home > 通信 > 『アセンション館通信』第292号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.292 2009/11/8(第292号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 954名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.“感じている”と“可能にする”の違い

2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】の1

3.いただいたお手紙から:komara さん

4.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん

5.編集後記:来週はお休みするかもしれません。
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■ 1.“感じている”と“可能にする”の違い
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いい季節ですねぇ。

穏やかで……静かで……。

ガラス戸を開けても……入ってくるのは気持ちよいそよ風です。

心なしか……川の音も静かで……。

この心地よさに執着する必要もないですが……心地よいのはいいことです。

誰かバイクの人が間違ってこの丘まで上がってきたのかしら……。

さっき近づいてきたと思ったのに……また南の方に遠ざかっていった。

無闇な欲をかかなきゃこの世もまんざら悪いものじゃない……なんて、勘違い
を起こしそうです。(^_-)

いえ、ホント。(^^;)

ただ……またすぐ現象世界は変化して……そこに住んでいると思っている自己
同化の囚われびとは……またまた不幸になったりするんですよね。

だから……そこで幸福を求めたりしたら……大変です……。

夢のなかで……仕事が多くなる。(^_-)

だからそこは……あきらめた方が早いんだ……と思うようになってきました。

夢のなかの小春日和のなかで……。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

……夢の内界の戸外は、けっこう、いい小春日和なんですけどねぇ。

夢の外界の“思いの世界”のなかでは、新たなご用が起こっていたりします。

今回じつは、やっぱりハイアーセルフ33さんからご質問をいただきました。

うーむ……。(-_-;)

お手紙のコーナーでご返事をしようかなぁ……とも思ったのですが……。

ま、いっか、前回、受け取っていただけなかったメッセージを……もういちど
挑戦してお届けしてみようかなぁ……と思いました。

おそらくは、ハイアーセルフ33さんにはまた届かないかもしれないですが、
怪我の功名で、別の方に届かないものでもないし……。

前回のご返事をまったく受け取っていただけなかったハイアーセルフ33さん
からの投稿メールをまずご紹介しますね。

【件名】:本当にマインドが認識主体か?
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 みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。
 
 先週のアセンション館通信(291回)
 https://www.ascensionkan.com/mm/vol291.html
 
 への私の投稿にたいして、パリさんからお返事いただきました。ありがとう
 ございます。
 
 パリさんのご意見としては、ニサルガさんの発言をなぞって解釈すれば、
 
 「何に対する認識主体も、それはいつもマインドで実在ではない」
 
 ということです。その根拠として、次のようなニサルガさんの言葉を引用さ
 れています。
 
 (1)「あなたはマインドを超えている。だがあなたはマインドで知るの 
     だ」(P330)
 
 (2)「起こることはすべてマインドのなかで、マインドにとって起こり、
    〔私は在る〕の源に起こるのではない」(P469)
 
 (3)「至高なるものはすべてを可能にする。」(p85)
 
 これだけを読む限り、たしかに「すべての体験の認識主体はマインドであり
 実在ではない」というふうにも理解できてしまうと思います。ただニサルガ
 さんは、こういうことも言っています。
 
 (4)「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
 
 (5)「真我以外に存在するものはない。」(p87下)
 
 (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
     れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)
 
 
 したがって、パリさんの引用された(1)〜(3)をもって「すべての認識
 主体はマインドである」と結論づけられるとは私は思っていないのです。
 
 以下(4)〜(6)について質問とコメントをしました。反論なりご意見を
 きかせていただく思います。(読者のみなさんも)
 
 
 (4)「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
 
 これについてパリさんのご理解では、「通常の体験」の主体はいつもマイン
 ドで、「究極の体験」の主体のみが真我ということになるのでしょうか?
 
 私は「すべての体験(感じることを本質とする)の核(認識主体)は、真我
 (実在)である」といっていると理解しています。
 
 (5)「真我以外に存在するものはない。」(p87下)
 
 真我以外に存在しないなら、「感受する主体」は真我になりませんか?
 
 (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
     れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)
 
 「傍観者だけが実在」といっていますが、その後に「真我は世界(色鮮やか
 なショー)を楽しむ」といっています。
 
 真我は、楽しむことができ、世界を知覚できる能力もあるようです。「実在
 (真我)は、すべてを可能にしている」なら、当然それら「も」できなけれ
 ばならないと考えます。
 
 
 以上の点について、パリさんと皆さんのご意見をよろしくお願いします。あ
 りがとうございます。
 
                     AUM ハイアーセルフ33
----------------------------------------------------------------------

はるさん、もういちど、ここでお答えさせていただくことにしましたよ。^^;

わたし自身は、いま、議論とか、どちらの理解が正しいとか、そういうことに
あまり興味はありません。

ただ、前回お伝えしたかったメッセージが、はるさんによってまったくキャッ
チされなかったようなので、もういちど挑戦してみようかなぁと思いました。

ま、そんなに結果に期待しているわけでもありませんけど。(^^;)

今回のはるさんの投稿メールには、わたしが前回お答えした内容に対する感想
がいっさいないので、はるさんがそれをどう受け取ったのかはわかりません。

ですが、今回の“ご質問”(むしろ“議論”という感じですが (*^_^*) )を
見るかぎり、たぶん、全然、伝わらなかったのではないかと思います。

前回わたしは、できるだけニサルガダッタ自身の言葉の引用(とその解釈)に
よって、ご返事したいと思いました。

でも、今回は少し、自分なりの表現も交えて、前回伝えたかったことを、再度
ご説明しようと思います。

はるさんは、ご自分の“論点”の筋に終始するあまり、わたしが伝えたかった
メッセージをまったくキャッチしなかったようです。

前回わたしが伝えたかったのは、たとえば、今回のはるさんのご質問にある、

「真我以外に存在しないなら、『感受する主体』は真我になりませんか?」

というような“正しい議論”をいくらやっても、まったく意味がないですよ、
ということだったんです。(*^_^*)

はるさんも、「何か」のために、質問をしたり、議論をしたりするんだろうと
思います。

もし、それが“議論のための議論”とか“自分の論旨が正しいことを証明する
ための議論”なのでしたら、何をかいわんやです。^^;

はるさんが望むようになさったらいいです。

好きな議論相手を見つけて、好みの議論をなさったらいいと思います。

わたしなどが何を言うこともありませんし、お答えすることもありません。

でも、もしその“議論”や“質問”が、真我を実現したい、という思いに根拠
をもったものなのだったら……。

それなら、“『感受する主体』は真我”だというような、一見、正しいような
議論をいくら続けてもまったく意味がないですよ、と伝えたかったのです。

あくまでも、もしはるさんの“議論”や“質問”が、真我を実現したいという
思いに根ざしたものならば……、ということです。

もちろん、実際は、そうだと思いますけど。

もしそうなら、その場合は、肝心なのは、その“議論”や“質問”をしている
その人は誰か?、という意味での「主体」、その意味での「当人」なのです。

そのことをわたしはニサルガダッタから教わって、そのことをお伝えしたいと
思ったわけでした。

その意味での「感受する主体」というのは、まったく具体的な事実の話です。

“議論のための議論”や“理屈のための理屈”ではありません。

自分の理解は正しいはずだ、pariさんの理解は一方的なんじゃないか、と思っ
ている“そのはるさん”、その人は「実在」なのか「マインド」なのか、とい
う意味です。

別にはるさんだけにする必要もないですよね。^^;

こう言ったら届くかな……と思っているわたしというこの当人、この主体は、
「マインド」なんでしょうか、「実在」なんでしょうか?

----------------------------------------------------------------------
 欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
 「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
 欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。
                          『私は在る』(p161)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

……。(-||-)

で、前回お答えしたのは、そういう意図や欲望や恐れを“感じている”主体は、
「マインド」ですよ、という意味でした。

意図を持ち、願い、恐れ、欲望する者、それは単なる「マインド」です。

つまり、自己同化の対象とすべきようなそんな立派なものじゃありませんよ、
ということをお伝えしたかったのです。

この投稿メールを書こうと望み、書いたいたその「主体」、こうしてご返事し
ているこの「主体」は、「実在」なんてものじゃありません。

それはつかの間の現れにすぎない「マインド」でしかありません。

時間のなかの存在です。

はるさんも、赤ん坊のころからそんな「感受する主体」なんていう難しいこと
を考えていらっしゃったわけではないでしょ。(^_-)

その意味での「感受する主体」は、時間のなかで変化し、消滅を繰りかえして
「マインド」なんです。

まったく、はるさんがターゲットとして自己同化の目標にすべきようなもので
はないのです。

ま、そういうことをお伝えできたらな、と思ったのでした。

キャッチしてはもらえなかったようですが……。

そして、しっかり、つかの間の現れにすぎない“ご自分”の論旨に自己同化し
て、その論旨の正しさを守ろうとなさっている……というわけです。(;_;)

このとき、はるさんもご存知の、「自己同化」という言葉が現れてきました。

これは、たぶん、「self-identification」という英語の翻訳語だと思います
が、“自分が誰であるか”という自己定義のことでしょう。

これは、本人が主張するわけですから、これほど強力なものはありません。

この自己定義こそが「マインド」がはまっている監獄であるわけです。

自分が、この現れの世界のなかの“何者か”であるという強迫観念、「自己」
をこの現れの世界のなかで定義したいという衝動です。

それは、(そういう意味の)“自分”というものは、じつは、存在しないとい
う潜在的恐怖の裏返しでもあります。

この意味の“自分”というのは、じつは、“現れる”ことはできるけれども、
“存在する”ことはできないわけです。

だから、つねに、自己証明にいそがしいわけです。

そして……このことにほとほと疲れ果てた者が……道を求めはじめます。

もし、まだまだ、“現れ”(多次元宇宙)のなかでの自己証明(自己実現)に
熱中したいのであれば、ニサルガダッタなど何も関係がないわけです。

わたしも、しゃしゃり出てその邪魔をするつもりなどまったくありません。

お好きな自己実現に集中されるといいと思います。

……ストレートに言ってしまいました。(*-_-*)

前回お伝えしたかったことが届いたかどうか……。

(*^_^*)

まあ、それはわかりませんが、せっかくいただいたご質問ですから、今回のに
移りましょうか。(^^;)

> 「何に対する認識主体も、それはいつもマインドで実在ではない」
> 
> ということです。その根拠として、次のようなニサルガさんの言葉を引用さ
> れています。
> 
> (1)「あなたはマインドを超えている。だがあなたはマインドで知るの 
>     だ」(P330)
> 
> (2)「起こることはすべてマインドのなかで、マインドにとって起こり、
>    〔私は在る〕の源に起こるのではない」(P469)
> 
> (3)「至高なるものはすべてを可能にする。」(p85)
> 
> これだけを読む限り、たしかに「すべての体験の認識主体はマインドであり
> 実在ではない」というふうにも理解できてしまうと思います。ただニサルガ
> さんは、こういうことも言っています。
> 
> (4)「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
> 
> (5)「真我以外に存在するものはない。」(p87下)
> 
> (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
>     れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
>     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)

はい、リーラ(神の戯れ)ということでしょうねぇ。

> したがって、パリさんの引用された(1)〜(3)をもって「すべての認識
> 主体はマインドである」と結論づけられるとは私は思っていないのです。

はい、おっしゃる意味はわかります。

> 以下(4)〜(6)について質問とコメントをしました。反論なりご意見を
> きかせていただく思います。(読者のみなさんも)
> 
> 
> (4)「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
> 
> これについてパリさんのご理解では、「通常の体験」の主体はいつもマイン
> ドで、「究極の体験」の主体のみが真我ということになるのでしょうか?

さあ、そういう言い方ができるかどうか……。

「真我」の単純さと“「究極の体験」の主体”といような言葉は、あまり馴染
まないような気はしますが。

また、ニサルガダッタが居る“真我(スワルーパ)”という場所での在りよう
を「体験」という言葉でくくっていいのかどうか。

“ほかに言葉がないから体験と言っている”という言い方をニサルガダッタも
どこかでしていますが……。

つまり、“真我にとどまり続ける”在りようのことですよね。

言い換えれば、“あらゆる体験を差し控える”ということでしょうか。

> 私は「すべての体験(感じることを本質とする)の核(認識主体)は、真我
> (実在)である」といっていると理解しています。

はるさんがいう意味の“核(認識主体)”は「マインド」でしょうね。

真我(実在)は、そういう体験を“可能にしているもの”だと思います。

> (5)「真我以外に存在するものはない。」(p87下)
> 
> 真我以外に存在しないなら、「感受する主体」は真我になりませんか?

もしはるさんが真我に居るなら、そういう質問をしないでしょう。

だから、そういう質問をしているはるさんは、「真我」ではなく「マインド」
だ、ということです。

> (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
>     れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
>     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)
> 
> 「傍観者だけが実在」といっていますが、その後に「真我は世界(色鮮やか
> なショー)を楽しむ」といっています。
> 
> 真我は、楽しむことができ、世界を知覚できる能力もあるようです。「実在
> (真我)は、すべてを可能にしている」なら、当然それら「も」できなけれ
> ばならないと考えます。

あはは。

いえ、たしかに、そうですよね。^^;

わかります。

「真我」は、もちろん、楽しむ能力も、世界を知覚する能力も、持っていると
思いますよ。

それどころか、森羅万象、すべての対象物やそれを意識する能力は、「真我」
を根拠に存在しているわけですから。

> 以上の点について、パリさんと皆さんのご意見をよろしくお願いします。あ
> りがとうございます。

わかりました。(と言っても、“皆さんのご意見”はわかりませんが。(^_-))

はるさん、「真我」はもちろん楽しむ能力も、世界を知覚する能力も持ってい
ると思います。

というより、すべては「真我」という“源”から流れ出しているわけです。

どうして「真我」が“久米の仙人”程度になれないことがあるでしょうか。

ただ、「真我」とは“久米の仙人”にならない境涯のことではありませんか。

言ってみれば、自分が「真我」であることを忘れて、世界を知覚して、それを
楽しもうとしている境涯こそがわれわれ……ということだと思います。

「真我」は、むろん、あらゆる境遇に身を置ける能力を持っているでしょうし、
あらゆる体験を“楽しむ”能力ももっているでしょう。

それどころか(何度も言いますが)すべての“現れ”は、「真我」ゆえに存在
しているわけです。

ただ、すべての“現れ”は、「二元性」を根本原理として存在しています。

識別できなければ、“現れ”は“現れ”として顕現できないわけです。

その識別を可能にする“現れ”の仕組みが「意識」であり、語弊はあるかもし
れませんが、その「意識」の媒体が「マインド」ということだと思います。

すべての“現れ”は、それこそ「波動の法則」によって現れており、何らかの
“波”がなければ現象世界は存在できないのだと思います。

言ってみれば“苦あれば楽あり”です。

----------------------------------------------------------------------
 私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
 を切望するのだ。
                          『私は在る』(p434)
----------------------------------------------------------------------

とまあ……そういうわけなんでしょうかねぇ。

で……あるときから、何とかここを抜け出したいものだ……とか思うようにな
って、今度は“道を求める”とかいうことになるのだと思います。

でも、はるさんが言う、世界を“楽しむことができる”ようになったころには、
われわれの“現れ”に対する自己同化は半端じゃなくなっています。

世界を“楽しむことができる”と言ったとき、その楽しんでいる当人はじつは
存在しない、というような言葉の意味がわからなくなっているわけです。

世界があり、それを楽しんでいる当人がいるのに、それが“非存在”だとは、
いったいどういうことなんだ (?_?)、というわけです。

つまり、われわれは、“自分が存在しない”ということを納得しなければなら
ないわけですから……。

だから……こんなことを自ら進んで納得したいなどというのは、よほど個人と
しての存在に嫌気がさしていないと……もともと無理なことなんです。

だからはるさんが、ニサルガダッタの言うことに本当は同意したくない気持ち
は、そう言っては何ですが、よくわかります。

でも、ニサルガダッタはどうもいろんな人が覚者だと言っているようだから、
何となく否定しにくいですよね。

それで……たぶん間違っているのはpariさんの解釈じゃないか、それに他の人
たちはどう思っているのか……と思われたんですよね。(^^;)

ある意味で、ホントにはるさんの好きなように理解なさったらいいです。

わたしの現在の理解を押しつけようなんてつもりはまったくありません。

だから……以下はほんの付け足しです……。

前回の投稿メールにはるさんは「質問:マインドが感じている?」というタイ
トルを付けていましたね。

それに対して、わたしは“はい、感じているのはマインドです”というご返事
をしました。

それにとうてい納得できないはるさんが、今回投稿メールにつけたタイトルは
「本当にマインドが認識主体か?」というものです。

で、これを見てふと思ったのは、「認識主体」いう言葉と「マインド」という
言葉が、はるさんのなかでどうしてもつながらないのでは、ということです。

その感じもよくわかります。

というのは、「マインド」は事実上の“認識主体”にすぎないからです。

それは、いわば“認識主体”の僭称者とも言える存在です。

すべての認識を可能にしているのは、じつは、ご存知の「真我」です。

で、ここで、“感じている”という言葉と、“感じることを可能にする”とい
う言葉の違いを説明すれば、少し納得してもらえるかも、とも思いました。

わかりませんが。^^;

たとえば、今回の投稿メールを書いているときのはるさんを想像してみてくだ
さい。

いや、それだと、何となく自己同化を外しにくいようであれば、今これを書い
ているわたしのことを想像してくれてもいいです。

それなら、自己同化はまったくないでしょうから。

わたしは今、次にどう書けばはるさんに伝わるかと思いながら、コンピュータ
画面に向かっています。

そこで、ある想念が動いていますよね。

これは、「マインド」ですか? 「実在」ですか?

むろん、コンピュータ画面もその上の文字というシンボルも、そのシンボルを
操ってある種の想念を紡いでいるわたしの意図も……「マインド」ですよね。

素粒子のふるまいによって実現されている内容です。

そのことに問題はないですよね。

物質的“現れ”も、意識的“現れ”も……すべて「マインド」です。

はるさんが、投稿メールを書いているときに動いている物質的・心的現象は、
すべて「マインド」です。

わたしがこうしてご返事を書いているときに動いている物質的・心的現象は、
すべて「マインド」です。

だって、動いている意図も、感情も、痛みも、歓びも、なにもかもが、意識内
にあるわけですから。

では、そういう現れに関わるすべてのいわば“コンテンツ”だけで、それらは
現象可能なのでしょうか?

普通は、そんなことを考えないわけです。

でも、エゴであることがどうしても苦しくなれば、どうすれば、そこから抜け
出せるのか……という模索が始まるわけです。

すると、外在のグルが来て、あなたが求めていることの答えは現れのなかには
見つからない、ということを教えてくれるわけです。

なぜなら、現れのなかに「実在」のあなたはいないから、と。

じつは、この“現れ”の世界は、“「実在」のあなた”からその実在性を借り
て、一瞬、つかのまの存在を得ているだけなのだ、と。

自分の前をよぎる想念たちに自分の実在性を与えて、あなたの世界を創造して
いるのは、じつは「至高の実在」である「あなた」なのだ、と。

これは、たしかに、信じがたいことですが、本当なのです。

われわれは自分の“注意”を振り向けることで、想念を実体化(現実化)して
います。

“注意”を振り向けるのをやめれば、あるいは単に“注意”を振り向けるのを
忘れれば……それだけでわれわれの世界は……消えます。

“注意”を振り向けなくても、あるいは“注意”を振り向けるのを忘れても…
…その世界があると……思いこんでいるだけなのです。

その“注意”のことを、別の言い方で“気づきの光”と言ったりするわけです。

でも、通常の心の動きのなかでは、そういう事実はすっかり忘れられてしまっ
ていて、“注意”は完全に意識対象にフォーカスしています。

たとえば、投稿メールを書くときには、その書くべき内容の展開に没頭してい
るわけです。

つまり“気づきの光”が意識対象にいわば“取られて”しまっていて、自動的
にただ想念の動きを追随しているだけになっているわけです。

そして“自分”がそう思い、そう願い、そう感じている、と思うわけです。

この内面そのものを支えているのは「真我」のはずじゃないか、と。

だから、「そう感じている」のは「マインド」です、などと言われても、どう
しても信じがたいわけです。

まるで……偉そうな言い方になって……じつに恐縮ですが……。

ただ……事実は事実なので。(*-_-*)

だから……“感じている”と“感じることを可能にする”とは別です。

“感じている”のが「マインド」であり、“感じることを可能にしている”も
のが「実在」です。

伝わるものなら、伝わればいいけどな……と思っています。

まあ……どちらでもいいです。

事実は……わたしの独り芝居でしょうから。

はるさん、ご質問、ありがとうございました。

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】1
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この章では、ほとんど最初に、まず章タイトルになった言葉が述べられます。

“マインドの平和”を求めているという質問者に、マハラジは、

> なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。
> マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。

と伝えるところから始めるわけです。

マインドを静にさせようという方針そのものが間違っている、というわけなん
でしょうね。

では、【【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

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 質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨ
     ーガを教えています。
 
 マハラジ
 どこで学んだのかね?
 
 質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。
 
 マハラジ
 それはあなたに何を与えたのだろうか?
 
 質問者 健康と生活の糧(かて)です。
 
 マハラジ
 それはいいことだ。
 それがあなたの求めるすべてだろうか?
 
 質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、
     いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気(いや
     け)がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしま
     した。それからヨーガに魅せられたのです。
 
 マハラジ
 あなたが得たものは何だろうか?
 
 質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。
 
 マハラジ
 どのような形でそれがあなたを助けたのかね?
 何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?
 
 質問者 健康はその明白なしるしです。
 
 マハラジ
 健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。
 その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?
 
 質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨ
     ーガはそれ以上をもたらします。
 
 マハラジ
 ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?
 
 質問者 進化、輪廻(りんね)、カルマ等々、といったインドの教えの全体
     です。
 
 マハラジ
 よろしい。
 あなたは求めていたすべての知識を得た。
 だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?
 
 質問者 それは私にマインドの平和をくれました。
 
 マハラジ
 そうだろうか?
 あなたのマインドは平和だろうか?
 あなたの探求は終わったのかね?
 
 質問者 いいえ、まだです。
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 それに終わりは来ないだろう。
 なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。
 マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。
 ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。
 
 質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。
 
 マハラジ
 綿密に調べてみなさい。
 そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。
 それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、
 またいつもの落ち着きのなさに戻る。
 静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。
 あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身
 は平和なのだろうか?
 
 質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りている
     のです。
 
 マハラジ
 あなたはそこに矛盾を見ないだろうか?
 もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。
 それなのにあなたは見つけられなかった。
 本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。
 
 質問者 ある程度の改善はあります。
 
 マハラジ
 あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
 ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。
 あなたの言う平和はただの不安の不在だ。
 それに本当の価値はない。
 真の平安は乱されることのないものだ。
 けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言える
 だろうか?
 
 質問者 私は努力しています。
 
 マハラジ
 努力もまた不安の一形態だ。
 
 質問者 では何が残されているのでしょうか?
 
 マハラジ
 自己を安心させる必要はない。
 自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。
 ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。
 マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
 だ。
 心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。
 私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
 しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
 なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
 実在にははじまりはない。
 ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
 発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。
 
                        『私は在る』(p158-160)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

最初は、質問者の自己紹介のような部分ですね。

> 質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨ
>     ーガを教えています。
> 
> マハラジ
> どこで学んだのかね?
> 
> 質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。
> 
> マハラジ
> それはあなたに何を与えたのだろうか?
> 
> 質問者 健康と生活の糧(かて)です。
> 
> マハラジ
> それはいいことだ。
> それがあなたの求めるすべてだろうか?

とまあ、こんなふうに始まります。

> 質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、
>     いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気(いや
>     け)がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしま
>     した。それからヨーガに魅せられたのです。

ここで、質問者が求めているのが“マインドの平和”だとがわかります。

> マハラジ
> あなたが得たものは何だろうか?
> 
> 質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。
> 
> マハラジ
> どのような形でそれがあなたを助けたのかね?
> 何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?

マハラジが質問者がいる場所を確認しています。

> 質問者 健康はその明白なしるしです。
> 
> マハラジ
> 健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。
> その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?
> 
> 質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨ
>     ーガはそれ以上をもたらします。
> 
> マハラジ
> ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?
> 
> 質問者 進化、輪廻(りんね)、カルマ等々、といったインドの教えの全体
>     です。
> 
> マハラジ
> よろしい。

これでだいたいの位置確認が終わったのでしょうね。

> あなたは求めていたすべての知識を得た。
> だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?

という具合に、応答が始まります。

> 質問者 それは私にマインドの平和をくれました。
> 
> マハラジ
> そうだろうか?
> あなたのマインドは平和だろうか?
> あなたの探求は終わったのかね?

「あなたのマインドは平和だろうか?」って念を押しています。

> 質問者 いいえ、まだです。
> 
> マハラジ
> そのとおりだ。
> それに終わりは来ないだろう。
> なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。

とまあ……いうわけなんでしょうねぇ。

> マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。

そうかぁ。(-_-)

> ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。

この「属性」という言葉、わかるようでいて、じつは意味があまりわかってな
くて……。(^^;)

> 質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。

もしかしたら、ヨーガの先生かもね。

> マハラジ
> 綿密に調べてみなさい。
> そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。

ということに、なるんでしょうねぇ。

> それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、
> またいつもの落ち着きのなさに戻る。

なるほど。

> 静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。

はい。

> あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身
> は平和なのだろうか?

普通、こういうこと訊きますかねぇ。(^^;)

> 質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りている
>     のです。

あんな訊き方をされたら、たとえヨーガの先生だって、こうしか応えられませ
んよね。

> マハラジ
> あなたはそこに矛盾を見ないだろうか?
> もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。
> それなのにあなたは見つけられなかった。
> 本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。

ふーむ。(-_-;)

> 質問者 ある程度の改善はあります。

質問者だって、これぐらいは言いたくなるはずです。

> マハラジ
> あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
> ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。

まったく手加減なし。(^_-)

> あなたの言う平和はただの不安の不在だ。

ああ……普通言う心の平和というのは、「ただの不安の不在」のことなんだ。

> それに本当の価値はない。

手厳しい。

> 真の平安は乱されることのないものだ。

はい。

> けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言える
> だろうか?

言えるわけないでしょう……ぶつぶつ……。

> 質問者 私は努力しています。

ですよね。

> マハラジ
> 努力もまた不安の一形態だ。

アチャ。(>_<)

しっかし……「努力もまた不安の一形態だ」とはねぇ。(-_-)

たしかに、そうなんだろうけど……。

> 質問者 では何が残されているのでしょうか?

うん。

> マハラジ
> 自己を安心させる必要はない。

ん?

> 自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。

そうくるか……。

> ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。

なるほどなぁ。

> マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
> だ。

たしかに。

> 心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。

まったくです……。(*-_-*)

> 私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。

(@_@)

……。(-_-)

「私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない」……。

「進歩」という言葉の、これほど的確な定義を聞いたことがない……。

> しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。

はい。

> なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。

そうか……。

マハラジの容赦ない定義には、かならず揺るぎない根拠があるんだよなぁ。

> 実在にははじまりはない。

はい。

> ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
> 発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。

わかりました。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 3.いただいたお手紙から:komala さん
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▼『アセンション館通信』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。


        …………○…………○…………○…………


今回、ひさしぶりに komala さんから投稿メールをいただきました。^^;

ところが、これが短いの。(>_<)

【件名】:お上手ですね
----------------------------------------------------------------------
 > しかも……庭先ではまだちろちろと紋黄蝶が飛んでいる。
 
 この1行が、私のマインドに、「お上手ですね」と、言わせます。
----------------------------------------------------------------------

なにこれ? (@_@)

これ……褒めてるの? (?_?)

褒めるんなら、もっとちゃんと褒めてよ……ふんとにもう。(=_=)

(*^_^*)

komala さん、メール、ありがとうございました。

m(_ _)m

        …………○…………○…………○…………


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■ 4.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん
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『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518

        …………○…………○…………○…………


今回も、ドン・ガバチョさんからご投稿いただきました。

早速、ご紹介します。

【件名】: 性懲りもなく?前回の続き
----------------------------------------------------------------------
 (性懲りもなく?)前回の続き、二題です・・・・私の単なるメモですので、
 どうぞ気になさらずに。
 
 ====
 
 ある人にとっての『愛』が、別の人にとっては『愛』に反することが地上には
 よくある。
 
 たとえば、ある人の神が『愛』の心をもって、その人の悩みを解決するとす
 る。
 その悩みが親子の衝突であったとする。
 親は、子が成長して無事就職して結婚するように導くことが、子に与える
 『愛』だと信じている。
 ところが子はそうではなく、仕事よりも神を信じ托鉢してでも山に篭ったり修
 道院へ入って独身生活をすることが、自分の幸福だと考えたとする。
 
 息子の神は息子の悩みを聞き、親に『愛』の心を示すために、親を説得しよう
 と動き出す。
 ところが、この親にとっては、息子は将来、自分の老後に不可欠な道具であ
 り、この道具が一生独身で修道院へ入ってしまうと、現実の生活に困ってしま
 う。
 
 そこで息子の神は、親に言うのである。
 「神は『愛』なり、『愛』は神の本質なり、そして、息子は正しい。
 人は神を目指すべきであり、自分の生活のみを考えて息子から神を取り上げて
 はならない。
 親はたとえ、のたれ死にしても息子に神を与えなさい」
 
 親は大迷惑である。
 (神の『愛』は息子にばかり届いて自分には届かない。これでは不公平であ
 る。私には、人として生きる権利がある。それなのに、神は、私から生存の権
 利すら奪おうとしている)
 こう考えて親は、親の宗教の仏に祈る。
 (御仏様、あなたは慈悲でございます。
 哀れな私にご慈悲をお与えください)
 
 そこで、慈悲が本性である親の御仏は親の味方をする。
 そして、息子に言うのである。
 「親を大切にしなさい、あなたの道は間違っている。
 親を大切にして、その言うことを聞いて後に仏を求めなさい」
 
 さて、地上の親子の対立は、神と仏の対立まで引き起こしてしまった。
 はたして、『愛』は正しかったのだろうか。
 
 もしも、どちらかの言い分をただ単に認めて、どちらかの味方になってあげる
 ことが『愛』だというのなら、もう片方は必ず傷つくし、対立は一層深まるか
 もしれない。
 両方の主張が右と左を向いている以上、どのようになっても、やはり片方は、
 何らかの自由を奪われるのである。
 
 本当の『愛』は、もっと大きな視野からもたらされるものである。
 
 『愛』は一観念でしかないために、時として残酷な側面をもっている。
 神がいかに偉大であっても、その偉大な『愛』を受け取る側の人間が未熟であ
 るとき、その『愛』は、必ずしも正しくは表現されない。
 いかにりっぱなコンピューターでも、扱い方を知らない人には無価値である。
 『愛』という言葉も、それを使う人たちの『愛』の心が深くなければ、高貴な
 『愛』にはなれない。
 
 ====
 
 人間の涙は清い。
 それは感情(情緒)の表現だからである。
 人間という生命体には、この感情(情緒)が与えられている。
 楽しいとか、嬉しいとか、辛いとか、悲しいとか、この感情があればこそ人々
 はそれを感じるのである。
 この感情(情緒)がなかったら、人間はまるで機械のごとくである。
 ボタン一つで平気で人を殺せるであろうし、刃物で隣の人の足を切り取っては
 食物とするからである。
 それでいて、隣の人も足を切られれば、痛いと感じるからいやがるが、感情が
 なければ、相手を恨みもしないことになってしまう。
 
 つまり、この感情というものは、人間の醜い部分も、そうでない部分も両方
 持っている。
 恨みや憎しみが新しい犯罪を起こしていくし、一方では感激の人生をもたらし
 ていく。
 ひょっとしたら、この感情などはなかった方が、人間には幸福だったのかもし
 れない。
 しかし現実には、全員にすでに備わっている。
 血のない人がいないように、感情のない人もない。
 
 涙は大切なのである。
 涙は、それがどのような意味で流されたものであれ、人間の本質ともいえる感
 情(情緒)によって表現されたものには違いない。
 この感情の表現がうまくできれば、人はその人を尊敬したり、好意をもったり
 するのである。
 これをうまく扱えないと、短気者としてきらわれたり、すぐ泣く弱虫としてい
 じめられたりもする。
 感情(情緒)は、人間というものにとって大きなテーマである。
 
 同時に、涙の雫が重ければ重いほどそれは強い感情の表現となり、想念がエネ
 ルギーとなり、念力(念霊・エレメンタル)に変化する。
 この念力(念霊・エレメンタル)を読み取り、高級または低級、または中間と
 いった、様々なランクの霊魂たちが、その涙に注目する。
 感情(情緒)の表現としての涙は、霊魂たちに注目されることにより、力を有
 するのである。
 ゆめゆめ、この涙を疎(おろそ)かにしてはならない。
 
 人々の流す涙は、重ければ重いほど、状況に応じて、正・邪双方の霊魂たちを
 引きつける。
 恨みつらみの涙もあれば、感動の涙もある。
 いずれにせよ、涙は霊魂から見れば重要なのである。
 
 悲しいときに流す涙は、高級霊魂へ、同様の心情(情緒)をもたらす。
 その涙は、高級霊魂を悲しませるのである。
 高級な霊魂たちは、人々に感激の涙をもたらいたいので、辛いとか、悲しいと
 かいう涙は、できれば流さなくてもよいようになってほしいのである。
 
 したがって、大きな喜びのエネルギーをいつも発しているとき、高級霊魂たち
 は一安心である。
 彼らは、人々が傷つくことを求めない。
 人々が喜ぶときには心が落ちつくのである。
 
 高級霊魂が人々に喜びの心を求めるのは、彼らが愛の心を持っているからであ
 り、その愛によって、悲しい人たちに救いをもたらそうと努力しているからで
 ある。
 
 人々は、ともすると勘違いしてしまう。
 人々は、おかしくもないのに笑っていれば福が来るとか、陽気でいれば神々が
 寄ってくるかのごとくに勘違いしている。
 または、陽気な波動に高級霊魂が引き寄せられると思ってしまうのである。
 それはむしろ、逆の場合が多いのである。
 人々は、いつも明るく、楽しく、陽気にすることによって、むしろ、自分に邪
 悪な霊魂が寄ってくることすらあることを知らなければならない。
 
 辛く、悲しい涙を数多く流し、人間の心の自分勝手を知り、喜びと苦しみの両
 面を知った人たちは、一般人からはともすると、高級霊魂からは無縁であると
 思われがちである。
 しかし、現実はそうではない。
 ……
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ドン・ガバチョさん、やっぱり、今回もまぐまぐの掲載制限で全文は掲載でき
ませんでした。

ご投稿、ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


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■ 5.編集後記:来週はお休みするかもしれません。
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昨日の早朝、病院で隣の“おばさん”が亡くなられました。

そして、朝方、遺体になって家に帰ってこられました。

隣の“おじさん”が死んでから約二年です。

お子さんのなかったお二人は、弟さんのご長男を養子に迎えていました。

と言っても、ご長男夫婦は別に家をお持ちなので、この二年はおばさんお一人
で暮らしていましたが。

これで我々がこの集落に越してきてから、ほぼ世代交代が完了した感じです。

昨日の夜は、お隣の家に集落の者が集まって、組での葬儀のお手伝いのことな
どを相談しました。

組と言っても、行政組織としての組と“本組”というのは違うらしいんです。

行政組織の組の方は、ただ回覧板を回す程度の組の意味らしいです。

“本組”というのは、いわゆる冠婚葬祭に関わる仲間のことらしいんです。

で、今回の不幸に関して組に連絡を回す立場の方も地元の人間でなかったので、
それを知らずに自治体の組長さんに伝えただけだったらしいのです。

それで、“本組”でこういうとき仕切る立場だった方が、自分のところに連絡
がなかったと言って、ちょっとつむじを曲げたらしいのね。(^_-)

まあ、結局、お手伝いはしてくれることになったんですが……。

それで昨夜の集まりでは、自分は仕切る立場じゃないので、こちらで仕切って
ほしいということになって、なんと、わたしにお鉢が回ってきました。(@_@)

いやー、なんというか……。(*^_^*)

「仕切ってくれ」と言われてもねぇ。(^^;)

そのときつくづく思いましたね。

わたしは、墓掘りでも、葬儀の受付でも、言われたことはたいてい何でもでき
るんだけど……仕切るのだけはなぁ (-_-;)、と思いましたね。(^^;)

相手の方も、コリャ駄目だとわかったんでしょう、その後は仕切ってくれまし
たけど……。

いや、“仕切る”のは、とっても無理ですよ。^^;

それには、ちょっとニサルガダッタを読みすぎちゃった。(^_-)

ところで、来週は11日〜18日の間、まぐまぐがメンテナンスで配信できな
くなるようです。

もしかしたら、来週はお休みするかもしれません。

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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