
元々われわれは、任天堂のゲームよろしく、思いつくままに目新しい執着の形
を創造しては、自らその牢獄の囚人になったらしいですから。
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あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつ
ぎこんできた。
今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
事実、破壊することはたやすい。
なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
『私は在る』(p317)
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とは言え、われわれがつくり出した『ゲームの規則』は、かなり高等で洗練に
洗練を重ねたもののようです。
“Cosmic TSUTAYA”の棚で好みのDVDを選び、視聴カプセル『今回の生涯』
に入って横たわり、おもむろにDVDをプレーヤに挿入するようなものかも。
そしてプラネタリウムよろしく、視聴カプセルの“内壁”に投影されるウルト
ラリアル3D視聴覚映像を浴びるわけです。
そこでどのような想念を呼び寄せるかが、ゲームの醍醐味です。(^_-)
もちろん、視聴カプセル『今回の生涯』の“内壁”に投影される視聴覚映像そ
のものは、自ら選んだシナリオにすぎません。
したがって、もちろん、いったん投影が始まれば、その視聴覚映像のシナリオ
自体を変更することはできません。
しかし、視聴カプセル『今回の生涯』にすべて装備されている“外挿”想念群
のなかから、どの感情を呼び寄せるかはいつでも変更可能なわけです。
それが、ゲームなのですから。^^;
ただし、ただしです、ここからがこの非常に洗練された視聴カプセル・ゲーム
の秀抜さ……というか、しょうもないところなのですが……。(-_-)
じつはこれは、視聴者に“内壁”に投影される視聴覚映像を“外界”と感じさ
せ、“外挿”的感情を“内界”と感じさせる装置だということです。(>_<)
こんなもん、どこの天才的などアホが発明したのかと思うでしょうが、まあ、
その先は、あまり“感情”を突っ走らせないほうがいいです。(^_-)
なにしろ、われわれは責任転嫁にかけてはかなりのもんらしいですから。^^;
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責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。
『私は在る』(p394)
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ふーむ。(-_-)
そのうえ、
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それ(カルマや因果応報)はただ相対として真実に近いというだけだ。
実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、互いの重荷の原因であり、
互いの重荷の重さに耐えているのだ。
『私は在る』(p434)
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こう言われちゃうとなぁ。(-_-;)
あまりにも論理的で、もう何も言えなくなっちゃいます……。
というわけでこの秀逸な視聴カプセル『今回の生涯』のゲームの要諦は、投影
される顕現世界のなかで、いかに超然と“独存”を保っていられるかです。
> 実在は本質的にひとりなのだ。(p377)
「私の」と「私のもの」という幻想に取り込まれ、虚構の顕現のなかで迷子に
なって、“欲望と恐れ”の囚人にならずにいられるかどうか……。
いやー、理屈なら、こうして簡単に紡ぎ出せるんですが……。(*-_-*)
この任天堂ならぬ、誰かさんの発明ゲーム“視聴カプセル『今回の生涯』”を
クリアーするのは、並大抵のことではないかもしれません。
“遊びの国”のピノキオではありませんが、われわれも“Cosmic TSUTAYA”を
簡単には立ち去ることはできないようです。
ひとつのDVDを見終わったら、次のシナリオを求めて“Cosmic TSUTAYA”の
棚を探し歩くことになる。
なにしろ、
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私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。
『私は在る』(p149)
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(>_<)
というわけのものらしいですから。(;_;)
じっさい、いちどこんなリアルなのを見ると、とても“作り物”とは思えませ
んもんね。
しかも自分で同意して、自分で選択して、自分で想像しているなんて……。
自分にはそんなすごい想像力はないと、わたしは断固主張する!
> 本当に実在のように見えることが想像の神秘なのだ。
え、そうなの。
参ったなぁ……。
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あなたは禁欲主義者か、あるいは結婚しているかもしれない。
修行僧か、あるいは家庭をもつ人かもしれない。
それは要点ではないのだ。
あなたは自分の想像の奴隷だろうか、あるいは違うだろうか?
あなたがいかなる決定をしようとも、いかなる仕事をしようとも、それは変
わることなく想像、想定が事実として誇示していることにいつも基づいてい
るのだ。
『私は在る』(p371-372)
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そんなん、ウソや!! (>_<)
……と言いたいです。(/_;)
なんでわいがそんなあほなことするんや。
ほしてからに、何故にわいがそないなことをせなならんのや?
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何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。
この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり
えない。
私たちは罠にはまったままなのだ。
『私は在る』(p346)
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そうなの……? (;_;)
“私たちは罠にはまったまま”なの……。
でも、そもそも、なんでそういう“体験への欲望”があるんだ? (\_/)
> マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。(p376)
へー、そうなのか。(@_@)
> ジニャーニはすべての体験を超えている。
あ、やっぱり。
> そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
そっかぁ……そだべなぁ。(=_=)
> 彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
こいの……あたい好きだじょ。(*-_-*)
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だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。
『私は在る』(p376-377)
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ウーム。(-_-;) (←唸ってる。(^_-))
クソッ!! (\_/) (←怒ってる。(^_-))
あまりにも本当のことだわ……。(-_-) (←諦めてる。(^_-))
ところで……、
> だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
> かに押しこもうと熱心なのだ。
これ……、いまわしがやっとることだなぁ。(*-_-*)
ま、いっか。
しゃーないわ……。
それにしても、どうやったらこの意識の罠から出られるのか……。(-_-;)
> もちろん、意識から外へと出ることはできない。
え、そうなの?! (@_@)
なんで? (?_?)
> 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
アチャ。(>_<)
処置なっしゃー。
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だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
もたらすだろう。
『私は在る』(p400)
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おお……。(@_@)
可能性はあるのか?
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私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜け出すこ
とだ。
なぜなら記憶が想像をあおり立て、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。
『私は在る』(p434)
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うーむ。
じゃ、どうやって、その悪循環から抜け出したらいいの?
> この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
> の原因だ。
この世界を実在と見なすことが、悲しみの原因なのか……。(;_;)
> 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
> ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
そうなの? (/_;)
> それはとてもシンプルだ。(p50)
そりゃ、言葉はシンプルかもしれないけど、簡単じゃないよ……。
> ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
> びなさい。
そんな……イケズばっかり……。(;_;)
> すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
ホントかなぁ……。
> それは鏡を磨くようなものだ。
ふーん。
----------------------------------------------------------------------
あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
るだろう。
「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい。
『私は在る』(p50)
----------------------------------------------------------------------
そっかぁ……。
> すべては「私は在る」という想念にかかっている。
うん。
わかった。
> それを徹底的に調べるがいい。
うん。
> それはあらゆる困難の根底に存在している。
え?! (?_?)
「私は在る」って、味方だったんじゃないの? (@_@)
われらの月光仮面、鞍馬天狗みたいなものかと思ってたけど。
違うのかな……。
「私は在る」って、服部半蔵か、百道三太夫かって感じなの?
二重人格者? (?_?)
> それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。
あれま。
> 実在は皮の内側にも外側にもある。
おお……それはわかる。
> しかし、皮そのものは実在ではないのだ。
おおお……。(@_@)
> この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。
へー。
> あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。
そうなんだ……。
> それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。
なるほど。
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それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。
そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。
「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
『私は在る』(p317)
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……そういうわけだったのか。
「私は在る」は“トゲ”にも“トゲ抜き”にもなるのか……。
だから、
> あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
> るだろう。
っていうわけなんだ。
わたしが見ている世界は……わたしの「私は在る」なのか……。(-_-;)
(*-_-*)
> 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
わかった……。(-_-)
……。
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【20 至高なるものはすべてを超える】の2回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ここでは、「真我」と「至高なるもの」という言葉の使い分けが語られます。
質問者は、マハラジから“すべての欲望は「真我」から流れ出す”という回答
を引き出します。
これはとても意表をつく回答ですが、しかし、考えてみると……それしかあり
えないわけでしょう。
そして……、
> すべての欲望は幸福を目ざしいている。
というのです。
ただし、
> 欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
と。
そして、
> だが、至高なるものはすべてを超えている。
と……。(-||-)
われわれは、その全選択肢のなかで自分の居所を自己定義できるようです。
では、【20 至高なるものはすべてを超える】の2回目です。
(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
願っています。(-||-) )
最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。
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質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?
マハラジ
客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影し
ては溶解している。
いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づ
きの反映によって意識(チェタナ)が現れる。
質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?
マハラジ
何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?
水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。
また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。
光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?
至高なるものはすべてを可能にする。
それだけだ。
質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?
マハラジ
原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。
原因と結果という二元性は存在しない。
すべてはそれ自身の原因なのだ。
質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?
マハラジ
私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。
意識のなかではすべてが可能だ。
もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。
別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。
根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。
質問者 自己(ヴィアクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何
でしょうか?
マハラジ
自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?
マハラジ
いいや。
至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。
質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?
マハラジ
それでは、あなたは死んだも同然だ。
あるいはあなたが至高なるものなのだ。
質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。
欲しているものとは誰なのでしょうか? 個人でしょうか、あるい
は真我なのでしょうか?
マハラジ
真我だ。
神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。
それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。
質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは
理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在―意識―至福)
の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなの
でしょうか?
マハラジ
すべての欲望は幸福を目ざしいている。
欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。
エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)がある
ところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸
福になってほしいという衝動が見られる。
だが、至高なるものはすべてを超えている。
さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。
質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?
マハラジ
主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。
動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
であり、充分満たされるのだ。
質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないま
す。
マハラジ
それらは同じではない。
苦痛もまた同じものではない。
熱情は苦痛だ。
慈悲に苦痛はありえない。
全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
『私は在る』(p84-86)
http://tinyurl.com/s747u
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(-||-)
> 質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?
これは、前回の最後にあった意識の源についてのマハラジの言及、
「それは意識に誕生を与えるのだ。それ以外のすべては意識のなかにある。」
に対する質問者の問です。
> マハラジ
> 客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影し
> ては溶解している。
> いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づ
> きの反映によって意識(チェタナ)が現れる。
何というか……。
むしろ何とも言えない、ただ伺っておくしかないお話ですね。(^^;)
> 質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?
うう。
> マハラジ
> 何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?
ほらぁ。
> 水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。
そうさぁ。
> また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。
そうだよ。
> 光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?
素晴らしい……。
> 至高なるものはすべてを可能にする。
> それだけだ。
「至高なるものはすべてを可能にする。
それだけだ」……。
(-_-)
> 質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?
おお。
> マハラジ
> 原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。
やったー。\(^-^)/
> 原因と結果という二元性は存在しない。
> すべてはそれ自身の原因なのだ。
そうなんだ……。
> 質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?
身体に自己同化しているかぎり、われわれは目的をもった行為を目指さないわ
けにいかないですよね。(;_;)
わかります。
> マハラジ
> 私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。
そうか……それだけわかっていれば充分なんだ。
> 意識のなかではすべてが可能だ。
はい、それはわかります。
> もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。
そういうことですよね。
> 別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。
たしかに。
> 根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。
(@_@)
そうか……。(-_-)
> 質問者 自己(ヴィアクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何
> でしょうか?
ああ、なるほど。
どういう回答が来るのか、確かめておくいい機会ですよね。
> マハラジ
> 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。
そういうふうなことなんですか……。
> 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。
「未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる」……。
……そうか。(-_-)
> 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。
わー……。
比較を絶しているんだ。
> 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高な
> るものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
……。(-_-)
よくこんな素敵な言葉が出てくるもんだよなぁ……。
> 質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?
このひと、緻密に攻めるね……。
エライ。
> マハラジ
> いいや。
> 至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。
でた。
> なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。
(-||-)
> 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。
それで充分だ……ただし……。
だからと言って……それがやさしいということではない、か。(-_-;)
> 質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?
言葉……か。
> マハラジ
> それでは、あなたは死んだも同然だ。
> あるいはあなたが至高なるものなのだ。
はい。
ニサルガダッタは……言葉には反応しない……か。(*-_-*)
> 質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。
> 欲しているものとは誰なのでしょうか? 個人でしょうか、あるい
> は真我なのでしょうか?
うう……?
> マハラジ
> 真我だ。
ガーン。(*_*) ⌒★?
> 神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。
……そうなんですか。(@_@)
いやしかし……。
……「すべての欲望は真我からやってくる」、か。(-_-;)
> それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。
おお……。(@_@)
> 質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは
> 理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在―意識―至福)
> の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなの
> でしょうか?
あああ……なるほど……そうか。(-_-;)
> マハラジ
> すべての欲望は幸福を目ざしいている。
わかります。
> 欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
なるほど。
そういうわけか。
> 不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。
「不活発性(タマス)が優勢なら」……「そこには逸脱が」
> エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)がある
> ところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸
> 福になってほしいという衝動が見られる。
「エネルギー(ラジャス)がある」なら……「熱情が」
「透明性(サットヴァ)がある」なら……「善意と慈悲が」
欲望は「真我から」きても……その「欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に
依存する」……ということか……。
> だが、至高なるものはすべてを超えている。
また、でた。(@_@)
……。(-_-;)
「真我」と「至高なるもの」のこの使い分けは……いったい何なんだろう?
(にもかかわらず……、「至高なるもの」という言葉に惹かれる……あなたは
誰か? (-_-;) (←とか言っちゃって、(^_-))
あ……。(@_@)
もしかしたら……アドヴァイタヴェーダーンタ(“不二一元論”)が貫徹する
道は……それしかないかもしれない。
俗流キリスト教みたいに、“神と悪魔”の二元論は持ちこめないわけだから。
「至高なるもの」(すなわち「真我」)は、「意識」を可能にする。
そして「意識」は善悪、上下、ありとあらゆる二元性の出現を可能にする。
「真我」は、起こることすべての、つまりあらゆる欲望の源としてある。
しかも、「至高なるもの」としては……それらいっさいに関知しない。
> さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。
「さらに、(「至高なるもの」の)その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な
望みは満たされる」……。
> 質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?
うん。
> マハラジ
> 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
> 欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。
おお……そういう意味か。
自己矛盾した欲望は、満たされることはないのか。
> 動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
> であり、充分満たされるのだ。
「動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望」だけが「満たされるの」か。
誰が満たすのか……。(-_-;)
じつは……「真我」だけが存在する……。
> 質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないま
> す。
うーん。
> マハラジ
> それらは同じではない。
ほう。(@_@)
> 苦痛もまた同じものではない。
そうなんですか。
> 熱情は苦痛だ。
ああ……「熱情は苦痛」なのか。
> 慈悲に苦痛はありえない。
(@_@)
「慈悲に苦痛はありえない」のか。
> 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
「全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力している」……。
そして……「至高なるもの」は……それに関知しない……わけか。
「至高なるもの」は……誰とも何とも関係せず……ただただ超越している。
ただ……そこですべてがありうる意識を……可能にしているだけ。
そうかなぁ。
そうだろなぁ……。
(言葉だけでそんなことを言っても……仕方がないけどなぁ……。(*-_-*))
(-_-)
……。
(-||-)
今日の写経は、ここまでです。
m(_ _)m
…………○…………○…………○…………
『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
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おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここ↓に置いてあります。
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■ 3.いただいたお手紙から:i am さん
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。
今回、i am さんからいただいた私信のなかに質問の部分がありました。
それで、ご返事を差し上げてから、掲載の可否をお伺いしました。
快くご承諾いただきましたので、早速、その部分をご紹介いたします。
【件名】:感想
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pariさん、こんにちは、i amです
-
ニサルガ師匠の本は、
途中で読むのを挫折してしまったので、
私には分からないのですが、
たとえば、
一滴の人間が、大河(宇宙全体)になった後、
「その人間の個性」
というものについては、
ニサルガ師匠の本には、なんと書かれてあるのでしょう
i am
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i am さん、掲載許可、ありがとうございました。
…………○…………○…………○…………
i amさん、こんにちは。
お久しぶりです。
とてもお元気で、良かったですね。
ここだけ……、ご質問でしたので……。
> ニサルガ師匠の本は、
>
> 途中で読むのを挫折してしまったので、
>
> 私には分からないのですが、
>
>
> たとえば、
>
> 一滴の人間が、大河(宇宙全体)になった後、
>
>
> 「その人間の個性」
>
> というものについては、
>
>
> ニサルガ師匠の本には、なんと書かれてあるのでしょう
「個性」であれ何であれ一般に何らかの“定義”を、ニサルガダッタは
すべて“マインドの中”“意識の中”“夢の中”と見るようです。
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ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、
「私は在る」ということ以外に自己を語ることができないと確信すれば、
「私は在る」という指針の役目は終わる。
もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなどとはしない
だろう。
必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。(p27)
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つまり「すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない」
ということです。
すべての“定義”、“形と名前”への執着は、結局は、身体への執着の
反響なんでしょうね。
なので、当然、実在には“名前も形も”ないことになります。
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私には名前も形もない。
名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
私には執着がない。
私は無だ。
そして無は無を恐れない。
反対に、すべてが無を恐れている。
なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)
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だからこそ実在は“最強の破壊者”とも呼ばれるのだと思います。
というわけで、何らかの“履歴をもつ者”はすべて夢の中の現れです。
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夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。(p351)
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ということになると、「個性」であれ何であれ、実在にはどんな
“物語”もないわけです。
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私たちは目覚めているという夢を見ている。
私たちは眠っているという夢を見ている。
三つの状態は、ただの異なった種類の夢の状態だ。
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし
て在ることの奴隷になってしまう。
あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する
ことは奴隷状態の本質なのだ。
実際には、私たちに物語はない。
私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
すべてを夢と見て、動じずにいなさい。(p207)
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“現れ”のなかに何らかの“自分の履歴”を見ようとすれば、どう
しても映画のなかの何かに執着し、それへの“尻尾”を残すより仕方
ありません。
それが「奴隷状態の本質なのだ」とニサルガダッタは言っています。
というわけで、「実際には、私たちに物語はない」わけです。
でも実在はすべての現れの可能根拠なので、われわれが“夢のなか”
に入って何らかの物語を持つこともけっして妨げないわけです。
その意味では、おっしゃる「その人間の個性」というものについては、
“お気に召すまま”とも言えると思います。
Love pari
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i am さん、掲載させていただきました。
質問していただいて、こんなことも自分なりに確認できました。
ありがとうございました。
m(_ _)m
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■ 4.編集後記:実力とはまったく関係ないことはよくわかっています。
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文字の上では、随分なことでも言えるようになってきた気がします。
でもそれは、まさに“文字の上”だけのこと。
実力とまったく関係ないことはよくわかっています。
たぶん、わたしは自らの欲に唆されて、道化を演じているのでしょう。
(「演じさせられている」という責任転嫁の言い方はしたくありません。)
どういうわけか……成長とか成熟といった言葉は嫌いです。
ただ、夢のなかとは言え、こういう分不相応な文字を書き連ね続けていると、
マインドが呼び寄せる微少な衝撃をかなり体験するのも事実です。
そういうなかで……明らかになってくることもあります。
すると……どうも……「定義」とは「分離」を暗示しているらしいのです。
「定義」に長ければ長けるほど……じつは「分離」を洗練しているらしい。
つまり……どういうことか?
わたしは一見“マインドでありたくない”と主張しているようで、じつはまさ
にそうすることで、“マインドでありたい”と主張しつづけているらしい。
これはもう……端的な事実で……どう誤魔化しようもありません。
つまり……この道は……そういう道だ……ということのようです。
そういう経路で……マインドの全否定に向かう道なのですね……。
そういう道しかたどれない「私は在る」もあるのでしょう。
では、おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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