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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.338 2010/9/26(第338号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ
という言葉を信じた、仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 923名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.現れは記憶と想像のなかに

2.写経ニサルガダッタ:【101 ジニャーニは理解も把握もしない】の3回目

3.夢が覆い隠している至福が……どれほどのものかを……
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■ 1.現れは記憶と想像のなかに
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彼岸を過ぎて急に涼しくなりました。

夜間の激しい雨風が吹き飛ばしたものか……あちこちに……まだ緑の木の葉が
散らばっています……。

曇天のしたの……妙に透明な空気……。

あ……一瞬……日が射した……。

こう言うと……毎年同じことの繰り返しのようでもあるけれど……。

でも……じつは……同じなのは……わたし……ですよね。

つねに在るのは……今……。

つねに在るのは……永遠……。

つねに在るのは……わたし……。

「私は在る」……。

わたしの前を……いろいろな秋が……通りすぎてゆくんですね……。

いろいろな……つかの間の情緒が……現れては……消えてゆく……。

(-_-)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

人生は……未来の方から近づいてきて……今の瞬間があって……過去の方へと
過ぎ去っていく……ようにも思えます。

でもそれは……単なる言葉の使い方ですよね。

未来というものが在り……過去というものが在る……わけではない。

過去とは……記憶のこと……未来とは……想像のことです。

つまり……あらゆるスピリチュアル教師が教えるように……時間というのは…
…単なる想像上の観念にすぎません。

だから……何も想像しない者には……時間は存在しないわけでしょう。

ただ……一瞬一瞬……つかの間の形と名前が……現れては……消えてゆくだけ
です……。

より事実に即して言うなら……一方に身体に象徴されるようなわたしがいて…
…もう一方(まわり)に……絶えざる変化としての感覚的印象がある……。

幼児の世界とは……そのようなものかもしれません。

その状態から……われわれは少しずつ学んで(つまり洗脳されて)……身体の
なかに入り……まわりの感覚的印象……世界のなかに組み込まれていく……。

すべては……記憶と想像のなかにある……。

現れ(世界)は……記憶と想像のなかにあるようです……。

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 記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。
 記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れ
 にすぎない。
                           『私は在る』(p37)
                       http://tinyurl.com/s747u
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ところで……じゃっかん想像が混入した幼児の世界以前に……より純粋に事実
に即した……赤ん坊の世界……というのがあります。

赤ん坊の状態では……まだわたしは……身体のなかに入ってすらいない……。

つまり……そこでは……身体も“まわりの感覚的印象”でしかない……。

赤ん坊の状態には……“自分”が知覚しているという想念もない……。

つまり……そこには……「知る」という働きがあるだけでしょう。

まったく想像を含まない新生児の状態では……“まわりの感覚的印象”そのも
のが……われわれの場合とは違うようです。

つまり……新生児にとっても“まわりの感覚的印象”はあるでしょうが……そ
れは知覚されているのではない……ということです。

マハラジに……記憶と知覚に関する……こんな問答があります。

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 質問者 もちろん、知覚は想像ではありません!
 
 マハラジ
 それ以外の何だというのだろう?
 知覚とは認識ではないだろうか?
 何かまったく知られていないものを感じ取ることはできるだろう、だが知覚
 することはできない。
 知覚は記憶をともなうのだ。
                           『私は在る』(p44)
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なんと?! (*_*)  ⌒★?

> 何かまったく知られていないものを感じ取ることはできるだろう、だが知覚
> することはできない。

たしかに……わかる……。(-_-)

そう言えば……。

南の方の島にはじめて西洋の帆船が現れたとき……島の住民には……海に浮か
ぶその大きな帆船が……“見えなかった”……と聞いたことがあります。

白い大きな帆が……何らかの感覚的印象を与えはしたのでしょうが……しかし
彼らはそれを……“知覚する”ことは……できなかった。

そんな巨大なものが……海の上に浮かんでいる……はずがなかったから。

『パパラギ』の翻訳者岡崎照男さんの「訳者あとがき」にはこうありました。

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 その昔、帆船に乗った宣教師がヨーロッパ人としてはじめてサモアにやって
 来た。サモア人は遠くからその白い帆を見て、空に開いた穴だと思い、その
 穴を通ってヨーロッパ人がサモアの島々にやって来ると信じた。パパラギと
 は「空を破って現れた人」――ヨーロッパ人のことなのである。
 
                          『パパラギ』(p132)
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と……。

もっとも、『パパラギ』という本自体は偽書というか、原典のドイツ語翻訳者
を名乗ったエーリッヒ・ショイルマンさんの創作なのだそうで……。(;_;)

脱線しました……。

話の筋に戻ると……マハラジは

> 知覚は記憶をともなうのだ。

と言います。

しかし……言われてみれば……わかる気がします。

知覚が可能であるためには……その受け皿として対象物を予感する神経網……
つまりは……記憶に基づいた想像が……必要なのだと思います。

たとえば……今NHKのテレビ放送で……こんな宣伝が流れています。

「デジタルテレビは衛星アンテナさえ付ければBS放送が見えますよ」って。

つまり……衛星アンテナとは……“上の方から電波が来ている”という想像に
基づいて用意された……BS放送の“受け皿”だということです。

受像器はあっても……この想像に基づく“受け皿”がなければ……実際の受信
……つまり知覚は起こらない。

“上の方から電波が来ている”という想像は……知識という記憶に基づいてい
るわけですから……知覚には記憶が不可欠要素として参与している。

だからこそ、

> もちろん、知覚は想像ではありません!

という質問者の言葉に対して……マハラジは、

> それ以外の何だというのだろう?

と応じたわけですよね。

それどころか……マハラジは……おしなべて、

> 知覚、想像、期待、不安、幻想はすべて記憶に基づくものだ。

と断定します。

----------------------------------------------------------------------
 知覚、想像、期待、不安、幻想はすべて記憶に基づくものだ。
 それらの間にはほとんど境界線さえなく、互いに溶け込んでいる。
 すべては記憶の反応なのだ。
                           『私は在る』(p44)
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……。(-_-;)

「すべては記憶の反応」……。

思わず以前ご紹介した「ホ・オポノポノの世界」にも連想が飛びました。^^;
https://www.ascensionkan.com/mm/vol265.html#1

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 ホ・オポノポノでは、「宇宙は情報で成り立っている」と考えます。
 ここでいう「情報」とは、いわゆるinformationのことではありません。
 情報には二つの種類しかありません。
 「過去の記憶」と「インスピレーション」です。
 この意味での情報で、宇宙は成り立っています。
 宇宙には情報しかないのです。
                 『豊かに成功するホ・オポノポノ』(p57)
                       http://tinyurl.com/cnvko9
----------------------------------------------------------------------

というあの話です。

まあ……しかし……あらずもがなのこれ以上の脱線はやめておきましょう。

ただ……もし知覚作用自体が“記憶の反応”なら……「感覚」も、もちろん…
…その“記憶の反応”の一部だと……言及するにとどめておきます。

通常は……感覚こそが……現実の最強の保証と……見なされるわけですが。

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 感覚とは単なる知覚の様式にすぎない。
 粗雑な様式が消えるとともに、繊細な意識の状態が出現する。
 
                          『私は在る』(p282)
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感覚作用自体……記憶と……記憶に基づく想像の助けがなければ……成り立た
ないものなんですね。

そう言えば……一般的な会話に混入してくる“固有名詞”の聞き取りにくさは
……誰もが経験することだと思います。

会話のなかで……記憶に基づく想像力の補助が働きにくい“固有名詞”だけは
……純粋に音声として聞き分ける必要がありますから。

というわけで……記憶に基づく想像がまったく働かない新生児では……音によ
る感覚的印象はあっても……言語的知覚作用は……働いていないわけです。

また……たとえそこに色彩的印象の氾濫はあったとしても……空間的知覚作用
も……働いていないでしょう。

記憶に基づく想像で汚れていないので……意識の鏡も透明なら……問題も起こ
りえない……ということでしょう。

赤ん坊は……物語以前……問題以前……というわけです。

そこには……興味と……純粋な観照があるだけ……。

ところが……われわれの場合は……すでにたくさんの記憶を蓄えていて……そ
の上……この身体に住まう“自分”まで……想像してしまっています……。

すでに“自分”がいて……その眼前で展開する感覚的印象は……たちまち……
たくさんの想念やら解釈を引き寄せます。

つまり……すでに物語のなかに……絡め取られている……。

そして……物語は……矛盾を内包しなければならない……。

物語は……不可避的に……問題を孕まなければならないのです。

もともとは……わたしがいて……感覚的印象が浮遊しているだけだけど……。

すでに……動かしがたい人生のなかに……組み込まれている……。

でも……じつは……いつでも……わたしがいて……感覚的印象があるだけ。

それどころか……実際に在るのは……わたしだけ。

すべての感覚的印象は……わたし在るがゆえにある……。

いつでも……わたしは……感覚的印象に……注意を払うのを……やめることも
できる……。

何の想念も紡がず……想像から……降りることもできる。

わたし以外の誰も……それを妨げてはいない。

たしかに……物語は……面白いです。

でも……物語は……構造を要求する。

----------------------------------------------------------------------
 客観的な界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。
 誰もそれを否定できない。
 だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。
 
                          『私は在る』(p305)
----------------------------------------------------------------------

わたしはもう……充分に掴まった……。

もう……充分すぎるほど……。

今度は……離れることができるのも……悪くない。

----------------------------------------------------------------------
 あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつ
 ぎこんできた。
 今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
 事実、破壊することはたやすい。
 なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
 すべては「私は在る」という想念にかかっている。
 それを徹底的に調べるがいい。
                          『私は在る』(p317)
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不自由のなかにこそ……物語はある……。

物語は……わたしの想像と……その想像へのわたしの執着が……紡いでいる。

わたしはそれを……やめることもできる……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.写経ニサルガダッタ:【101 ジニャーニは理解も把握もしない】の3
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生命には……不動なるものと……絶えざる動きである意識の戯れの……ふたつ
の側面が……あるのかもしれませんね。

それをそのようなものとして……受け入れるということが……すべてを諦める
ということなのかな……と思いました。

不動なるものとしてとどまれば……至福がある。

絶えざる動きである意識の戯れに注意を注げば……幸福と不幸が……快楽と苦
しみがある……。

そんなことなのかもしれません。

> 気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。
> 内側に入っていきなさい。
> 超えていきなさい。
> 意識の内容に気をとられてはならない。

(-||-)

では、【101 ジニャーニは理解も把握もしない】の3回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 あなたは愛をいたるところに見ます。一方、私は憎しみや苦しみを
     見るのです。人類の歴史は、個人的そして集団的殺戮(さつりく)
     の歴史です。ほかのいかなる生き物も殺すことにこれほど喜びを感
     じはしません。
 
 マハラジ
 もしあなたが動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだすだろう。
 自分自身、そして自己への愛を。
 人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦うのだ。
 
 質問者 そのために死をも厭(いと)わないならば、彼らの愛はまさに本物
     に違いありません。
 
 マハラジ
 愛はかぎりないものだ。
 数人の人にかぎられたものを愛と呼ぶことはできない。
 
 質問者 あなたはそのような無限の愛を知っているのでしょうか?
 
 マハラジ
 知っている。
 
 質問者 それはどう感じられるのでしょうか?
 
 マハラジ
 すべては愛され、愛すべきものなのだ。
 何ひとつ例外はない。
 
 質問者 たとえ醜く罪を犯した人も愛されるべきなのでしょうか?
 
 マハラジ
 すべては私の意識のなかに在る。
 すべては私のものなのだ。
 自分自身を好きや嫌いで分割することは狂気だ。
 私はその両方を超えている。
 私は疎外されないのだ。
 
 質問者 好き嫌いから自由になることは無関心の状態です。
 
 マハラジ
 はじめのうちはそう見え、そう感じられるかもしれない。
 そのような無関心に屈せずにいなさい。
 そうすればそれはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開くことだろ
 う。
 
 質問者 マインドが花や炎になったと感じられるような瞬間があります。し
     かし、それらは継続せず、人生は灰色の日々に戻ってしまうのです。
 
 マハラジ
 あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。
 継続的なものを体験することはできない。
 それには境界がないからだ。
 意識とは交替を必ずともなうものだ。
 変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
 まる。
 通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。
 人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。
 だが、それではないものを知ることはできる。
 そして間違いなく、それはつねに動いている意識の内容すべてではない。
 
 質問者 もし不動なるものが知られないとすれば、それを実現することの意
     味と目的は何なのでしょうか?
 
 マハラジ
 不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということだ。
 そして、その目的は生きるものすべてにとっての善なのだ。
 
 質問者 生命は運動であって、不動は死です。生命にとって死が何の役に立
     つというのでしょう?
 
 マハラジ
 私は不動性について話しているのであって、静止の状態についてではない。
 公正さのなかであなたは不動となるのだ。
 あなたはすべてのものごとを正す力となるのだ。
 それは強烈な外的活動を意味するかもしれない、しないかもしれない。
 だが、マインドは深く静かになるのだ。
 
 質問者 私がマインドを見守ると、それはつねに変わり続けています。無限
     の多様性のなかでひとつの気分が別の気分にとって代わります。一
     方、あなたは絶えず明るい慈愛に満ちた気分の中にいるように見え
     ます。
 
 マハラジ
 気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。
 内側に入っていきなさい。
 超えていきなさい。
 意識の内容に気をとられてはならない。
 あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯(たわむ)れ
 は、もはやあなたに影響を与えないことを見いだすことだろう。
 
 質問者 それでもやはり同じ戯れはあるのでしょうか?
 
 マハラジ
 静かなマインドとは死んだマインドではないのだ。
 
                        『私は在る』(p550-551)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 あなたは愛をいたるところに見ます。一方、私は憎しみや苦しみを
>     見るのです。人類の歴史は、個人的そして集団的殺戮(さつりく)
>     の歴史です。ほかのいかなる生き物も殺すことにこれほど喜びを感
>     じはしません。
> 
> マハラジ
> もしあなたが動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだすだろう。

そうなんだ……。

> 自分自身、そして自己への愛を。
> 人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦うのだ。

わかります。

> 質問者 そのために死をも厭(いと)わないならば、彼らの愛はまさに本物
>     に違いありません。
> 
> マハラジ
> 愛はかぎりないものだ。

はい。

> 数人の人にかぎられたものを愛と呼ぶことはできない。

たしかに。

> 質問者 あなたはそのような無限の愛を知っているのでしょうか?
> 
> マハラジ
> 知っている。
> 
> 質問者 それはどう感じられるのでしょうか?
> 
> マハラジ
> すべては愛され、愛すべきものなのだ。
> 何ひとつ例外はない。

信じます。

> 質問者 たとえ醜く罪を犯した人も愛されるべきなのでしょうか?
> 
> マハラジ
> すべては私の意識のなかに在る。
> すべては私のものなのだ。

ああ……。

> 自分自身を好きや嫌いで分割することは狂気だ。

そうか。

> 私はその両方を超えている。
> 私は疎外されないのだ。

はい。

> 質問者 好き嫌いから自由になることは無関心の状態です。
> 
> マハラジ
> はじめのうちはそう見え、そう感じられるかもしれない。

はい。

> そのような無関心に屈せずにいなさい。

そうなんですね。

> そうすればそれはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開くことだろ
> う。

わかりました。

> 質問者 マインドが花や炎になったと感じられるような瞬間があります。し
>     かし、それらは継続せず、人生は灰色の日々に戻ってしまうのです。
> 
> マハラジ
> あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。

具象的なものは……非継続的なもの。

> 継続的なものを体験することはできない。

おお……。(@_@)

> それには境界がないからだ。

なるほど。

> 意識とは交替を必ずともなうものだ。

そうか……。

> 変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
> まる。

はい。

> 通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。

わかりました。

> 人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。

はい。

「境界線のないものを体験することはできない」……。

人はただ「境界線のないもの」で在ることができるだけだ。

> だが、それではないものを知ることはできる。

はい。

> そして間違いなく、それはつねに動いている意識の内容すべてではない。

ここ……ちょっと意味が取りにくかったので……英文を確認してみました。

 It is definitely not the entire content of conciousness which is 
 always on the move.

 そして間違いなく、つねに動いている意識の内容はすべて、それではない。

でもいいと思いました。

> 質問者 もし不動なるものが知られないとすれば、それを実現することの意
>     味と目的は何なのでしょうか?

もうこれ以上……絶えざる動きにこづき回されたくない……ということじゃな
いのかなぁ。(-_-)

> マハラジ
> 不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということだ。

はい。

> そして、その目的は生きるものすべてにとっての善なのだ。

そうなんですか……。

> 質問者 生命は運動であって、不動は死です。生命にとって死が何の役に立
>     つというのでしょう?

ふーん……マハラジは何と答えるんだろう……?

> マハラジ
> 私は不動性について話しているのであって、静止の状態についてではない。

おう。

そういうことか。

> 公正さのなかであなたは不動となるのだ。

あーあ……そういうことか……。(@_@)

> あなたはすべてのものごとを正す力となるのだ。

はい。

> それは強烈な外的活動を意味するかもしれない、しないかもしれない。
> だが、マインドは深く静かになるのだ。

わかりました。

> 質問者 私がマインドを見守ると、それはつねに変わり続けています。無限
>     の多様性のなかでひとつの気分が別の気分にとって代わります。一
>     方、あなたは絶えず明るい慈愛に満ちた気分の中にいるように見え
>     ます。

うん。

> マハラジ
> 気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。

はい。

「気分はマインドのなかにあり、重要なことではない」と……自分で言えれば
いいわけですね。

> 内側に入っていきなさい。
> 超えていきなさい。

はい。

> 意識の内容に気をとられてはならない。

わかります。

> あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯(たわむ)れ
> は、もはやあなたに影響を与えないことを見いだすことだろう。

そうか……。(-_-)

> 質問者 それでもやはり同じ戯れはあるのでしょうか?

なるほど。

> マハラジ
> 静かなマインドとは死んだマインドではないのだ。

そうか……。

いつでも……“意識の鏡”の反射面の上では……マインドの表層での戯れが…
…チロチロと映しだされてはいるんですね。

(-||-)

ありがとうございました……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

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方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
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おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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        …………○…………○…………○…………


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■ 3.編集後記:夢が覆い隠している至福が……どれほどのものかを……
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いま地球世界では……中国がとても居丈高になっているようですね。

そして一頃……日本がとても居丈高になっていたときもあるのでしょう。

かくて……夢のなかでは絶えず……欲望と恐怖の種が供給される……。

それはいつか必ず……物理現象として表出されざるをえない……。(-_-)

アセンションが来ようが何が来ようが……未来のいつかに多次元宇宙が完成す
るのではないと思います。

> 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
> (p437)

未来に悲しみが消えるのではなさそうです。

> 無知が悲しみをもたらす。
> 幸福は理解にともなって起こるのだ。(p548)

夢が覆い隠している至福が……どれほどのものかを……悪夢に捕らえられた者
は……知らない……。

では、お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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