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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.328 2010/7/18(第328号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガは、われわれ「見守る者」に向けて語られたサットグルの言葉を
聴き、調べ、わかり、伝え、広げ、響かせる器でありたいと思います。

ニサルガダッタの言葉は、この人生という夢のなかで、夢に見られている人物
にではなく、夢を見る側であるわれわれに向けられた目覚めの呼びかけです。

自分が夢の中の人物か夢を見る側かで一緒に迷っている方 (^_-)、現在 924名
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◇◇ もくじ ◇◇

1,成熟とは…探求とは?

2.写経ニサルガダッタ:【14 現れと実在】の1回目

3.いただいたお手紙から:にあさん

4.編集後記:いつまでたっても変わりませんねぇ。
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■ 1,成熟とは…探求とは?
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梅雨が明けたのでしょうか……。

清々しいそよ風が吹いてきて……素晴らしい晴天です。

めったに旅をすることなどないのですが……先月ほんとに久しぶりに北海道に
行って来ました。

いえ……いま……目の前の夏空に見える刷毛ではいたような雲を見ていて……
思い出したんですけどね。^^;

北海道は……雲の形が……どこか本州と違うような気がしていたものです。

どこがどう違うとも……明瞭にも言えませんが……。

高村光太郎の奥さんの智恵子さんが「東京には空がない」とおっしゃっていた
そうですが……まあ、そんなような感じでしょうね……。

比較的若いころ北海道を離れたものだから……どうもこちらの雲の形は北海道
と違うなぁ……という思い入れが抜けませんでした。

たぶんに気のせいなのだろう……と思うこともありましたが……。

ところが今回北海道に行ってみて……あ、やっぱり、北海道の雲の形だ (@_@)
……と再発見してしまいました。(^^;)

そこには自分が知っている……あの団々と浮かぶ“北海道の雲”が……ちゃん
とあったんですよ。

こういう思い入れは……そう簡単には抜けないものですね。

それが“生き物の証(あかし)”というものなのでしょう……。

と言っても……その北海道へ行けば……あの幼年の日に出会える……というも
のではないわけです……。

そこが“現れ”に自己同化する意識の……哀切なところです……。(=_=)

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

意識が意識のコンテンツのなかで……どんなに捜し物をしようと……どこまで
行っても……新しい画面……新しい発明品を……見せられるだけです。

これは違う……自分が探しているのはこんなものじゃないと思って……今度は
古い記憶のなかをたどろうとする……。

マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」は……いい映画でしたね。

生き物の興奮……リズム……感動……喪失……かけがえのなさ……取り返しの
つかなさ……哀切さ……。

そういったものが……まさに間然するところなく……流れていきました。

唐突にこんな映画のことを思い出したのは……あの死んだユリディスを求めて
……オルフェが役所のなかを……彷徨い歩く場面を思い出したからです。

彼が探しているものが……死亡届の書類の山の中で見つかるはずもないのに。

“現れ”のなかで出会った感動と興奮を求めて……われわれはまた“現れ”の
画像の山のなかを……探し歩く……。

でも……提供されるのはつねに……新しい画面……新しい創造物です……。

どこまで探し求めても……これ、これ、この画面が求めていた究極画面 (@_@)
……なんてものが……あるわけないですよねぇ。(^^;)

----------------------------------------------------------------------
 生命ははじまりも終わりもしない。
 不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
 のだ。
 数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
 ない。
 生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
 の源に戻っていくのだ。
                          『私は在る』(p500)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-)

言葉は沈黙を……構成できない……。

言葉は……永遠に……沈黙には近づけないわけです……。

それでもなお……、

> まずは言葉、それから沈黙だ。

と、賢者がおっしゃるのは、

----------------------------------------------------------------------
 沈黙のためには成熟しなければならない。
                          『私は在る』(p221)
----------------------------------------------------------------------

……からでしょう。(>_<)

そうなんですよねぇ……。(*-_-*)

> 沈黙のためには成熟しなければならない。

……。(-_-;)

なぜ……沈黙のためには……成熟が必要なんでしょう……?

なぜなら……マインドのなかに求めるものは存在しない……と理解するには…
…成熟が必要だからだと思います。

それはつまり……どんな意識状態のなかにも……どんな有形の世界のなかにも
……求めるものは存在しない……と納得することだから……。

変化の絶えない世界の中で……何か“自分”の好みのものを見つけたとしても
……それは必ず……“自分”の手から……こぼれ落ちていく……。

それをとどめておく……どんな手段も存在しない……。

それより何より……第一、それを好んでいた“自分(の意識状態)”そのもの
が……変化の波から自由ではありえない……。

“自分”と思っていた思考も……“自分”と思っていた身体も……絶えること
のない変化に晒されている……。

そしていつかは……“自分”の身体の崩壊にともなって……その“自分”とい
う虚構の観念そのものが……塵と消えてしまう……。

そのつかの間に……意識と世界のなかにはあったものは何か?

マインドのなかにあったのは……快楽と苦痛……興奮と興ざめ……そういった
混乱でしかなかった……。

しかも……それすらも……いつかすべては塵と消えてしまう……。

それがたまたま……“自分”がやり方を間違っただけなら……また将来に欲望
をつなぐことも……できるのかもしれない。

でもそれが……じつは誰がどんなに賢くやっても……顕現の世界を二元性から
解放できるわけではないのだ……と知ったら……。

快楽があるのは苦痛があるから……正義があるのは邪悪があるから……富裕が
あるのは貧困があるから……だと納得したら……。

希望があるのは……幻滅があるから……だと……。

上位次元があるのは……下位次元があるから……だと知ったら……。

すべての希望も憧れも……その二元性のゆえに知覚され……顕現することがで
きている……。

誰がどう頑張っても……顕現世界をその二元性から……解放できるわけではな
いのだ……。

そう得心したら……。

> 沈黙のためには成熟しなければならない。

……。(-_-;)

成熟とは何か……?

それは基本的に……マインドの動きよりも……静かであることの方が好ましい
……という状態にいたることかもしれません……。

混乱や葛藤よりも……平和の方が好ましい……と言っても同じでしょうが。

かくて……舞い上がった塵は……少しずつ……降りてくるのでしょうか。

いったい……真実とは……何なのか?

これらすべての現れが……二元性の枠組みになかでしか……現象できないのだ
とすれば……では……実在とは何なのか?

これらすべてに立ち会っている……「わたし」とは誰のことなのか?

こうして……「探求」は……始まるのでしょうか?

いったい……「探求」とは何でしょうか?

----------------------------------------------------------------------
 ラメッシ
 探求とは何でしょうか?
 探求とは、「あなた」が神を知りたがっているということです。
 あなたが知るものは何であれ、対象(客体)です。
 そして、あなたは主体です。
 ですから、もしあなたが神を知りたいと思うなら、それは何を意味するので
 しょうか?
 それは、あなたが主体であり、神は客体である、ということ。
 ところが、それはあべこべなのです。
 神が主体で、あなたは客体である、ということです。
 それなら、どうやって客体が主体を知ることができるでしょうか?
 神を知ろうと客体がおこなったのは、神の主体性を奪うということでした。
 さらに悪いことに、神の主体性を奪ったこの偽の主体は、神を、偽の主体が
 知りたいと思う対象に貶(おとし)めたのです。
 それゆえ、探求者が神を求めれば求めるほど、ますます挫折するようになる
 のです。
                   『誰がかまうもんか?!』(p180-181)
                      http://tinyurl.com/22v2o8j
----------------------------------------------------------------------

(*_*)  ⌒★?

> 神を知ろうと客体がおこなったのは、神の主体性を奪うということでした。

まったくです……。

それは……無限が……無限の無限乗を……察知しようとする……試みのような
ものなのかもしれない……。

> それゆえ、探求者が神を求めれば求めるほど、ますます挫折するようになる
> のです。

……。(=_=)

だからこそ……内山興正師は、澤木興道老師に、

「佛法は広大無辺。
 お前の小さな物足りよう思いを物足らすようなものではない」

と大喝されたわけか……。

----------------------------------------------------------------------
 ここでの講話の後で、いくつかのバジャン(神に捧げる賛歌)が歌われてい
 ますが、その中の一つは、ある賢者のものであり、彼はいともあっさり、み
 ごとにそれを表現しています。
 「私は神を知ろうと出かけていき、神になって戻ってきた」。
 言い換えるなら、客体が神を知ろうとしていたが、実際に起こったのは、客
 体が純粋な主体性の中に消えてしまったということです。
 神を知りたがっているのは考える心、エゴであり、それは行為者、探求者が
 決していたことがなかったと完全に理解したときに消えます。
 
 完全で無条件の最終的な受容が起こるのは、「『私』は『自分』が行為者で
 ないことを受け入れます」と言う、個々の受容者がいないときだけです。
 私は、こういった個人的受容について話しているのではありません。
 私が話している受容は、非個人的受容であり、その中には個々の受容者も、
 知る人もいません。
 そして、神を知りたいと思う人が消えてしまったら、そのとき何が起こるで
 しょうか?
 起こったのは、運命と神の意志でした――神を知りたいと思っていた人は、
 神になったのです。
 なぜなら、存在するのは神だけだからです――探求者と探求とが一掃された
 のです。
 これが私の考えです。
                   『誰がかまうもんか?!』(p181-182)
----------------------------------------------------------------------

なるほど……。(-_-)

そういうことになりますねぇ……。

「探求はプロセスである」という独自の見解を説明するために……バルセカー
ルはまず……ラマナ・マハルシの言葉の説明から入ります。

----------------------------------------------------------------------
 探求はプロセスである
 
 ラメッシ
 源泉が探求を始めると、そうすることで、エゴが破壊される過程がスタート
 します。
 それをラマナ・マハルシは「あなたの頭はすでにトラの口の中にあります。
 もう逃げることはできません」と言い、その意味するところは、源泉がエゴ
 を破壊するプロセスを開始し、それができるのは源泉だけというわけです。
 
 ですから、真の要点は、源泉がエゴを創造し、そして、ある特定の肉体精神
 機構において、源泉はそれを破壊するプロセスの最中だということです。
 それゆえエゴは、それとはまったく無関係なのです。
 エゴは破壊されている最中です。
 それを受け入れることが重要です。
 そのように、もしエゴが破壊されている最中であるとしたら、では、エゴは
 どうして自分自身の破壊を求めることができるのでしょうか?
 そして、それが起こっていることではありませんか?
 二十五年間、エゴは、そのことも知らずに自分自身の破壊を求めてきました。
 もしどんなときにも、エゴは本当に、自分が自分自身の破壊を求めているこ
 とに気づいたなら、それが二十五年間も続いたとあなたは思いますか?
 
 肝心なのは、エゴは自分自身を破壊するつもりはない、ということです。
 しかし、エゴは破壊されつつあるのです。
 そして、覚えておくべき言葉は、ラマナ・マハルシの、「もう逃げることは
 できません」というものです。
 探求は源泉によって始められ、源泉の意志に従って、それ自身のペースで進
 行するでしょう。
 ですから、理解すべき唯一の点は、神の意志、源泉の意志でないかぎり、何
 も起きないということです。
                   『誰がかまうもんか?!』(p186-187)
----------------------------------------------------------------------

> 「あなたの頭はすでにトラの口の中にあります。
>  もう逃げることはできません」

ラマナ・マハルシにこう保証された人は……安心したかもしれませんね……。

> ですから、真の要点は、源泉がエゴを創造し、そして、ある特定の肉体精神
> 機構において、源泉はそれを破壊するプロセスの最中だということです。

源泉だけが働いているのなら……源泉から分離したどんな行為者も存在しない
のなら……。

たしかにこれは……当然の帰結とも言えます。

いったんプロセスが始動した以上……もう逃げることはできない。

分離したエゴという幻想は……いやおうなく崩壊の一本道に入ったわけです。

> それゆえエゴは、それとはまったく無関係なのです。

ああ……そうか……。

プロセスの始動に関しても……もともとエゴは“まったく無関係”なのか。

----------------------------------------------------------------------
 いったい探求とは何なのでしょうか?
 探求とは、源泉を求めることではなく、源泉を隠している個人的行為者とい
 う感覚、エゴを取り除くことなのです。
 あなたは、「自分」がそのエゴを取り除くのだと聞かされています。
 私は、「誰」が「誰の」エゴを取り除くのか?と尋ねます。
 その結果、私は源泉を隠すエゴ――エゴを創造したそのパワー、すなわち源
 泉のみがエゴを取り除くことができる、という結論に至っています。
 誰がエゴを創造したのか?
 エゴはどこから来たのか?
 エゴは、ただ一つの源泉からのみ生じることができ、源泉は、エゴ――何千
 の中の一つのエゴ――を破壊している最中です。
 今起こっているのが、そのプロセスです。
 
                   『誰がかまうもんか?!』(p187-188)
----------------------------------------------------------------------

うーむ。(-_-;)

じつに論理的です。

> エゴはどこから来たのか?
> エゴは、ただ一つの源泉からのみ生じることができ、源泉は、エゴ――何千
> の中の一つのエゴ――を破壊している最中です。

この完璧に論理的な展開が……バルセカール師の方便(観念)ですねぇ。

もう一方には、

“神はあなたが創造した世界のことなど知ってすらいないのだ”といった方便
(観念)もあるわけですが……。

「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」みたいなものでしょうか。

どちらも論理的には正しいわけでしょうね。

いずれにせよ……「実在」は……正しいか正しくないかなど……まったく気に
もしていないでしょうが。

もともと……消滅を繰り返す“現れ”の背景には……「実在」しか存在してい
ないわけでしょうから。

でも……こうして、

> 源泉は、エゴ――何千の中の一つのエゴ――を破壊している最中です。

と聞くと……安心しますね。

“変態エゴ”というわけでもなくて……“疲れたエゴ”とでも言うのか……。

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 探求者は何をしているのでしょうか?
 私の考えでは、探求者は階段を上っています。
 彼は、三十段の階段があるのか、三十万段の階段があるのか知りません。
 その人にわかるのはただ、自分は上ることをやめることができない、という
 ことです。
 彼が上りはじめたわけではないのです。
 上ることが起こっているのであり、その人は上りつづけます。
 
 ですから、ある特定の段階では、最後のステップは三十段目かもしれません。
 二十九段目から三十段目は常に突然です。
 でも、プロセスがあり、私が言っているのはただ、「あなたがそのプロセス
 を始めたのではない」ということです。
 それゆえ、三十段目に到達するどんな「あなた」も存在しません。
 二十九段目から三十段目は突然です。
 だから人びとは、目覚めは常に突然である、と言うのです。
 
                     『誰がかまうもんか?!』(p188)
----------------------------------------------------------------------

ここ……素晴らしいと思いました。

> 彼は、三十段の階段があるのか、三十万段の階段があるのか知りません。

まったくですねぇ……。

このイメージの素晴らしさ……。

夢のなかで……夜の建築物の無限に続く階段を上ったことがあります。

ついに確信がなくなって……途中から階段を降り始めたのですが……。

結局……また仕方なく……上り始めたことを憶えています。

> その人にわかるのはただ、自分は上ることをやめることができない、という
> ことです。

まったくです。

> 彼が上りはじめたわけではないのです。

そうなんですねぇ……。(-_-)

ついにすべてを諦めざるをえなくなったとき……エゴという神秘の催眠が解体
しはじめるのでしょうね……。

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【14 現れと実在】の1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

この章の質問者がこだわるのは「原因」という観念です。

わたしも同病でしたから、気持ちはもちろんわかりますが。

だから質問者は「出来事には原因がない」というマハラジの言葉を何とか理解
しようとします。

それに対するマハラジの言葉は、

「ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出
 せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬが
 れない。
 あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ」

ということになるようです。

そして、

「生と死、自己と非自己。
 これらすべての概念を捨て去りなさい。
 それらは何の役にも立たない」

と言うのですから、まあ、説得されたいのでなければ、近づく意味もないわけ
ですよね。

では、【14 現れと実在】の1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 出来事には原因がないと繰り返しあなたは言われました。ものごと
     はただ起こり、どのような原因もそれに当てることはできないと。
     それでもすべてに原因があるはずです、かならずいくつかの原因が。
     いったいどうやって原因がないということを理解すればいいのでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 至高の見地から見れば、世界に原因はない。
 
 質問者 しかし、あなた自身の経験ではどうなのでしょう?
 
 マハラジ
 すべては原因なくして起こる。
 世界には何の原因もない。
 
 質問者 私は世界創造の原因に関して尋ねているのではありません。誰が世
     界の創造を見たというのでしょう? それははじまりもなく、つね
     に存在してさえいるのかもしれません。しかし、私は世界について
     話しているのではありません。それでも世界は存在すると私は思い
     ます。それはあまりにも多くのものを包括しているのです。間違い
     なく、そのそれぞれにいくつかの原因があるはずです。
 
 マハラジ
 ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出
 せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬが
 れない。
 あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。
 
 質問者 私の質問はとてもシンプルです。私はあらゆる類(たぐい)のもの
     ごとを見て、それぞれに何らかの原因があるはずだ、と理解したの
     です。あなたはあなたの視点から見るとそれらに原因はないと言い
     ます。しかし、あなたにとっては何も存在していないのです。だか
     ら因果関係の質問ももち上がりません。それにもかかわらず、あな
     たはものごとの存在を認めており、しかも因果関係を否定します。
     これが私には理解しがたいところなのです。ものごとの存在を認め
     ておきながら、なぜ原因を拒絶されるのですか?
 
 マハラジ
 あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもない
 と知っているように、私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているの
 だ。
 
 質問者 それでも、光の運動には原因があります。
 
 マハラジ
 その光はまったく動かない。
 あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩と光を遮る一連の動
 きは幻想なのだ。
 動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。
 
 質問者 だからといって、それが画像に原因のない理由にはなりません。フ
     ィルムがあり、役者、技術者、監督、演出家、制作者がいます。世
     界は因果関係に支配されており、すべては連結しあっているのです。
 
 マハラジ
 もちろん、すべては相互に連結しあっている。
 そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。
 宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。
 あるものはあるがままだ。
 なぜなら世界はあるがままだからだ。
 わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。
 そして私は金そのものを扱っている。
 二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。
 あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの
 間には何の因果関係もない。
 共通の要因は金だ。
 だが金が原因だとは言えない。
 それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。
 装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在
 る」として映しだされる。
 それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。
 同様に、実在はすべてを可能にする。
 それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやって
 くるのだ。
 
 しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね?
 原因の何が問題なのか?
 ものごととは、それ自身はかない一過性のものなのだ。
 来るものは拒まず、去るものは追わず――なぜものごとを捕まえてその原因
 について尋ねまわるのだろうか?
 
 質問者 相対的な視点からは、すべてに原因があるはずです。
 
 マハラジ
 相対的視点がいったい何になるというのかね?
 あなたは絶対的な視点から見ることができるのだ。
 なぜ相対性に後戻りするのか?
 絶対性を恐れているのかね?
 
 質問者 恐れています。私はいわゆる絶対的確実性と呼ばれるもののなかに
     眠り陥ってしまうことが恐いのです。立派な生活を送るのに絶対性
     は助けになりません。シャツが必要なときには、生地を買い、仕立
     屋を呼び、それから……。
 
 マハラジ
 これらの話はあなたの無知をあからさまにしているだけだ。
 
 質問者 では知者の見解はどうでしょうか?
 
 マハラジ
 光だけがあり、光がすべてなのだ。
 そのほかすべては光によってできた画像にすぎない。
 画像は光のなかに、光は画像のなかにある。
 生と死、自己と非自己。
 これらすべての概念を捨て去りなさい。
 それらは何の役にも立たない。
 
 質問者 いったいどの見地から、あなたは因果関係を否定されているのでし
     ょうか? 相対的視野からは、宇宙がすべての原因であり、絶対的
     視野からは、まったく何も存在してはいません。
 
 マハラジ
 あなたはどの状態から尋ねているのかね?
 
 質問者 目覚めの状態からです。これらの討論が起こるのは目覚めの状態に
     おいてだけです。
 
 マハラジ
 これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。
 それがその本性なのだ。
 だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。
 いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。
 そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう?
 因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係
 の有無を知る助けになるのだろうか?
 
 質問者 世界と目覚めの状態はともに立ち現れ、ともに消え去ります。
 
 マハラジ
 マインドが静かに、完全に沈黙したとき、目覚めの状態は消え去る。
 
                         『私は在る』(p59-61)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 出来事には原因がないと繰り返しあなたは言われました。ものごと
>     はただ起こり、どのような原因もそれに当てることはできないと。
>     それでもすべてに原因があるはずです、かならずいくつかの原因が。
>     いったいどうやって原因がないということを理解すればいいのでし
>     ょうか?

はじめてマハラジの「出来事には原因がない」という表現に触れたときは……
必ずこう思いますよね。

> マハラジ
> 至高の見地から見れば、世界に原因はない。

覚者がそうおっしゃっているのに……われわれが世界の原因について……ああ
だこうだ言っても……はじまりませんね。

すべては……単にマインドの中身にすぎないわけだから。

> 質問者 しかし、あなた自身の経験ではどうなのでしょう?

具体的にはどういう答えが欲しかったのか……?

> マハラジ
> すべては原因なくして起こる。
> 世界には何の原因もない。

わかりました。(-||-)

> 質問者 私は世界創造の原因に関して尋ねているのではありません。誰が世
>     界の創造を見たというのでしょう? それははじまりもなく、つね
>     に存在してさえいるのかもしれません。しかし、私は世界について
>     話しているのではありません。それでも世界は存在すると私は思い
>     ます。それはあまりにも多くのものを包括しているのです。間違い
>     なく、そのそれぞれにいくつかの原因があるはずです。

ああ、そういう包含の質問だったんですね。

> マハラジ
> ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出
> せば、すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬが
> れない。

なるほど。

われわれの問というのは……そういうものなんだ。

> あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。

そういうことになりますね。

> 質問者 私の質問はとてもシンプルです。私はあらゆる類(たぐい)のもの
>     ごとを見て、それぞれに何らかの原因があるはずだ、と理解したの
>     です。あなたはあなたの視点から見るとそれらに原因はないと言い
>     ます。しかし、あなたにとっては何も存在していないのです。だか
>     ら因果関係の質問ももち上がりません。それにもかかわらず、あな
>     たはものごとの存在を認めており、しかも因果関係を否定します。
>     これが私には理解しがたいところなのです。ものごとの存在を認め
>     ておきながら、なぜ原因を拒絶されるのですか?

そうか……まあこの方の気持ちもわかります。

> マハラジ
> あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもない
> と知っているように、私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているの
> だ。

(@_@)

なるほど。(-_-;)

あらためて……新鮮な感じだったなぁ。

> 質問者 それでも、光の運動には原因があります。
> 
> マハラジ
> その光はまったく動かない。

そうか。(@_@)

> あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩と光を遮る一連の動
> きは幻想なのだ。
> 動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。

よくわかりました。

> 質問者 だからといって、それが画像に原因のない理由にはなりません。フ
>     ィルムがあり、役者、技術者、監督、演出家、制作者がいます。世
>     界は因果関係に支配されており、すべては連結しあっているのです。

映画の中身の造りについての質問だったんですね。

> マハラジ
> もちろん、すべては相互に連結しあっている。
> そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。
> 宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。

はい……ここのところは理解できます。

> あるものはあるがままだ。
> なぜなら世界はあるがままだからだ。

ここのところでは……理解の“水位差”みたいなものを感じざるをえません。

> わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。
> そして私は金そのものを扱っている。

なるほど。

> 二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。

そうか……そういうことになるか……。(-_-)

> あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、その二つの
> 間には何の因果関係もない。

たしかに。

> 共通の要因は金だ。

はい。

> だが金が原因だとは言えない。
> それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。

ああ……なるほど。(@_@)

> 装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在
> る」として映しだされる。

「私は在る」がマインドのなかで“特定の名前と形”をまとうだけなんだ。

> それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。

なるほど……理解できます。

> 同様に、実在はすべてを可能にする。

金がすべての細工を許すように……。

> それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやって
> くるのだ。

金の装飾品の喩えで言うなら……装飾品をイメージする金細工師たちも……じ
つは金(実在=源泉)からやってきている……ということか。

> しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね?
> 原因の何が問題なのか?

あ……。(@_@)

> ものごととは、それ自身はかない一過性のものなのだ。
> 来るものは拒まず、去るものは追わず――なぜものごとを捕まえてその原因
> について尋ねまわるのだろうか?

そうかあ……何をかき集めたところで……エゴの虚構性を繕えるわけではない
……ということかなぁ。

> 質問者 相対的な視点からは、すべてに原因があるはずです。

それは確かだけど……。

> マハラジ
> 相対的視点がいったい何になるというのかね?

そういうことだ。

> あなたは絶対的な視点から見ることができるのだ。
> なぜ相対性に後戻りするのか?
> 絶対性を恐れているのかね?

まさしく。

> 質問者 恐れています。私はいわゆる絶対的確実性と呼ばれるもののなかに
>     眠り陥ってしまうことが恐いのです。立派な生活を送るのに絶対性
>     は助けになりません。シャツが必要なときには、生地を買い、仕立
>     屋を呼び、それから……。
> 
> マハラジ
> これらの話はあなたの無知をあからさまにしているだけだ。

自然に質問者の言葉を中断させることが起こったんでしょうね。

> 質問者 では知者の見解はどうでしょうか?
> 
> マハラジ
> 光だけがあり、光がすべてなのだ。
> そのほかすべては光によってできた画像にすぎない。
> 画像は光のなかに、光は画像のなかにある。

意識は気づきのなかに、気づきは意識のなかにある。

> 生と死、自己と非自己。
> これらすべての概念を捨て去りなさい。
> それらは何の役にも立たない。

これらすべての概念は何の役にも立たない……。

> 質問者 いったいどの見地から、あなたは因果関係を否定されているのでし
>     ょうか? 相対的視野からは、宇宙がすべての原因であり、絶対的
>     視野からは、まったく何も存在してはいません。
> 
> マハラジ
> あなたはどの状態から尋ねているのかね?
> 
> 質問者 目覚めの状態からです。これらの討論が起こるのは目覚めの状態に
>     おいてだけです。

うん。

> マハラジ
> これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。

たしかに。

> それがその本性なのだ。

そういうことなんだ。

> だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。

同意します。

> いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。

ふーむ。

> そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう?

あ、なるほど。(@_@)

> 因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係
> の有無を知る助けになるのだろうか?

そういうことかぁ。(-_-;)

「光だけがあり、光がすべてなのだ。
 そのほかすべては光によってできた画像にすぎない」

という場所から語っているわけだものなぁ。

> 質問者 世界と目覚めの状態はともに立ち現れ、ともに消え去ります。
> 
> マハラジ
> マインドが静かに、完全に沈黙したとき、目覚めの状態は消え去る。

(*_*)  ⌒★?

そういうことか……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 3.いただいたお手紙から:にあさん
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▼『アセンション館通信』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単なるメールな
ど、ご自由にお書きいただければと思います。


        …………○…………○…………○…………


今回、にあさんという方からちょっと不思議なご質問をいただきました。^^;;

「私は在る」に関するご意見というのでもないようなのですが、かといって、
情報投稿というわけでもなくて……ちょっと困りました。

ご返事しないというのも失礼なので、一応ご紹介します。

【件名】: こういうの間違っているのでしょうか?:返事ください
----------------------------------------------------------------------
 資本主義経済の定義:
  
 資本(自己資本、他人資本(資産))というものを回転させ、費用を使い、
 利益を増やそうという行為。資本増分(所得)を重要視して、資本の回転
 (経費)を軽視した行い。利益の出ない資本の回転を求めない。(所得のな
 い経費?当り前か?)
 
 資本からで無く「利益」からでしか国家予算の取れない、未熟な制度。
 資本が永遠と成長しなくては、やっていけない国。大きく成るしかない国。
 小国となるのは破たん。
 
 
 
 つまりこれ以上成長出来ないから悩んでいるのですね。
 次の段階へ進む、安定した経済変動、力強い経済発展、求める愛情主義経済
 はどうでしょう??
 
 愛情主義経済の定義:
 
 経済成長(利益の出る資本)を求めるのではなく、経済発展(新しい資本の
 回転)を積極的に求める費用課税。景気(民間)と財政(政府)の関係が反
 比例になる経済変動(経費課税)を求めて、安定した力強いものを求める経
 済。『愛』というものが「情熱のある貧乏人の利益」であるのか、確認する
 経済。国民総生産安定、超デフレ経済(7千円で家が建つ)
 
 
 こういうのはダメでしょうか?
----------------------------------------------------------------------

にあさん、一応ご紹介させていただきました。

ただ……ご質問の内容ですが、わたしがお答えできる内容でもないようです。
(いえ、これはけっして駄洒落ではありません。(^^;))

なので「返事ください」ということですので、何とかご返事をしたいと思うの
ですが、そこのところがどうも難しくて。

ただご投稿のタイトルの「こういうの間違っているのでしょうか?」に関して
だけなら、なんとかご返事ができるかもしれません。

というのは、“どなたの見解も別に間違ってはいないでしょう”というのが、
だいたい“わたし”の見解だからです。

ですから、わたしが保証しても何の意味もありませんが、にあさんのご意見は
別に間違ってはいないと思います。

その理由は、にあさんがそのようなご意見だからです。

「愛情主義経済」……じつにいいじゃありませんか。

でも、じつは世の中的には、“間違っている”とか“正しい”とかいうことは
他者を説得できるかどうか、という基準で判断されると思います。

つまり、前提も連想野も相当に違っている方々を、論理展開の妥当性を武器に
して説得できるかどうか、という基準です。

かつ欲を言うなら、その論理の“妥当性”とか“説得力”でいわゆる“現実”
(つまり“思いこみ”)を変容できるかどうか、という基準ですよね。

仮にそういう基準を前提にして「こういうの間違っているのでしょうか?」と
ご質問いただいたとすればですが……。

その前に……まずわたしがその適格者かどうか……とても疑問です。(^^;)

もちろん、愛を唯一の基準にして成り立っているのがすでに“現実”の社会な
ら、最初から問題などないわけでしょうが……。

ただ通常、われわれが“現実”と言っているのは社会の構成員の“思いこみ”
の総和のようなもののことですよね。

そういう前提で、にあさんの論理展開が説得力を持つかどうか……そのへんは
ちょっとわたしにはわかりません。

はたしてご返事になったかどうか……。

にあさん、ご投稿ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

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■ 4.編集後記:いつまでたっても変わりませんねぇ。
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“自分”が“操り人形”であることをだんだん実感しつつあります。

ただ……このようなマインドの言葉を綴りながら……その矛盾と空しさがまだ
まだ本当に実感されていない……それも確かですね。

その意味では……いつまでたっても変わりませんねぇ。

> 何をしようとあなたが変わることはないだろう。

(*@_@*)

> なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
> あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
> だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。(p540)

ああ……。(*-_-*)

> そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
> なぜなら、何も失われてはいないからだ。

そうかぁ。

> リラックスしなさい。
> そして「私は在る」を見守りなさい。
> 実在はその背後にあるのだ。
> 静かにしなさい。
> 沈黙しなさい。
> それは現れるだろう。
> あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。(p540)

(*-||-*)

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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