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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.320 2010/5/23(第320号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガは、われわれ「見守る者」に向けて語られたサットグルの言葉を
探求し、伝播し、増幅し、反響させるための器でありたいと思います。

ニサルガダッタの言葉は、「世界」という幻影の虜(個人)の視点に耽溺する
本来何の支えも必要ない「見守る者」に向けられた目覚めへの呼びかけです。

自分が「個人」か「見守る者」かを一緒に迷ってくだっている方、現在 911名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「見守る者」への呼び声

2.写経ニサルガダッタ:【08 真我はマインドを超えて在る】の1回目

3.編集後記:すこし……スタンスを変えます。
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■ 1,「見守る者」への呼び声
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「あなたは誰か?」と聞かれたら、つい自分が誰かを説明したくなります。

でも、どんな説明をしたところで、それは虚偽でしかない。

それは言葉で限定され、なんらかの「形」と「名前」をもった、特定の現れで
しかないでしょうから……。

では、その“なんらかの「形」と「名前」をもった特定の現れ”は、それ自体
で存在できるでしょうか?

むろん、できません。

その何らかの定義を盛った“器”は、それ自体で実在しているわけではない。

その“器”(現れ)は、それを「見守る者」がいてはじめて存在できます。

つまり、実在しているのはその「見守る者」です。

つまり、実在しているのは……わたしだけです。

このリアリティがハラにはいるのに、だいぶ手間暇がかかりました……。

(*-_-*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

遅蒔きながら……やっと自分の勘違いに気づきました。

たとえば、こういう言葉があります。

----------------------------------------------------------------------
 マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
 不幸にするのだ。
 マインドへの隷属に反抗しなさい。
 あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
 そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
 あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
 来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
 にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
 解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
 あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。
 
                          『私は在る』(p538)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

> マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
> 不幸にするのだ。

このことには無条件で同意できます。

> マインドへの隷属に反抗しなさい。

さて、“マインドへの隷属に反抗”しなければならないことはわかる……。

> 解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。

そうか……「解放とは勇気の問題」なのか (-_-;)……と思います。

しかし……、

> あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。

と言われたら……。

そんな勇気が自分にあるだろうか……と思ってしまう。

つまり、その勇気は、“わたし”という個人が出さなければならないのだと、
思っていました。

そんな勇気を自分が出さなければならないとすれば、どこかの質問者の科白で
はありませんが、

「どこにそんな勇気を見つけられるのでしょうか?」

と言いたくなってしまいます。

ところが……、別のところで解放に言及したこんな言葉を見つけました。

----------------------------------------------------------------------
 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
 放されることなのだ。
                          『私は在る』(p361)
----------------------------------------------------------------------

うん。

これはこれで……理解できるメッセージです……。

メッセージですが……。(-_-;)

(@_@)

しかし……そうすると……ある意味で……個人がどれほどの勇気を出しても…
…個人が解放されることなどありえない……ということではないか? (@_@)

なぜなら、

> 個人とは単なる誤解の結果

であり、

> 実際には、そのようなものはない

のだから。

----------------------------------------------------------------------
 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡(こんせき)
 を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
 マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
 は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
                          『私は在る』(p360)
----------------------------------------------------------------------

これは、完璧に納得のいく説明です。

> 実際には、個人というものは存在しない。
> ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。

完璧に理解できるし……納得できる。

「実際には、個人というものは存在しない」……わけです。

そしたら……存在しない「個人」は……勇気など出しようもないわけです。

では、ニサルガダッタはいったい誰に話しかけているのか? (?_?)

われわれ「個人」に?

いや、それはありえない。

だって、

> 実際には、個人というものは存在しない

と言っているのは、ニサルガダッタ自身なんですから。

覚者の個人に対する態度はきまっています。

----------------------------------------------------------------------
 個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
 像している。
 まったくそうではない。
 彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
 彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
 のだ。
                          『私は在る』(p360)
----------------------------------------------------------------------

そうそう……和尚からも何度も聴いた言葉です。

とすると……ニサルガダッタはいったい……誰に語りかけているのか?

ニサルガダッタは……こう続けます。

----------------------------------------------------------------------
 師は見守る者に言う。
 「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
 『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
 「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
 あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
 に帰したのだ。
 ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
 あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
 で、不変なるものとともにとどまりなさい。
                          『私は在る』(p360)
----------------------------------------------------------------------

> 師は見守る者に言う。

ニサルガダッタが語りかけているのは、われわれが自分だと誤解している個人
ではなく……「見守る者」であるわれわれ……だったわけです。

それは……まったく疑う余地も……疑う必要もない。

しかし……その「見守る者」が……「個人」という幻想に囚われていることも
確かです。

----------------------------------------------------------------------
 個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
 殻を破りなさい。
                          『私は在る』(p361)
----------------------------------------------------------------------

「個人」とは……われわれを「監禁する殻」でしかない……。

そんな“無生命の殻”が……解放のための勇気を出すことなど……できるはず
もありません。

では……「個人」という「監禁する殻」から解放されるために、はたして……
「見守る者」は……勇気を出す必要があるのだろうか?

「見守る者」とは……いったいどういう存在なのか?

----------------------------------------------------------------------
 そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
 あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
 く、あなたが実在を与えるということだけだ。
 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
                          『私は在る』(p361)
----------------------------------------------------------------------

なるほど……。(-_-)

「見守る者」とは……、

> 何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心

のことです。

つまり「見守る者」とは……「実在の源」のことであるようです。

すべての顕現はそのわれわれ「見守る者」があるがゆえに在るのであり、

そのわたしには……「何の支持も確証も必要ない」……わけです。

わたし(見守る者)が……「知覚するものに実在性を分け与える中心」です。

そのわたしが……個人を手放すのに……はたして勇気が必要だろうか? (-_-)

> 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
> 放されることなのだ。(p361)

話の筋道を理解したら……このことに……勇気は要らないでしょう。

「個人」という幻影に実体を与えるために……運命に翻弄される身体に関わる
欲望と恐怖を手放さないのは……永遠の実在であるわたしです。

では……欲望と恐怖を手放さなければ……わたしは身体を……身体に自己同化
した「個人」という実体を……運命から救い出せるのか……? (-_-;)

いや……それは無理でしょう。

身体はどこまでも……苦痛と快楽に翻弄されるしかない……。

つかの間の顕現である身体を……そこから救い出すことはできません。

できることは……わたし(見守る者)が……じつはそんなものとは……まった
く無縁だと……理解することだけです。

わたし(見守る者)に必要なのは……不可能に執着せずに……不可能を諦める
明察だけ……ということではないでしょうか。

むろん……覚者の慈悲から流露する……方便としての(勇気という)言葉を…
…否定しようというのではありません。

質問者とのその時の応答のなかでの……自然な慈悲の現れとしての「勇気」と
いう言葉の有効性は……明らかです。

ただ……「見守る者」が……「個人」という幻影を手放すのに……勇気は要ら
ない……。

必要なのは……不可能を不可能として理解する……明察だけです。

実際そうしても……「個人」という幻影を手放しても……わたし(見守る者)
は何ひとつ失うわけではないのだから……。

……。(-_-)

自由に向けて自分を解放する勇気など……とても自分に出せるような……気が
しませんでした。

はるか彼方の……ことのような気がしていました。

でも今は……なんとなく……それは可能なことだと……思えるようになってき
ました。

それはただ……不可能を諦めるという……それだけのことかもしれない。

諦めても……諦めなくても……不可能は……不可能なんだけれど……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【08 真我はマインドを超えて在る】の1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここに最初で最後の……入り口であり出口でもある……ニサルガヨーガの姿が
描かれています。

うろつき回るのではなく……ここで踏みとどまらなくては……。(*-_-*)

では、【08 真我はマインドを超えて在る】の1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 子どもの頃、忘我の境地、完全な幸福状態をたびたび体験しました
     が、後にそれは止まってしまいました。インドに来て以来、特にあ
     なたに出会って以来、その状態がふたたび現れはじめています。そ
     れでも、どんなに素晴らしい状態であっても持続しません。それは
     来ては去り、いつふたたび訪れるかもしれません。
 
 マハラジ
 マインドそのものが不動ではないのに、マインドのなかにある何が不動であ
 りうるというのだろう?
 
 質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?
 
 マハラジ
 不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
 もちろんできはしない。
 うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
 あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
 けだ。
 
 質問者 どうすればいいのでしょうか?
 
 マハラジ
 「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
 はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
 しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
 ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
 的にまったく自然に起こりはじめる。
 
 質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?
 
 マハラジ
 できる。
 生を起こるがまま生きなさい。
 ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもた
 らすままに、喜び、苦しみ、自然なことを自然に行う。
 それもまた道なのだ。
 
 質問者 それなら結婚し、子どもを持ち、仕事をして――幸せになることも
     できるのですね。
 
 マハラジ
 もちろん。
 幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。
 あなたの歩調で歩くがいい。
 
 質問者 でも、私は幸せになりたいのです。
 
 マハラジ
 真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできな
 い。
 喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。
 真の幸福は自己から来る。
 そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。
 あなたの真我(スワルーパ)を見いだしなさい。
 それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。
 
 質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがない
     のでしょうか?
 
 マハラジ
 あなたの真の存在に落ち着きがないのではない、その反映がマインドのなか
 に落ち着きなく現れるのだ。
 なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。
 それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。
 欲望の風がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動
 かし、千変万化に映しだす。
 しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと悲しみといった観念は、す
 べてマインドのなかに存在する。
 真我はマインドを超えてあり、関わることなくただ気づいている。
 
 質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?
 
 マハラジ
 たった今ここで、あなたは真我なのだ。
 マインドのことは放っておきなさい。
 覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。
 そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ること
 が、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。
 
 質問者 ほかの側面は何でしょうか?
 
 マハラジ
 側面は無数にある。
 ひとつを知ればすべてを悟るだろう。
 
 質問者 何か助けとなることを言ってください。
 
 マハラジ
 何が一番必要なのかはあなたが知っているはずだ。
 
 質問者 私は落ち着きがありません。どうすれば平和になれるのでしょう?
 
 マハラジ
 何のために平和が必要なのだろう?
 
 質問者 幸せになるために。
 
 マハラジ
 今、あなたは幸せではないのかね?
 
 質問者 ええ、そうではありません。
 
 マハラジ
 何があなたを不幸せにするのだろう?
 
 質問者 私は欲しくないものをもち、持っていないものが欲しいのです。
 
 マハラジ
 なぜそれを、持っているものを欲し、持っていないものは気にかけない、と
 いうふうにひっくり返さないのかね?
 
 質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。
 
 マハラジ
 何が快楽で何がそうでないか、どうやって知るのだろうか?
 
 質問者 過去の体験からです。もちろん。
 
 マハラジ
 記憶に導かれながらあなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。
 今まで成功しただろうか?
 
 質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。
 
 マハラジ
 どの苦しみだろう?
 
 質問者 喜びへの欲望と苦しみへの恐怖、どちらも惨めな状態です。純粋な
     喜びという状態は存在するのでしょうか?
 
 マハラジ
 肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。
 物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
 る。
 それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。
 苦しみはすべての喜びの背景にある。
 苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。
 だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
 それは悪循環だ。
 
                         『私は在る』(p39-41)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 子どもの頃、忘我の境地、完全な幸福状態をたびたび体験しました
>     が、後にそれは止まってしまいました。インドに来て以来、特にあ
>     なたに出会って以来、その状態がふたたび現れはじめています。そ
>     れでも、どんなに素晴らしい状態であっても持続しません。それは
>     来ては去り、いつふたたび訪れるかもしれません。
> 
> マハラジ
> マインドそのものが不動ではないのに、マインドのなかにある何が不動であ
> りうるというのだろう?

たしかに。

> 質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?
> 
> マハラジ
> 不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
> もちろんできはしない。
> うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
> あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
> けだ。

このことを理解するのに……わたしにはまだ何か必要だろうか……。(-_-;)

> 質問者 どうすればいいのでしょうか?
> 
> マハラジ
> 「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
> はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
> しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
> ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
> 的にまったく自然に起こりはじめる。

いよいよ……本当にこのサーダナに取り組むべきときだな……。

遅すぎたかもしれないけど……遅すぎということはないのだろうから……。

> 質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?
> 
> マハラジ
> できる。

(-_-)O

> 生を起こるがまま生きなさい。
> ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもた
> らすままに、喜び、苦しみ、自然なことを自然に行う。
> それもまた道なのだ。

ああ……。

しかしこれは……わたしに可能な道ではないな。

> 質問者 それなら結婚し、子どもを持ち、仕事をして――幸せになることも
>     できるのですね。
> 
> マハラジ
> もちろん。
> 幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。
> あなたの歩調で歩くがいい。

ふふ。

> 質問者 でも、私は幸せになりたいのです。

この方の気持ち、とてもよくわかります。

わかりますけど……ここが勘所ですよね。

> マハラジ
> 真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできな
> い。

ここを本当に理解することが必要なんですね。

> 喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。

どこまで行っても……。

それがどんなに微細な“喜びと苦しみ”であっても……。

> 真の幸福は自己から来る。
> そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。

そうなんですねぇ。

苦痛を避け、快楽を求めるのではなく、むしろなぜ自分が不幸なのかを見つけ
なさい……と言ってましたっけ。

> あなたの真我(スワルーパ)を見いだしなさい。
> それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。

それしかないんだ。

> 質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがない
>     のでしょうか?
> 
> マハラジ
> あなたの真の存在に落ち着きがないのではない、その反映がマインドのなか
> に落ち着きなく現れるのだ。
> なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。

はい。

> それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。
> 欲望の風がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動
> かし、千変万化に映しだす。

そうかぁ。(-_-)

「欲望の風」かぁ……。

> しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと悲しみといった観念は、す
> べてマインドのなかに存在する。

はい。

> 真我はマインドを超えてあり、関わることなくただ気づいている。

それがイエスが言う「神の王国」というものなんでしょうね。

> 質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?
> 
> マハラジ
> たった今ここで、あなたは真我なのだ。

はい。(-||-)

> マインドのことは放っておきなさい。
> 覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。
> そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ること
> が、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。

そういうことなんだ……。

> 質問者 ほかの側面は何でしょうか?
> 
> マハラジ
> 側面は無数にある。
> ひとつを知ればすべてを悟るだろう。

はい。

> 質問者 何か助けとなることを言ってください。

ふ。

> マハラジ
> 何が一番必要なのかはあなたが知っているはずだ。

あ、なるほど。(*-_-*)

> 質問者 私は落ち着きがありません。どうすれば平和になれるのでしょう?
> 
> マハラジ
> 何のために平和が必要なのだろう?
> 
> 質問者 幸せになるために。
> 
> マハラジ
> 今、あなたは幸せではないのかね?
> 
> 質問者 ええ、そうではありません。
> 
> マハラジ
> 何があなたを不幸せにするのだろう?
> 
> 質問者 私は欲しくないものをもち、持っていないものが欲しいのです。
> 
> マハラジ
> なぜそれを、持っているものを欲し、持っていないものは気にかけない、と
> いうふうにひっくり返さないのかね?

ははは……。(^||^)

> 質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。
> 
> マハラジ
> 何が快楽で何がそうでないか、どうやって知るのだろうか?

なるほど。(@_@)

> 質問者 過去の体験からです。もちろん。
> 
> マハラジ
> 記憶に導かれながらあなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。
> 今まで成功しただろうか?
> 
> 質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。
> 
> マハラジ
> どの苦しみだろう?
> 
> 質問者 喜びへの欲望と苦しみへの恐怖、どちらも惨めな状態です。純粋な
>     喜びという状態は存在するのでしょうか?
> 
> マハラジ
> 肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。
> 物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
> る。
> それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。

そういうことか……。

> 苦しみはすべての喜びの背景にある。

はい。

> 苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。

(*_*)

> だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
> それは悪循環だ。

そうなんですね……。

……わかりました。(-||-)

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
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おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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        …………○…………○…………○…………


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        …………○…………○…………○…………



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:すこし……スタンスを変えます。
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もう書けなくなるかな……と思っていました。

ところが……ちょっとショックと新たな風が入って……もう少し書き継げるか
もしれない……という気になりました。

すこし……スタンスを変えます。

ますます……エンタテーメントの要素はなくなっていきます。

ますます……独り言に近くなっていくでしょうが……。

ニサルガ師匠の言葉に対しても……それがあるべき姿ですよね。

今日も明るいうちに終えました。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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