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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.342 2010/10/24(第342号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ
という言葉を信じた、仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 925名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.なんの発展もなかった

2.写経ニサルガダッタ:【61 物質は意識そのものだ】の2回目

3.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん

4.編集後記:現象世界は……全体でひとつの……団子のようなもの……
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■ 1.なんの発展もなかった
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今日は久しぶりの感じがする晴天ですね。

秋たけなわ……とでもいうのかしら……。

こうして……せっかく何も思わなくていい夢の部分(週末)にたどり着いたと
いうのに……ここにきてまた……“ものを思おう”というのだから……。

まさに……バカは死んでも治らない……というか。(^^;)

いえいえ……かならずこのバカも……自分の不毛を知り……自分の非在を理解
して……雲散霧消できるでしょう……。

このバカが……すでに虎の口のなかにいることは……確かですから。

その日に向かって今日もまた……神の遊びとやらの……夢のなかの操り人形と
なって……踊らされましょうか……。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

こうして口を利いているのは……いったい誰か……。

ご存知のとおり……別に……こういう実体が……在るわけではない。

ただ……現れているだけの……はかない意識の揺らぎです……。

記憶と想像のなかで……霧散しようとする部品を……懸命に掻き集めては……
何とか体面を保っている……つかの間の……はかない非在の人格です。

“自分”の牢屋を造るために……こんなにも健気に……奮闘してきたとは。

でも……感覚的存在になるためには……どうしてもそれが必要だった……。

自分が……「名前」と「形」を持った存在で在りうる……という幻想が……。

特定の「意味」と「姿」をもった……存在で在りうる……という幻想が……。

つまりは……自分が……物語を持ちうる……という幻想が……。

しかし……果たしてそれが……割の合う……取引だったか……。

「名前」と「形」を手に入れるために……まさか自分の“永遠の平安”まで…
…“永遠の実在”まで……手放すことが必要になろうとは……。

思いも寄らなかった……。(-_-;)

誰が? (?_?)

(いやいや……イケズ……堅いこと言わないで。(^人^))

“永遠の実在”が……自分を手放すことなど……できるはずもないわけですか
ら……失うものなど何もない……ほんの座興にすぎなかった……。

かどうかなど……むろん……夢のなかの操り人形にすぎない一介の人格に……
わかるはずもありません。(^^;)

なにしろ……大見者ラマナ・マハルシでさえ、

----------------------------------------------------------------------
 「心」と呼ばれているものは、
 真我に内在するおどろくべき力である。
                           『静寂の瞬間』(p5)
                       http://tinyurl.com/m2wjhu
----------------------------------------------------------------------

としか評することのない……マインドですから。

もっとも『神の使者』のアーテンとパーサは神が感知せぬ“宇宙の誤創造”
の心理的経緯を……詳細に語ってはいらっしゃいます。

むろん、それもまた、別の集合意識に対する別の語法による……“トゲ抜き”
のトゲ……でしかないのでしょうが……。

しかし……とにかく今ここに……何やら落ち着かない存在がいるわけです。

理由は単純で……“現れ”のなかに自分がいる……と思っているからです。

なぜ“現れ”のなかに自分がいる……と思っているかというなら……まあ……
彼が……感覚的存在であることを欲したからです。

(「彼」が……誰であるかは……いまだ謎のままとして……。(^_-))

----------------------------------------------------------------------
 はじめに、あなたが世界をつくり出すのだ。
 それから、「私は在る」が個人となる。
 彼はさまざまな理由から幸福ではないのだ。
                          『私は在る』(p362)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

しかし……いったん現象のなかに……「個人」が誕生したら……もう変化のな
かでの……彼の努力は運命づけられています。

“現れ”のなかで幸福になろうという……彼の基本戦略に……選択の余地など
ありえませんから。

なにしろ彼は……“現れ”のなかに自分がいると思いこんでいる……。

でもこの思いこみは……なかなか厄介な桎梏で……現れの世界では……変化を
止めることだけはできない。

変化を止める……これだけは……現れの世界では……無理な注文なんです。

なぜなら……、

----------------------------------------------------------------------
 変化しないものを意識することはできない。
 意識とはすべて、変化の意識なのだ。
                          『私は在る』(p535)
----------------------------------------------------------------------

というわけですから。

すると……“現れ”のなかに自分がいる……と思っている者は……その変化の
なかで苦闘して……自己イメージを保たなくてはならない。

その“変化のなかで苦闘する自己”の象徴が……身体だというわけです。

絶えざる変化に晒される身体をシンボルとして……自己イメージを保とうとす
る苦闘ですから……いわば百戦必敗の運命というか……。(;_;)

現れのなかの幸福を確実なものにしようと……努力すればするほど……悪夢は
ますますその濃度をましてくる……。

しかも百戦百敗しても……それだけで“変化のなかで苦闘する自己”イメージ
を手放すことにはならない。

もがけばもがくほど……現れの現実性は確実になり……足下の泥沼はますます
リアリティを帯びてくる……。

一挙手一投足が……ますます現れを現実にしていくというのに……その現実を
疑う可能性など……思いつくはずがない……。

そして確かに……現れ以外に……感覚的存在としての自己を……可能にしてく
れる世界も……ありえないわけです。

だからそもそも……現れの現実性を疑うという観念自体が……顕在意識の域内
に……浮上してはこないわけです。

そして懸命に現れのなかで……身体という自己イメージを維持しながら……さ
らに立派な自己イメージの達成に向けて……ひた走る……。

そしてついに……刀折れ……矢尽きて……わたしもよくやった……と往生して
……身体という自己イメージの象徴と……別れるというわけです。

“現れ”のなかの身体を……自分として掴んでいるかぎり……落ち着く瀬など
……あるはずもありません。

マハラジが太鼓判をついています。

> 意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。

と。

だから……、

> この観念を取り除くことで、マインドは安定する。(p363)

とも言っているわけですが……誰もそんな話を聞きたくはありません。

まあ……そんなこんなで……われわれは「さまざまな理由から幸福ではない」
わけです。(^_-)

けっきょく……、

----------------------------------------------------------------------
 あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から
 遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。
 
                        『私は在る』(p306-307)
----------------------------------------------------------------------

とまあ……そういうことなんでしょうねえ。

じゃ……いったい「実在」ってどういうものなんだ……というなら……。

たとえば……ラマナ・マハルシの……これ以上単純にできない表現では……こ
うなります。

----------------------------------------------------------------------
 本当の状態は中身をもたない意識です。
                         『不滅の意識』(p335)
                      http://tinyurl.com/37ydha6
----------------------------------------------------------------------

(この本は先年故人になられた日本ラマナ協会会長の柳田侃(ただし)先生の
 翻訳なので、福間巌さんの翻訳とは少し語調が違います。)

もう……これぐらい端的で……そぎ落とした言葉はほかに考えられない。

「中身をもたない意識」……。

----------------------------------------------------------------------
 本当の状態は中身をもたない意識です。
 それを否定し、個人の、また心の意識に関する限り、意識が対象をもたねば
 ならないと言う西洋の心理学者はまったく正しいものです。
 しかし、彼らがそれを普遍的な存在に適用するとき、彼らは正しくないので
 す。
                       『不滅の意識』(p335-336)
----------------------------------------------------------------------

なるほど……。(-_-;)

このマハルシの用語法では……「中身をもたない意識」も「意識」の範疇に入
れる……ということだと思います。

ラメッシ・バルセカールの……「意識が存在するすべてである」というような
言葉は……このマハルシの用語法を踏襲しているわけでしょうね。

マハラジの場合は……どちらかというと……「意識」の「中身」の意味で……
「意識」という言葉を使うと思います。

だから……マハルシの用語法でいう「中身をもたない意識」は……マハラジの
用語法では……「気づき」という言葉で……表現されることになります。

すると……、

> 本当の状態は中身をもたない意識です。

というマハルシの表現に当たるのは……マハラジの用語法では、

> 意識を使わないことがサマーディだ。

といった表現になるわけでしょう……。

----------------------------------------------------------------------
 意識を使わないことがサマーディだ。
 ただマインドに触れないのだ。
 身体からもマインドからも何も求めないことだ。
                           『私は在る』(p58)
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

いずれにせよ……“意識の中身のない場所”に誘っている……という意味では
……どちらもまったく同じです。

“意識の中身のない場所”こそが……「気づき」であり……「純粋な意識」で
あり……「実在」……「真我」……わたし……であるわけでしょう。

もちろん……わたしも……本来の顔は……そうであるわけです。(*-_-*)

ただ……途中で油を売って……道草をしているだけで……。

そういう……映画になっているものだから……。(*^_^*)

つまり……真のわたし……ではなく……映画の方に……はまっている……とい
うわけです。

映画……と……真のわたし……の間に……「私は在る」……という開口部が…
…あるのだと思います。

マハルシの言う……本当の状態……には……落ち着きがあります。

だって……そこには……行くべき“どこ”も……ないから……。

マハルシは……こんなことを言っています。

----------------------------------------------------------------------
 真我実現はわれわれの本性です。
 獲得されるべき新しいものは何もありません。
 新しいものは永遠であることはできません。
 それゆえ、人が真我を得るか失うかを疑う必要はありません。
 
 私は少年として「死」の体験をもったとき、真我の中に入り、そしてそのと
 き以来、私は「進歩」しておらず、また少しも進んでいません。
 それ以来ずっと同じままでとどまってきました――なんの発展もなかったの
 です。
                         『不滅の意識』(p333)
----------------------------------------------------------------------

と……。(-||-)

> それ以来ずっと同じままでとどまってきました――なんの発展もなかったの
> です。

なんと……ありがたいことか……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:【61 物質は意識そのものだ】の2回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

問答のどこを取っても……純金は純金でしかないですね。

ただ……“わたし”という人格にとっては……ここが……。

> 説明とはマインドを喜ばせるためにあるのだ。
> それらが真実である必要はない。
> 実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。

ヒットしました……。(-||-)

いつまでも憶えていられるとも思わないけれど……本当だと思いました。

では、【61 物質は意識そのものだ】の2回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその
     秩序を維持しているのでしょうか? そこには法をしき、秩序を守
     らせる内なる支配者がいるのでしょうか?
 
 マハラジ
 すべてはその本性にしたがって動くのだ。
 どこに警察の必要があるだろう?
 あらゆる行動は反応をつくり出し、それが行動を中立化させ、バランスを取
 る。
 すべては起こる。
 だが、そこには絶え間ない取り消しがある。
 そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。
 
 質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合って
     も、損失は私のものなのです。
 
 マハラジ
 見ていなさい。
 最後にあなたは支出を正当化するのに充分なだけの利益を得るかもしれない
 のだ。
 
 質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こった
     のか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うので
     す。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められて
     いるのでしょうか? もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰
     がそれを強制したのでしょうか? そこに逸脱や誤りはありうるの
     でしょうか? ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬
     間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋
     な偶然がすべてを決定するのだと言います。
 
 マハラジ
 あなたの好きなように受け取るがいい。
 人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶
 然の連鎖を見ることもできる。
 説明とはマインドを喜ばせるためにあるのだ。
 それらが真実である必要はない。
 実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。
 
 質問者 あなたは私の質問を避けています! 私はあなたがどう見ているか
     が知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性
     と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌(こんとん)
     としていると信じることができるでしょうか? あなたの世界、あ
     なたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必
     要はないはずです。
 
 マハラジ
 客観的な世界には構造があり、秩序を持ち、美しいものだ。
 誰もそれを否定できない。
 だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。
 私の世界は絶対的に自由だ。
 そのなかのすべてが自己決定するのだ。
 それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言い続けているのだ。
 私の世界にも秩序はある。
 しかし、それは外側から押しつけられたものではない。
 それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。
 完全性は未来にあるのではない。
 それは今あるのだ。
 
 質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?
 
 マハラジ
 今という一点においてだけだ。
 それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。
 完全な気づきのなかでその接点は確立される。
 それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。
 
 質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?
 
 マハラジ
 そうだ。
 マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。
 あなたの世界には何の間違いもない。
 あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。
 利己主義がすべての悪の源なのだ。
 
 質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細
     にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであ
     って、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?
 
 マハラジ
 父親と母親を選択し、次の生をどのように生きるかを決定したと宣言する者
 たちが知っているかもしれない。
 私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。
 
                        『私は在る』(p305-306)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 そうです。私たちは生命すべてに規則的な順序を見ます。誰がその
>     秩序を維持しているのでしょうか? そこには法をしき、秩序を守
>     らせる内なる支配者がいるのでしょうか?

この質問者の言葉は、前回の最後の、

「いくつかの繰り返し過程は避けられない。
 動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ」

というマハラジの言葉に対する応答です。

> マハラジ
> すべてはその本性にしたがって動くのだ。

わかります……。

映画のなかのわたしも……プログラミングどおりに……決められた芝居をたど
っています……。

> どこに警察の必要があるだろう?

はい。

> あらゆる行動は反応をつくり出し、それが行動を中立化させ、バランスを取
> る。

わかります。

> すべては起こる。

はい。

> だが、そこには絶え間ない取り消しがある。

そうなのですね……。

> そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。

ああ……。

この理解を……無意識のなかに沈殿させていくだけだなぁ。(-||-)

> 質問者 最終的な調和で私をなだめようとしないでください。勘定は合って
>     も、損失は私のものなのです。

ははは。(^_-)

> マハラジ
> 見ていなさい。

(?_?)

> 最後にあなたは支出を正当化するのに充分なだけの利益を得るかもしれない
> のだ。

おう……。

この質問者のひとも……虎の口のなか……だものなぁ。

> 質問者 私には長い過去があり、しばしばその多くの出来事が偶然起こった
>     のか、それともひとつの計画によるものなのかと不思議に思うので
>     す。私が生まれる以前に、生きるべき人生のパターンが定められて
>     いるのでしょうか? もしそうならば、誰がその計画をつくり、誰
>     がそれを強制したのでしょうか? そこに逸脱や誤りはありうるの
>     でしょうか? ある人は、運命は変えられないもので、あらゆる瞬
>     間があらかじめ決定されていると言います。ほかの人たちは、純粋
>     な偶然がすべてを決定するのだと言います。

わかるわかる。

> マハラジ
> あなたの好きなように受け取るがいい。

おお。

> 人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、単なる偶
> 然の連鎖を見ることもできる。

わかります。

> 説明とはマインドを喜ばせるためにあるのだ。

ケー。(>_<)

「説明とはマインドを喜ばせるためにあるのだ」……。

憶えていられるものなら……憶えていたいよ。

> それらが真実である必要はない。

まったく。

> 実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。

(-||-)

> 質問者 あなたは私の質問を避けています! 私はあなたがどう見ているか
>     が知りたいのです。私たちは、どこを見ても信じがたいほどの知性
>     と美を見いだします。どうして私に宇宙が無形で混沌(こんとん)
>     としていると信じることができるでしょうか? あなたの世界、あ
>     なたが住んでいる世界は無形かもしれませんが、混沌としている必
>     要はないはずです。

おっしゃることはわかります。

> マハラジ
> 客観的な世界には構造があり、秩序を持ち、美しいものだ。
> 誰もそれを否定できない。

はい。

> だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。

やっぱり。

> 私の世界は絶対的に自由だ。

そうか……。

なにしろ……「私」が……いない……わけだからなぁ。

> そのなかのすべてが自己決定するのだ。

心配する者……がいない……。

> それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言い続けているのだ。

はい。

> 私の世界にも秩序はある。

(-_-)O

> しかし、それは外側から押しつけられたものではない。

はい。

> それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。

さあて……そういうものなんですね……。

> 完全性は未来にあるのではない。
> それは今あるのだ。

それが……そうでなくてはならないことだけは……よくわかります。

> 質問者 あなたの世界は私の世界に影響を与えますか?

なるほど。

> マハラジ
> 今という一点においてだけだ。

わかりました。

> それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。

ああ……唯一の実在である真我が……現れの世界に“つかの間の実在の感覚”
を……与えるわけですね。

> 完全な気づきのなかでその接点は確立される。

そうか……自覚的な真我の側から……その接点は確立されているわけか……。

そうだよなぁ……。

夢の登場人物の側から……接点を作ることはできないのだから……。

> それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。

それが……グルの恩寵……というものなのか……。

> 質問者 注意とはマインドの態度なのではありませんか?

おお……。

> 
> マハラジ
> そうだ。

やっぱり。

> マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。

そうか……注意とはそういうものなのか。

「マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与える」……。

> あなたの世界には何の間違いもない。

そうなんですか……。

そうか……わたしの観ている映画だけが……間違っているということは……な
いわけか……。

> あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。

ああそうか……すべてがわたしのものであるか……すべてがわたしのものでな
いかの……どちらかなんだ……。

> 利己主義がすべての悪の源なのだ。

変化の絶えない夢のなかの一部に執着することが……困難を創造する。

> 質問者 私の質問に戻ります。私が生まれる前に、内なる自己が人生を詳細
>     にわたって決定するのでしょうか、それとも完全に偶然のものであ
>     って、遺伝と環境のなすがままなのでしょうか?

さて……マハラジはなんと答えるか? (-_-)O

> マハラジ
> 父親と母親を選択し、次の生をどのように生きるかを決定したと宣言する者
> たちが知っているかもしれない。

ふふ……。

> 私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。

わかりました……。

充分です……。

(-||-)

ありがとうございました……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


        …………○…………○…………○…………


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        …………○…………○…………○…………



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■ 3.「ご投稿・情報提供」:ドン・ガバチョさん
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        …………○…………○…………○…………


今回も、ドン・ガバチョさんから情報をご投稿いただきました。

早速、ご紹介させていただきます。

【件名】: ツァラトゥストラはこう語った
----------------------------------------------------------------------
 最近、二人の知人が自らの命を絶ちました。親しく会話する間柄では無かっ
 たのですが・・・
 二人は、人生に立ち現われてくる現象だけを見て他の人の生と比較しながら
 生きていたのかもしれないと考えると、ニーチェの永劫回帰思想、超人思想
 を紹介してあげたかったと思います。
 「ツァラトゥストラはこう語った」は、生きる勇気を湧出させてくれます。
 いつもの独り言です・・・
 
 ニーチェ・賢い大人になる哲学(宮原浩二郎 著、PHP研究所)より
 
 ――――
 
 二〇・永遠回帰の考え方
 
 ・なぜ永遠回帰なのか
 ここで、物語の進行を止めて、もう一度確認しておこう。
 ツァラトゥストラが永遠回帰の思想に目覚めたのはなぜだろうか。
 それは、人間をそのとり返しのつかない過去への復讐心から解放するためで
 ある。
 時の流れに復讐できない腹いせに、他人や自分を責め苦しませる悪習から、
 人間を自由にするためである。
 自分の不幸や絶望を誰かのせいにして、その誰かを責めさいなむという悪習
 を絶つためである。
 死ねば天国に行けるとか、いつか誰かが救ってくれるとかいう、他人まかせ
 の依存心から脱出して、人が自分自身の人生の主人になれるようにするため
 である。
 生きるよろこびを深く深く味わい、この人生を何度も何度もくり返し生きた
 いと思えるようにするためである。
 踊り、笑い、歌いながら、身も心も軽快に生さることを可能にするためであ
 る。
 つまり、究極の救いをもたらすためである。
 そのために是非とも必要なのが、永遠回帰を識ることなのである。
 
 ・永遠回帰を識るための二つのステップ
 では、永遠回帰を識るとは、どういうことなのだろうか。
 物語は今まさにその場面にさしかかっている。
 ここで再び、簡単な道しるべを置いておこう。
 できるだけ自分にひきつけて考えてみてほしい。
 永遠回帰の思想を自分のものにするためには、二つのステップを踏む必要が
 ある。
 まず、第一のステップ。
 「私は、私のこれまでの人生をそっくりそのまま何度もくり返し生きること
 になる」と考えてみる。
 つまり「これまでの人生が永遠に回帰する」と考えてみる。
 すると、「私の人生は今現実にあるがままの人生であり、今とは別の人生な
 ど未来永遠にわたってありえない」ということになる。
 つまり「この現実からの逃げ道はどこにも絶対にありえない」ということに
 なる。
 これが科学的に真理かどうかは、どうでもよい。
 とにかく、そういうものなのだと徹底的に本気で思い込んでみる。
 それができたら、今度は第二のステップ。
 これまでの人生がそっくりそのまま永遠に戻ってくるだけで、この現実から
 の逃げ道はどこにもないものとして、「私はそうした永遠回帰に不満はない
 か?」と自分に問いかけてみる。
 そしてさらに、「私は永遠回帰を喜んで欲するか?この人生を未来永遠にわ
 たってそっくりそのままくり返したいと思えるか?」と問いかけてみる。
 この問いかけに対して腹の底から「イエス!」と言えたら、その時人は永遠
 回帰思想を消化したことになる。
 いいかえれば、「超人」になる!
 けれども、これは簡単なことではない。
 この人生がそのまま回帰するのなら、もう二度と来てほしくない苦悩や苦痛
 も、やはりそのまま回帰することになる。
 とり返しのつかない残酷な過去をこれからまた無限に経験しなければならな
 い。
 それを知っていて、「イエス!」と言い切るのは難しい。
 また、恐ろしい。
 実際、ツァラトゥストラもこの難問を前にして七転八倒の苦労をする。
 「イエス!」を言いかけては、ためらい、しり込みし、絶望に襲われる。
 
 ・あらゆる苦悩に「イエス!」を言う
 物語の次の場面では、ツァラトゥストラの幻覚に「瞬間」という名の門が出
 てくる。
 この門の前で、ツァラトゥストラは時間の循環に思いをめぐらす。
 時の流れは大きな円を描いてぐるぐるまわっているのではないか?
 だから、あらゆる出来事は永遠に回帰するのではないか?
 自分のこの人生もまた永遠回帰するのではないか、と彼は考える。
 これが、第一のステップである。
 すると場面が急転し、恐怖に顔をゆがめ、のたうちまわる若者が現れる。
 若者の口からは黒くて太い蛇が垂れ下がっている。
 若者は最後に蛇の頭を噛み切って立ち上がる。
 この蛇は苦悩の永遠回帰を受け入れることの恐怖であり、蛇の頭を噛み切る
 ことは、この恐怖に打ち勝つことである。
 彼は永遠回帰に「イエス!」を言ったのだ。
 が、これもまだ幻覚にすぎない。
 ツァラトゥストラ自身はまだそこまで強くない。
 まだ十分に成熟していない。
 蛇を噛み切った若者の幻覚は、ツァラトゥストラ自身がやがて永遠回帰を肯
 定するための、第二のステップのためのイメージトレーニングである。
 その後、このイメージをしっかりと胸に抱きながら、ツァラトゥストラは旅
 を続ける。
 島々をめぐり、町々を通りながら、人々に語りかける。
 長い旅を終え、鷲と蛇の待つ洞穴に帰ってしばらくすると、最後の決戦の時
 が来る。
 そして彼は勝利する。
 ツァラトゥストラ自身が万物の永遠回帰に、そしてこの自分の人生の永遠回
 帰に対して腹の底から「イエス!」を言えるようになる。
 その時、第二のステップが完了する・・・。
 
 二一・時間の円環
 
 ・時はぐるぐるまわっている
 さて、物語に戻ろう。
 反撃をくらった小びと(重力の魔) はツァラトゥストラの肩から飛びおり、道
 端の石に腰かけた。
 ふと気づくと、二人のいる場所には「瞬間」という名が刻まれた門がある。
 道は門を通って前方の未来へ永遠に延びている。
 また、門の手前から後方の過去へ永遠に続いている。
 
 『ぼくたちの佇(たたず)んだところにちょうど門があり道が通じていた
 「この門を通る道を見るがいい! 小びとよ」とぼくは言いつづけた
 この長い道をもどれば永遠に果てしがない
 またあちらの長い道を出て行けばそこにも別の永遠がある
 そしてこの門のところこそかれらがまさにぶつかっている場所なのだ
 門の名は上に掲げられている――「瞬間」と』
 
 この門を見て、ツァラトゥストラは考える。
 この未来へ延びた道は、どこかで過去の道へつながっているのではないか。
 また、過去へ延びた道も、どこかで未来の道につながっているのではない
 か。
 つまり、道は一つの環になっているのではないか。
 時の流れは一つの環をなし、過去はかつて未来であったものであり、未来は
 かつて過去であったものなのではないか。
 いまこの門に入った人は、かつてこの同じ門に入って来たのではないか。
 いいかえれば、この瞬間に起きているのと同じことが、かつて起きていたの
 ではないか。
 かつて起きていたのではないか。また、この瞬間に起きているのと同じこと
 が、これからもまた起きるのではないか。
 そして、この瞬間そのものが、かつて何度もあり、これからも何度もあるの
 ではないか。
 この瞬間は、他の無数の瞬間とともに、時間の円環をつくっている。
 どの一つの瞬間をとってみても、他の無数の瞬間と円を描いて結ばれてい
 る。
 そして、あらゆる出来事は、この時間の円環のなかで固くむすばれている。
 ツァラトゥストラは続ける。
 
 『およそ走りうるすべてのものは
 すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?
 およそ起こりうるすべてのことはすでに一度起こり行なわれ
 この道を走ったことがあるのではなかろうか?
 すでにすべてのことがあったとすれば
 この門もまたすでにあったのではなかろうか?
 そして一切の事物は固く連結されているので
 この瞬間はこれからくるはずのすべてのものを
 ひきつれているのではなかろうか?
 したがって――自分自身をも?』
 
 ・苦痛も永遠にくり返し戻ってくる
 「瞬間」の門の前に立つツァラトゥストラも、かつてここに立ったのであ
 り、これからも立つだろう。
 何もかも、すでに今と同じに存在していたのであり、これからもまた今と同
 じに存在するだろう。
 人はみな、すでにあった人生をくり返しているのであり、これからもまたく
 り返すだろう。
 いや、くり返さなければならない。
 たとえば、今この本を読んでいる、この瞬間も永遠にもどってくる。
 きみはそう言われても、怖くはないだろう。
 この本を楽しみながら読んでいるはずだから。
 むしろ、この瞬間の永遠回帰をよろこぶにちがいない。
 けれども、永遠回帰には恐ろしい一面がある。
 なぜなら、戻ってくるのはこの瞬間だけではないからだ。
 きみのこれまでの人生のあらゆる瞬間が、この瞬間に引き連れられて戻って
 くる。
 そのなかには、死にたいほどの苦痛の瞬間もあるだろう。
 もう二度と来て欲しくない沈痛な、醜悪な、悲惨な瞬間もあるだろう。
 そうした最悪の瞬間もまた、このいまの瞬間に引き連れられて、戻ってく
 る。
 きみはそうした瞬間も未来永劫にわたって無限にくりかえし生きなければな
 らない。
 そう言われたら、さすがのきみも怖くはならないだろうか?
 
 『ここに月光をあびてのろのろ這っている蜘株
 この月光そのもの そして門のほとりで永遠の問題について
 ささやきかわしているぼくとおまえ
 ――ぼくたちはみなすでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?
 そしてまためぐり戻ってきて
 あの向こうへ延びているもう一つの道
 あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか
 ――ぼくたちは永遠にわたってめぐり戻ってこなければ
 ならないのではなかろうか?』
 
 こう語りながらツァラトゥストラの声はしだいに低くなっていく。
 自分自身の言葉に恐怖をおぼえたからだ。
 しかも、彼一人だけの問題ではない。
 ツァラトゥストラの仕事は、小さな人間をふるいにかけ、大きな人間を育て
 ることにある。
 超人を育成することが彼の仕事である。
 が、永遠回帰の教えに従えば、ツァラトゥストラがいくら超人を育てたとこ
 ろで、小さな人間は永遠に戻ってくることになる。
 陰険な羊飼いの独裁者が、卑屈な奴隷根性の民が、逆向きの障害者が、あり
 とあらゆる小さな人間が永遠にくりかえし戻ってくる。
 それならば、すべては無駄ではないだろうか。
 何をやっても徒労におわるのではないか。
 あの疲労と倦怠の予言者が語っていた「すべてはむなしい。すべては同じこ
 とだ」という教えと、いったいどこが違うのか。
 ひょっとしたら、あの予言はツァラトゥストラのことをいっているのではな
 いか?
 自分の教えは、結局のところ、生きることへの嫌悪に帰着してしまうのでは
 ないか?
 ツァラトゥストラの足もとに、鉛色をした虚無がぽっかり口をあけている。
 底知れない深淵が口をあけている。
 ツァラトゥストラは、自分の言葉が連れてくる深い虚無に気づき、背筋の寒
 くなるような恐怖をおぼえたのだ。
 
 二二・超人誕生のイメージ
 
 ・苦しみだけでなく悦びがある
 しかし、ここで光景が一転する。
 ツァラトゥストラは依然として幻覚を見ている。
 が、小びとと「瞬間」の門が消え、一人の若者の姿があらわれる。
 若者は顔をゆがめて地面をのたうちまわっている。
 
 『一人の若い牧人がのたうちまわり
 息をつまらせ痙攣をおこし顔をゆがめて
 苦しんでいるのをぼくは見た
 その口からは一匹の黒くて重たい蛇が垂れさがっていた
 これほどの嫌悪の情と蒼白の恐怖が
 人間の顔にあらわれたのをぼくは見たことがなかった
 牧人はおそらく眠っていたのだ
 そこへ蛇が来て喉に這いこみ――しかと噛みついたのだ』
 
 この幻覚は一つの比喩であり、また、未来の予感でもある。
 とぐろを巻く蛇という動物は、永遠回帰の円環を思わせる。
 だから、その黒くて重いさまは、永遠回帰のもつ重苦しい暗黒面を示してい
 る。
 永遠回帰の教えによれば、人がそれまで体験した出来事はすべてそっくりそ
 のまま戻ってくる。
 沈痛な、悲惨な、醜悪な苦悩の体験が何度もくりかえされる。
 あの無数の小さな人間たちもそのままに戻ってくる。
 すると、何をしても無駄であり、人生は無意味な徒労にすぎないと思われて
 くる。
 「すべては同じことだ。すべては無駄だ」と思われてくる。
 永遠回帰は生存への嫌悪を誘発する。
 ツァラトゥストラが小びとに語りながら自分の言葉が恐くなったのは、永遠
 回帰思想が誘発する生存への嫌悪に気づいたからだ。
 黒くて重い蛇は、この生存への嫌悪を象徴している。
 
 『ぼくの手は蛇をつかんで思いきり引きに引いた
 ――その甲斐はなかった!
 ぼくはわれを忘れてそのとき絶叫した
 「噛むんだ!噛むんだ!」
 「頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」
 ぼくの恐怖 ぼくの憎悪
 ぼくの嘔吐 ぼくの憐憫
 ぼくの善意と悪意の何もかもが
 ただ一つの絶叫となってほとばしった
 しかし 牧人はぼくの絶叫のとおりに噛んだ
 力強く噛んだ!』
 
 若い牧人はツァラトゥストラの全身の叫びにこたえて、蛇の頭を噛みきる。
 永遠回帰の暗黒面である生存への嫌悪を噛みきる。
 そのとき彼は、真の意味で生存を肯定し、永遠回帰を肯定する。
 自分の人生が、また、あらゆる事物や出来事が永遠にくりかえし戻ってくる
 ことに対して、身をもって「イエス!」と言い切ったのだ。
 いっそ死んでしまいたいような絶望的な瞬間を、何度もくりかえし生きなけ
 ればならない。
 醜悪な奴隷根性をもつ小さな人間たちも何度も戻ってくる。
 それを認めてなお、どうして生存への嫌悪を振り切れるのか。
 どうして、別の人生や世界を夢見たり、深い諦観のなかに沈んだりしないで
 いられるのか。
 どうして、「もう一度!」と喜び勇んで永遠回帰を肯定できるのだろうか?
 人生には、苦しみだけでなく、悦びがある。
 永遠回帰の教えによれば、苦悩だけでなく、よろこびもまた永遠に回帰す
 る。
 ほんとうは、苦悩とよろこびは組になっているのだ。
 どちらかが欠けると、もう一方もない。
 すべては緊密に結ばれている。
 すべては互いに愛しあっている。
 だから、よろこびを肯定すれば、苦悩をも肯定したことになる。
 
 『かれは蛇の頭を遠くへ吐きだした
 ――そして飛びおきた
 もはや牧人ではなかった
 もはや人間ではなかった
 一人の変容した者
 光につつまれた者であった
 そして哄笑(こうしょう)した
 これまでこの地上でかれが哄笑したように
 これほど哄笑した人間はなかった!』
 
 ・永遠回帰を肯定したとき、人は超人になる
 存在の車輸をまわらせる原動力は、よろこびである。
 苦しみではない。
 身をもってそれを知るとき、はじめて人は自己自身の主人となる。
 なぜなら、自己自身の永遠回帰を欲するのはよろこびだけだからだ。
 よろこびは、「もう一度」「もう一度」と自己自身の回帰を欲する。
 よろこびが深ければ深いほど、回帰を強く、より強く欲する。
 よろこびの深さとその自己充足を身をもって知るとき、人は自己自身の主人
 となる。
 永遠回帰を真に肯定するとき、人は超人になる。
 
 ぼくはいかなる人間の哄笑でもない哄笑を聞いた
 いまや決して鎮(しず)まることのない
 ひとつのあこがれがぼくの心を蝕む
 この哄笑へのあこがれがぽくの心を蝕む
 どうしてぼくはおめおめと生きて行くことに堪えられよう!
 また いまにして死ぬことにも堪えられるだろう!』
 
 若い牧人は噛みきった蛇の頭を吐き出して飛び起きる。
 そして、呵々と一笑する。
 この哄笑はもはや人間のものではない。
 光につつまれたその姿を目にし、かつてない笑いを耳にしたツァラトゥスト
 ラは、もう後戻りできない。
 超人への憧れに身が灼(や)かれそうな思いがする。
 足踏みし後ずさりながら生きのびること、それにはもう耐えられない。
 いまやもう、前進あるのみだ。
 
 二三・偶然の足で踊る
 
 ・目的や必要にしばられない自由
 ツァラトゥストラは今、永遠回帰の思想をはっきりと認識している。
 だが、それを自分のこととして肯定できるかと考えると、さすがのツァラト
 ゥストラも逡巡する。
 永遠回帰を肯定しようとすれば、自分自身が砕け散ってしまうのではない
 か。
 自分はまだそこまで十分に強くないのではないか。
 弱気になったツァラトゥストラはしばし感傷にふけりながら、深淵の入り口
 に立ちすくむ。
 が、遠い未知の世界を旅する海の冒険野郎たちに囲まれて、ツァラトゥスト
 ラはふたたび元気づく。
 雲一つない空と紺碧の海の間に身をおく幸福に感謝しながら、彼はふたたび
 雄弁になる。
 
 『「偶然」――これはこの世で最も古い貴族の称号である
 これをぼくは万物に取りもどしてやった
 およそ目的にしばられた奴隷制から救いだしてやった
 およそ万物を支配し動かしている
 神的な「永遠の意志」などはありえないと
 ぼくが教えたことによって』
 
 晴れやかな天空に棲む神々は、サイコロ遊びを好む。
 ツァラトゥストラは、「偶然」こそ高貴であり、最古の貴族の名なのだと言
 う。
 人間は何かのために生きている、万物は何かの目的によって動かされてい
 る、などという人がいる。
 これは、せこい考えである。
 そう考えると、人間(や動物や植物や鉱物)はすべて「目的に縛られた奴隷」
 になってしまう。
 あらゆる「〜のために」をやめにしよう。
 万物を支配する永遠の神の意志などないのだ。
 万物を偶然の足で踊るにまかせよう、とツァラトゥストラは言う。
 
 『そうした意志のかわりに
 ぼくはあの騎りと狂愚を置いた
 知恵が万物に混入されているのは狂愚に役立つためだ!
 ぼくが万物において見いだした確実な幸福は
 万物がむしろ偶然の足で
 踊ることを好むということにある』
 
 この世に狂愚があるのは理性に役立つからだと考える。
 しかし、ほんとうは逆なのだ。
 むしろ狂愚のほうがメインディッシュであり、理性はその味をひきたたせる
 スパイスのようなものである。
 「よく学ぶためによく遊ぶ」のではない。
 「よく学ぶと遊びの味がひきたつ」のである。
 ツァラトゥストラは、サイコロの飛び交う偶然だらけの世界に、ある必然的
 な幸福を見いだす。
 この世界では、あらゆるものが偶然の足で踊りたがる。
 「目的」とか「必要」とか「規定」とか、うるさいことをいわなければ、万
 物は偶然の足で踊りだすだろう。
 それは美しい舞踏場であり、至福の光景である。
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ドン・ガバチョさん、今回は全文を掲載できました。

そうですか……最近知人の方が自死を選ばれたのですか……お二人も……。

ご本人にとっては……そのときほかに道がなかったわけですよねぇ……。

情報投稿、ありがとうございました。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………



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■ 4.編集後記:現象世界は……全体でひとつの……団子のようなもの……
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今この瞬間にも……宇宙内には無限の情報が飛び交っているんでしょうねぇ。

そもそも……情報を数で数えることなど……できるものかどうか……。

個々の情報を……ほかの情報から切り離すことが……できるのかどうか……。

情報は……独立して……存在できるわけではない……。

ひとつの波が……ほかの波とは無縁に……独立して存在できる……わけがない
ように……。

情報は……全体でひとつの……団子のようなもの……ではないのか。

現象世界は……全体でひとつの……団子のようなもの……ではないのか。

もしその現象世界の……構成要素が……多次元宇宙の……個々の生き物だとし
たら……。

果たして……その個々の生き物の運命を……切り離して考えることなど……で
きるものかどうか……。

個々の人間の運命を……個別の運命として……切り離して考えることなど……
できるものかどうか……。

これから楽しくなるという……夢のなかで……。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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