━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆ 『アセンション館通信』vol.323 2010/6/13(第323号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガは、われわれ「見守る者」に向けて語られたサットグルの言葉を
傾聴し、探求し、伝播し、増幅し、反響させる器でありたいと思います。
ニサルガダッタの言葉は、「世界」という幻影の虜(個人)の視点に耽溺する
本来何の支えも必要ない「見守る者」に向けられた目覚めへの呼びかけです。
「個人」と「見守る者」の間で一緒に揺動する非在の焦点 (^_-)、現在 922名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.『誰』もどんな行為もしていない
2.写経ニサルガダッタ:【46 存在の意識は至福だ】の1回目
3.編集後記:楽しかろうと……悲しかろうと……夢は夢です。
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■ 1,『誰』もどんな行為もしていない
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梅雨前線が西の方から北上してきているようですね。
でもここいらは今日もまた爽やかな一日です。
マインドにまた何らかの理解過程が起こっているようですが……だからと言っ
てどうということもありません。
マインドはいつも何かを理解しているつもりですから……。(^^;)
まさか“自分”が……ただの汚れだとも思い切れませんしね……。
いつも何らかの理解が……これ見よがしに頭のなかを流れているわけです。
“わたし”がそれを起こしているわけでもありませんけど……。
このごろは……それが“自分”の理解だと思いこむ癖も……だんだん薄れてい
くようです……。
この有機体のなかで刺激に対する記憶の反応が……ただ起こっているだけなん
でしょう、うん。(-_-;)
(↑まるで悟ってるみたいなこと言っちゃって。(^_-))
(*^_^*)
というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/
(といって、別にpariという方がいるわけでもないかもしれません。(^_-))
みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?
“自分”が悟るわけではないんだ……ということはよくわかりました。
ただ“自分”というものが存在しないということを……納得するだけです。
悟りを求めるという運命に入った有機体のなかで……悟りを求めるというある
種のプロセスが始まるようです。
その場合……“自分”が悟りを求める必要はない……と言えるのかどうか?
もし“自分”が悟りを求める必要はない……ということに納得がいくのなら…
…それはそれで楽になるのかもしれません。
“自分”は……あたかも完全な自由意志を持っているかのように……やりたい
ことをやればいいのだ……と聞かされれば……それはそれで楽ですからね。
どのみち……あなたにはそれしかできないのだから……と。
いずれにせよ……あなたにできることなど何もない。
なぜなら……そもそも“あなた”(の自由意志)というようなものは存在しな
いのだから、と。
“あなた”にコントロールできることなど何ひとつない。
神の意志でなければ、何ひとつ起こらない。
うーむ。(-_-)
これはこれで……完璧に論理的です。
まったくのところ……。
これでは……理解ということに関するかぎり……完全にお手上げです。
“わたし”にできることなど……何もないわけです。
それはそれで……嬉しいと思います。
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謝辞
起こることになっていること以外、何も起こりません――想定されている
個人は、あらゆる出来事のなかの単なる登場人物にすぎないのです。です
から、どんなことも、誰の功績でも、何の功績でもありません――同じ理
由によって、どんな責任という問題も、どんな失敗という問題もありませ
ん。(LR9)
実に、師(グル)と弟子は意識のなかの単一の運動なのです。このことを完
全に理解すると、自分を通じて与えられたすべてのことに、表現できないほ
どの感謝の念がわき起こってきます。親愛なるラメッシュ、ありがとうござ
いました。
『誰がかまうもんか?!』(p10)
http://tinyurl.com/22v2o8j
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ご覧になって推測されるとおり、これは『誰がかまうもんか?!』を編集された
ブレイン・バルドー氏の「謝辞」の最初の部分です。
もちろん、はじめてこの「謝辞」の部分を読んだとき、いま“自分”が感じて
いるような意味が伝わったわけではありません。
そして今も……「表現できないほどの感謝の念がわき起こって」きたとおっし
ゃるバルドー氏の理解が起こっているわけでもありません。
ただ、この
> 起こることになっていること以外、何も起こりません――想定されている
> 個人は、あらゆる出来事のなかの単なる登場人物にすぎないのです。
> ですから、どんなことも、誰の功績でも、何の功績でもありません――同
> じ理由によって、どんな責任という問題も、どんな失敗という問題もあり
> ません。(LR9)
というラメッシ・バルセカール師の言葉は、実に端的で、受け取ることができ
るなら、即座に人を楽にできる表現だと思います。
文字どおりの意味は非常に明瞭で、理解を望む者にとっては、ほとんど誤解の
余地がありません。
読んで意味がわからないということは、ちょっと考えにくい。
> 起こることになっていること以外、何も起こりません
語られている事実に対する興味や無関心、好感や反感、受容や拒否、信じられ
る信じられない、といった違いはあるでしょう。
しかし理解しようとして、その内容が理解できないということはありません。
映画のように展開すべき物語が展開しているだけ……ということでしょう。
> 想定されている個人は、あらゆる出来事のなかの単なる登場人物にすぎない
> のです。
“自分”という意志主体としての個人が存在するような気がしても、実は展開
すべき物語のなかの単なる登場人物の役割が与えられているにすぎない。
理解したいと望んでいる人が……理解できない内容ではありません。
> ですから、どんなことも、誰の功績でも、何の功績でもありません
つまり、どんなことも、誰の功績でも、誰の咎でもない……。
これこそが……エゴが理解したくない事実のエッセンスですよね。
これを本当に理解したら、エゴにとっては身も蓋もなくなっちゃう。
> 同じ理由によって、どんな責任という問題も、どんな失敗という問題もあり
> ません。(LR9)
“身も蓋もない”事実に疑問がなくなったら、開けてくるのがこの風景。
何かが“自分”の功績だったり“他人”の責任だったりしている間は……その
“自分”が邪魔になって……けっして開けてこない風景とでもいうのか。
編集者バルドー氏の「謝辞」の最初に引用されている文章、
> 起こることになっていること以外、何も起こりません
に当たる内容を、ラメッシュ・バルセカール師はよく「神の意志がなければ、
何ごとも起こらない」という言葉でも表現するようです。
このバルセカール師が使う「神」という言葉の意味ですが、彼はこんなふうに
説明しています。
----------------------------------------------------------------------
私の教えの基本は、「意識が存在するすべてである。つまり『誰』もどんな
行為もしていない。神の意志がなければ、何ごとも起こらない」というもの
です。
そして、私が「神」と言うとき、この現象界の内側や外側にいる、全能なる
存在のことを言っているのではありません。
私が「神」と言うとき、それは、源泉、意識、つまり二番目のない一なるも
のを意味し、その中で、現象化が起こっています。
仏陀は次のように言っています。
「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」。
これが基本です。
これ以上短く、シンプルな言葉でこのことを表現できた人はいないと思いま
す。
出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない。
ですから、個々の行為者がいないのであれば、「誰」がそれをするのか、と
いう質問は不適切です。
けれども、知性が質問して、答えを得なければならないというなら、知性は、
「誰の行為か?――神の行為です」と教えられるのです。
『誰がかまうもんか?!』(p27-28)
----------------------------------------------------------------------
(-||-)
まことに……これほど見事に……ことの有り様を説明してくれる言葉に出逢っ
たことがありません……。(*-||-*)
“わたし”という有機体のなかで……今そのような理解が起こることになって
いた……というわけでしょうか……。
バルセカール師が使う「意識」という言葉(観念)の包含ですが、この言葉は
【意識が存在するすべてである<=>つまり『誰』もどんな行為もしていない】
という事実を説明するための概念だと言っていいと思います。
つまり、彼が引用した仏陀の言葉、
> 「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」。
をバルセカール流に説明することを主目的とした包含なんでしょうね。
それを「源泉」と言おうが「意識」と言おうが、存在するのは、唯一“二番目
のない一なるもの”だけあり、その中で現象化が起こっているだけだ、と。
そのなかでは『誰』もどんな行為もしていないのだ、というわけです。
だから、そのなかに自分の功績を自慢できるようなどんな主体もいなければ、
責めを負うべきどんな主体もいない……と、そういうことだと思います。
バルセカール師の「意識」は……そういう事実の説明を主目的とした概念であ
るようです。
だから彼の場合は、「源泉」と「意識」という言葉が同意に使われます。
その辺は、彼の師匠のニサルガダッタのターミノロジーと少し違うようです。
ニサルガダッタの場合、「意識」という言葉は“顕現の根拠”の意味合いが強
いですから、「意識」は当然、“非在”とつながりますよね。
たとえば、強いて図示するなら、こんな感じでしょうか。
────────┬───────────┬─────────────
│ 実在 │ 非在
────────┼───────────┼─────────────
│ │
ニサルガダッタ │ 気づき │ 意識
の用語法 │ │
│ 非顕現 │ 顕現
│ │
│ 源泉 │ 世界
│ │
│ 「見守る者」
│
│ 「私は在る」(通路)
│
────────┼───────────┴─────────────
│
バルセカール │ (存在するのは 意識
の用語法 │ 唯一)
│ 源泉
│
│ │
│ 「私−私」 │ 「私は在る」
│ │
────────┴───────────┴─────────────
この用語法の違いは、説明しようとする焦点の違いによるのでしょうね。
いずれにしろ、グルたちはみんな、言葉はすべて単なる観念にすぎないことを
重々ご承知なわけだから……すべては方便ということでしょうが……。
そう言っては何ですが……バルセカール師の方便はとても“面白い”ので……
またご紹介するかもしれません。
ただ……“あなたにできることは何もない”と強調するバルセカールの言葉と
次のニサルガダッタの言葉をマインドでどう包摂したらいいのか?
そこのところは……なかなか難しいですね。
----------------------------------------------------------------------
何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。
何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠
ざける。
『私は在る』(p203)
http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------
ともに覚者の慈悲の表現なのでしょうが……言葉はどうしても二元性の世界に
属していて……排反律にしたがわなければならないから。(-_-;)
その瞬間その瞬間……マインドは誤解と正解の狭間を……迷いながら進まなけ
ればならないのでしょう。
夢のなかを……。
(-_-)
……。
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【46 存在の意識は至福だ】の1回目
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一見マインドで対応できそうに見えるのがバルセカール流だとすれば、どうや
っても対応できそうに見えないのがニサルガダッタ流ですよね。(^^;)
> 自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。
こう言われると……マインドが止まらないかぎり……そういう体験は起こらな
いだろうと思われますから。
> それは存在―意識―至福だ。
覚者がたが揃っておっしゃるのだから……。
> 存在の意識は至福なのだ。
いっさいの夢が消え去り……気づきだけが残っている状態なのでしょうか。
では、【46 存在の意識は至福だ】の1回目です。
(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
願っています。(-||-) )
最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。
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質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやって
います。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊か
の著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来まし
た。
マハラジ
あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとし
ているのだろうか?
治療とは何だろうか?
人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?
質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善し
ようとします。また、マインドを回復させようともします。
マハラジ
あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか?
どの点でそれらは連結しているのだろうか?
質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。
マハラジ
身体とは食べ物によってできたものではないだろうか?
そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?
質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマ
インドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物
ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、あ
る変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょう
か?
マハラジ
木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり
出すのだ。
しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう?
あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか?
木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。
誰がマインドを楽しむのだろうか?
楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろう
か?
質問者 知覚する人は依存しません。
マハラジ
どうやってあなたは知るのだろう?
あなた自身の体験から語りなさい。
あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。
どのようにしてそれを知るのだろうか?
質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。
マハラジ
真理は永遠のものだ。
実在は不変だ。
変化するものは実在ではない。
実在は変化しない。
さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか?
食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。
食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。
マインドは溶け去る。
だが、観察者は消えるだろうか?
質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。
マハラジ
あなた自身がその証拠なのだ。
ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。
あなたはあなた自身だ。
あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。
何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。
自己の本性そのものが愛なのだ。
それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。
身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。
それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。
質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに
自己は存在できるのでしょうか?
マハラジ
できる。
自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。
それは存在―意識―至福だ。
存在の意識は至福なのだ。
質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうで
はありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができ
るでしょうか? 何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよ
いのでしょうか?
マハラジ
あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺る
ぎなく見守ることだ。
また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、
あたかも死んでいるかのように生きるがいい。
つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。
『私は在る』(p227-228)
http://tinyurl.com/s747u
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(-||-)
> 質問者 私の職業は医師です。外科からはじめて、現在は精神医学をやって
> います。また、信仰による精神的健康とヒーリングに関する何冊か
> の著作があります。あなたから霊的健康の法則を学ぶために来まし
> た。
>
> マハラジ
> あなたが患者を治療しようとするとき、正確には、あなたは何を治そうとし
> ているのだろうか?
> 治療とは何だろうか?
> 人が治ったと言えるのはどの時点だろうか?
これで一挙に相手の場所がわかるわけなんでしょうね。
> 質問者 私は身体を治療すると同時に、身体とマインドのつながりも改善し
> ようとします。また、マインドを回復させようともします。
>
> マハラジ
> あなたはマインドと身体の連結を調べただろうか?
> どの点でそれらは連結しているのだろうか?
測深がさらに細かくなりました。
> 質問者 身体と内在する意識の間にマインドがあるのです。
質問者の回答が知的なものなので……。
> マハラジ
> 身体とは食べ物によってできたものではないだろうか?
> そして、食べ物なしにマインドがありうるだろうか?
まず、身体の“素性”を明らかにしておくのでしょうか……。
> 質問者 身体は食べ物によって築かれ維持されています。食べ物なしにはマ
> インドは通常衰弱していきます。しかし、マインドは単なる食べ物
> ではありません。そこにはマインドを身体のなかにつくり出す、あ
> る変容させる要因があります。その変容させる要因とは何でしょう
> か?
最短経路でこのような質問にまできたわけですね。
こういう覚者との質疑応答って……まさに偶然はないというのか……。
起こることになっていることが……起こっているんでしょうねぇ。
> マハラジ
> 木が木ではない火を生みだすように、身体は身体ではないマインドをつくり
> 出すのだ。
なるほど。
これで身体は焚き火でいうなら薪に相当し、マインドは焚き火の火に相当する
というアナロジーが提示されました。
> しかし、マインドは誰にとって現れるのだろう?
なるほど。
> あなたがマインドと呼ぶ思考や感情を知覚するのは誰だろうか?
> 木があり、火があり、火を楽しむ人がいる。
> 誰がマインドを楽しむのだろうか?
> 楽しむ人もまた食べ物の結果だろうか、あるいはそれに依存しないのだろう
> か?
こうして実在に触れていくんですねぇ。
> 質問者 知覚する人は依存しません。
>
> マハラジ
> どうやってあなたは知るのだろう?
> あなた自身の体験から語りなさい。
恐わー。(>_<)
ニサルガダッタは時々恐いですよね。(^_-)
> あなたは身体でもなくマインドでもないと言う。
> どのようにしてそれを知るのだろうか?
覚者にこう問いかけられたら、誤魔化せません。
> 質問者 私は本当は知りません。そう推測したのです。
ですよね。
> マハラジ
> 真理は永遠のものだ。
> 実在は不変だ。
> 変化するものは実在ではない。
> 実在は変化しない。
「実在は変化しない」……ということがこれだけ強調されました。
> さて、あなたのなかで変化しないものとは何だろうか?
そうか……そういうことか。
> 食べ物があるかぎり、身体とマインドはある。
> 食べ物がなくなれば、身体は死に絶える。
> マインドは溶け去る。
食べ物がなくなっただけで、マインドは溶け去る。
> だが、観察者は消えるだろうか?
「だが、観察者は消えるだろうか?」……。
> 質問者 私は消え去らないと思いますが、証拠がありません。
>
> マハラジ
> あなた自身がその証拠なのだ。
はい。(-_-;)
> ほかのどんな証拠もあなたはもっていないし、もつこともできない。
> あなたはあなた自身だ。
わかりました。
> あなたはあなた自身を知り、あなた自身を愛している。
> 何であれマインドがすることは、それ自身への愛のためにするのだ。
そうなんですか。(@_@)
> 自己の本性そのものが愛なのだ。
> それは愛し、愛され、そして愛すべきものだ。
> 身体とマインドをそんなにも興味深く、親しくするのは自己だ。
> それらに与えられる配慮自体も自己からやってくるのだ。
ふーむ……。(-_-;)
> 質問者 もし真我が身体でもマインドでもないなら、身体とマインドなしに
> 自己は存在できるのでしょうか?
ああ……それは覚者に確認しておくべきポイントですよね。
> マハラジ
> できる。
そういうわけですよねぇ。
ただ……そう聞いただけでは……それだけでは役に立たない。
最終的にはそれが……有機体自身のなかで体験されなければならない。
“無知のヴェール”を排除していくことによって……。
> 自己がマインドと身体から独立した存在だということは実際の体験なのだ。
> それは存在―意識―至福だ。
> 存在の意識は至福なのだ。
はい、信じます。
> 質問者 それはあなたにとっては実際体験でしょうが、私にとってはそうで
> はありません。私はどのようにして同じ体験に行き着くことができ
> るでしょうか? 何の修練にしたがい、どのような訓練をすればよ
> いのでしょうか?
>
> マハラジ
> あなたが身体でもマインドでもないと知るには、あなた自身を油断なく揺る
> ぎなく見守ることだ。
> また、あなたの身体とマインドに影響を受けることなく、完全に距離を置き、
> あたかも死んでいるかのように生きるがいい。
現象に対するいっさいの反応をやめて……ただ「見守る者」とならなければな
らない。
> つまりあなたは身体にもマインドにも既得権をもっていないという意味だ。
極端とも言えるこの表現が……ニサルガダッタの表現なんだよなぁ……。
(-_-)
……。
(-||-)
今日の写経は、ここまでです。
m(_ _)m
…………○…………○…………○…………
『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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…………○…………○…………○…………
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…………○…………○…………○…………
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■ 3.編集後記:楽しかろうと……悲しかろうと……夢は夢です。
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だんだん“自分”にできることは何もない……という確信だけは深まっていく
ようです。
そうすると……いわゆる現実(世界)は……現実のようでもあり……夢のよう
でもあり。
いずれにせよ……現実(世界)に対する興味は……薄くならざるをえない。
楽しかろうと……悲しかろうと……夢は夢です。
今日も明るいうちに終えました。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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