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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.293 2009/11/15(第293号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 951名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「私」と「私のもの」

2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】の2

3.いただいたお手紙から:komala さん、ハイアーセルフ33さん

4.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん

5.編集後記:でも……ニサルガダッタの言葉って……強力ですよねぇ。
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■ 1.「私」と「私のもの」
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雨に白く煙る山あいの谷間を、切って落とすような勢いの白いカーテンが右手
の方に流れていきます。

山里の豪雨もなかなかいいものです。

かと思ったら……また勢いを潜めて……。

空を覆う一面の灰色の雲は上の方で暗く……遠方の視界をかぎる低い山の辺り
でいちばん明るくなっています。

ときどき南の灰色の山の端あたりで雨雲から白い煙が垂れさがります。

ちょっと光景のなかに物語が生まれるような雰囲気があるんですよね。

だからといって何ということもないけれど……。^^;

あ……また雲の形が水彩画のような明瞭な明暗の差を見せはじめた……。

自然界の姿というものは……永遠の記憶の中からそのときどきの場面を映写す
るようなものなのでしょうかねぇ……。

現象世界はただ過去が未来に投影されるだけなのか……。

そしてわたしがそれを永遠の今にするのか……。

まあ……理屈はどうでもいいですね。(^_-)

画家なら絵を描くところだろうけど……哲学者は理屈を並べる……か。

外界はいろいろな形を浮かべるけれども……固有の意味はないのかも……。

いずれにしても「私は在る」……。

その「私」は外界とは無関係であってもいいし、それらすべての形が「私」の
ものであってもいい。

いずれにしろ現象は変化し続けるでしょう。

特にわたしが押す必要もない……。

ですよね。(^_-)

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

「11月11日・18日にシステムメンテナンスがあります」というので、その期間
は配信できないのかと思っていたら、たんなる期間の告知だったようです。

といっても、特に何か書く必要があるというわけでもありませんが。

たんなる癖です。(^^;)

メルマガを書くほうの現実にわたしの独占的占有権である<気づきの光>を投
じることにしただけです。

いえ、もちろん、“排他的独占占有権”と言ったわけではありませんが。(^_-)

しかしなんですなぁ……これでベトコンもなかなかやりますなぁ……。

あ。(@_@)

これ、じつは五代目柳家小さん師匠の何かの噺の前振りにあった科白です。^^;

とくに何の意味もありません。

このところテレビを見ていないので、オバマさんが日本に来た話も新聞でしか
知らないし……。

現象世界の流行にはとても追いついていけないんですよね。

だから、噺と言っては「私は在る」の一点張り。

ばっかじゃなかろか……というご意見はもっともだと思います。(*^_^*)

「私は在る」くらいお前に言われんでもわかっとる、と言いたくなりますよね。

ただ……実際のところ……それしか手持ちがないんですよねぇ。

現象世界のなかで見繕った“お気に入りの画面”を懐に入れて取っておけるわ
けじゃなし……。

(あーあ、まあ、ある意味で、懐に入れて取っておいてるわけかもね。

 よく聞くよね……“アカシックレコード”とかって……。
 
 小脳のことだとかいう話も聞いたことがあるけど……。
 
 2,3枚のDVDじゃ飽きちゃうからとかって……倉庫ごと持ってるわけか。
 
 でも、Cosmic TSUTAYA の倉庫番になってもなぁ。(-_-;))

そうかと言って……現象世界の変化を止められるわけでもなし……。

自分が気に入った場面で「世界」を止めちゃったりしてね。(^_-)

でも、そんなことしても、一分もしたら、バカらしくなるんじゃないかしら。

あ、一分(いっぷん)経ったかどうか、何も変化しなけりゃわからないか。

しかし考えてみれば、そのけっして変化しない背景が「わたし」そのものだ、
なんて噺もあるから、よくわからんよねぇ……。(=_=)

まあ……なんかようわからんけんど……いつでも「私は在る」んだよなぁ。

「私は在る」が「わたしはいない」にはならない。

もっとも、われわれの場合はぐっすり眠ったら、すぐに「わたしはいない」に
なるけどね。

「わたしはいない」と言う“わたし”がいない。(^_-)

それが(わたしなんかに想像できる)一番の楽だけど……でも……いまんとこ
目が醒めたら「私は在る」と思いこんでるからなぁ……。

これが、厄介だ……。

「私は在る」に魅入られちゃったかな。

なにしろ毎日『私は在る』を読んでるからなぁ。

そのせいもあるかなぁ……。

いやいや……『私は在る』に出会って自分が「私は在る」と思いこんでいるこ
とがわかっただけさ……。

いやいやそうじゃないな……やっぱりいずれにしろ「私は在る」んだよ。

> 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。(p317)

やだ、あんた、聞いてたの?! (>_<)

そんなこと、ちゃんと前もって言っておいてくれなきゃ困るよ。

こっちだって都合があるんだから……ぶつぶつ……。(=_=)

いま、思考に自己同化して、ちゃんと「私は在る」を“調べてる”ところなん
だから……。

ええと……そうそう……『私は在る』に出会って、わたしが“自分の身体”を
「わたし」だと思いこんでいたことがわかったんだ……。

こっちだって、“それは身体の問題だ”みたいな、まるでボロクソみたいな言
い方をしょっちゅうされたら、考え込んじゃうよ……、ったく。

----------------------------------------------------------------------
 それは身体の問題であって、食べたり、飲んだり、眠ったりすることで解決
 されるだろう。
                          『私は在る』(p405)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

なーによ、これ! (@_@)

そりゃ、身体の問題は、食べたり、飲んだり、眠ったりすることで解決するだ
ろうけど……。

でも、生存(サバイバル)の問題はどうよ?

今あるものを食べて、飲んだら、それでなくなっちゃうじゃないのー? (@_@)

わかってないんじゃないの、あんたー?! (?_?)

……と思って……ふと考える……。(-_-;)

あぁ……なるほど……。

われわれは映画のなかでは身体の問題を演じているだけなんだ……。

だから……ニサルガ師匠は「すべての定義づけは、身体とその表現にしか当て
はまらない」とかって……言ってたわけか……。

映画を観ているわたしは身体じゃないんだ……。(-_-)

> この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
> となく帰り着くだろう。(p27)

また、口出すー。(>_<)

これだから参るよ、覚者がたは……、ったく。

こっちはこっちで、自分のペースで考えてるんだから、少し黙っててよ。

しかし……かりそめにも……こうして映画のなかで生活しているわけだから、
そこでの生存のことは考えざるをえないよなぁ。(-_-;)

しかし……それが本当に“身体の問題”なのかどうか……?

むしろ“身体の問題”から始まって拡張した“マインドの問題”なのか……?

> そこに身体と、身体との同一化との感覚があるかぎり、欲求不満は避けられ
> ないものだ。(p499)

あ、そうなの。(@_@)

> あなたが身体とは完全に異なり、相容れないものだと知ったときにだけ、
> 「私は身体だ」という観念に不可避の恐れと欲望の入り交じった状態から休
> 息を見いだすのだ。

へー……やっぱりなぁ。

> 単に恐れをなだめたり欲望を満たしたりすることでは、あなたが逃避したが
> っている空虚な感覚を取り除くことはできない。

そうなんだぁ。

そうは言っても……生活はしなくちゃならないでしょう……やっぱり。

何もしなくてもいい……というわけにはいかないよね。

そうすると……どれくらい仕事に占領されなければならないのか、そこんとこ
が……いまいち……はっきりせんのですよ、うん。(-_-;)

> それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。
> 実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって、あなたによって
> なされるのではない。(p499)

あんた、そんなこと言うけどさぁ。(>_<)

そんなこと……なかなか……ハラにはいらんよ。

> あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あ
> なたに起こるのだ。
> どちらにせよ、あなたに変えることはできない。

……それはまあ……認めてもいいけど。

だからと言って……何も心配しない……という状態にはならないんだよね。

> あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。

そりゃ、そうですよ。

だって……主観的にはまさにそうなんだから……ぶつぶつ。(=_=)

> それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ。

ホントなの……。

> 何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。

「何ひとつあなたによるものではなく」……(ウソ (;_;))。

そんなこと……よく言えるねぇ。

> すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。

ったくぅ。(;_;)

> 光のなかには何もない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。
> あなたはただの光なのだ。

オガアジャ……。

じゃ、自分の生存のためには何の行為も必要ないというわけ?

----------------------------------------------------------------------
 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
                          『私は在る』(p418)
----------------------------------------------------------------------

うーむ。(-_-;) (←唸ってる。(^_-))

じゃ、仕事も何もおっぽりだして、いっさい行為するのをやめたら、どうやっ
て生活したらいいのよ? (?_?)

> またしてもそれは「もし私が夢を見るのを止めたら、どうすればいいのでし
> ょう?」と尋ねるようなものだ。

シドーイ。(T_T)

----------------------------------------------------------------------
 止まりなさい。
 そして見るのだ。
 「次は何か?」と心配する必要はないのだ。
 つねに次はやってくる。
 生命ははじまりも終わりもしない。
 不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
 のだ。
 数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
 ない。
 生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
 の源に戻っていくのだ。
                          『私は在る』(p500)
----------------------------------------------------------------------

うーむ。(-_-;)

……。

……たしかになぁ。

何をしなくても、次の画面はあるだろうし、興味があれば、その画面を観てい
る当人もいるわけだろうけど……。

そうかぁ……。

けっきょく、“自分は身体だ”という観念を何とかしないことには……にっち
もさっちもならない……ということかなぁ。

自分が、現象世界のなかで“何者か”だと思いこんでいるわけだよなぁ。

----------------------------------------------------------------------
 この執着は、「私」と「私のもの」という感覚とともに生まれたものだ。
 これらの言葉のもつ本当の意味を見いだしなさい。
 そうすれば、すべての束縛から自由になるだろう。
 あなたは時間のなかに広がるマインドをもっている。
 つぎつぎとあらゆることがあなたに起こり、そしてその記憶が残る。
 それには何の誤りもない。
 ただ、すべての有機的生命にとって本質的である過去の苦痛や快楽の記憶が、
 ひとつの反射的作用、支配的行動として残るとき問題が起こるのだ。
 この反射作用が「私」という形を取り、身体とマインドをいつも快楽の追求、
 苦痛からの逃避という目的のために使うのだ。
 あなたが「私」を、ひと塊(かたまり)の欲望と恐れとして、「私のもの」
 を、苦痛を避け快楽を確保するためにものごとや人びとを抱擁するものとし
 てあるがままに認識したとき、「私」と「私のもの」は、実在のなかに何の
 基盤ももたない偽りの観念だということが理解できるだろう。
 マインドによってつくられながらも、マインドがそれらを真実だと見なすか
 ぎり、それはそのつくり出した者を支配する。
 それが疑われた瞬間、それらは消え去るのだ。
                          『私は在る』(p404)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

そうかぁ……。

「私」というのは「ひと塊(かたまり)の欲望と恐れ」のことなのか。

「私のもの」とは……、
「苦痛を避け快楽を確保するためにものごとや人びとを抱擁するもの」なのか。

いや……確かだよ……それは。

間違いないわ。(-_-;)

「私」と「私のもの」って……、それだけのことだったのか……。

> 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。(p317)

それが“自然な状態”なんだ……きっと……。

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】2
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここでは、道を阻んでいるものと、その彼方にある状態とが何のけれんもなく、
ただ、そのままに提示されています。

> 生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。

やっぱり、そうなんですねぇ。

> 真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。
> 快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。
> すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。

すぐにそうできるものなら、そうしたいものだとも言えるけれど……。

“自分”(と思いこんでいるマインド)が邪魔しているだけだよなぁ。(*-_-*)

では、【【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】2回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 では、何ができるというのでしょうか?
 
 マハラジ
 ヨーガを通してあなたは知識と体験を蓄積してきた。
 それは否定できないことだ。
 だが、それらすべてがあなたにとって何だというのだろう?
 ヨーガとは統合、結合を意味する。
 あなたは何を再統合し、再結合したのだろうか?
 
 質問者 わたしは人格を真我に再結合しようと試みているのです。
 
 マハラジ
 人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。
 自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。
 あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。
 個人はそれ自体で独自に存在できない。
 個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己な
 のだ。
 すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)
 の彼方に在る。
 個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。
 なぜなら、個人というものは存在しないからだ。
 ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。
 何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。
 
 質問者 ヨーガは真我の探求とその発見を助けます。
 
 マハラジ
 あなたが失ったものは見つけることができる。
 だが、失わなかったものを見つけることはできないのだ。
 
 質問者 何も失っていないのならば、私は悟っていたでしょう。しかし、私
     は悟ってはいません。私の探求そのものが、何かを失ったことの証
     拠ではないでしょうか?
 
 マハラジ
 それはあなたが失ったと信じていることを意味するだけだ。
 だが、信じているのは誰だろうか?
 そして何を失ったと信じるのだろう?
 誰かあなたのような人を失ったと言えるのだろうか?
 あなたの探している自己とはいったい何だろうか?
 何をあなたは見いだすと期待しているのだろう?
 
 質問者 真の自己知識です。
 
 マハラジ
 真の自己知識は知識などではない。
 それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるよう
 な何かではない。
 それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。
 知識とは記憶にすぎない。
 思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。
 これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。
 あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。
 自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。
 あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。
 あなたはあなた自身なのだ。
 そしてそれには何の理由も必要ない。
 
 質問者 ヨーガを通して私は平和を見いだすでしょう。
 
 マハラジ
 平和があなたを離れて存在するだろうか?
 あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?
 あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。
 だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。
 その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。
 言葉は破壊のためにも用いられる。
 言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。
 あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。
 あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。
 
 質問者 ある程度の内的平和に私は到達したのです。それを破壊するのです
     か?
 
 マハラジ
 到達されたものはふたたび失われるかもしれない。
 ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、
 その平和はあなたとともに残るだろう。
 それは一度も去ったことはなかったのだ。
 あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったも
 のとは何かを見つけなさい。
 すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生の
 ものだ。
 身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚
 しなければならない。
 
 質問者 そのような知覚を得る方法は、何でしょうか?
 
 マハラジ
 生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。
 真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。
 快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。
 すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。
 
                        『私は在る』(p160-161)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

ふーむ。(-_-;)

> 質問者 では、何ができるというのでしょうか?

この質問者の言葉は、前回最後のマハラジの次のような言葉に対する問です。

「実在にははじまりはない。
 ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
 発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。」

> マハラジ
> ヨーガを通してあなたは知識と体験を蓄積してきた。
> それは否定できないことだ。

ええ、それは当人が言っていることですから。

> だが、それらすべてがあなたにとって何だというのだろう?

(?_?)

> ヨーガとは統合、結合を意味する。
> あなたは何を再統合し、再結合したのだろうか?
> 
> 質問者 わたしは人格を真我に再結合しようと試みているのです。

なるほど。

> マハラジ
> 人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。

ここで“人格(ヴィヤクティ)”と言っているのは自分を「個人」と思いこん
でいるわれわれみたいな存在のことでしょうね。

> 自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。

ここで“自己(ヴィヤクタ)”というのは「観照者」のことなのか。

> あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。

「観照者」が「個人」に自己同化すること……かな?

> 個人はそれ自体で独自に存在できない。

はい、それはわかります。

> 個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己な
> のだ。

“自己”つまり「観照者」のこと?

> すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)
> の彼方に在る。

“非顕現(アヴィヤクタ)”とは、言うなれば“気づきの太陽”みたいな?

> 個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。

はい。

> なぜなら、個人というものは存在しないからだ。

わかります。

> ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。
> 何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。

ああ、なるほど。

実在するものと、存在しないもののあいだに、分割とか統合とかいう問題はあ
りえないわけですよね。

> 質問者 ヨーガは真我の探求とその発見を助けます。

一般にそういう言い方があるわけでしょうね。

> マハラジ
> あなたが失ったものは見つけることができる。
> だが、失わなかったものを見つけることはできないのだ。

まあ、たしかに、そういうことになるんでしょうねぇ。

> 質問者 何も失っていないのならば、私は悟っていたでしょう。しかし、私
>     は悟ってはいません。私の探求そのものが、何かを失ったことの証
>     拠ではないでしょうか?

ああ、なるほど。

そういう考え方もたしかにありえますよね。

> マハラジ
> それはあなたが失ったと信じていることを意味するだけだ。

たしかに。

> だが、信じているのは誰だろうか?

そうか……。

信じているのはマインドでしかないわけか。

> そして何を失ったと信じるのだろう?

うん。

> 誰かあなたのような人を失ったと言えるのだろうか?

そっかぁ、それはないわけだ。

> あなたの探している自己とはいったい何だろうか?
> 何をあなたは見いだすと期待しているのだろう?

いやー、畳みかけてきますねぇ。(-_-)

> 質問者 真の自己知識です。

なるほど。

> マハラジ
> 真の自己知識は知識などではない。

お。(@_@)

> それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるよう
> な何かではない。

はい。

> それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。

わかります。

> 知識とは記憶にすぎない。

たしかに。

> 思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。

へー、知識とは“思考のパターン”はともかく、知識とは“精神的習慣”とは
変わった表現だなぁ。

あ、そうか……。

たしかに、知識とはある種の伝統のなかの“精神的習慣”かもしれない。

> これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。

ああ、どういう意図でそれらの知識が獲得され、蓄積されたかを考えれば、た
しかに、その通りでしょうね。

あらゆる知識は、「喜びと苦痛によって動機づけられている」でしょう。

> あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。

はい、間違いありません。

> 自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。

ほー。(@_@)

> あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。

なるほど。

これは……一度ゆっくり考えてみた方がいいかも。(-_-)

> あなたはあなた自身なのだ。
> そしてそれには何の理由も必要ない。

うーむ。(-_-;)

自明のような気もするけど……。

このあたりに……何かとても重要なものがあるのか……。

……というか、これを言えるかどうかが決定的なことなのかもしれないし。

> 質問者 ヨーガを通して私は平和を見いだすでしょう。

現在ヨーガを実習なさっているのなら、こう言わざるをえないですよね。

> マハラジ
> 平和があなたを離れて存在するだろうか?

なるほど。

しかし、“そりゃ聞こえませぬ伝兵衛殿”かもなぁ。

> あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?

きた……。

> あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。

はい。

> だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。

わかりました。

> その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。

はい。

> 言葉は破壊のためにも用いられる。
> 言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。

なるほど。

> あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。
> あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。

おお……。

これがニサルガヨーガと呼ばれるものか……。(-||-)

> 質問者 ある程度の内的平和に私は到達したのです。それを破壊するのです
>     か?

気持ちはわかります。

> マハラジ
> 到達されたものはふたたび失われるかもしれない。

ですよね。

> ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、
> その平和はあなたとともに残るだろう。

そうかぁ。

> それは一度も去ったことはなかったのだ。

はい。

> あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったも
> のとは何かを見つけなさい。

(-||-)

> すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生の
> ものだ。

はい。

> 身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚
> しなければならない。

自分でそれを知らなければならない。

> 質問者 そのような知覚を得る方法は、何でしょうか?
> 
> マハラジ
> 生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。

やっぱり。

> 真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。

はい、わかります。

> 快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。

はい。

「快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる」……のか。

> すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。

わかりました……。

いますぐにでも、何も望まない状態に入れば手に入るものだけど……。

ただ……先延ばしするわけだよなぁ。(*-_-*)

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


        …………○…………○…………○…………



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■ 3.いただいたお手紙から:komala さん、ハイアーセルフ33さん
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▼『アセンション館通信』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。


        …………○…………○…………○…………


今回、komala さんから前回の投稿メールに対する解説をいただきました。

わたしがねだったからでしょうね。(^^;)

【件名】:少し書いてみました
----------------------------------------------------------------------
 > 1.感じているのは誰か?
 > 
 > 雲ひとつない……けれど霞んだような晴天ですね。
 
 静かな感じ。
 
 > 気温はとても穏やか……いい季節です。
 
 やはり静かな感じ。頭も釣られて静かになる。
 
 > この時期……まわりの風景には分厚く盛り上がった山の緑にところどころ
 > 赤や橙色が混ざりはじめるんですよね。
 
 自然環境に恵まれた事務所に居て、頭が静かになっているので、情景をイメ
 ージしようとし易い。
 
 > しかも……庭先ではまだちろちろと紋黄蝶が飛んでいる。
 
 其処に「ちろちろと飛ぶ紋黄蝶」という動きが現れる。この動きは胸に響き
 ます。そして同時に、情景をイメージしようとしていたマインドの試みにス
 トップをかけてくれます。
 
 俳句「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」や「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
 と共通する働きを持つ表現なのではないでしょうか?
----------------------------------------------------------------------

(*@_@*)

なんと……。(-_-)

こういう心の静かな方に読んでいただいていたんですか……。

なんだか……恥ずかしいなぁ。(*-_-*)

komala さん、メール、ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


今回も、やはりハイアーセルフ33さんからメールをいただいたようです。

今回は、こちらで紹介させていただきますね。

【件名】:「感じている主体」の実体は何か?
----------------------------------------------------------------------
 みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。
 
 ●前回11月8日のパリさんのご意見では、私がパリさんのいうことを理解
 していないというご指摘をいただきました。その中では、パリさんが「言い
 たかったこと」が説明されています。
 
 (パリさん)
 > もしそうなら、その場合、は肝心なのは、その“議論”や“質問”をして
 > いるその人は誰か?という意味での「主体」、その意味での「当人」なの
 > です。
 
 > そのことをわたしはニサルガダッタから教わって、そのことをお伝えした
 > いと思ったわけでした。
 > その意味での「感受する主体」というのは、まったく具体的な事実の話で
 > す。
 
 またこうもいわれています。
 
 > 前回(11月1日)にお答えしたのは、そういう意図や欲望や恐れを“感
 > じている”主体は、「マインド」ですよ、という意味でした。
 
 つまりパリさんは「マインドは実際の現象面からの主体」なのだ、というこ
 とです。
 
 
 ●でも私としては、「どういう意味でも、なぜマインドを“感じている主
 体”(感じる主体)と言ってはいけないか」という説明をしたいと思いま
 す。
 
 これは「マインドとは何か」という本質論からきています。いうまでもなく
 「感じる主体」という以上、「主体が感情や感覚を“感じる”能力をもって
 いる実体」でなければなりません。これが定義・原則でなければなりませ
 ん。
 
 そして“感じる”ということは、実質的にいって「私(真我)という主体に
 のみ生じる心的な現象」です。
 
 ○「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
 ○「あなたが‘知る者'だということは覚えておきなさい」(P208上)
 
 「センサーが光を“感じて”いる」というような「反応」を意味する文脈で
 の使い方は、内面の構造についての話題の場合は、誤解を生む言い方なので
 極力さけるようにすべきでしょう。
 
 「感じる」とい現象は、あくまで心理現象として、その中核、すなわち「感
 じる主体(実体)」をもたねばなりません。そしてそれはどこまでいって
 も、私たちの「真我(実在)」でなければないのです。真我(実在)以外そ
 の能力をもっているものはないからです。この理解が第一歩として徹底的に
 重要です。
 
 ニサルガさんが「あなたはマインドで知るのだ」(P330)という意味は、
 「知る主体がマインド」ということではありません。これは「知る様式がマ
 インド(意識状態)」という意味です。そして「知る主体(感じる主体)は
 真我」です。
 
 マインドとは「対象」であり「意識状態」です。真我は「マインド(意識状
 態)として感じます」が、マインド自体が独自に、もうひとつの「対象」で
 ある意識状態(意図や欲望や恐れ)を「感じる」能力はありません。感じる
 能力がない以上、「感じている主体」には成り得ないのは当然です。
 
 ただマインドは、すべての観念や体験の記憶を「感情」という形で保存して
 います。そして新たな観念や体験にたいして、その記憶をもとに「反応」す
 る能力はあります。
 
 ですがこのことをもって「感じる主体」という言い方は、いま述べた理由に
 よってできないということです。
 
 
 ●肉体の反応の例を出します。
 
 「真我」が肉体に意識(気づき)を投影していれば、肉体の生化学反応は
 「感覚・感情」という名の意識状態(マインド)として認識主体(真我)に
 体験されます。
 
 暖かい・冷たい、色彩、音、匂い、快・不快などの感覚や感情の元は、たん
 に異なった周波数の波動エネルギーであり、心理的なものではありません。
 
 本来、生化学反応は純粋なエネルギー現象(動き)ですが、真我の働きによ
 って特定の「感覚・感情」に翻訳され、真我みずからがそれを体験している
 というわけです。これらの全体構造がマインドの構造です。
 
 こうした一連の現象から、たとえるならばマインドとは、真我に「感じさせ
 ている舞台(主体)」といえるでしょう。真我の側からいえば、「意図や欲
 望や恐れを“感じている様式(形式)と内容”」です。
 
 ですから、「感じている(感じる)主体がマインド」ということはありませ
 ん。
 
 したがってこのテーマは、たんに「別な視点から見ての言い方のちがいにす
 ぎない」といった事柄として扱ってはいけないものです。正しい認識論の上
 に立脚した表現が厳格になされるべきテーマと信じます。
 
 以上です。ご理解・ご検討いただければ幸いです。みなさんからのご意見も
 うかがえればうれしいです。ありがとうございました。
 
 
                     AUM ハイアーセルフ33
----------------------------------------------------------------------

(*-_-*)

メール、ありがとうございました。

はるさんは、やっぱり質問ではなくて、議論をなさりたかったんですよね。

わたしは、議論にはまったく興味がないし、自分としては最善を尽くしてお伝
えしたいと思ったことはお伝えしたので、もう特に何もないです……。

ただ……はるさんが当然のことのように、

> そして“感じる”ということは、実質的にいって「私(真我)という主体に
> のみ生じる心的な現象」です。

と、あたかも知っているかのように断定するのを聞くのは少し寂しいですね。

覚者ニサルガダッタが、せっかく、

「起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、『私は在
 る』の源に起こるのではない。」

とまで明確に、誤解の余地なく、重大な事実を伝えてくれているというのに。

また、はるさんは、まるでその意味を知っているかのように、

> ○「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
> ○「あなたが‘知る者'だということは覚えておきなさい」(P208上)

という言葉を、何度もご自分の論旨の根拠として引用しています。

少しはこの表現の真の意味も推測されてみては……と思いました。

はるさんが「真我」を苦痛と快楽を感じる「主体」に押し込めることに懸命
になっていたとき、彼が「知る者」に託したどれほどの意味が隠れたことか。

マハラジは再三“私には何も起こっていない”と語っているというのに。

それどころか、マハラジも、ラマナも、『神の使者』のJも、真我(神)は、
この現象界が存在していることすら知らないと伝えているのに……。

と言っても、はるさんに全然伝わらないことは……よくわかっています。(^^;)

はるさんによると、真我は「“感じる”ことを可能にする者」では全然ダメで、
真我は「感じている(感じる)主体」なんですよね。

でも、もしはるさんが、本気で「真我」を全存在物の「感じている(感じる)
主体」だと信じ込んでいるのなら、けっこう、大変かもね。

はるさんが、悟って「真我」になるときは、全宇宙内の無数の生命体の“苦痛
と快楽”を、「感じている(感じる)主体」として一身で支えて……。

七転八倒になっちゃうのかしら。(^_-)

それとも、実際上の“苦痛と快楽”を感じるのは、“感じている様式(形式)
と内容”を担当するマインドなんですか?

言葉も、そういうふうに使いはじめるとねぇ。(-_-;)

でも、きっと、はるさんが見せてくださったパフォーマンスには、とても感謝
している方が何人もいらっしゃのでは……と思います。

ありがとうございました。

m(_ _)m

        …………○…………○…………○…………


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■ 4.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん
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『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518

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今回も、ドン・ガバチョさんからご投稿いただきました。

ドン・ガバチョさん、もう少し短くしていただけると、全文掲載ができるかもし
れません。

では早速、ご紹介します。

【件名】: 二元論、半二元論、非二元論、純粋な非二元論 
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 二元論、半二元論、非二元論、純粋な非二元論
 ・・・・で御座います。
 
 いつもの私的なメモですので、どうぞ気になさらずに。
 ――――
 パーサ(アセンデッドマスター):J(イエス)の言ったことを私達が理解で
 きなかったのには、重大な理由が二つあるんだけれど、あなた方も知っておい
 たほうがいい。
 あなた方もやっぱり同じ理由で、彼が直接語ることを理解できないでしょうか
 ら。
 
 第一は、彼は誰かほかの人に語りかけたのではないってこと。
 「ほかの人」なんていないのよ。
 誰もいないんだけれど、そう口で言うだけではだめね。
 あなたもいずれそれを体験をするし、そのときあなたはかつてないほど解放さ
 れるでしょう。
 私達がJのメッセージを理解できなかった最大の理由は、「既に信じていたこ
 と」を彼の言葉に重ね合わせてしまったから。
 スピリチュアルな問題になると、人って必ずそんなことをしちゃうのね。
 
 Jは私達に、「私のレベルまで上がっておいで」と挑んでいる。
 ところが、こっちは彼を自分たちのレベルまで引き下げてしまうのよ。
 私達は古い聖書を頭から信じていた。
 いま考えても、「既にもっている信仰」というフィルターなしにJを見ること
 は無理だったと思うわね。
 
 彼は確かに救世主だったけれど、身代わりの救済を掲げるタイプではなかっ
 た。
 「自分を救うためにはどうすべきか」を私達に教えようとしたのよ。
 彼が「自分は道で、真理で、命である」と言ったのは、「彼の例に倣いなさ
 い」という意味で、「彼個人を信仰しなさい」ってことではなかったの。
 
 私達は、彼の身体を神聖化すべきではなかった――彼は自分の肉体を信じてい
 なかったんだもの。
 だけど、あなた方まで同じ間違いを犯すことはない。
 いま多くの人は新約聖書を通じて、あるいはニューエイジの棚から拾い上げた
 「レンズ」を通して、彼を見ている。
 でも彼のメッセージを理解すれば、それに匹敵するものはないってわかるわ。
 
 ゲイリー(著者):でも、いつでもJと同じ悟りに到達し、すべてを理解した
 人っていたんじゃないの?
 
 パーサ:いつもではないけど、ときにはそういう人もいたわね。
 その人達が必ずしも同じスピリチュアルな道を辿ったのではなかったことも重
 要ね。
 
 どんな宗教や霊性を信じるかで、その人のスピリチュアルなレベルや認識が決
 まるわけではない。
 キリスト教徒だって、とても高いレベルに達している人もいればどうしようも
 ない愚か者もいる。
 それはどの宗教だって哲学だって、スピリチュアルな教えだって同じで、例外
 はないわ。
 
 ゲイリー:どうしてそんなことになるんだろう?
 
 アーテン(アセンデッドマスター):どうしてそんなことになるかというと、
 神のもとに戻るための学びには、大きく分けて「四種類の姿勢」があるから
 だ。
 誰でもこの「四つ」を通るし、誰でも学習の過程で自分でも気づかずにその
 「四つ」を行ったり来たりする。
 「各段階の考え方」と「結果としての体験」はそれぞれ違うし、「どの段階の
 姿勢をとっているか」で、同じ聖書の言葉を違って解釈することになる。
 
 「二元主義」、これは宇宙のほとんどすべての状態だ。
 心は「主体」と「客体」の領域を信じている。
 神を信じつつ、二つの世界があってどちらも真実だと思っている――つまり
 「神の世界」と「人間の世界」があると信じている人、これが「二元主義者」
 だ。
 
 「人間の世界」においては実際的にも客観的にも、「主体」――君自身――
 と、ほかのすべてである「客体」という事実があると信じている。
 この姿勢はニュートン物理学のモデルによく現れているね。
 「人間の宇宙」をつくっているモノ、それはほんの数百年前まではただ「世
 界」と呼ばれていたあらゆる現象だが、それは君とは別に存在し、君達はそれ
 を操作できると思っている。
 
 この「君」とは身体と身体を動かしていると思われている脳だ。
 事実、前にも触れたとおり、君が自分だと思っている身体と脳は「世界」が生
 じさせたかに見える。
 
 だが真実はまったく逆なんだよ。
 当然ながらこの「二元主義」の姿勢の段階では、「神」は君の外側のどこかに
 いることになる。
 こっちに「君」がいて、あっちに「神」がいて、両者はばらばらだ。
 ほんとうは「現実」である神が遠い「幻想」のように見える。
 ほんとうは「幻想」である世界がここにある「現実」に思える。
 理由はあとで言うが、君の心は家から離れた放蕩息子のように引き裂かれてい
 るので、無意識のうちに「分裂した心」がもつ特徴を「神」に付与しようとす
 る。
 そのために神と神のメッセージと思えるものが矛盾してしまう。
 このほとんどが無意識に行われる。
 
 だから自分の「分裂した心」のなかではなくて、「外側の世界」に実在するよ
 うに見えるんだ。
 それで、神は赦しであると同時に怒りになる。
 神は気分次第で愛したり殺したりする、ってね。
 
 これは「二元論」の心の特徴にはぴったりだが、神の特徴だとはとても思えな
 いよね。
 言うまでもなく、このために無数の奇妙なことが起こる。
 「土地や財産を奪うため」に、「ある正義や宗教をすべての人に押し付けるた
 め」に、ほかの人を殺せと神が命じる、なんて考え方もその一つだ。
 
 この愚かな悲劇を、現代社会はすべて当然だと思っている。
 まったく狂気の沙汰なんだがね。
 
 神のもとに戻るための「次の」学びの姿勢は、「半二元論」と呼ばれる。
 ある種の真実の考え方を受け入れ始めているので、「穏やかで優しい二元論」
 と言ってもいいかもしれない。
 これもやっぱり、どの宗教を信じているかとは関係ない。
 
 この段階にある心が受け入れる考え方の一つが、「神は愛である」というシン
 プルな概念だ。
 
 だがこのシンプルな概念をほんとうに信じると、とても難しい疑問が起こる。
 たとえば神が愛であるなら、同時に憎悪でもあり得るのか?
 神がほんとうに完全な愛なら、欠陥なんてあり得るか?
 神が創造者なら、被造物に復讐することなんかあるのか?
 
 これらの疑問の答えは、「もちろんそんなはずはない」、というものだ。
 
 それがはっきりすると、長いあいだ閉じられていた扉が少し開く。
 「半二元論」では隠されていた神への激しい恐怖の念が、少し減り始める。
 君も言ったように、もう神があまり怖くなくなるわけだ。
 原始的なかたちの「赦し」が心に根を下ろす。
 
 それでも自分を肉体だと思い、「神と世界は自分の外側にある」と思っている
 が、「神が君の状況をつくり出したのではない」と感じる。
 ものごとがめちゃくちゃになったとき、そこに必ずいるのは「自分自身」なん
 じゃないか?
 
 完全な愛なら善だけを生み出すはずだ、だからほかのすべてはべつのところか
 ら生まれているに違いない・・・と考える。
 ところが、べつのところなんてないんだよ。
 
 パーサ:「次の」姿勢が「非二元論」よ。
 
 学びの姿勢でも、スピリチュアルな見方でも、私達が言うのはつねに「心の状
 態」よ。
 「心の姿勢」であって、目に見える外界のことじゃないの。
 
 簡単な例から始めましょうか。
 森で木が倒れたとき誰もいなかったら倒れる音はするか、っていう古い謎々を
 覚えてる?
 
 ゲイリー:覚えてるよ。
 答えは証明できないから、必ず議論になるんだ。
 
 パーサ:で、あなたの答えは?
 議論はしないと約束するわ。
 
 ゲイリー:聞いている人がいようがいまいが、木が倒れる音はすると思うな。
 
 パーサ:その回答は、かたちのレベルでさえ、まったく間違い。
 
 木が倒れると音波が送り出される。
 音波は電波みたいなもので――どっちもエネルギー波だけど――受け取る相手
 が必要なのよ。
 
 この部屋にはたくさんの電波が飛び交っているけれど、受け取るレシーバーが
 ないから何の音もしていないでしょう。
 人間や動物の耳はレシーバーよ。
 
 「森の真ん中で木が倒れても、聞いている人が誰もいなければ音はしない。」
 「音は開く者があって初めて音になる。」
 
 あなたが見たり触れたりするまでは、エネルギー波がモノとして現れないのと
 同じ。
 
 つまりタンゴを踊るには二人の人間が必要ってこと。
 何かがかかわりあうためには「二元性」が必要なの。
 だって「二元性」でなければ、かかわりあう相手がないでしょう。
 見るほうにそれと対応する姿がなければ鏡には何も映らない。
 「二元性」がなければ森のなかの木もない。
 
 *ドン・ガバチョ 注)優は劣が無ければ在り得ないし、富は貧が無ければ在り
 得ないし、美は醜が無ければ在り得ない。逆もまた同様である。つまり、相対
 の関係性を以ってこの世に現象している訳です。さて「相対二元の現象」の実
 存は、二元の特性を併せ持った一つの属性です。この「実存」(二元の特性を
 併せ持った属性)を識(し)り、愛(め)でるレベルが「非二元論」です。
 
 量子物理学者の一部が気づいているとおり、「二元性」は神話なのよ。
 
 そして「二元性」が神話なら、木がないだけでなり、宇宙だってやっぱりない
 の。
 「それを認識するあなた」がいなければ、この宇宙はない。
 この宇宙がないなら、このあなたもない理屈になる。
 「存在」という幻影を生じるためには、一なるものを「分割」しなければなら
 ない。
 あなた方がやっているのが、まさにそれ。
 すべては仕掛けね。
 
 一なるもの、という考え方はべつに独創的じゃないわ。
 でも、それなら自分は何と一つなのか、と問いかける人はあまりいない。
 問いかけた人も、大部分は神という答えを出すのだけれど、そこで「この宇宙
 は聖なるものによっていまあるかたちで創られた」と想定してしまう。
 この想定は間違っているし、そう考えてしまうと、ブッダのように心を完成さ
 せた賢者でさえ、恒久的な意味で神に到達できなくなります。
 ……
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ドン・ガバチョさん、やっぱり、今回もまぐまぐの掲載制限で全文は掲載でき
ませんでした。

ご投稿、ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


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■ 5.編集後記:でも……ニサルガダッタの言葉って……強力ですよねぇ。
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こうして書くこと……自分にはこういう道しかないからこうなのか? (-_-;)

ただただ無用に……静かになるのを先延ばししているだけなのか?

結局は……誰もが自分の自己愛を表現したいのだそうですけど……。

でも……ニサルガダッタの言葉って……強力ですよねぇ。

お陰さまでわたしも……少しずつ不幸になる理由がなくなってきて。(*-_-*)

で、考えてみたらただ……現象世界で幸福になりたいなどと……あまり思わな
くなってきているから……だけなんですよね。

とりあえず……しなきゃならないことを……しているだけです。

心配マインドが湧いてきたら……とりあえず無視してそっぽを向きます。(^^;)

これくらいが……自分には……相応なようです。

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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