home > 通信 > 『アセンション館通信』第358号:いかなる感情も観念も



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.358 2011/2/13(第358号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】 ――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
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このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に自己同化し
た観照者が覗き見た風景の報告です。(←なんちゃって。(*^_^*))

マインドを超えていくにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ
という言葉を信じた、仮現の現象世界に興味を失うための努力です。^^;

内容は人畜無害、でもこんな理屈を読む人は相当変わってますね。現在 905名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.いかなる感情も観念も

2.写経ニサルガダッタ:【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】2回目

3.編集後記:今は雪もやんで……煙ったような……墨絵の世界です。
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■ 1.いかなる感情も観念も
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いま目の前に……白い世界が広がっています。

そして現在も……微かに雪が降り続けている。

あ……庭の花桃の木の枝から……雪が落ちた……。

記憶をつないだマインドの人格が……この内界の風景に向き合っています。

そして……その人格の連想野から……マインドの分泌物が産出される。

そのマインドの分泌物が……本当の……“外界”というものなのか……。

「私は在る」から滲み出してくる……過剰な分泌物とでもいうのか……。

それは……ときに……不安であったり……落ち着かなさであったり……。

嫌悪感であったり……欲望であったり……。

いわば……それだけが……余計なものなのでしょう。

いわば……それだけが……汚れとして……世界を紡いでいるのでしょう。

そのまま世界のなかで……想念の汗を分泌し続けても……いいのかもしれない
けれど……。

その夢から……醒めることにも……じつは妨げはない……。

「私は在る」だけがリアルで……その他はすべて……夢なのだから。

(*^_^*)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ、
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

要は……どれだけ……騒音のなさに耐えられるか……ということのようです。

少し静になると……ふっと……何でもないことで……心を騒がせたくなるんで
すよね。

そして……いろんなことに……知ったかぶりの……感想がわいてきたり。

ただの……無知に……とどまれないばかりに……。(-_-)

どんな感想が……わいてきたところで……マインドはマインドです。

すべての感想は……千年の手垢に……汚れているのでしょう。

すべての想念は……顕現宇宙で……永遠に使い回されている……既知という…
…セコハン棚のなかから……選ぶしかないわけですから。

すべての既知は……永遠の今のなかにある……。

もちろん……時間という幻想をつくり出して……既知を無限に増殖させる……
夢を演出することなど……雑作もないことでしょうが。

しかし……既知は既知であり……神が用意した……無限のセコハン棚から……
溢れだすはずもないわけです。

そして……その夢のなかで……一喜一憂し……ときには絶望する……。

すべては……自ら投影する眼前の内界と……見ている者の間に……煙幕として
広がる……想念の演出……。

わたしが見るものは……すべて夢です。

眼前の内界も……記憶が織りなす人格が分泌する……観念も感情も……。

わたしは……在るだけなのだから……。

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 幼児は自分の身体を知っている。
 だが、身体を基盤とした区別を知らない。
 ただ意識していて幸せなのだ。
 結局のところ、それこそが生まれてきた目的なのだ。
 在ることの喜びはもっともシンプルな形の自己愛だ。
 それは後に、真我への愛として成長する。
 幼児のように身体と自己の間に、何も妨げるものなく在りなさい。
 生活のなかでの絶え間ない精神的騒音は、そこには不在だ。
 深い沈黙のなかで、自己は身体を観照している。
 それはまだ、何も書かれていない白紙のようなものだ。
 その幼児のように在りなさい。
 あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。
 あなたは意識界に完全に気づいている観照者として在るだろう。
 だが、あなたと意識界の間には、いかなる感情も観念も立ちはだかるべきで
 はない。
                        『私は在る』(p233-234)
                       http://tinyurl.com/s747u
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> 幼児は自分の身体を知っている。
> だが、身体を基盤とした区別を知らない。
> ただ意識していて幸せなのだ。

はい。

> 結局のところ、それこそが生まれてきた目的なのだ。

ああ……。

> 在ることの喜びはもっともシンプルな形の自己愛だ。

はい。

> それは後に、真我への愛として成長する。

(-_-)

> 幼児のように身体と自己の間に、何も妨げるものなく在りなさい。

(-||-)

> 生活のなかでの絶え間ない精神的騒音は、そこには不在だ。
> 深い沈黙のなかで、自己は身体を観照している。

はい。

> それはまだ、何も書かれていない白紙のようなものだ。
> その幼児のように在りなさい。

わかりました。(-||-)

> あれやこれに成ろうとするのではなく、在ることに幸せでありなさい。

はい。

> あなたは意識界に完全に気づいている観照者として在るだろう。

はい。

> だが、あなたと意識界の間には、いかなる感情も観念も立ちはだかるべきで
> はない。

わかりました。

----------------------------------------------------------------------
 あなたの困難は、実在を求めながら同時にそれを恐れていることだ。
 恐れているのは、あなたがそれを知らないからだ。
 なじみのあるものは知られている。
 あなたはそれらに安全を感じる。
 未知なるものは不確かであり、それゆえ危険なのだ。
 しかし、実在を知ることは、それとの調和のなかに在ることだ。
 そして調和のなかに恐れの居場所はない。
                          『私は在る』(p233)
----------------------------------------------------------------------

> あなたの困難は、実在を求めながら同時にそれを恐れていることだ。

おっしゃる通りです。(*-_-*)

> 恐れているのは、あなたがそれを知らないからだ。

はい。

> なじみのあるものは知られている。
> あなたはそれらに安全を感じる。

はい。

> 未知なるものは不確かであり、それゆえ危険なのだ。

たしかに。

> しかし、実在を知ることは、それとの調和のなかに在ることだ。

言葉としては……わかります。

> そして調和のなかに恐れの居場所はない。

はい。(-_-)

……。

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.写経ニサルガダッタ:【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】2
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

マハラジの言葉はときどき……突然……圧倒的になります。

賢者の言葉というのは……憧れを励起するための言葉なのかと思います。

> 私に信念は必要ない。
> 私は勇気を生きる。

こういう表現……しようと思ってできるものでもない。

> 私には記憶や不安がない。
> 私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
> 自己描写にふけったりもしない。

こうですからねぇ……。(-_-)

> 私には無として在る勇気がある。
> そして世界をあるがままに、無として見るのだ。

……。(-||-)

では、【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】の2回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解されることを
 願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、その本文だけ読んでいただければいいです。

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 質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。
 
 マハラジ
 無区別は沈黙のなかで語る。
 言葉は区別をともなうからだ。
 非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。
 すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。
 言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。
 意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)
 でもある。
 不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。
 はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。
 すべてはひとつだ。
 
 すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに
 分割はない。
 運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。
 それ自体では、何も動かず、何も休息しない。
 絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。
 それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。
 
 質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。
 
 マハラジ
 マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラ
 ム)としての休息がある。
 前者は来ては去っていく。
 一方、真の休息は行為の本質そのものだ。
 あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができ
 ない。
 
 質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているの
 でしょうか?
 
 マハラジ
 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。
 
 質問者 大海のなかで、波のざわめきが深海の静けさと共存するように、そ
     れらは共存できないのでしょうか?
 
 マハラジ
 マインドを超えたところに体験はない。
 体験とは二元的状態だ。
 実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。
 ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分
 離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。
 実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だか
 らだ。
 そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在
 る」という感覚のなかに立ち現れる。
 これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことに
 なる。
 
 質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか? 偉大な真言
     (マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)
     は単なる思考の様式なのでしょうか?
 
 マハラジ
 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。
 何であれ、考えられたことは思考にすぎない。
 真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。
 マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。
 なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。
 
 質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?
 
 マハラジ
 もちろんだ。
 信念とは精神的状態だからだ。
 「それ」のなかに「私は在る」はない。
 「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
 「それ」は光を奪われる。
 しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
 ーナンダ)が訪れる。
 そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛
 がはじまるのだ。
 
 質問者 日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているの
     でしょうか?
 
 マハラジ
 意識もしなければ、無意識でもない。
 私に信念は必要ない。
 私は勇気を生きる。
 生命の愛である勇気が私の本質だ。
 私には記憶や不安がない。
 私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
 自己描写にふけったりもしない。
 「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
 ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。
 私には無として在る勇気がある。
 そして世界をあるがままに、無として見るのだ。
 シンプルに聞こえるだろう?
 試してみなさい!
 
 質問者 しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?
 
 マハラジ
 あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。
 勇気は与えられる必要のあるものだろうか?
 あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。
 それは反対なのだ。
 不安と期待は想像から生まれる。
 私はその両方から自由だ。
 私はシンプルな存在だ。
 何に寄りかかる必要もないのだ。
 
 あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるとい
 うのだろう?
 あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。
 
 在ることは、知ることとして輝く。
 愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。
 それはみなひとつだ。
 あなたの分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。
 公式に関わりすぎてはならない。
 純粋な存在は描写できないものなのだ。
 
                        『私は在る』(p122-124)
                       http://tinyurl.com/s747u
----------------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。

この言葉は、前回のマハラジの最後の言葉、

「私にとっては、ひとつとすべては同じだ。
 同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。
 動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。」

に対する質問者の反応です。

しかし……そういっても……区別しないと……話すこともできないからなぁ。

> マハラジ
> 無区別は沈黙のなかで語る。

そうか……。

> 言葉は区別をともなうからだ。

わかります。

> 非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。

はい。

> すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。

はい。

> 言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。

まったく。(=_=)

> 意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)
> でもある。

ああ……意識とは……そういう言葉なんですね。

> 不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。

そうか……。

足立育朗さんの『波動の法則』が教える通り……とも言えるわけですねぇ。
http://tinyurl.com/58kxs3

わかりました。

> はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。

というと……。(?_?)

> すべてはひとつだ。

ああ……ささいな区別に……特に意味はない……と。

> すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに
> 分割はない。

すべての分割は映画のなかにあり……スクリーンのなかに分割はない……と。

> 運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。

わかります。

> それ自体では、何も動かず、何も休息しない。

これは……どういう……。(?_?)

ああ……宇宙空間を……自らの意志で動いたり……休息したりできるような…
…実体は存在していない……というような意味かな。

> 絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。

識別を可能にする実在を……識別の言葉で捕らえようとするのは……バカげて
いる……と。

> それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。

(波動の法則で緻密に織り込まれている)現れの世界のなかに……それ自体で
存在するようなものは……何ひとつない……と。

> 質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。

うん。

> マハラジ
> マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラ
> ム)としての休息がある。

あーあ。(*@_@*)

> 前者は来ては去っていく。

はい。

> 一方、真の休息は行為の本質そのものだ。

(*_*) ⌒★?

「真の休息は行為の本質そのもの」……。(-_-;)

(-||-)

> あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができ
> ない。

はい、わかります。

> 質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているの
> でしょうか?

お上手。(^^)/

> マハラジ
> 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。

ふーん……。(-_-)

> 質問者 大海のなかで、波のざわめきが深海の静けさと共存するように、そ
>     れらは共存できないのでしょうか?

この方……夢と……夢からの目覚めを……同居させたい……ということかしら。

> マハラジ
> マインドを超えたところに体験はない。

ああ……。

> 体験とは二元的状態だ。

はい。

> 実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。

「実在をひとつの体験として語ることはできない」……。

(-||-)

> ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分
> 離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。

ふー。(*-_-*)

ひとたびこれが理解されたら……「成ること」から「在ること」へ……という
ような標語は……意味をなさなくなる……ということか……。(*-_-*)

> 実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だか
> らだ。

なるほど。

「成ること」と「在ること」は……相依相属……相互補完しているわけだ……。

> そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在
> る」という感覚のなかに立ち現れる。

「成ること」も「在ること」も……ともに知覚の対象として……感覚的体験で
ありうる……。

しかし……「実在をひとつの体験として語ることはできない」……。

なぜなら……実在は体験できる対象ではなく……体験する……わたしだから。

> これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことに
> なる。

ふーむ……。(-_-;)

> 質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか? 偉大な真言
>     (マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)
>     は単なる思考の様式なのでしょうか?

この質問は……どういう意味かなぁ……。

質問者が言う“存在の感覚”とは……「私は在る」という感覚のことかしら?

「私は在る」という感覚は……実際の体験がなくては掴めないのでしょうか?

「タット・サット」(我はそれなり)というような……言葉のなかには存在し
ないのでしょうか……というような意味かな?

> マハラジ
> 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。

はい。(-_-)

> 何であれ、考えられたことは思考にすぎない。

たしかに。

> 真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。

ふーむ。

「真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ」……。

真の意味……か……。

言葉に押し込めることはできないが……体験することは可能であるような……
そういう意味が……あるんだ……。

(-||-)

> マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。

(真の意味を包含した)マハー・ヴァーキャーは真実だが……(その言葉を聞
いて……あなたが頭のなかで想像した)……あなたの観念は偽りだ……。

> なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。

なぜなら……パンという言葉を……食べることはできないからだ……と。

> 質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?
> 
> マハラジ
> もちろんだ。
> 信念とは精神的状態だからだ。

はい。

> 「それ」のなかに「私は在る」はない。

(「我はそれなり」の)「それ」(という言葉)のなかに「私は在る」(とい
う実際の感覚)はない。

> 「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
> 「それ」は光を奪われる。

(*@_@*)

そうか……。(-_-)

「私は在る」という感覚が現れると……言葉は意味を失っていくのか……。

> しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
> ーナンダ)が訪れる。

「私は在る」という感覚とともに……言葉が意味を失うにつれ……今度は……
その静けさのなかに……至福が訪れるのか……。

> そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛
> がはじまるのだ。

その至福の原因を……現れの世界のなかに探すことで……束縛がはじまる。

> 質問者 日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているの
>     でしょうか?

ふーん……“実在の状態を意識している”なんて……なかなか……コーナーを
狙う質問だなぁ……。

> マハラジ
> 意識もしなければ、無意識でもない。

「意識もしなければ、無意識でもない」……。

ふーん。

> 私に信念は必要ない。

はい。

> 私は勇気を生きる。

おお……。(@_@)

> 生命の愛である勇気が私の本質だ。

そういうことなのか……。

> 私には記憶や不安がない。

はい。

わたしは……記憶や不安といった……マインドの状態に……実在性を与える者
……記憶や不安に……依存する存在ではない。

> 私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。

おおお……。(@_@)

> 自己描写にふけったりもしない。

(>_<)

> 「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
> ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。

なるほど。

「ソーハム」や「アハム ブラーマスミ」に……支えられるために……わたし
が存在するわけではない。

> 私には無として在る勇気がある。

おおお……。(@_@)

まさに……まさに。

でも……これを自分の実際の声にするためには……まだまだたくさんのゴミを
……落とさなくてはならないんだ……。(-_-;)

自分の執着のほかに……何ひとつ……それを邪魔するものはないのだから。

> そして世界をあるがままに、無として見るのだ。

すばらしい!

> シンプルに聞こえるだろう?
> 試してみなさい!

(-||-)

> 質問者 しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?

ふふ。

> マハラジ
> あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。

なるほどなぁ……。

言われてみれば……なんとやら……だよなぁ。(-_-)

> 勇気は与えられる必要のあるものだろうか?

そうか……。

> あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。

たしかに。

> それは反対なのだ。

はい。

> 不安と期待は想像から生まれる。

おお……。

> 私はその両方から自由だ。

そうか……。(-_-;)

> 私はシンプルな存在だ。
> 何に寄りかかる必要もないのだ。

空間のなかに……ひっそりと立つ……真空……。

> あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるとい
> うのだろう?

おっしゃるとおりです。

> あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。

はい。(;_;)

> 在ることは、知ることとして輝く。

そうか……。

> 愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。

はい。

> それはみなひとつだ。

はい。

> あなたの分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。

たしかに。

> 公式に関わりすぎてはならない。
> 純粋な存在は描写できないものなのだ。

わかりました。(-_-)

(-||-)

……。

ありがとうございました……。

(-_-)

……。

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


        …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる
方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが効くかも。
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おこがましくも、『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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        …………○…………○…………○…………


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■ 3.編集後記:今は雪もやんで……煙ったような……墨絵の世界です。
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今日は……“「私は在る」という感覚”について教わりました。

> 「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
> 「それ」は光を奪われる。

「私は在る」という感覚が現れると……言葉は意味を失いはじめるらしい。

> しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
> ーナンダ)が訪れる。(p123)

そしてマインドが力を失うとともに……至福が訪れる……と。

わたしは……「私は在る」という論理的事実を……知っているとは言えます。

しかし……「私は在る」という感覚を……知っているとは言えない。

「自己の感覚とともに至福が訪れる」……というのです……。

それなら……「自己の感覚」とは……ほぼ「至福」の同意語……のようなもの
なのかもしれない。

「自己の感覚」……つまり“「私は在る」という感覚”のことでしょう。

マハラジは、

> 言葉そのものが橋なのだ。それを覚えておきなさい。

と言います。

> それは名前だけ知っている人を探しだすようなものだ。(p454)

と。そして……、

> 言葉には価値がある。
> なぜなら言葉とその意味との間にはきずながあり、もしたゆみなく調べれば、
> 人は概念を超え、その根本にある体験のなかへと入っていくからだ。

とも。

まあ……自分がやっているのは……それだけかな……と思います。

今は雪もやんで……煙ったような……墨絵の世界です。

今日も……明るいうちに終えました……。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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