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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.312 2010/3/28(第312号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 951名
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◇◇ もくじ ◇◇

1,自己疎外の構成要素

2.写経ニサルガダッタ:【79 個人、観照者、至高なるもの】の3回目

3.いただいたお手紙から:いぬさん

4.編集後記:時には手綱を延ばしすぎているかと反省しながら……。
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■ 1 自己疎外の構成要素
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この曇天下の静止画のような春の一日が自分の内界の投影なのだという……。

この静止画はこの静止画として一見継続しているように見え……固有の継続性
のなかで春を芽吹かせている……。

でも……本来のわたしはこのつかの間の現れのなかの住人ではないのだから…
…この一見継続する静止画の影響を受けることはない……のだという……。

ただし……わたしがこの静止画を覗き込む“窓”となっている“わたし”は…
…つかの間の有機体として現象してこの静止画のなかに登場している。

つまり……“わたし”はこの静止画に組み込まれている……。

この現れに組み込まれた“わたし”が……この一見継続して見える静止画のな
かで固有の物語を紡ぎ……それに応じた欲望と恐怖を吸着したら……。

そのとき……惨めさを背景とした……つかの間の幸福の追求が始まる……。

砂漠で蜃気楼を追うかのようなこの幸福の追求は……この静止画のなかで成就
することもなければ……そこで自然消滅することもない……。

この静止画のなかのつかの間の有機体は……自らを現実に存在する実体と想像
しているかぎり……それを実体として創造し続ける……。

静止画のなかで無限に発生し続けている有機体の崩壊(死)と再構成(誕生)
を媒体として……無数の個別生命の無限回の転生が演出される……。

なぜなら……静止画のなかのつかの間の有機体自体は幻像にすぎなくても……
それが駆使している創造力は……じつは本物だから……。

この静止画のなかに生命はない……。

でもこの静止画は……生命そのもの(実在)のなかに浮かんでいるから……。

(-_-)

ふ……。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

現れのなかに“自分”を見つけている者たちは……必ず現れのなかで幸せにな
ることを求めることになります。

そして……もしこの願いが“叶う(つまり、実現可能な)こと”なら……その
こと自体……けっして悪いことであるはずもありません。

でも……もしそれが……ことの“ありよう”からして……実現不可能なことだ
ったらどうでしょう……。

つまり……もし“現れのなかで幸せになる”ということが……絶対に不可能な
ことだとしたら?……ということです。

そういうことを……自明な範囲で少し整理したくなりました……。

まず、その前提を少し確認しておきます。


●なぜ幸せを求めるのか?

それにしても……現れのなかに“自分”を見つけている者たちは……なぜ……
必ず現れのなかで幸せになることを求めることになるのか……です。

その理由は……われわれは現れのなかに“自分”を見つけることによって……
自分本来の幸せを失うことになる……からだと思います。

つまり……現れのなかに“自分”を見つけることによって……われわれは自分
を幸せから疎外する……ことになるのではないでしょうか……。

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 自分を幸福にしようと試みてはならない。
 むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
 あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
 なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
                          『私は在る』(p487)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

では、現れのなかに“自分”を見つけている者たちは……なぜ幸福ではないの
でしょう?

それは……現れのなかに“自分”を見つけたとき……われわれが本来の自分と
は違うものに“成る”からではないでしょうか。

つまり、現れのなかに“自分”を見つけたとき……われわれは「自己疎外」す
ることになるのだと思います。

そして本来の自分に戻りたくて……われわれは現れのなかで懸命に“あがく”
ことになるのだと思います。

現れのなかに“自分”を見つけることは……なぜ「自己疎外」と言えるのか?

その理由を……自明な範囲で整理しておきたいと思います。


●自己疎外の構成要素(その1):永遠の変化

まずひとつには……現れはそれ自体のなかに自己矛盾を孕んでいる……という
ことがあります。

そのために……現れは“永遠の変化”を運命づけられているわけです。

それは……なぜなのでしょうか? (?_?)

その理由は単純です。

なぜなら……現れは……絶えず変化することによってしか……現れでありえな
いからです。

----------------------------------------------------------------------
 変化しないものを意識することはできない。
 意識とはすべて、変化の意識なのだ。
 だが、変化を知覚すること自体、不変の背景の存在を前提しているのだ。
 
                          『私は在る』(p535)
----------------------------------------------------------------------

“不変の背景”が存在する証拠を……現れのなかに確認することはできません。

現れのなかで確認(つまり、知覚)できるものは……それ自体つかの間の現れ
でしかありえないからです。

だから……知覚できるものは……変化するものでしかありえません。

にもかかわらず……現れのなかに“自分”を見つけた者は……絶えず“自分”
をその変化する現れのなかに確認することを……強いられるわけです。


●自己疎外の構成要素(その2):永遠の自己再定義

すると……現れのなかに“自分”を見つけている者は……絶えず自分を定義し
直さなくてはならないことになります。

なぜなら……変化する現れのなかに“自分”を見つけている以上……現れのな
かのどの部分が“自分”であるかを……つねに定義する必要があるからです。

しかし……仮にこの「身体」とそこに湧く「想念」が“自分”だと定義しても
……その身体と想念自体も……絶えざる変化に晒されています。

ということは……仮にこの「身体」と「想念」が“自分”だと定義した場合で
も……その“自分”が現れのなかで変化することは……否定できません。

そして……いったん“自分”が変化することを認めたら……こんどは絶えざる
“自分”の再定義という重荷を拒否することはできなくなります。

なにしろ……ある瞬間に“自分”として定義したものは……次の瞬間にはもう
……存在しなくなっているからです。

それでも“自分”は在るとし……その“自分”の物語を紡ぐには……この現在
の「身体」の形と……記憶のなかの一連の物語を結びつけるしかありません。

変わらない者を指す“自分”という言葉は……かくして記憶のなかの“自分”
の断片をかき集めては再構成する……不断の努力を意味することになります。

まさに生命の海の波打ち際で……砂の上に書いた文字を修復し続けるかのよう
な……それは作業になるはずです。


●自己疎外の構成要素(その3):他者(分離の幻想)

現れのなかに“自分”を見つけている者は……絶えず自分を再定義しなくては
なりません。

ということは……絶えず自分と自分以外との境界線を……意識していなくては
ならない……ということでもあります。

つまり現れのなかに“自分”を見つけている者は……絶えず“他者”を定義す
るように強いられている……ということです。

この“他者”こそが……われわれの(虚構の)不幸の基本部材だと思います。

フランスの実存主義哲学者サルトルは「他人は地獄だ」と言ったそうです。

この“他人”が意識の意味か、他者の判断の意味か、他者の感情の意味かはと
もかく、それが別の現れを“自分”と見る意識であることは確かでしょう。

現れのなかに“自分”を見つけている者は……必ず別の現れを“自分”と見る
意識を現実化する(現実だと思う)……ことになるでしょう。

こうして……現れのなかに“自分”を見つける者は……不可避的に自らの世界
に自己矛盾を呼び寄せる……ことになると思います。

つまり……現れのなかに“自分”を見つける者は……不可避的にその“自分”
を破壊する装置を……創造することになると思います。

ですから……現れのなかに“自分”を見つける者は……絶えずその“自分”を
破壊されつづけます。

なにしろ……“自分”のポジショニングそのものが……“自分”を破壊するこ
とを……強いているわけですから。

これを避けることはできません。

偽りは……真実によって破壊されつづける……しかないわけです。

この無限とも見える悪夢に……終わりはありうるのでしょうか?

この「自己疎外」は……どのようにして終焉を……迎えることができるのでし
ょうか?


●自己疎外の終焉

ときとして……現れのなかに“自分”を見つけている者が……突発的に……ギ
ブアップすることがあるようです。

あまりにも絶望的な……心身の苦痛を経過することによって……。

いかなる希望も残さずに……マインドが絶望したとき……それは塵のなかに消
えることができるかもしれません。

しかしそれは……きわめて例外的な場合だと……言われているようです。

おそらく、より一般的には……現れのなかに“自分”を見つけている者が……
“自分”の不可避的な不幸の構造を理解したときではないでしょうか。

そのとき……現れのなかに“自分”を見つけている者が……何かを……疑いは
じめる。

すると……どこからともなく……実在からの恩寵が働きはじめる。

あなたは……思い違いをしている。

あなたは……あなたが“自分”だと思っているものではまったくない……と。

そのとき……現れのなかに“自分”を見つけている者が「運命」だと思ってい
たものが……恩寵に姿を変えるのだと思います。

----------------------------------------------------------------------
 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ
 い。
 あなたの運命に協力しなさい。
 それに抗ってはいけない。
 それを妨げてはいけない。
 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。
 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする
 べきすべてなのだ。
                          『私は在る』(p330)
----------------------------------------------------------------------

> あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ
> い。

こう伝えられることは……嬉しいことです……。

いずれにせよ……虚偽は破壊されるわけです。

生命の海の……波打ち際の砂の上に書かれた落書きのように……。

この物理次元に現れた「形」も「名前」も……。

もっと微細なレベルの現象も意味も……。

あらゆる現れを現実と見なすことが……無知……なのだと思います。

「私は在る」以外のすべては非実在と見なすことが……智慧……なのでしょう。

----------------------------------------------------------------------
 私を信じなさい。
 そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
 あなたが道であり目的地なのだ。
 あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
 あなたに必要なのは理解することだけだ。
 そして理解はマインドの開花なのだ。
 樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
 季節は移り変わるが、樹は変わらない。
 あなたが樹なのだ。
 あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
 そしてこれからも育てていくだろう。
 だが、あなたはそのまま残るのだ。
 あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
 だろうことでもない。
 ただ在ることなのだ。
 宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
 世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
 
                        『私は在る』(p397-398)
----------------------------------------------------------------------

ありがたいことです……。(-||-)

……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【79 個人、観照者、至高なるもの】の3回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここでも途方もなく重要なことがいくつも……さりげなく語られています。

でも知的にではなく……具体的な意味で重要なのは……次のいくつかのヒント
であるような気がしました。

> 世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
> だが、内側では静かにしていなさい。
> そうすればすべてはやってくるだろう。
> 真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
> それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
> あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
> ていることにあるのだ。

この懇篤な指針が……“わたし”の心身に充満しますように。(-||-)

では、【79 個人、観照者、至高なるもの】の3回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?
 
 マハラジ
 光が身体によって遮(さえぎ)られたとき、影が現れるのと同じように、純
 粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が
 現れる。
 そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
 のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
 たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。
 身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。
 ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。
 
 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為(な)す」と言うのだ。
 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
 それは単に限定されているだけだ。
 しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
 なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
 行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。
 
 質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?
 
 マハラジ
 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
 だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
 行為はそれらの領域なのだ。
 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
 まりなさい。
 
 木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。
 木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。
 観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
 いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。
 それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
 もないのだ。
 人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。
 あたかも重荷が落ちたかのように。
  
 質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ
     うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観
     照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?
 
 マハラジ
 それはプリント地の布を洗うようなものだ。
 はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
 る。
 人格は観照者に場をゆずる。
 それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
 布は、はじめは白く、終わりも白い。
 パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。
 
 質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?
 
 マハラジ
 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
 そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
 うな状態が個人と呼ばれるのだ。
 実際にはただひとつの状態があるだけだ。
 自己同一化によって歪曲(わいきょく)されたとき、それは個人と呼ばれる。
 それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
 いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。
 
 質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、期待し、探しだし、見つけだ
     し、楽しみ、放棄し、また探しはじめるのです。何が私を煮えたた
     せつづけるのでしょうか?
 
 マハラジ
 本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
 あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれてい
 る。
 無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
 あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。
 
 質問者 私はいつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくのでしょ
     う。
 
 マハラジ
 先走ってはいけない。
 あなたは知らないのだ。
 すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。
 快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。
 それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。
 そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。
 そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。
 だが、ほんのしばらくの間だけだ。
 完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯
 (たわむ)れを続けるのだ。
 
 質問者 どのようにして完成に到達するのでしょうか?
 
 マハラジ
 静かになりなさい。
 世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
 だが、内側では静かにしていなさい。
 そうすればすべてはやってくるだろう。
 真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
 それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
 あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
 ていることにあるのだ。
 真我実現した人たちはとても静かなのだ。
 
                        『私は在る』(p418-420)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?

これはなかなか面白い質問ですね。

> マハラジ
> 光が身体によって遮(さえぎ)られたとき、影が現れるのと同じように、純
> 粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が
> 現れる。

なるほど……そういうわけか……。

> そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
> のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
> たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。

ずいぶん……超越的な言い方だなぁ……。

> 身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。

そうか……。

転生などというものが……実際にあるわけではない、と。

そのほうが……清々しいし……。

お釈迦さまも……人が死んだらどこへ行くのかと訊かれて……ただロウソクの
火を吹き消すように消えていくのだと……答えたと聞いているけど。(-_-)

> ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。

常在と……その働きだけが残るわけだ……。

> 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為(な)す」と言うのだ。

はい。

> 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
> それは単に限定されているだけだ。

はい……知っている対象に限定されているだけです。

> しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。

そうなんですね……。

> なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。

はい、何度も何度も伺っています。

> 行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。

“行為者であるという観念さえ含めたすべて”は……自然現象なのですね。

> 質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?

行為とは何なのでしょうか?

> マハラジ
> 宇宙は行為であふれている。

はい。

> だが、そこに行為する者はいないのだ。

そこに行為する者はいない……。

> そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
> して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。

そうかぁ……。

多次元宇宙ですものねぇ。

超越的で……非常に客観的な表現だなぁ……。

> だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
> 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。

波動の法則によって統御され……多次元構造をなす……単一の統一体だという
事実を変えることはない……。

> 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。

物理的にもメンタルにもわれわれが影響を受けていることは確かでしょうが、
それはわれわれの反応が意味を持つということでもあるはずです。

> 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。

はい、おっしゃる意味はわかるような気がします。

身体とマインドは単一の統一体のなかで……しなければならないことをしてい
るだけだということを……理解しはじめています。

> 行為はそれらの領域なのだ。

はい。

> 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
> まりなさい。

理解を確実なものにしています。

> 木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。

はい。(@_@)O

> 木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。

ええ……。(?_?)

> 観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
> いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。

というと……。

> それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
> もないのだ。

あーあ……。

単一の統一体内の変化はそれなりの事実だが……個人の物語とその消滅は……
完全にその上に付け加えられたものであり……何の重要性もないのだと。

> 人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。

そうですか。

> あたかも重荷が落ちたかのように。

わかるような気がします。

> 質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ
>     うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観
>     照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?

いやー、これは是非とも伺いたかったことです。^^;

> マハラジ
> それはプリント地の布を洗うようなものだ。

はい。(?_?)

> はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
> る。

あー……。

> 人格は観照者に場をゆずる。

はじめにデザインが消える。

> それから観照者は去り、

それから背後の色が落ち、

> 純粋な気づきが残るのだ。

最後に布が真っ白になる……か。

> 布は、はじめは白く、終わりも白い。

彩りが現れる前にあったのは……純粋な気づきだけであり……彩りが消えた後
に残るのも……純粋な気づきだけ……。

> パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。

個人の物語は……しばらくの間ただ起こっただけ……。

> 質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?

うん、それも確認しておきたかったです。

> マハラジ
> 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。

おお……なるほど。(@_@)

気づきとその対象物を……観照と呼ぶのか。

> そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
> うな状態が個人と呼ばれるのだ。

なるほど……わかります。

> 実際にはただひとつの状態があるだけだ。

うん?

> 自己同一化によって歪曲(わいきょく)されたとき、それは個人と呼ばれる。

その存在するただひとつの状態が……自己同一化によって歪曲されたとき……
それは個人と呼ばれる。

> それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
> いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。

その存在するただひとつの状態が……存在の感覚で色づけされたとき……それ
は観照者と呼ばれる。

そして……その存在するただひとつの状態が……色も限定もないとき……それ
が至高なるものと呼ばれる……のか。

なるほど……そういうことなのか……。(-_-)

> 質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、期待し、探しだし、見つけだ
>     し、楽しみ、放棄し、また探しはじめるのです。何が私を煮えたた
>     せつづけるのでしょうか?

うん……たしかに……。(*-_-*)

> マハラジ
> 本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。

あーあ、やっぱり。(@_@)

> あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれてい
> る。

そうなんだ……。(-_-)

> 無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。

わかります。

> あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。

そうかぁ……。

> 質問者 私はいつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくのでしょ
>     う。

そんな……。(;_;)

> マハラジ
> 先走ってはいけない。

ですよね。

> あなたは知らないのだ。

はい。

> すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。

わかります。

> 快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。
> それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。

おお……。

> そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。

そうなんですね。

> そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。

はい。

> だが、ほんのしばらくの間だけだ。

やっぱり……。

> 完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯
> (たわむ)れを続けるのだ。

自らの完全性を理解したものは完全性の源に溶け入り……自らに対立性を受け
入れているものは……戯れを続ける。

> 質問者 どのようにして完成に到達するのでしょうか?

うん……まさに。

> マハラジ
> 静かになりなさい。

おお……。(@_@)

> 世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。

はい。

> だが、内側では静かにしていなさい。

はい。(*-_-*)

> そうすればすべてはやってくるだろう。

(-||-)

> 真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。

お。(@_@)

> それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。

わかりました。

> あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
> ていることにあるのだ。

はい。

> 真我実現した人たちはとても静かなのだ。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


        …………○…………○…………○…………



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■ 3.いただいたお手紙から:いぬさん
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。


        …………○…………○…………○…………


今回も、いぬさんからお手紙をいたきました。

早速、ご紹介します。

【件名】: 
----------------------------------------------------------------------
 pariさんこんばんは
 
 お返事ありがとうございます。
 さて2点ほど質問があります。
 
 > というのも、何かを“する”のはマインドだろうと思うからです……。
 > 「実在」「真我」「サットグル」……こういうものの働きを“恩寵”と呼
 > ぶなら、“恩寵”とは重力のようなものなんじゃないでしょうか。
 > 絶えず降り注いでいる力ではあっても、何かを“する”ことはないのでは。
 > “注意する”とか“焦点を合わせる”というような意図的な言葉とは馴染
 > まないような気がします。
 
 なるほど仰るとおりかと思います。すると我々が悟るためにには、「私は
 在る」という感覚に、マインドの焦点をあわせるということですか。
 ところでそうすると、本来我々ではないマインドに同化するのは誰なんで
 しょう?
 「実在」でしょうか マインドでしょうか
 
 もう1点
 
 > どちらも行為によって試されなければならないのだ。
 > あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
 > これが真理への道なのだ。
 
 これは今週の写経からの一部ですが、「行為によって試す」とはどういう
 意味なのでしょう?
 具体的にはどのような行為だと思われますか?
----------------------------------------------------------------------

> pariさんこんばんは

こんばんは。

> お返事ありがとうございます。
> さて2点ほど質問があります。

はい。

> > というのも、何かを“する”のはマインドだろうと思うからです……。
> > 「実在」「真我」「サットグル」……こういうものの働きを“恩寵”と呼
> > ぶなら、“恩寵”とは重力のようなものなんじゃないでしょうか。
> > 絶えず降り注いでいる力ではあっても、何かを“する”ことはないのでは。
> > “注意する”とか“焦点を合わせる”というような意図的な言葉とは馴染
> > まないような気がします。
> 
> なるほど仰るとおりかと思います。すると我々が悟るためにには、「私は
> 在る」という感覚に、マインドの焦点をあわせるということですか。

まあ……マハラジがグルから伝えられ、そして彼が帰り着いた霊的伝統では、
そういうことになるのだと思います。

> ところでそうすると、本来我々ではないマインドに同化するのは誰なんで
> しょう?
> 「実在」でしょうか マインドでしょうか

いぬさん、これはとても面白い論点ですね。^^;

「同化」という表現を生かすなら、語法上マインドに同化するのがマインドで
はおかしいわけですから……語法上は実在……というのが自然ですよね。

しかし、“マインドに同化した”ものは実在ではありえない……という観点に
立つなら……それは実在ではないことになります。(^^;)

なので……ここは単なる言葉の約束事を超えて……言葉になりえないある種の
事実を伝えられそうなイメージを探す……という意味での表現ですね……。

そうですねぇ……。(-_-;)

マハラジにこんな表現があります。

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 ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
 のだ。
                          『私は在る』(p377)
----------------------------------------------------------------------

マインドとは……ニサルガダッタの語法では……顕現の媒体を表す言葉になる
と思います。

顕現は実在ではありえないわけですから……マインドは非実在です。

しかし……にもかかわらず……マインドは顕現の媒体である自らを……実在と
して見なす……わけです。

つまり……顕現であるマインドが……自ら(つまり、顕現)を実在と見なすこ
とが……「自己同化」という言葉が指示する……実際の状況だと思います。

一般的な用法では……たとえば、われわれが“自分”の感情を自分だと思うこ
とを……感情に「自己同化」する……というふうに表現しますよね。

われわれ人間は……感情に「自己同化」する……というふうに。

その場合はいかにも……“われわれ”という主体が……“感情”という客体に
……「自己同化」するかのようです。

しかし実状は……“われわれ”というマインド(観念)が……“感情”という
マインド(現象)を実在だと誤解することが……「自己同化」なのでは。

でもこういう表現は……単にマインドによる分析的表現で……実際はただ……
“マインドが自分を実在と誤解すること”が「自己同化」の意味なのでは。

そして確かに……今の瞬間……マインドは“実在”しているわけです。

真我の実在性に依拠して……。

しかし……マインド自体によって“実在”しているわけではないので……記憶
によって支えられた物語自体は……間違いなく非実在だと思います。

「自己同化」とは……端的にはそういう事実を指すのではないでしょうか。

> もう1点
> 
> > どちらも行為によって試されなければならないのだ。
> > あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
> > これが真理への道なのだ。
> 
> これは今週の写経からの一部ですが、「行為によって試す」とはどういう
> 意味なのでしょう?
> 具体的にはどのような行為だと思われますか?

なるほど。

これはつまり……マインドの行為というものは……そのマインドの真実(思い
こみ)を厳密に反映して発生する……ということではないでしょうか。

言い換えると……マインドの真実は……その行為によってしか検証しえない…
…ということだと思います。

マインドは……言葉でならどんな好ましいことを言えても……行為を誤魔化す
ことはできない。

行為だけは……厳密にそのマインドの真実を反映してしまう、と。

だから……検証する側から言うなら……あなたが言葉で表現したいことはよく
わかりました……今度は行為を見せていただきます。

「行為によって試」させてください……ということになるのでは。

実際、こう言われると……したたかなマインドもたじろぎますよね。(^_-)

すべての誤魔化しは通じませんから……。(^^;)

いぬさん、いつもメールありがとうございます。

m(_ _)m

        …………○…………○…………○…………


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■ 4.編集後記:時には手綱を延ばしすぎているかと反省しながら……。
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マインドがマインドを追いつめているのか……それとも真我に追いつめられて
いるのか……それはわかりません。

それでも自覚的には……弛まず……誤魔化さず……顕現の外堀を埋めている…
…つもりです。(^_-)

でも……まだまだ……マインドの尻尾を捕まえていません。

> ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが
> 禁欲だ。
> 不必要なことを避けることが禁欲だ。
> つねにものごとを制御することが禁欲だ。(p229)

時には手綱を延ばしすぎているかと反省しながら……。

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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