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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.294 2009/11/22(第294号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 954名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.彼の事実ではなく自分の事実に

2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】の3

3.いただいたお手紙から:ハイアーセルフ33さん

4.編集後記:だんだん共鳴しあい、だんだん単純なひとつの音に……
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■ 1.彼の事実ではなく自分の事実に
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今日はまた雲ひとつない晴天……。

風もほとんどない。

目の前の柊(ひいらぎ)の葉に日の光が反射しています。

この何の問題もない風景が……なぜ真の安らぎの表現にならないのか……。

やはりこの風景を見ている“自分”が……現象界の囚人であるちっぽけな肉体
に自己同化していて……微かに何かを求めているからなんでしょうね。

つねにこの微かな内圧があって……現象世界のなかでこの肉体に自己同化した
わたしを……内側に引き寄せつづけているのだと思います。

本当の自分に戻りたいんですよね。

何の必要もない真の自由を実現したいのだと思います。

でも……わたしが“自分”と思っているその自分以外の誰かが……それを妨げ
ているというわけではない……。

誰かがわたしを現象界の表面に釘づけにしているわけでもない。

たしかに……誰に強制されているわけでもないようです。

それでも……本当の自分を知らないばかりに……“わたし”はつねに現状以外
の何かを微かに求めつづけている……。

“永遠につづく快楽の保証”という……現象世界のなかでの“幸福”を……も
う求めてはいません……。

どんな“他者”との関係も……ただ煩わしく……嘘っぽいだけ……。

それでもまだわたしは……この現象界のなかに……自分がいると思っているの
だろうか……?

そしてこの顕現世界のなかで識別される“皮一枚”を境に……あいも変わらぬ
“自他の別”を……この世界のなかで維持しようというのだろうか……?

明らかに……不合理です……。

とはいえ……まだ……維持しつづけなければならない……。

この身体の周辺で意識と物質として“対発生”しているマインドが……みずか
ら納得してそれを手放すまでは……。

ふ。(-_-)

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

ところでこの目に見える現象界のなかに……わたしはほんのわずかの欠片(か
けら)でも存在するのでしょうか?

わたしがこの世界の存在根拠である……らしいことは、だんだん納得できるよ
うになってきました。

----------------------------------------------------------------------
 あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
 い。
                          『私は在る』(p178)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

この何とも言えない単純な……そして反駁不可能な事実の表明……。

> あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
> い。

何度くり返して読んでも、これは反駁できません。

そして……その延長にある次の途方もない表明……。

----------------------------------------------------------------------
 あなたは世界に属するのではない。
 あなたは世界のなかにいるのでさえない。
 世界は存在しない。
 あなただけが在るのだ。
 あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。
 あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
 外側の世界をもつこともできないのだ。
 独立しているのは、世界ではなくあなただ。
                          『私は在る』(p471)
----------------------------------------------------------------------

> 独立しているのは、世界ではなくあなただ。

この……最初は途方もないと思えた表明も……いや、これは本当ではないか、
と思われるようになってくる……。

そしてどう思い返しても……ニサルガダッタに質問者(わたし)を騙す必要が
あるとは思えない。

そしてまたその気になって、その文脈に沿って彼の言葉をたどってみる……。

> あなたは世界に属するのではない。
> あなたは世界のなかにいるのでさえない。
> 世界は存在しない。
> あなただけが在るのだ。
> あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。
> あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
> 外側の世界をもつこともできないのだ。
> 独立しているのは、世界ではなくあなただ。

……。(-_-;)

> あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。

ほんとに……そうなんじゃないのか? (-_-;)

> あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身から独立した
> 外側の世界をもつこともできないのだ。

これは……間違いようもない……単純な事実だ……。

> 独立しているのは、世界ではなくあなただ。

これは……本当なんじゃないか……。(-_-)

こうなるともう……ニサルガダッタの引力圏内に入ったも同然だと思います。

何度も何度も……ニサルガダッタの言葉で……彼の事実をたどるしかない。

すると……読んだ分だけ……それが“彼の事実”ではなく……“自分の事実”
になってしまう……。

独立しているのは……世界ではなくわたしだ……。(@_@)

わたしが想像のなかで世界を夢のように創造している……というのはたぶん
本当なんだ……。

----------------------------------------------------------------------
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
 い。
 あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
                          『私は在る』(p178)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-;)

----------------------------------------------------------------------
 世界はあなたがそれに与えるだけの力しか、あなたに対して持ってはいない
 のだ。
                          『私は在る』(p370)
----------------------------------------------------------------------

> 独立しているのは、世界ではなくあなただ。

だとすれば……では、なにゆえに世界は存在するように見えるのか……。

----------------------------------------------------------------------
 すべてはあなたにかかっている。
 世界はあなたの承諾によって存在しているのだ。
 世界の実在性に対するあなたの確信を取り消しなさい。
 そうすればそれは夢のように消え去るだろう。
 時間は山でさえも消し去る。
 時間を超えた時間の源であるあなたなら、なおさらのことだ。
 なぜなら、記憶と期待なしに時間はありえないからだ。
                          『私は在る』(p470)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

では……世界を創造したのは……もしかして……。(*-_-*)

----------------------------------------------------------------------
 宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
 世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
                          『私は在る』(p398)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

もしそうだとすれば……わたしはなぜ世界を創造したりしたのか……?

----------------------------------------------------------------------
 創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。
                          『私は在る』(p105)
----------------------------------------------------------------------

……。(*-_-*)

もし……それが本当なら……それじゃ……この世界の意味を問うこと自体……
意味がないんだ……。

----------------------------------------------------------------------
 あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
 ればならない。
 だから言っているのだ。
 あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
 あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。
 
                          『私は在る』(p398)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

じゃ……わたしが世界をこのように嫌悪しているのは……もしや……。(*-_-*)

----------------------------------------------------------------------
 世界は無数の輪(リング)でできている。
 それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
 あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 あなたの耽溺を放棄しなさい。
 ほかに何も放棄するものはない。
 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
 そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
                          『私は在る』(p259)
----------------------------------------------------------------------

……。

どうしてわたしは……世界のなかで何かを求めてしまうのか……? (;_;)

----------------------------------------------------------------------
 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
 を忘れるのだ。
 結局のところ、世界とは何だろう?
 記憶の集合だ。
 ひとつのことを固守しなさい。
 それが大切なことだ。
 「私は在る」をつかみ取りなさい。
 そしてほかのすべてを手放しなさい。
 これがサーダナ(修練)である。
                          『私は在る』(p111)
----------------------------------------------------------------------

そうか……。(-_-)

世界を知ることで……わたしは自己を忘れ、非実在の世界のなかで溺れてしま
うのか……。

> ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
> のだ。(p377)

そうか……。

わたしは世界のなかの個人としてはマインドであり、また世界のなかの個人に
自己同化した観照者としては実在の反映でもあるわけだ。

わたしはまず……個人から観照者へと……自分のアイデンティティ(自己同定)
を移していかなければならないわけだ……。(-_-;)

----------------------------------------------------------------------
 真実への欲望は最高の欲望だ。
 だが、それはいまだに欲望であることに変わりはない。
 真実が在るためには、すべての欲望が放棄されなければならないのだ。
 あなたは在る、ということを覚えていなさい。
 これがあなたの仕事の資本だ。
 その資本を回転させなさい。
 そうすれば多大な利益を生むだろう。
                          『私は在る』(p214)
----------------------------------------------------------------------

わかった……。

----------------------------------------------------------------------
 「私は在る」は世界のなかにある。
 しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。
 水面に踊る月は、水のなかに見られる。
 だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。
 
                          『私は在る』(p217)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】3
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

いつもながら、マハラジの言葉には圧倒的な確信の力があります。

その盤石の言葉がこのように保証してくれています。

> もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
> かならず満たされるだろう。

これ以上の保証というものはありえないわけですよね。

そしてこの老婆親切の言葉があります。

> しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
> ならないのだ。

……。

> もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
> ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
> で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。

当然だと思います。

> 内側に入っていきなさい。
> けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。

(-||-)

では、【【34 マインドは落ち着きのなさそのものだ】3回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?
 
 マハラジ
 もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。
 欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。
 欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
 「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
 欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。
 
 質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。
 
 マハラジ
 あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。
 そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。
 
 質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であ
     っても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。
 
 マハラジ
 それらはその根を想像のなかにもっているのだ。
 石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、そ
 れが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。
 同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。
 どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と
 先入観に基づいたものとして見られるのだ。
 普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。
 それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。
 
 質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実
     です。
 
 マハラジ
 苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。
 一方からの自由はその両方からの自由を意味する。
 もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。
 だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。
 あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
 ものだ。
 しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。
 外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。
 異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。
 実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。
 もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
 ないということだ。
 それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
 在についての無知からやってくるのだ。
 
 質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私
     の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。
 
 マハラジ
 もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
 かならず満たされるだろう。
 しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
 ならないのだ。
 もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
 ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
 で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。
 内側に入っていきなさい。
 けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。
 
 質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。
 
 マハラジ
 それらはあなたの記憶以外のどこにあろう?
 それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。
 そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。
 
 質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜ
     なら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちに
     はそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だと
     すれば、最後に残るのは何なのでしょうか?
 
 マハラジ
 何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。
 状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に
 手を着けてはならない。
 まずあなた自身を見いだしなさい。
 そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。
 利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。
 もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。
 なぜなら、彼はすべての葛藤(かっとう)を超えているからだ。
 
                        『私は在る』(p161-163)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(;_;)

> 質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?

思わず出たこの質問者の問いは、前回の最後の部分でのマハラジの言葉、

「生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。
 真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。
 快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。
 すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ」

への反応です……。

まことに、当然至極の反応というか……われわれの反応そのものです。

> マハラジ
> もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。

あーあ……“何百万年”もか……。(>_<)

> 欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。

たしかに……そうでしょう。

> 欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。

おお……。(@_@)

> 「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。

そうか。(@_@)

 「誰が望んでいるのか?」 → 「マインドが望んでいる (-_-;)」

> 欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。

はい。

> 質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。

ですよね。

> マハラジ
> あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。

たしかに。

> そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。

わかります。

> 質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であ
>     っても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。

おお……、一応、マインドとしても理屈はこねてみるか。

> マハラジ
> それらはその根を想像のなかにもっているのだ。

そうかぁ……。

もっとも……そうでなきゃ困るけど。

> 石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、そ
> れが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。

たしかに。

> 同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。

そうなんだ。

そうでなきゃ困るし。

> どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と
> 先入観に基づいたものとして見られるのだ。

きまりきった機械的反応……ということかぁ。

> 普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。

おお……なるほど。(@_@)

> それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。

「習得された習慣と確信の問題」……。(-_-;)

(@_@)

そうなのか……。

> 質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実
>     です。

やっぱり、苦痛については、ちょっと論理では収まらない恐怖があるよね。

> マハラジ
> 苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。

たぶん、ここはとっても大切なことなんだ。(-_-)

> 一方からの自由はその両方からの自由を意味する。

じゃ、快楽からの自由の方が挑戦しやすいのかもしれない。

> もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。

なんとなく……わかるような。(-||-)

> だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。

はい。

> あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
> ものだ。

「表現可能で予測できる」が「客観的なもの」……ということなんだ。

> しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。

へー、どうしてなんだろう? (?_?)

> 外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。

上で言う「客観的なもの」とは「外的なものと」という意味だったんだ。

時間を超えた“気づき”である「自己」を、現象世界のなかの具体的な事象と
同一視するのは悲惨な過ちだ。

> 異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。

はい。

> 実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。

信じます。(-_-)

> もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
> ないということだ。

「実在」は、「苦痛と快楽」の「源泉」でも「原因」でも「根源」でもない。

> それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
> 在についての無知からやってくるのだ。

それら(つまり「苦痛と快楽」の「源泉」「原因」「根源」)は「実在」から
ではなく、(「実在」についての)「無知」からやってくる。

「苦痛と快楽」は、「実在」についての「無知」からやってくるのか。(-_-)

『神の使者』が伝えるJのメッセージ、この世界は存在しない、神はこの世界
の存在すら知らない、とまさにパラレルだなぁ。

> 質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私
>     の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。
> 
> マハラジ
> もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
> かならず満たされるだろう。

(-||-)

> しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
> ならないのだ。

わかります。(;_;)

> もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
> ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
> で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。

当然ですよね。

> 内側に入っていきなさい。
> けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。

はい。

> 質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。
> 
> マハラジ
> それらはあなたの記憶以外のどこにあろう?

おーお。

まさに……。

わたしがいまその記憶に注意を注ぐこと以外にその「欲望と恐れ」にチャンス
はないんだ……。(-_-;)

> それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。

わかります。

> そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。

そうか。

> 質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜ
>     なら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちに
>     はそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だと
>     すれば、最後に残るのは何なのでしょうか?
> 
> マハラジ
> 何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。

うん? (@_@)

> 状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に
> 手を着けてはならない。

おー。

これはとても実践的なアドヴァイス。

> まずあなた自身を見いだしなさい。

はい。

> そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。

(;_;)

> 利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。

はい。

> もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。

わかります。

> なぜなら、彼はすべての葛藤(かっとう)を超えているからだ。

(-||-)

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


        …………○…………○…………○…………



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■ 3.いただいたお手紙から:ハイアーセルフ33さん
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        …………○…………○…………○…………


今回も、やはりハイアーセルフ33さんからメールをいただきました。

こちらで紹介させていただきます。

【件名】:「源には何も起こっていない」という真実
----------------------------------------------------------------------
 みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。
 
 今回は前回までのパリさんと私の「考え方のちがい解消」にむけての努力で
 す。
 
 誤解して欲しくないのは、私は「源には何も起こっていない」という意見に
 反対してはいません。
 
 たんに「認識主体が源(真我)ではない」という意見に異議を唱えているだ
 けです。というわけで、
 
 ● パリさんにひとつ質問があります。ニサルガさんの言葉
 
 「起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、『私は
 在る』の源に起こるのではない。」(P469)
 
 を根拠に、パリさんとしては「感じる主体(認識主体)は源である真我では
 なく、マインドである」というご主張、そして「真我はそれを可能にしてい
 るだけだ」ということです。
 
 そこで不思議に思うのは、11月1日のメルマガで私が引用した下記(6)
 の二サルガさん言葉に対して答えられたパリさんのご意見です。
 
 (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
    れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)
 
 (パリさん)**********************
 
 「真我」は、もちろん、楽しむ能力も、世界を知覚する能力も、持っている
 と思いますよ。
 
 それどころか、森羅万象、すべての対象物やそれを意識する能力は、「真
 我」を根拠に存在しているわけですから。
 
 ****************************
 
 パリさんのご意見で何が不思議かというと、「真我は楽しむ能力と世界の知
 覚能力はある」と認めながら、
 
 「感じる主体(認識主体)は、源である真我ではなくマインド」と言われて
 いることです。
 
 これはお尋ねしなければ理解できないことなので、よろしくお願いします。
 
 私は上記(6)の裏づけ根拠として、下のニサルガさんの言葉をあげていま
 す。
 
 ○「(究極の体験者は)もちろん、真我だ。」(P87下)
 ○「あなたが‘知る者'だということは覚えておきなさい」(P208上)
 
 ●いま私は「源には何も起こっていない」ということには反対していない、
 と言いました。というのもそれもある視点から見ると真実だからです。
 
 「源(真我・実在)が何か」については、大きくは2つの視点から見ること
 ができます。源を「認識主体」または「至高なる知性」という視点から見る
 ことができます。
 
 では以下に、「源には何も起こっていない」という真実について、その2つ
 の視点から述べてみました。
 
 ●1.「源には何も起こっていない」という真実を、源を「認識主体」と見
 る視点から説明。
   
 (1)神鏡のたとえ
 
  神棚のお宮(社)の中心に置いてある「鏡(神鏡)」が、この場合「真我
 のメタファー(隠喩)」といえます。
 
 「お宮(社)」は私たちの身体を象徴しています。真我である「鏡」には美
 しいもの、醜いもの、何であれ映りこみます。「映りこむ」ということは、
 真我の「体験」にあたります。
 
 ですが鏡は、映りこんだ内容にまったく染まらず、変質・変性することもあ
 りません。これが真我を「認識主体」という視点から見た場合の「源(真
 我・実在)には何も起こっていない」という真実です。
 
 ここでは体験は排除されません。「まったくその本質に影響を与えない」と
 いう意味です。
 
 私たちが常に、感覚・感情に影響されない「不動の観照」が可能なのもこう
 した原理からでしょう。
 
 (2)肉体の実例
 
 私たちは自分を、ある特定の「状況の中にいる」と認識しています。また肉
 体に異変が起こった時には、「自分に起こっている」と認識します。一般的
 にはそうです。
 
 しかしチャネリング情報などでは、本当は「私なる本質」が認識主体とし
 て、どこにでも意識を投影し、「そこにいる」と体験しているだけなのだと
 言われています。
 
 実際は、投影先の環境に「私なる本質」(実在)がいるわけではありませんが
 (ある意味ではいるともいえますが)、「その環境に自分が存在している」
 という実感がマインドに生まれています。
 
 また肉体に意識を投影していれば、肉体の生化学反応は「感覚・感情」とい
 う名の意識状態(マインド)として、認識主体(真我)に体験されます。そ
 して肉体の変化が「自分に起こっている」と錯覚します。
 
 しかし実際は、「私の意識の投影先(肉体)」に起こっているだけで、私
 (真我)に起こっているわけではありません。これが「源(真我・実在)に
 は何も起こっていない」という実例です。
 
 二サルガさんは、私たちの一連の現象(錯覚・幻想)の解除のために、「源
 (あなた)に起こっているのではない」といっていることは明らかだと思い
 ます。
 
 なぜなら苦悩(精神的苦痛)の原因は、意識が対象に同化してしまい、その
 結果、「ことは自分に起こっていて、自分が望まないものに自分が変質して
 しまう」などの恐れにもとづいているからです。
 
 
 ●2.「源には何も起こっていない」という真実を、源を「至高なる知性」
 と見る視点から説明。
 
 源(真我・実在)について、古今の聖賢や高次意識体からの情報の共通項は
 以下のようなものでしょう。
 
 (1)すべてに遍満し、すべてに浸透し、すべてを創造し、すべてを支えて 
       いる「至高の知性・意識・生命」。
 
 (2)すべての‘顕現するもの'の背後にある‘顕現させるもの'。法則・原
       理として表れる。したがって顕現するもの(したもの)'によって影響
       されず、不変・不動・不壊の存在。
 
 (3)しかし‘顕現させるもの'は‘顕現するもの'と不可分。
 
 真我(実在)を「至高なる知性」という見る視点からは上記のことがいえま
 す。
 
 この知性は、みずからの展開によってすべての認識対象(概念も含む)とな
 り、すべての視点となり、その認識主体となり、すべての体験を可能にして
 いるということになります。
 
 「至高なる知性」(真我・実在)は、「顕現するもの(現象)」をその表現
 としますが、「顕現するもの自体」ではありません。
 
 この背後にある「非顕現性」の視点から源を評価すると、「すべての顕現さ
 れた現象(認識も含む)を超えている」あるいは「その彼方に在る」といわれ
 ることになります。
 
 したがって「・・ではなく・・でもなく・・でもない」という主張になりま
 す。現象化される対象のいづれでもないからです。
 
 そして「至高なる知性」は、現象のなかにあっては「法則・原理」として現
 れます。したがってこの知性は、いうまでもなく現象そのものにはまったく
 影響されません。
 
 現象そのものが法則・原理といった「存在の知性」の中で生じているのです
 から当然です。この「不変性」の視点から見れば、「源には何も起こってい
 ない」になります。以上です。
 
 ついでながらもうひとつの視点ですが、「至高なる知性」である‘顕現させ
 るもの'は、‘顕現するもの'と分離はなく不可分です。
 
 この「不可分性」の視点からすれば、「すべてはひとつ」とか、「私はすべ
 てであり、すべては私である」とか、「真我(実在)しか存在しない」など
 という表明がなされることになります。
 
 「源」は見られる視点によって様々な見解が生じます。そして「視点」とは
 「源のあり様」として対等ではないでしょうか。そうであれば、それぞれの
 視点から得た真実も「対等な真実」になるのではないでしょうか。
 
 それゆえにこういうことが言い得ているのではないでしょうか。
 
 ○「(実在は)完全に首尾一貫し、絶対的に矛盾したものだ」(P225下)
 ○「彼(真我・実在)はすべてに対してイエスであり、ノーである」(P105
 下)
 
 以上です。みなさんのご意見をお待ちしています。質問がある方はどうぞ。
 ありがとうございました。
 
               AUM ハイアーセルフ33(KIN33)
                                   
                 ご意見ご質問は haruhi33@nifty.com
----------------------------------------------------------------------

はるさん、メールありがとうございました。

今回も、ご質問ということですので、その部分だけご返答します。

> たんに「認識主体が源(真我)ではない」という意見に異議を唱えているだ
> けです。というわけで、

再三、お好きなようにお考えくださいと申し上げていて、じつは、これ以上ど
ういうふうに言えば、これが終わるのかわからなくて。(*^_^*)

> ● パリさんにひとつ質問があります。

はい。(^^;)

> ニサルガさんの言葉
> 「起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、『私は
> 在る』の源に起こるのではない。」(P469)
> 
> を根拠に、パリさんとしては「感じる主体(認識主体)は源である真我では
> なく、マインドである」というご主張、そして「真我はそれを可能にしてい
> るだけだ」ということです。

えーと、そもそもそこから違うんですよねぇ。^^;

わたしは上記の文章だけを根拠にしているのでもないし、上記の内容を主張し
ているわけでもありません。

わたしにとっては自分なりに疑問の余地なくわかっていることです。

だから、議論する必要も、主張する必要も、ましてやはるさんを説得する必要
も、同意を得る必要も、まったくないことなんです。

主張したり議論したりしていると思っているのは、はるさんだけです。^^;

わたしに関していうなら、ただはるさんのご質問に応えて、自分の理解をお伝
えできるかなと思って……失敗しただけです。(^^;)

> そこで不思議に思うのは、11月1日のメルマガで私が引用した下記(6)
> の二サルガさん言葉に対して答えられたパリさんのご意見です。
> 
> (6)「ただその傍観者だけが実在なのだ。彼は真我ともアートマとも呼ば
>    れる。真我にとって世界は、それが続く限り楽しみ、終われば忘れ
>     られしまう。ただの色鮮やかなショーにすぎない」(P196下)
> 
> (パリさん)**********************
> 
> 「真我」は、もちろん、楽しむ能力も、世界を知覚する能力も、持っている
> と思いますよ。
> 
> それどころか、森羅万象、すべての対象物やそれを意識する能力は、「真
> 我」を根拠に存在しているわけですから。
> 
> ****************************
> 
> パリさんのご意見で何が不思議かというと、「真我は楽しむ能力と世界の知
> 覚能力はある」と認めながら、
> 
> 「感じる主体(認識主体)は、源である真我ではなくマインド」と言われて
> いることです。
> 
> これはお尋ねしなければ理解できないことなので、よろしくお願いします。

では、この部分だけお答えしますね。

といっても、

「真我は楽しむ能力と世界の知覚能力をもっている」と

「感じる主体(認識主体)は、源である真我ではなくマインド」

の二つの文章間に論理的な自己矛盾があるわけでもなし、何が理解できないの
かは……よくわかりませんが……。(?_?)

それと……これは……文脈の理解という意味での……まあ感想ですが……。

> 「真我」は、もちろん、楽しむ能力も、世界を知覚する能力も、持っている
> と思いますよ。

という文章の前後を読めば、これが「だって、それこそがわれわれじゃありま
せんか (^^;)」という意味の軽いジョークとわかっていただけると思いました。

もともとこのメルマガは世の中の常識に向かって、それを前提に、書いている
わけではありません。

最初から、こんな変わった内容でもいいという方しか、読むはずのない内容で
すから。

われわれ人間自体がじつはマインドで非在だ、というような話はとうてい承認
できない方は、最初からこんなメルマガを読まなくてもいいわけです。^^;

快楽や苦痛という感じる体験そのものが、じつは、個人に自己同化するという
誤解に基づいている、などという話を誰もが理解できるはずはないからです。

だからこそ……現にわれわれはこうして、快楽を期待し、苦痛を避けようとし
ているわけですから。

われわれの日常の体験そのものがじつは非在だなどという話を、自ら理解した
いという者以外の、誰がいったい理解できるでしょうか?

だから、はるさんのお考えはそれで当然ですし、わたしの側に何の異存も異議
もありません。

わたしのことも、同じように放っておいてほしいです。(^^;)

なぜそんなに、わたしの意見など気になさるのか……。

はるさんがもし、わたしの考えなどに関心があるのではなく、ニサルガダッタ
を理解したいのだというなら、少しはお役に立てるかとも思ったのですが。

なので以下は、はるさんがどうしてもニサルガダッタの言葉を理解したいとい
う、ほとんどありそうもない万一の場合を想定しての蛇足です。(*^_^*) 

もし、はるさんが、単に自説の正当性を主張したいからではなく、こころから
ニサルガダッタを理解したいのに、この議論から出られないというならです。

はるさんが、この“「感じる主体(認識主体)」論”から抜け出せない理由の
ひとつは、主体と客体という二元論を疑ったことがないからだと思います。

わたしもまさにそういう二元論的発想に絡め取られていたので、そのこと自体
はよくわかります。

しかし、主観と客観という“認識のための二元論”を大前提とする立場からは、
ラマナの世界もニサルガダッタの世界も望む(見る)ことはできません。

“認識のための二元論”は現象世界の実在を疑わない立場の前提だからです。

別の言い方をすると、意識体験自体の実在性を疑えない立場なのです。

目に見えるものは実在する、という立場です。

この矛盾に満ちた現象世界の実在性に疑問を呈する根拠が、最初から存在しな
いわけです。

その意味で、この立場では現象世界からの出口は最初からありえません。

意識体験そのものの実在性を疑わない以上、そこで発生する“快楽や苦痛”の
実在性を疑うこともできません。

“快楽や苦痛”といった感覚の存在を絶対の大前提として信じていれば、それ
を「感じる主体」も「実在」だと前提するのは当然です。

しかしラマナも、ニサルガダッタも、また『神の使者』が伝えるJ(イエス)
も、二元性を存在原理とするこの現象世界の存在を【否定します】。

現にこの世界は存在しているというのに、それはどういう意味でしょうか?

彼らの言葉に耳を傾ければ、この矛盾と混乱に満ちた現象世界は、じつはわれ
われの“想像”(意識)のなかにしか存在しない、というのです。

そして、これはわたしの場合ですが、そう聞いて、はじめて秘かに納得するも
のがありました。

それが事実であるということが最初にわかってしまうわけです。

それ以外は、論理的に納得できる話はありえないからです。

結論は最初にわかってしまいますが、(わたしという)マインドが納得するに
は手間暇がかかります。

そこで、ニサルガダッタやJが伝える言葉を忠実になぞるわけです。

----------------------------------------------------------------------
 (ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
 そして私は疑わなかったのだ。
 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
 (p102)
----------------------------------------------------------------------

わたしは、ひたすらこの↑真似をしているだけなのです。(*^_^*)

ここで書いていることは、すべてその経過レポートです。

けっして議論でもなく、誰かを説得しようとしているのでもありません。

そのことを理解した上で、読んでいただいているのだと思っていました。

ニサルガダッタやJが伝える言葉を聴くかぎり、それ自体のなかに内部矛盾を
含むものはかならず変化し、変化するものはそれ自体では実在できません。

変化するものは、不動の背景に依存してはじめて知覚され、“現れ”として、
つかの間の存在を得ることができるだけなのです。

素朴な二元論の世界では「“知覚されたもの”は存在する」でした。

この世界では、基本的にすべてはすべてに依存し合い、矛盾し合い、否定し合
いながら、“現れ”というかりそめの存在を得ています。

しかし純粋な一元論の世界では、「“知覚されるもの”は実在しない」です。

なぜなら、“知覚されるもの”は、変化が絶えないがゆえに知覚されるのであ
り、変化が絶えないのは、内部矛盾を抱えているからです。

そして、そのように“知覚されるもの”は、純粋で、混じり気なく、帰属しな
い永遠の常在である「実在」を根拠に、知覚されているのです。

しかし、純粋な一元論の世界には、主体と客体という二元性はありません。

ニサルガダッタが、

----------------------------------------------------------------------
 知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
 実だ。(p422)
----------------------------------------------------------------------

というのはその意味です。

“知られるもの”と“知る者”は想像(意識)のなかにあるのです。

ニサルガダッタが「気づき」は意識の一位相ではないというのはその意味です。

----------------------------------------------------------------------
 気づきは根本的なものだ。
 それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。
 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
 意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
 気づきなしに意識は在りえない。
 しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。
 気づきは絶対的だ。
 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
 意識は部分的であり、変化するもの。
 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
 そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。(p49-50)
----------------------------------------------------------------------

そしてわれわれこそが……その「至高の実在」なのだ……と。

ニサルガダッタが、

----------------------------------------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。(p421)
----------------------------------------------------------------------

とか、

----------------------------------------------------------------------
 世界は存在しない。
 あなただけが在るのだ。……
 独立しているのは、世界ではなくあなただ。(p471)
----------------------------------------------------------------------

と言うのはそういうことです。

そしてその本来の姿に立ち戻るには、

----------------------------------------------------------------------
 意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
 それらを超えていくには、意識を超えなければならない。(p400)
----------------------------------------------------------------------

というわけです。

すべての“知覚されるもの”をあとにしていかなければならないわけです。

ニサルガダッタが、

----------------------------------------------------------------------
 起こることすべてはマインドのなかで、マインドにとって起こり、「私は在
 る」の源に起こるのではない。(p469)
----------------------------------------------------------------------

と言っていることにはそういう包含があります。

最初からこの言葉の包含を理解できたわけではありません。

何度も何度も反芻して、やっと疑問の余地なく、体験というものがすべて偽り
のものなのだということを(論理的には)納得したわけです。

だから、はるさんからの質問を受けて、その自分の理解を伝えたいな、と思っ
たのでした。

でも、こういうことは、望まない者が理解することでもなし、ましてや多数決
で決めるようなことでもありません。

また、何度もいいますが、わたしにあるのはニサルガダッタを理解したいとい
う気持ちだけで、人様を説得したいというような興味はまったくありません。

こうしてはるさんから一種の議論じみたものが来ること自体、もういい加減に
やめなさいという、わたしが呼び出しているメッセージなのかもしれません。

というわけで、今回はここまでにさせていただきます。

ありがとうございました。

m(_ _)m

        …………○…………○…………○…………


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        …………○…………○…………○…………



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■ 4.編集後記:だんだん共鳴しあい、だんだん単純なひとつの音に……
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今日も、けっこう、長くなりましたね。

少しずつですが、理解と確信を固めています。

ニサルガダッタの言葉は、その努力に値する言葉だと思います。

何度も読んだはずの同じ言葉が、だんだん共鳴しあい、だんだん単純なひとつ
の音になっていくような気もします。

こういうものを書くこと自体、いいことなのか、それともあまり良くないこと
なのか、じつは、よくわかりません。

ただ、どんなこともそのためにしていることならその役に立つ……、というよ
うなことをぼんやり信じています。

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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