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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.315 2010/4/18(第315号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ、
という言葉を信じた仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 940名
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◇◇ もくじ ◇◇

1,自分を幸福にしようと試みてはならない

2.写経ニサルガダッタ:【90 あなたの真我に明け渡しなさい】の3回目

3.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん

4.編集後記:マインドの思惑などに……はまるはずもありませんが……。
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■ 1,自分を幸福にしようと試みてはならない
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春は名のみの……。

風は寒いのですが……花はゆっくりと……淡い霧のなかに浮かんでいます。

上の方はまったく見えないので……山の姿などはまったくありません。

ただ……霧のなかにピンクの桃の花が……いまや七部咲きというところ。

文字通り……絵ですね……。

(-_-)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

われわれは……誰もが幸福を求めています。

すべてを疑うとしても……当面これだけは疑えない。

これだけは……間違っていないと思います。

ニサルガダッタも、

> 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。(p487)

と言っているわけで……そこまでは何も間違っていないようです。

というわけで……誰もが……できることなら幸福になりたいものだと思う。

その思いは……間違っていない……。

ところが……マハラジは同じところで、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

とも言うわけですよ。(?_?)

いったい……どうなっているんでしょう? (@_@)

“わたし”思うに……ここのところはじつに微妙で……どうもその真意が……
“自分”に伝わっていない……という気がします。(-_-;)

なんと言うか……ここが“自分”に伝われば……マハラジの肝心なメッセージ
は伝わったと言えるんじゃないか……という気さえして……。

この

> 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。(p487)

という言葉と、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

という言葉は……どういうふうな構造で……矛盾なくつながるんでしょう?

これが“自分”にはっきり伝わっていないから……。

というか……この勘所をはっきり理解していないばかりに……。

ついつい“わたし”は……「自分を幸福にしようと試みて」……しまうような
気がします。(;_;)

そしてここがきっと……同じ“精神世界”のメッセージでありながら……いわ
ゆる「自己実現」系と……「真我実現」系が……分かれるところですよね。

> 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。(p487)

これは……あらゆるスピリチュアルマスターが……否定しないと思います。

しかし……いわゆるニューエイジ系のマスターは、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

という表現は……採らないだろうと思います。

だって……ニューエイジ系のマスターは……いわゆる「自己実現」をとおして
……多次元宇宙を進化していくことを教えるわけですから。

下位次元から……上位次元へと……。

肉体から……エーテル体……アストラル体……メンタル体……コーザル体へと。

物質からエネルギーへ……エネルギーから存在へと……。

粗雑な意識から……より微細な……繊細な意識へと……進化していく道です。

しかし……ニサルガダッタの教えは……それとは違います。

----------------------------------------------------------------------
 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
 これが絶対的な真理なのだ。
                          『私は在る』(p351)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

という立場です。

だから……当然、

> 何をしようとあなたが変わることはないだろう。
> なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
> あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
> だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。

ということになるわけでしょう。

----------------------------------------------------------------------
 いったいどうして変わることを気にするのか?
 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
 しなさい。
 そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
 明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
 う。
                          『私は在る』(p540)
----------------------------------------------------------------------

という立場です。

この、

> 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
> しなさい。

というターゲットと睨みあわせて……はじめて先ほどの、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。(p487)

というメッセージが……意味を持ってくると思います。

つまり……「自己実現」は……かならずしも……「真我実現」にはつながらな
い……ということだと思います。

(「自己実現」も……「真我実現」も……英語は同じ "Self-realization" で
 しょうから……そこで何を意味しているかだけの違いでしょうが。)

----------------------------------------------------------------------
 あなた自身を改善しようと試みてはならない。
 ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
 変化するものは変化しつづける。
 その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
 変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
 い。
 それはけっして起こらない。
 変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
 ものがおのずと現れるのだ。
                          『私は在る』(p541)
----------------------------------------------------------------------

ふーむ。(-_-;)

そういうわけだから……次のような表現も出てくるのでしょうねぇ。

----------------------------------------------------------------------
 私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
 しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
 なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
 
                          『私は在る』(p160)
----------------------------------------------------------------------

ふーむ。

> 私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。

なるほどなぁ……。(-_-)

そういうことだよなぁ……。

だって……“自分”が求めているとこも……たしかに……それだもの。(*-_-*)

そして……そういう文脈で……はじめて、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。(p487)

というメッセージが……意味をもってくるわけか……。

自分を“幸福”にしながら……“幸福”を求めるこの状態から抜け出られるの
なら……マハラジが、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。(p487)

なんて……言うわけがないんだ……。

いったい……それは……どういうことを伝えようとしているんだろう?

なぜ……、

「幸福になろうとする衝動は正しい」のに……、

「自分を幸福にしようと試みてはならない」んだろう……?

----------------------------------------------------------------------
 マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
 幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
 だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
 壊してしまうのだ。
                          『私は在る』(p487)
----------------------------------------------------------------------

> マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。

なぬ?! (*_*)

「マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう」……。

ということは……“わたし”はあたかも……“幸福を失うためのヨーガ”を…
…やっているようなもんじゃん。(@_@)

> 幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。

そうなのか……。@_@

> 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。

はい。

> だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
> 壊してしまうのだ。

おお……。

「それを確保しようとする方法」が……「真の幸福を破壊してしまう」のか。

> 身体やマインドを正しく使い、正しい状態に置くことは、非常に快いものだ。

はい。

> 間違いは快楽を追求することなのだ。

おお。(@_@)

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

そこで……こうくるわけか……。(-_-)

(@_@)

じゃ……どうすれば……。(?_?)

----------------------------------------------------------------------
 むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
 あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
 なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
 幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
 快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
 それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
 そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
 実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
 幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
 そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。
 いかなる分別もしてはならない。
 分別できないものを分別してはならない。
 そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。
                          『私は在る』(p487)
----------------------------------------------------------------------

> むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。

おお……。(@_@)

わかりました。(-_-;) (←ほんとかなぁ? (^_-) )

> あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。

それは……わかります。

> なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。

というと……。(?_?)

> 幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。

あ、はい。

たしかに。

> 快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。

そういうことだったんだ……。(-_-)

たしかに……快楽を追求していれば……最後には「真我実現」に至るというな
ら……誰も迷う者はいないことになるわけだし……。

> それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。

おっしゃるとおりです。

> そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。

はい。(*-_-*)

> 実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。

それは……わかっているつもりなんですが……。

> 幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。

はい。

> そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。

うん?

幸福とは……世俗のなかで……そして世俗の彼方で起こることのすべて……。

はい……わかります。

> いかなる分別もしてはならない。

ああ……世俗のなかで起こる幸福と……世俗の彼方で起こる幸福を……分別し
てはならない……ということですか。(?_?)

> 楽しみとはマインドの状態だ――それは来ては去っていくものだ。

あ、はい。(@_@)

> そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。(p535)

なるほど……。

世俗の幸福も……聖なる幸福も……どちらもマインドの状態……ということか
……。(-_-)

> 分別できないものを分別してはならない。

わかります……。

> そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。

うーむ。(-_-;)

難しい……。(;_;)

> 肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。

あ、はい。(@_@)

> 物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
> る。

「物理的、精神的な手段はともに物質」……。

そうかぁ……。

そして……「どちらもすたれ、使い果たされる」……。

そういうものなんですねぇ。

> それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。

たしかに……。

肉体的喜びも……精神的喜びも……いつまでも続くものではありません。

それは……わかります。

> 苦しみはすべての喜びの背景にある。

なぬ! (@_@)

「すべての喜びの背景」に……「苦しみ」が……あるんですか……。(;_;)

> 苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。

苦しむがゆえに……“わたし”は……喜びを欲しがるのか……。

----------------------------------------------------------------------
 だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
 それは悪循環だ。
                         『私は在る』(p39-41)
----------------------------------------------------------------------

> だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。

ガーン! (*_*)  ⌒★?

「喜びの追求自体」が……「苦しみの原因」……。

ナンタルチヤ……。(/_;)

> それは悪循環だ。

それは悪循環……なのか……。(T_T)

だから……、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

というわけだったのか……。

それで……、

> マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。

とおっしゃっていたんでね。

今度は……わかったような……気がします。

でも……、

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

って……難関だなぁ……。

それで……、

----------------------------------------------------------------------
 ひとたびあなたが体験を通り抜けたなら、ふたたびそれを通らないことが
 禁欲だ。
 不必要なことを避けることが禁欲だ。
 つねにものごとを制御することが禁欲だ。
                          『私は在る』(p229)
----------------------------------------------------------------------

ということになるわけか……。

うう……。(*-_-*)

ここは……本当に得心しないかぎり……なかなか突破できないかもなぁ……。

……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【90 あなたの真我に明け渡しなさい】の3回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここもまたひとつの圧巻です。

何度聞いても……なかなかマインドは理解したがらない。

> あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。

このことは覚えていられるような気がする瞬間もあるけれど……。

> それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
> 去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。

ここが……メチャ難しい……。

だから……、

> 油断してはならない。
> うろたえてはならない。

まだ……このこと↑がどれくらい大変なことかの実感がない……。(;_;)

> この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。

わかりました。

> あなたは画像を見ている。
> だが画像があなたではないのだ。

はい。

では、【90 あなたの真我に明け渡しなさい】の3回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 あなたの言われることはわかります。四年ほど前、私は身体的な側
     面を拒絶した時期がありました。衣服を買わず、シンプルな食事を
     し、ただの板の上に眠ったこともありました。重要なことは、欠乏
     の不自由を受け入れることであって、実際の不便さは問題ではあり
     ませんでした。今、私はあるがままの人生を歓迎し、それが差しだ
     すすべてを愛することが最善なのだと自覚しました。私は、何であ
     れやってきたことを喜びとともに受け入れ、そして最善を尽くすで
     しょう。もし私が少人数の子供たちに生命と真の文化を与えること
     ができるなら充分です。私のハートはすべての子供たちに引かれる
     のですが、皆に届くことはできません。
 
 マハラジ
 あなたは男性―女性意識をもつときだけ結婚し、母親となるのだ。
 あなたが自分自身を身体と見なさないとき、気づきの光だけが唯一の実在で
 あり、身体の織りなす家族生活がいかに強烈で、あるいは興味深いものであ
 っても、それはマインドのスクリーン上の戯(たわむ)れとして見られるだ
 けだ。
 
 質問者 なぜ、あなたは気づきだけが唯一の実在だと主張するのでしょうか?
     気づきの対象物も、それが存続するかぎり、実在なのではないでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 だが、それは存続しないのだ。
 一時的な実在は二次的なものだ。
 それは永遠なるものに依存するのだ。
 
 質問者 あなたが言わんとしているのは、継続性でしょうか、あるいは永久
     性でしょうか?
 
 マハラジ
 存在のなかに継続性はない。
 継続性は過去、現在、未来における同一性を暗示している。
 そのような同一性は不可能なのだ。
 なぜなら、同一化の手段自体が変動し、変化するからだ。
 継続性や永久性は記憶によってつくられた幻想だ。
 それは単なる精神的投影のパターンなのだ。
 一時的や永久的、身体やマインド、男と女といったすべての観念を放棄しな
 さい。
 何が残るだろう?
 すべての分離が捨て去られたとき、あなたのマインドの状態はどうなってい
 るだろうか?
 私は区別をあきらめなさいと言っているのではない。
 それなしには顕現もありえないからだ。
 
 質問者 私が分離していないときは幸福で平和です。それでも、どうしてか
     私はその状態の認識を失ってしまい、何度も、外側のもののなかに
     幸福を探そうとしてしまうのです。どうして内なる幸福は安定しな
     いのでしょうか? 私には理解できません。
 
 マハラジ
 結局、平和もまたひとつのマインドの状態なのだ。
 
 質問者 マインドを超えた彼方には沈黙があります。それについては何も言
     えることはありません。
 
 マハラジ
 そうだ。
 沈黙についての話は、みな騒音にすぎない。
 
 質問者 どうして私たちは自己の自然な幸福を体験した後でさえ、世俗的な
     幸福を探し求めようとしてしまうのでしょうか?
 
 マハラジ
 マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。
 幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。
 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。
 だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
 壊してしまうのだ。
 
 質問者 快楽はつねに悪いことなのでしょうか?
 
 マハラジ
 身体やマインドを正しく使い、正しい状態に置くことは、非常に快いものだ。
 間違いは快楽を追求することなのだ。
 自分を幸福にしようと試みてはならない。
 むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。
 あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。
 なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。
 幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。
 快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。
 それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。
 そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。
 実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。
 幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
 そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。
 いかなる分別もしてはならない。
 分別できないものを分別してはならない。
 そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。
 
 質問者 今、私はなんと良くあなたを理解したことでしょう! 以前、ラマ
     ナアシュラムにいたときは、私は良心に支配され、いつも自分自身
     を裁いていたのです。今、私は完全に落ち着きました。私自身を完
     全に、あるがまま受け入れました。アメリカに戻ったら、私は人生
     を起こるがまま、バガヴァーンの恩寵(おんちょう)として受け入
     れます。そして苦みも甘みもともに楽しむでしょう。バガヴァーン
     を信頼すること、これがアーシュラムで学んだことのひとつなので
     す。以前、私はこんなふうではありませんでした。私には信頼する
     ことができなかったのです。
 
 マハラジ
 バガヴァーンを信頼することは、あなた自身を信頼することだ。
 何であれ起こることは、あなたによって、あなたを通して、あなたに起こる
 のだ。
 あなたがあなたの知覚するすべてを創造する者であり、それを楽しむ者であ
 り、破壊する者だということに気づきなさい。
 そうすれば、恐れることはないだろう。
 恐れがなければ不幸になることはなく、幸福を探すこともないだろう。
 
 あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。
 それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
 去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。
 油断してはならない。
 うろたえてはならない。
 この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。
 あなたは画像を見ている。
 だが画像があなたではないのだ。
 
                        『私は在る』(p486-488)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 あなたの言われることはわかります。四年ほど前、私は身体的な側
>     面を拒絶した時期がありました。衣服を買わず、シンプルな食事を
>     し、ただの板の上に眠ったこともありました。重要なことは、欠乏
>     の不自由を受け入れることであって、実際の不便さは問題ではあり
>     ませんでした。今、私はあるがままの人生を歓迎し、それが差しだ
>     すすべてを愛することが最善なのだと自覚しました。私は、何であ
>     れやってきたことを喜びとともに受け入れ、そして最善を尽くすで
>     しょう。もし私が少人数の子供たちに生命と真の文化を与えること
>     ができるなら充分です。私のハートはすべての子供たちに引かれる
>     のですが、皆に届くことはできません。

なにかこの方……とてもハイな状態にいらっしゃる感じですね。

> マハラジ
> あなたは男性―女性意識をもつときだけ結婚し、母親となるのだ。

まあ……それはわかります。

> あなたが自分自身を身体と見なさないとき、気づきの光だけが唯一の実在で
> あり、身体の織りなす家族生活がいかに強烈で、あるいは興味深いものであ
> っても、それはマインドのスクリーン上の戯(たわむ)れとして見られるだ
> けだ。

たしかに……おっしゃるとおりでしょうが……。

> 質問者 なぜ、あなたは気づきだけが唯一の実在だと主張するのでしょうか?
>     気づきの対象物も、それが存続するかぎり、実在なのではないでし
>     ょうか?

まあ、そんなふうに言いたくなりますよね。(^_-)

> マハラジ
> だが、それは存続しないのだ。

おお……。

> 一時的な実在は二次的なものだ。
> それは永遠なるものに依存するのだ。

そうかぁ……。

> 質問者 あなたが言わんとしているのは、継続性でしょうか、あるいは永久
>     性でしょうか?

うん。

> マハラジ
> 存在のなかに継続性はない。

「存在のなかに継続性はない」……そうなんだ……。

> 継続性は過去、現在、未来における同一性を暗示している。

たしかに。

> そのような同一性は不可能なのだ。

そうなんですか。(@_@)

> なぜなら、同一化の手段自体が変動し、変化するからだ。

ああ……“わたし”という……意識しているマインド自体が……ロウソクの炎
のように変化しているわけか……。

> 継続性や永久性は記憶によってつくられた幻想だ。

はい。

> それは単なる精神的投影のパターンなのだ。

理解できます。

> 一時的や永久的、身体やマインド、男と女といったすべての観念を放棄しな
> さい。

うう……。

> 何が残るだろう?

(@_@)O

> すべての分離が捨て去られたとき、あなたのマインドの状態はどうなってい
> るだろうか?

うーん。

> 私は区別をあきらめなさいと言っているのではない。

というと……。

> それなしには顕現もありえないからだ。

はい……。

> 質問者 私が分離していないときは幸福で平和です。それでも、どうしてか
>     私はその状態の認識を失ってしまい、何度も、外側のもののなかに
>     幸福を探そうとしてしまうのです。どうして内なる幸福は安定しな
>     いのでしょうか? 私には理解できません。

まったくです……。(-_-;)

> マハラジ
> 結局、平和もまたひとつのマインドの状態なのだ。

でた。(@_@)

「結局、平和もまたひとつのマインドの状態」……。(-_-)

そうかぁ。(-||-)

> 質問者 マインドを超えた彼方には沈黙があります。それについては何も言
>     えることはありません。

うん。

> マハラジ
> そうだ。
> 沈黙についての話は、みな騒音にすぎない。

わかります。

> 質問者 どうして私たちは自己の自然な幸福を体験した後でさえ、世俗的な
>     幸福を探し求めようとしてしまうのでしょうか?

このひと……的確な質問をするわ……。

> マハラジ
> マインドが身体に仕えることに従事するとき、幸福は失われてしまう。

おお……。

> 幸福をふたたび得ようとして、快楽の中に探し求めるのだ。

そういうことだったんだよなぁ。

> 幸福になろうとする衝動は正しいものだ。

はい。

> だが、それを確保しようとする方法が惑わせ、当てにならず、真の幸福を破
> 壊してしまうのだ。

少し……わかったようか気がしはじめています。

> 質問者 快楽はつねに悪いことなのでしょうか?

そうそう……そのことも聞いておきたいよね。

> マハラジ
> 身体やマインドを正しく使い、正しい状態に置くことは、非常に快いものだ。

はい。

> 間違いは快楽を追求することなのだ。

やっぱり。(-_-;)

> 自分を幸福にしようと試みてはならない。

でた……。

ここが……得心がいってなかったんだよなぁ。

> むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい。

「むしろ、幸福の探求自体を疑いなさい」……。

これが……とても重要なヒントだったんだ。

> あなたが幸福でないから、幸福になりたいのだ。

はい。

> なぜ幸福ではないのかを見いだしなさい。

ここだ。

> 幸福ではないから、快楽のなかに幸福を探し求めるのだ。

「幸福ではないから」……「快楽のなかに幸福を探し求める」……。

たしかになぁ。

> 快楽は苦痛をもたらすため、あなたはそれを世俗的と呼ぶ。

“世俗的”ということには……じつはそういう理由があったんだ。

> それから、あなたは苦痛をともなわない、何かほかの快楽を切望する。

よくわかります。

> そして、それを神聖なものと呼ぶのだ。

“神聖なもの”という言葉には……そういう包含があったのか……。

> 実際には、快楽とは苦痛からの一時的な休息にすぎない。

これは……絶対的な断定の響き……。

「快楽」とは……「苦痛からの一時的な休息」……。

> 幸福は世俗的であるものと、ないものの両方だ。
> そのなかで、そしてその彼方で起こることのすべてなのだ。

(この意味での)幸福とは……世俗のなかで起こり……その彼方で起こること
のすべて……。

ともにマインドのなかで起こること……。

> いかなる分別もしてはならない。
> 分別できないものを分別してはならない。

俗世のマインドと……霊的なマインドを……「分別してはならない」……。

> そしてあなた自身を人生から遠ざけてはならない。

霊的な世界と俗世を分別して……自分を「人生から遠ざけてはならない」……。

> 質問者 今、私はなんと良くあなたを理解したことでしょう! 以前、ラマ
>     ナアシュラムにいたときは、私は良心に支配され、いつも自分自身
>     を裁いていたのです。今、私は完全に落ち着きました。私自身を完
>     全に、あるがまま受け入れました。アメリカに戻ったら、私は人生
>     を起こるがまま、バガヴァーンの恩寵(おんちょう)として受け入
>     れます。そして苦みも甘みもともに楽しむでしょう。バガヴァーン
>     を信頼すること、これがアーシュラムで学んだことのひとつなので
>     す。以前、私はこんなふうではありませんでした。私には信頼する
>     ことができなかったのです。

この方……感動したみたいですね。

> マハラジ
> バガヴァーンを信頼することは、あなた自身を信頼することだ。

はい。

> 何であれ起こることは、あなたによって、あなたを通して、あなたに起こる
> のだ。

何であれ起こることは、わたしによって、わたしを通して、わたしに起こる。

ここが……得心がいったらなぁ。

> あなたがあなたの知覚するすべてを創造する者であり、それを楽しむ者であ
> り、破壊する者だということに気づきなさい。

はい。(;_;)

> そうすれば、恐れることはないだろう。

それがわかったら……恐れることはないはずです。

> 恐れがなければ不幸になることはなく、幸福を探すこともないだろう。

(@_@)

「恐れがなければ不幸になることはなく、幸福を探すこともない」……。

幸福を探すこともない……。

そういうことだったんだ……。(-_-)

> あなたのマインドの鏡のなかで、あらゆる類の画像が現れては消えてゆく。

はい。

> それらがあなた自身の創造物であることを完全に知りつつ、それらが来ては
> 去っていくのを沈黙のなかで見守りなさい。

(-||-)

> 油断してはならない。

はい。

> うろたえてはならない。

はい。

> この沈黙の観察が、ヨーガの根本的な態度なのだ。

わかりました。

> あなたは画像を見ている。

はい。

> だが画像があなたではないのだ。

わかりました。(-||-)

……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
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方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
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        …………○…………○…………○…………


今回、ドン・ガバチョさんから、「条件づけ」に関するクリシュナムルティの
純粋無垢のメッセージをご投稿いただきました。

早速、ご紹介します。

【件名】: 条件づけ
----------------------------------------------------------------------
 条件づけ(「自己の変容-クリシュナムルティ対話録(松本恵一:訳)」めるく
 まーる刊 より)
 
 ――――――
 思考とは言語です。
 人間は観念を基盤に、言語のブロックを組み立てて思考を構築します。
 そして、思考が産み落とす「情緒」が現実を創造します。
 しかし、「実存」はこの観念・思考(言語ブロック)を超えたところに姿を現
 します。
 瞑想は、思考(言語ブロック)を超えるツールです。
 そこを踏まえて読まれると了解されるかと存じます。
 ――――――
 
 クリシュナムルティ:私たちは肉体的、神経的、精神的に条件づけられていま
 す―私たちが暮らしている土地の気候、私たちが食べるもの、私たちの文化、
 社会的・宗教的・経済的環境の全体、私たち自身の経験、教育、家庭の圧力や
 影響力によって。
 これらすべてが私たちを条件づける要因です。
 環境からの挑戦に対して、意識と無意識が知的、感情的、また内面的、外面的
 に反応しますが、そのすべてが条件づけられた行為です。
 言語は条件づけです。
 あらゆる思考は条件づけられた行為、反応です。
 自分たちが条件づけられていることを知ると、この機械的な状態から救い出し
 てもらえると信じ、また願って、私たちは神聖な存在をつくりあげます。
 そして自分たちの内部や外部にの存在を仮定します―アートマン、霊魂、内な
 る神の国・・・もしかしたらそのほかにもあるかもしれません。
 私たちはそうした信念そのものが、それらによって破壊されたり再生されるは
 ずの条件づけの要因の一部だということがわからずに、これらの信念に必死に
 なってしがみつくのです。
 つまり、この世では条件づけを解消できないので―あるいは条件づけが問題で
 あることすらわからないので―天国や解脱や涅槃に自由があると考えるので
 す。
 キリスト教の原罪説や東洋の輪廻の教義全体に、かなり曖昧にではあります
 が、人々が条件づけの要因を感じとっていたことがうかがえます。
 もしそのときにそれがはっきりと理解されていれば、当然これらの教義や伝説
 は生まれなかったことでしょう。
 現代では心理学者もこの問題を研究しようとし、ますます私たちを条件づけて
 います。
 このように、宗教家が私たちを条件づけ、社会秩序が私たちを条件づけ、その
 一部である家庭も私たちを条件づけてきました。
 このすべてが心の深層や表層を形成する過去なのです。
 ところで、いわゆる「個人」はまったく存在しないということに注目するのは
 興味深いことです。
 彼の心も、他人と分けあっている条件づけの共同貯蔵庫に依存するものだから
 です。
 ですから、社会と個人の区別は見せかけにすぎず、ただ条件づけがあるだけで
 す。
 この条件づけが、物や人や観念とのあらゆる関係のなかで働いているのです。
 
 質問者:それでは、それからすっかり解放されるにはどうすればいいのでしょ
 うか。
 この機械的状態のまま生きるだけでは、まったく生きていないのと同じことで
 す。
 しかし、すべての行為、すべての意志、すべての判断は条件づけられていま
 す。
 ですから、明らかに条件づけに対して、条件づけられていないことをするのは
 不可能です。
 私は身動きがとれません。
 
 クリシュナムルティ:過去、現在、未来における条件づけの要因は、まさに時
 間の観点から思考する〈私〉、努力する〈私〉です。
 そして今、その〈私〉が自由になろうと努力しています。
 ですから、すべての条件づけの根源は思考であり、それが〈私〉にほかなりま
 せん。
 〈私〉こそまさに過去の本質であり、〈私〉が時間であり、〈私〉が悲しみで
 す。
 〈私〉は〈私〉をなくそうとしてもがき、〈私〉は到達したり、否定したり、
 何かになろうとして努力と苦闘をくり返します。
 この何かになろうとする苦闘は、混乱と、〈より多く〉〈より良く〉への貪欲
 を内在している時間です。
 〈私〉は安定を求めますが、得られずに天国にそれを求めようとします。
 国や理想や神といった、より大きなものに自己を同一化させ、そのなかに自己
 を埋没させようとする〈私〉―これこそが条件づけの要因なのです。
 
 質問者:あなたは私からすべてをとり去ってしまいました。
 〈私〉がなければ、私とはいったい何でしょう。
 
 クリシュナムルティ:〈私〉がなければ、あなたは条件づけられていません。
 それはあなたが無であることを意味します。
 
 質問者:〈私〉が努力しないで、〈私〉は終わることができるでしょうか。
 
 クリシュナムルティ:何かになろうと努力することは条件づけられた反応、行
 為です。
 
 質問者:〈私〉の行為はどのようにして止まるのでしょう。
 
 クリシュナムルティ:あなたがこの全体、〈私〉が行なっていることのすべて
 を見るときにだけ、それは止まります。
 あなたが行為中のそれを見るとき、すなわち関係のなかでそれを見るとき、そ
 の見ることが〈私〉の終わりです。
 この〈見ること〉は条件づけられていない行為であるばかりでなく、条件づけ
 に作用を及ぽす行為なのです。
 
 質問者:脳は無限の条件づけによって、高度の進化を遂げた結果ですが、その
 脳が条件づけから自由になりうるとおっしゃるのですか。
 
 クリシュナムルティ:脳は時間の結果です。
 それは肉体的に自分を守るように条件づけられていますが、自分を心理的に守
 ろうとするとき、〈私〉がはじまり、不幸のすべてがはじまります。
 〈私〉を肯定することは、脳を心理的に守ろうと努力することです。
 脳は学ぶことによって、技術的な知識を身につけることができます。
 けれども脳が心理的な知識を身につけるとき、その知識が関係のなかにおい
 て、〈私の経験〉〈私の意志〉〈私の暴力〉といった〈私〉としてでしゃばっ
 てくるのです。
 これが関係に分離や葛藤や悲しみをもたらすのです。
 
 質問者:この脳が静まり、技術的な領域で働く必要のあるときや、知識が要求
 されるとき―たとえば言語を学んだり、車を運転したり、家を建てたりすると
 きにだけ、作用するようにできるのでしょうか。
 
 クリシュナムルティ:ここで脳を心理的なものと技術的なものに分けてしまう
 のは危険です。
 そうするとまた矛盾、条件づけ、理論になってしまいます。
 脳―その全体は静まり、落ち着き、技術や生活において必要なときにだけ能率
 よく反応できるでしょうか。
 これが本当の問題です。
 ですから私たちは、心理的か技術的かということには関心がありません。
 「この心全体が完全に静まり、必要なときにだけ機能できるだろうか」と尋ね
 るだけです。
 それはできます。
 そして、これが瞑想とは何かを理解することなのです。
 
 質問者:よろしければ、昨日やめたところから続けたいと思います。
 憶えておられると思いますが、私は二つの質問をしました―条件づけとは何
 か、そして条件づけからの自由とは何かを尋ねました。
 あなたは、まず最初の質問をとりあげてくださいました。
 次の質問には話し及ぶ時間がありませんでしたので、今日は、すべての条件づ
 けがなくなった心の状態とはどんなものなのか、お訊きしたいと思います。
 昨日あなたと話した後、自分がいかに根強く条件づけられているかが、はっき
 りとわかりました。
 またこの条件づけの構造の隙間や裂け目もわかりました―少なくくとも私はわ
 かったと思っています。
 その問題について友人と話しあい、条件づけの実際の例を調べてみると、人間
 の行為がいかに深く有害にそれに影響されているかが、とてもはっきりとわか
 りました。
 あなたが最後におっしゃったように、瞑想とは、心から条件づけをすっかり空
 にして、あらゆる歪曲や幻想をなくすことです。
 どのようにすれば、すべての歪曲や幻想がなくなるのでしょう。
 幻想とは何でしょうか。
 
 クリシュナムルティ:自分を欺むくのはとても簡単なことであり、伺かを確信
 するのはきわめて容易なことです。
 自分は何々で〈なければならない〉という感覚が欺瞞のはじまりであり、当然
 のなりゆきとして、この理想主義的な生き方はさまざまな偽善へと姿を変えま
 す。
 何が幻想を形づくるのでしょうか。
 その要因のひとつは、〈あるがままのもの〉と〈あるべきもの〉・〈あるかも
 しれないもの〉との絶え間ない比較、善悪の測定、自己を改善しようとする思
 考、もっと快楽を得ようとする快楽の記憶などです。
 信念を受け入れたり、何かを信仰したりするのは、より多くを求めるこの欲
 望、この不満のせいなのです。
 そして、これが必然的にあらゆる形の欺瞞や幻想をもたらすのです。
 目標や、経験されるべき結末を投影するのは、欲望や恐怖、希望や絶望です。
 それゆえ、この経験には現実性がありません。
 いわゆる「宗教体験」はすべてこのパターンをたどります。
 覚醒への願望をもつために必然的に権威を受け入れますが、これは覚醒とは正
 反対の道です。
 欲望、不満、恐怖、快楽、より多くを望むこと、変化を求めること―このすべ
 ては測定であり、幻想へ至る道なのです。
 
 質問者:あなたは本当にどんなことにもまったく幻想を抱かないのですか。
 
 クリシュナムルティ:私はどんなときにも自分や他人を測定しません。
 この測定のない状態は、実際に〈あるがままのもの〉と共に生きるとき―〈あ
 るがままのもの〉を変えようとしたり、善悪の基準で判断したりしないときに
 やってきます。
 何かと共に生さることは、それを受け入れることではありません。
 あなたがそれを受け入れようと受け入れまいと、それはそこにあるのです。
 何かと共に生さることは、それと同一化することでもありません。
 
 質問者:「人聞が真に求めているこの自由とは何か」という質問にもどっても
 いいでしょうか。
 この自由への願望はあらゆる人に表われています―ときにはかなり馬鹿げた形
 でですが。
 しかし人間の心のなかには、けっして実現しない自由への深い憧れと、自由に
 なるためのこのはてしのない苦闘があるように思えます。
 私は自分が自由でないことがわかります。
 私は多くの欲望にとらわれています。
 ではどのようにすれば自由になれるのでしょう。
 真の自由、完全な自由とは何を意味するのでしょう。
 
 クリシュナムルティ:こう言えば理解の助けになるかもしれません―すべてを
 否定することが自由である、と。
 私たちがゆるぎないと思い込んでいたあらゆるものの否定―すべての社会道徳
 の否定、権威を鵜呑みにすることの否定、真理について誰かが言ったことや結
 論づけたことの否定、伝統の否定、教義の否定、技術的な知識以外のすべての
 知識の否定、すべての経験の否定、快楽の思い出や忘れられた快楽から湧き起
 こる衝動の否定、あらゆる達成の否定、特定の仕方で行為をするという誓約の
 否定、すべての観念・法則・理論の否定、このような否定がもっとも積極的な
 行為であり、それゆえ自由なのです。
 
 質問者:もしこれを少しずつ削り落としてゆくとしたら、私は永遠に続けるこ
 とになるでしょう。
 それに、それ自体が私の束縛になります。
 一瞬のうちにそのすべてが消滅するでしょうか。
 人間のもつあらゆる欺瞞、価値と切望と基準のすべてを、私は即座に否定でき
 るでしょうか。
 本当にそれが可能でしょうか。
 そのためには、私に欠けている非凡な能力―1瞬のうちにすべてを見、あなた
 の言われる「英知」の光のもとにそれらをさらす非凡な理解力―が必要なので
 はないでしょうか。
 何が必要なのか、あなたにはおわかりでしょうか。
 ふつうの教育を受けたふつうの人間である私に、信じられないほど何もない状
 態に入ることを求めておられますが・・・。
 私にそれができるのでしょうか。
 そのなかへ跳び込んでいくことの意味さえ私にはわかりません。
 それはまるで「もっとも美しく無垢ですばらしい人間になれ」と突然言われる
 ようなものです。
 私は今、本当に脅えています。
 今までに感じたことのない脅威です。
 私は真理と思われるものを目の前にしていますが、それでも、それをどうする
 こともできないまま身動きがとれないのです。
 私はこのこと、完全に無であることの美しさがわかります。
 しかし・・・。
 
 クリシュナムルティ:あなたが〈空〉になるとき―浅薄な心の〈空〉ではな
 く、〈経験したもの〉〈あるべきもの〉〈未来にあるもの〉を完全に否定する
 ことによって〈空〉になるとき―そのときにだけ、その〈空〉のなかに創造が
 起こります。
 新しいことが起こるのはこの〈空〉のなかだけです。
 恐怖とは未知のものについて考えることです。
 つまり、あなたが実際に恐れているのは、既知のもの―執着、満足、快楽の記
 憶、楽しみを与えてくれるものの継続と安定―を手放すことです。
 思考はこの既知のものを、自らが〈空〉と考えるものと比較します。
 この〈空〉についての想像が恐怖なのです。
 ですから、恐怖とは思考にほかなりません。
 あなたの質問にもどりましょう。
 心は、既知のもの、意識的・無意識的自我の内容のすべて―すなわち、まさに
 自分自身の本質―を否定できるでしょうか。
 あなたは自分自身を完全に否定できますか。
 できなければ自由はありません。
 自由とは〈何かからの自由〉ではありません―それはたんなる反動です。
 自由は完全な否定から生じるものなのです。
 
 質問者:しかし、そのような自由をもつことになんの益があるというのでしょ
 う。
 あなたは私に死ぬことを求めているのですか。
 
 クリシュナムルティ:もちろんです!
 「このような自由をもつことになんの益があるのか」
 と言われるとき、「益(good)」という言葉を、あなたはどういう意味で使って
 いますか。
 何を基準にした「益」でしょう。
 既知のものですか。
 自由は無条件に良い(good)ものであり、自由の行為とは日々の生活における美
 しさなのです。
 この自由のなかにだけ〈生〉があります。
 そして自由がなければ、どうして愛がありうるでしょう。
 この自由のなかにあらゆるものが存在し、生きているのです。
 それはいたるところにあり、またどこにもありません。
 それには境界がありません。
 あなたの知っているすべてのものに対して、明日を待たず、今すぐ死ぬことが
 できるでしょうか。
 この自由が永遠であり、至福であり、愛なのです。
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ドン・ガバチョさん、クリシュナムルティも強烈ですねぇ。

> クリシュナムルティ:こう言えば理解の助けになるかもしれません―すべてを
> 否定することが自由である、と。

そして、

> 自由は無条件に良い(good)ものであり、自由の行為とは日々の生活における美
> しさなのです。
> この自由のなかにだけ〈生〉があります。
> そして自由がなければ、どうして愛がありうるでしょう。

と……。(-||-)

ご投稿、ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………



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■ 4.編集後記:マインドの思惑などに……はまるはずもありませんが……。
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マハラジの言葉を……どう理解すればいいのかの……その見当はだいぶついて
きたように思います。

やっと自分なりに……包括的な意味で“論理的辻褄”が……合ってきたように
思います。

というか……論理的な道筋をたどれるようになってきた……というか。

これからは……確信へ向けての……理解の深まり……だと思っています。

それがいつかは……誠実さへと……結実していくのではないか、と。

まあ……マインドの思惑などに……はまるはずもありませんが……。

では、おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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