home > 通信 > 『アセンション館通信』第416号:「私は在る」という感覚



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2012/3/25(第416号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンが
見ている風景の報告です。(なんちゃって。(*^_^*) )

現象のなかに得るべき何ものもなく、探求するその人もいないこと
が納得されても、まだ惰性で書くことが起こっているので。(^^;)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在 892名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「私は在る」という感覚

2.写経ニサルガダッタ:
        【59 欲望と恐れ、自己中心的な状態】の1回目

3.いただいたお手紙から:或る私さん

4.編集後記:いま隣の部屋で……
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■ 1.「私は在る」という感覚
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霧が晴れてきて……上天は滲むような雲に覆われているのに……ど
こからか日差しが入ってきて……地上は明るい。

柔らかな……明るい天気です。

確実に……軽くなってきている……。

……。(-_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

今回も……祇園さんから……ご質問の投稿をいただきました。

四連チャンに……突入です。

では、早速ご紹介します。

【件名】: 私は、私の存在を、確信できない
------------------------------------------------------------
 パリさん こんにちは(^^)/
 
 3週も付き合ってくれてありがとうございます(-||-)
 
 パリさんのおかげで、質問の内容がより洗練されてきました。
 
 > よろしければ……祇園さん……何度でも……お願いします。
 > (^人^)
 
 と言うことで遠慮なく今週も(^人^)
 
 最初にパリさんが紹介してくれた以下の
 https://www.ascensionkan.com/work/06eien_05dome.html
 https://www.ascensionkan.com/work/04comp_08umibe.html
 https://www.ascensionkan.com/work/04comp_14brain.html
 https://www.ascensionkan.com/work/04comp_13m-process.html
 記事内容については、テーマがテーマだけに直ちに結論が出ま
 せんので留保させてください。
 とりあえず今自分が自覚できる疑問に進みたいと思います。
 
 大きく分けて2点です。
 
 まず
 
 > おそらく……祇園さんは……自分が存在することを……疑っ
 > ていらっしゃらないでしょう。
 
 ここですが、・・・ フフフフ(^^;)
 実は疑っているのです。
 
 私は、私の存在を確信していません。
 正確に言えば、ここでいう「私」とは、「変化しない実在とし
 ての私」あるいは「存在としての私」、「継続性のある主体と
 しての私」そのようなニュアンスの「実体としての主体たる
 私」です。
 
 パリさんはこうおっしゃいます。
 
 > もし祇園さんが……自分が存在しないと思っているなら……
 > 何をかいわんやですが……でもそれなら……この質問もない
 > でしょうね。
 
 ここでパリさんが前提とされているのは、「私」という主体の
 存在かと思われます。
 つまり、「私」という主体がいなければ、質問もないだろうか
 ら、質問がある以上「私」はあるだろうと。
 
 しかし翻ってみるに、私が「私」の存在を問題にする時、それ
 は思考という想念で存在します。
 いうならば、想念という現象で、知覚ないし、存在するのです。
 例えば、台風が巨人という主体のくしゃみで起こされるわけで
 はなく、諸々の自然の関係や反応によって起こるように、想念
 もその主体のよって起こるのではなく、諸々の反応によって起
 こると考えることも可能です。
 
 私が私を振り返る時、全ては変化しており、継続性は見当たり
 ません。あるのはその時その時の色々な想念や行動、そして無
 意識です。
 
 つまりそこには「継続する実体としての主体」は見当たらず、
 「私はいるのか?」という質問も、その時の現象として現れて
 います。
 つまり「私」がなくても質問という現象は経験上認められるの
 です。
 ここでの意味は、「私」と言う継続性のある実体から想念が浮
 かんでいるというイメージやニュアンスの否定です。
 つまり、あるのは一瞬ごとの想念等で、その想念等の連続に対
 し、私という主体を想定してしまっているのではないかという
 ことです。
 むしろ「継続する実体としての主体」としての「私」の方こそ
 が、経験上認められないのです。
 私には、一瞬浮かび上がる想念等しか経験上確認しえず、それ
 らは常に変化しており、不変の「私は在る」を経験上確認でき
 ないのです。
 
 そこで私は、「私は在る」を確信できず、ボブさんが唯一絶対
 に認められる「私は在るから始めなさい」から始められないの
 です。
 困ったものです。どうかパリさん入り口にもたどり着けない私
 にヒントをお願いします(^^;)
 
 2点目です
 
 > でも……この場合の“存在感覚”とは……もともと知覚対象
 > として……把握可能な“感覚”……の意味ではありませんで
 > した。
 > それよりは……むしろ……“在るという事実”のことです。
 
 ここです。
 私は先週「自覚」という言葉を使用しました。
 この自覚という言葉は、自分の行動等を客観的に把握している
 と言うニュアンスがあるために、危うい表現だったと思いま
 す。要するに自分の存在を客観視してしまうというある種の矛
 盾をはらんでしまうからです。
 
 パリさんが紹介してくれたマハリシの話はその通りであり適格
 だと思うのですが、「アイアムザット」でしばしば述べられて
 いる「私は在るという感覚」は、真我そのものや「在るという
 事実」そのものには還元出来ないように思えるのです。
 
 このことについては疑問1に大きくかかわりますので、理由等
 はまた疑問1が解決してから述べようと思います。
 
 パリさん4週目ですので無理に掲載しなくても構いませんが、
 迷惑でなければお願いします(^^)
------------------------------------------------------------

祇園さん……ご質問……ありがとうございました。

祇園さんのこのご質問は……とても意味のある質問です。

もっとも……誰もが祇園さんほどタフなマインドパターンではない
ので……祇園さんの論理展開に付き合えいない方もいるでしょう。

それはそれで……むろん……仕方のないことです。

でも祇園さんは……マインドに可能なぎりぎりの論理展開を……な
さっていると……思います。

その意味では……とても典型的な……努力だと思います。

なので……pariパターンには……可能なかぎり丁寧に付きあおうか
な……という思いは湧いています……。

ただ……結果は……保証のかぎりではありません。

なにしろ……パターン同士の間に起こるこうした干渉波が……どの
ように収束するかは……パターンの知るところではないので。

起こることが……起こるだけです。

祇園さんのなかに……pariパターンに発生する干渉波が……何を指
しているのかに対して……本物の興味が湧くかどうか……。

それを……察知するすべもなく……察知するその人もいません。

言葉は……単なる言葉です。

論理は……単なる論理です。

何かを伝える媒体になることもあれば……波動同士が干渉して……
さらなる混沌を生む……媒体にもなることもあるでしょう。

ボブさんふうの……言葉遣いをするなら……ここでは祇園さんとい
う……マインドに語りかけているわけではありません。

言葉は……祇園さんとして現れている……「私は在る」に……語り
かけられています。

その想念は……伝わるかもしれませんし……伝わらないかもしれま
せん。

起こることが……起こるでしょう。

では……いきましょうか……。

> パリさん こんにちは(^^)/
> 
> 3週も付き合ってくれてありがとうございます(-||-)
> 
> パリさんのおかげで、質問の内容がより洗練されてきました。

それなら……嬉しいですが。

> > よろしければ……祇園さん……何度でも……お願いします。
> > (^人^)
> 
> と言うことで遠慮なく今週も(^人^)
> ……
> とりあえず今自分が自覚できる疑問に進みたいと思います。

はい。

> 大きく分けて2点です。

わかりました。

> まず
> 
> > おそらく……祇園さんは……自分が存在することを……疑っ
> > ていらっしゃらないでしょう。
> 
> ここですが、・・・ フフフフ(^^;)
> 実は疑っているのです。

……。(-_-)

> 私は、私の存在を確信していません。

そうですね……。

ある意味で……それはマインドの……ごく普通の状態です。

マインドの独壇場とも……言えるでしょうし。

> 正確に言えば、ここでいう「私」とは、「変化しない実在とし
> ての私」あるいは「存在としての私」、「継続性のある主体と
> しての私」そのようなニュアンスの「実体としての主体たる
> 私」です。

「真我」と呼ばれ……「実在」とも呼ばれる……ボブさんの言葉で
いう……「知性エネルギー」のことですよね。

> パリさんはこうおっしゃいます。
> 
> > もし祇園さんが……自分が存在しないと思っているなら……
> > 何をかいわんやですが……でもそれなら……この質問もない
> > でしょうね。
> 
> ここでパリさんが前提とされているのは、「私」という主体の
> 存在かと思われます。

はい……「私」という思いの源……“存在感覚”のことです。

> つまり、「私」という主体がいなければ、質問もないだろうか
> ら、質問がある以上「私」はあるだろうと。

はい。

> しかし翻ってみるに、私が「私」の存在を問題にする時、それ
> は思考という想念で存在します。

おっしゃるとおりです。

> いうならば、想念という現象で、知覚ないし、存在するのです。

想念波動として……現象しているでしょうね。

> 例えば、台風が巨人という主体のくしゃみで起こされるわけで
> はなく、諸々の自然の関係や反応によって起こるように、想念
> もその主体のよって起こるのではなく、諸々の反応によって起
> こると考えることも可能です。

そのように……マインドはつねに……虚構の独立性を……獲得し
たいようです。

想念が……物質現象や想念同士の……乱反射によって……それ自体
で……自立的に存在しているのだと……思いたい。

> ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯
> 一のことなのだ。(『私は在る』(p376-377) )

だから……そのこと自体は……当然とも言えますが……。

でも……じつは……現象自体には……自立的に存在する力は……
ありません。

映画という現象が現れるには……変化する光の投影だけでなく……
不動のスクリーンの存在が……必要なように。

同じように……想念という現象が現れるには……その変動パター
ンを映しだす……不動の実在が……必要なのです。

マハラジの……この言葉の意味を……感じてみてください。

------------------------------------------------------------
 変化しないものを意識することはできない。
 意識とはすべて、変化の意識なのだ。
 だが、変化を知覚すること自体が、そこに不変の背景のあること
 を余儀なくしているのではないだろうか?
                     『私は在る』(p535)
                  http://tinyurl.com/s747u
------------------------------------------------------------

> 私が私を振り返る時、全ては変化しており、継続性は見当たり
> ません。あるのはその時その時の色々な想念や行動、そして無
> 意識です。

そうです……マインドは不動を……感じることはできません。

不動の実在を……知覚することは……できません。

にもかかわらず……その不動を知るのは……マインドなのです。

> つまりそこには「継続する実体としての主体」は見当たらず、
> 「私はいるのか?」という質問も、その時の現象として現れて
> います。

不動の背景なしに……現象だけが……現れうるでしょうか?

> つまり「私」がなくても質問という現象は経験上認められるの
> です。

その逆に……質問という現象によって……「私」は虚構の実体を
獲得するかに……見えるのです。

> ここでの意味は、「私」と言う継続性のある実体から想念が浮
> かんでいるというイメージやニュアンスの否定です。
> つまり、あるのは一瞬ごとの想念等で、その想念等の連続に対
> し、私という主体を想定してしまっているのではないかという
> ことです。

そうですねぇ……。(-_-)

伝わるかどうか……マハラジは……このような言い方もします。

------------------------------------------------------------
 現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
 あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
 マインドを裏表にひっくり返しなさい。
 動を無視しなさい。
 そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶
 する、しかし岩のように確固たるものとして見いだすだろう。
 
 質問者 もしそれが今なら、なぜ私は気づかないのでしょうか?
 
 マハラジ
 あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。
 その考えを捨て去りなさい。
                     『私は在る』(p179)
------------------------------------------------------------

祇園さんは、

> むしろ「継続する実体としての主体」としての「私」の方こそ
> が、経験上認められないのです。

とおっしゃる。

確かに……それは“経験上認められ”る……ようなものではありま
せん。

経験を求めているなら……マインドはいくらでも……相応しい経験
を展開できますし……実在は……それを許しているわけですから。

本当の必要と誠実さがないところに……実在自体が……認知を求め
て……でしゃばるようなことはありえません。

> 私には、一瞬浮かび上がる想念等しか経験上確認しえず、それ
> らは常に変化しており、不変の「私は在る」を経験上確認でき
> ないのです。

祇園さんが「不変の『私は在る』を経験上確認できない」と言えば
……実在が名乗りでると思いますか?

> そこで私は、「私は在る」を確信できず、ボブさんが唯一絶対
> に認められる「私は在るから始めなさい」から始められないの
> です。

祇園さんの主張したい論理は……わかります。

ただ……祇園さんにとって本当に大切なものが……何なのか……
ですよね。

もし祇園さんにとって……本当に大切なものが……その論理展開
の妥当性なのなら……話はそれで……終わります。

そうですよね……おっしゃることわかります……ということです。

でももし……、

> 困ったものです。どうかパリさん入り口にもたどり着けない私
> にヒントをお願いします(^^;)

という言葉が本当なら……覚者がたの言葉が何を指し示しているの
かを……理解しようとすることが……必要かもしれませんね。

というか……どうしても理解しなければならない……切迫性が……
必要かもしれません。

それだけは……偽物の動機では……間に合いませんから。

> 変化しないものを意識することはできない。
> 意識とはすべて、変化の意識なのだ。
> だが、変化を知覚すること自体が、そこに不変の背景のあること
> を余儀なくしているのではないだろうか?

ニサルガダッタはこう言いますが……もし祇園さんが……、

> 私には、一瞬浮かび上がる想念等しか経験上確認しえず、それ
> らは常に変化しており、不変の「私は在る」を経験上確認でき
> ないのです。

と主張なさるなら……そして本当にその理解で……満足しているの
なら……それに異論を挟むことは……できません。

最大の慈悲心にも……、

> あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。
> その考えを捨て去りなさい。(『私は在る』(p179))

としか言えないでしょうね。

祇園さんは……セイラー・ボブさんの言葉に……とても共振なさっ
ているものと……思っていました。

だから……ボブさんの『だたそれだけ』のなかの……章タイトルで
挙げるなら……例えば、

「エゴは作り話である」
「考えることは、他のあらゆることと同じように現れている」
「参照点が、私が抱える問題すべての原因である」

というような内容は……理解されているものだとばかり……思って
いました。

だから……その前提で……お話ししてきました。

ところが……その内容を理解しているとは……とても思えない言葉
が……祇園さんの……いわゆる“質問”には現れます。

そうか……ということは……もしかしたら……祇園さんは議論をな
さっているのかもしれない……とも思われてきました。

すると……pariパターンの場合は……急速にマインドが萎んでしま
うのです。

議論する意図も動機も……まったくないので。

どうしても理解する必要がある人以外の誰が……マハラジの次のよ
うな言葉の真実性を……理解できるでしょうか。

------------------------------------------------------------
 マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
 ジニャーニはすべての体験を超えている。
 そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
 彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
 だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的
 な形態のなかに押しこもうと熱心なのだ。
 すべてにおいてそれは観念を求める。
 なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
 実在は本質的にひとりなのだ。
 だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
 そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
 ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯
 一のことなのだ。
                   『私は在る』(p376-377)
------------------------------------------------------------

> ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯
> 一のことなのだ。

マインドの機能を純粋化するなら……そういうことですよね。

これまで……祇園さんのご質問に……pariパターンとしての応答が
起こってきました。

その応答に対して……祇園さんというパターンからは……新たな質
問が誕生し……それが報告されました。

マインドは……どんな状況に対しても……それを解釈し……翻訳し
て……新たな状況を創造できます。

マインドのなかには……こういう問題に対する結論は……何もない
ということを……ボブさんは繰り返し教えてくれています。

つまり……理解して……とまる……それ以外にすることはないわけ
です。

まず……ボブさんが『だたそれだけ』のなかで……おっしゃってい
ることを……理解することから……始めてはどうでしょうか。

> 2点目です
> 
> > でも……この場合の“存在感覚”とは……もともと知覚対象
> > として……把握可能な“感覚”……の意味ではありませんで
> > した。
> > それよりは……むしろ……“在るという事実”のことです。
> 
> ここです。
> 私は先週「自覚」という言葉を使用しました。
> この自覚という言葉は、自分の行動等を客観的に把握している
> と言うニュアンスがあるために、危うい表現だったと思いま
> す。要するに自分の存在を客観視してしまうというある種の矛
> 盾をはらんでしまうからです。
> 
> パリさんが紹介してくれたマハリシの話はその通りであり適格
> だと思うのですが、「アイアムザット」でしばしば述べられて
> いる「私は在るという感覚」は、真我そのものや「在るという
> 事実」そのものには還元出来ないように思えるのです。

祇園さんがおっしゃる「私は在るという感覚」という言葉に関連し
て……ニサルガダッタは……三種類の表現を使います。

ひとつは……“「私は在る」という感覚”……という言葉。

二つ目は……“「私は在る」という想念”……という言葉。

三つ目は……“「私は在る」という事実”……という言葉です。

このうち……一つ目の“「私は在る」という感覚”と……二つ目の
“「私は在る」という想念”は……ほぼ同様の使い方がされます。

つまり……“エゴの起源”と……“エゴからの出口”の……二種類
の意味合いで……使われるということです。

例えば……“「私は在る」という感覚”と……“「私は在る」とい
う想念”が……両方含まれる文脈だと……こんな↓感じです。

------------------------------------------------------------
 この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたので
 はない。
 あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。
 それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。
 それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
 それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまっ
 た。
 そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
 私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはあ
 る。
 「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
 
                     『私は在る』(p317)
------------------------------------------------------------

“エゴの起源”の意味だと……こんな↓感じです。

------------------------------------------------------------
 幼い子供を例にとっても見なさい。
 「私は在る」という感覚はまだ形成されていない。
 個性は未発達だ。
 自己知識への障害はほとんどない。
 だが、気づきの明晰性、その広さと深さが欠けているのだ。
 
                     『私は在る』(p433)
------------------------------------------------------------

束縛の意味合いだと……こんな↓感じです。

------------------------------------------------------------
 不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。
 
                     『私は在る』(p379)
------------------------------------------------------------

“エゴの起源”と……“エゴからの出口”の……両義の使われ方だ
と……こんな↓感じです。

------------------------------------------------------------
 「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。
 それを自己、神、実在、あるいはほかの名で呼んでもいい。
 「私は在る」は世界のなかにある。
 しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。
 水面に踊る月は、水のなかに見られる。
 だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。
 
                     『私は在る』(p217)
------------------------------------------------------------

“エゴからの出口”の意味を……強調した使われ方だと……こんな
↓感じです。

------------------------------------------------------------
 「私は在る」という感覚の中に深く入っていきなさい。
 そうすればあなたは見いだすだろう。
 忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう? 
 思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。
 「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。
 それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。
 あるいは、それをただ静かに見守りなさい。
 「私は在る」という感覚の中にマインドが動じることなく定まっ
 たとき、表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあな
 たは入っていく。
 何度も何度も試みることだ。
 そうすれば、「私は在る」という感覚は、常にあなたと共にある。
 あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させ
 てきただけだ。
 こういった自己同一化は、あらゆる誤解を招く。
 そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤っ
 てきたのだ。
                      『私は在る』(p24)
------------------------------------------------------------

もうひとつ……挙げましょう。

------------------------------------------------------------
 ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたの
 マインドとその感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさ
 い。
 繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正
 しいバランスをつかむだろう。
 そして、マインドは「私は在る」という思考―感覚のなかに、揺
 らぐことなく確立するようになるだろう。
                      『私は在る』(p67-69)
------------------------------------------------------------

祇園さんが、

> 「アイアムザット」でしばしば述べられている「私は在るという
> 感覚」は、真我そのものや「在るという事実」そのものには還元
> 出来ないように思えるのです。

と言及しているのは……こういう用法のことでしょうね。

こういう場合マハラジは……ある留意のバランスに至らせるために
……体験感覚的なニュアンスを……強調するように見えます。

同様の文脈でマハラジは……三つ目の“「私は在る」という事実”
……という言葉も使用します。

------------------------------------------------------------
 「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐ
 につくり出すだろう。
 なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。
 あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。
 ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないも
 のなのだ。
 それとともにとどまりなさい。
 
                      『私は在る』(p541)
------------------------------------------------------------

すべては……新たな体験に仮託して……探求を未来へ投影せずに…
…「私は在る」という事実にとどまりなさい……なのです。

また……「私は在る」という感覚は……実在なのか……非実在なの
か……という質問に対して……マハラジはこう答えます。

------------------------------------------------------------
 その両方だ。
 私たちが、「私はこれだ。私はあれだ」と言うとき、それは非実
 在であり、「私はこれでもなく、あれでもない」と言うとき、そ
 れは実在なのだ。
                      『私は在る』(p413)
------------------------------------------------------------

……。(-||-)

祇園さんは……こうおっしゃる……。

> 「アイアムザット」でしばしば述べられている「私は在るという
> 感覚」は、真我そのものや「在るという事実」そのものには還元
> 出来ないように思えるのです。

マハラジの用法は……ご説明しました。

まだ言葉を操って……新たな議論を展開することが……必要でしょ
うか……。

マインドのなかに……こういうことの解答はありません。

どこかで……とまるしか……出口はないわけです。

マハラジなら……こう言うでしょうか。

------------------------------------------------------------
 なぜ観念をもてあそぶのかね?
 あなたが確信していることに満足するがいい。
 そして、あなたが確信をもてるたったひとつのことは、「私は在
 る」だ。
 それとともに在りなさい。
 そしてほかのすべてを拒絶しなさい。
 これがヨーガだ。
 ……
 はじめは言葉で、それからマインドで、そして感情で、それから
 行為で。
 あなたの内なる実在に注意を払いなさい。
 そうすれば光に行き着くだろう。
 それはバターをつくるためにクリームをかきまわすようなものだ。
 正確に、誠実にやりなさい。
 そうすれば、結果はかならずやってくる。
 
                    『私は在る』(p172-173)
------------------------------------------------------------

(-||-)

> このことについては疑問1に大きくかかわりますので、理由等
> はまた疑問1が解決してから述べようと思います。

いえ……もうマインドのなかでの議論は……充分です。

この次は……お答えするエネルギーは起こらないかもしれません。

そのときは……悪しからず。

マインドのなかには……満足も安心も……ありえないのですから。

それについて考えなければ、今この瞬間の何が間違っているでしょ
うか?

> パリさん4週目ですので無理に掲載しなくても構いませんが、
> 迷惑でなければお願いします(^^)

はい……pariパターンとしては……誠意を尽くした……応答が起こ
ったようです。

この次は……保証のかぎりではありませんが。(*^_^*)

別に……思考を巡らせなくても……「私は在る」わけですものね。

------------------------------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
                    『あるがままに』(p58)
                 http://tinyurl.com/2aar6zj
------------------------------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:
        【59 欲望と恐れ、自己中心的な状態】の1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここでは……恐るべき真理が……語られています。

すなわち、

> すべての幸福は気づきからやってくる。
> 私たちがより意識的であれば、喜びはより深くなる。
> 苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐――それらは、深く永久に枯渇
> しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。

と……。

では【59 欲望と恐れ、自己中心的な状態】の前半1回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解さ
 れることを願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、それを読んでいただければいいです。

------------------------------------------------------------
 質問者 あらためて、私は快楽と苦痛、欲望と恐れの質問をした
     いと思います。恐れとは、苦痛の記憶と予測だと私は理
     解しています。それは有機体とその生活様式の保護のた
     めに本質的なものです。欲望が感じられると苦痛に満ち、
     その期待は恐れでいっぱいになります。私たちは基本的
     な必要性を満たせないことを、当然のことながら恐れま
     す。欲望が満たされたとき、安心を経験したり、不安が
     静められたりするのは、もっぱら苦痛が終わるためです。
     私たちはそれに快楽や喜び、あるいは幸せといった積極
     的な名前を与えますが、それは本質的に苦痛からの解放
     なのです。私たちの社会的、経済的、政治的な制度を維
     持しているのは、この苦痛への恐れです。
     私を困惑させるのは、生存とは何の関係もないものやマ
     インドの状態から私たちが喜びを引き出すことです。そ
     の反対に、私たちの快楽はたいてい破壊的です。それら
     は対象物を、また快楽の主体をも傷つけ、破壊します。
     そうでなければ、快楽と快楽の追求には何の問題もあり
     ません。これが私の質問の核心に導きます。なぜ快楽は
     破壊的なのでしょうか? なぜ破壊的であるにも関わら
     ず、それは求められるのでしょうか?
     言っておかなければなりませんが、私は自然が要求する
     快楽と苦痛のパターンについては考えてはいません。私
     が考えているのは、過食のようにもっとも粗雑なものか
     らもっとも純粋なものまで、感覚的、そして神秘的なも
     のの両方です。快楽に耽溺(たんでき)することは、た
     とえどのような犠牲を払おうとも普遍的なものであり、
     その根本には何か深い意味があるに違いありません。
     もちろん、人のすべての活動は功利主義的な、必要を満
     たすためだけのものとはかぎりません。例えて言えば、
     遊びは自然なものであり、人間は存在のなかでもっとも
     遊び好きな動物です。遊びは自己発見や自己開発のため
     の必要を満たします。しかし、遊びにおいてさえ、人間
     は自然やほかの生きもの、そして彼自身に対して破壊的
     になるのです。
 
 マハラジ
 ようするに、あなたは快楽には反対でないが、苦痛と苦しみへの
 代価には反対だということだ。
 
 質問者 もし実在そのものが至福であるならば、快楽はそれに何
     らかの形で関係しているはずです。
 
 マハラジ
 言葉の上の論理によって話を進めるのはやめよう。
 実在の至福は苦しみを除外しないのだ。
 その上、あなたは快楽のみを知り、純粋な存在の至福を知っては
 いない。
 だから、快楽をそれ自体のレベルで調べてみることにしよう。
 
 もしあなたが快楽や苦痛の瞬間にある自分を見てみれば、快楽や
 苦痛はものごと自体のなかにあるのではなく、状況のなかにある
 ということを、いつもきまって見つけだすだろう。
 快楽は楽しむ人と楽しまれるものとの関係性のなかにある。
 そしてその本質は需要にあるのだ。
 状況がいかなるものであれ、それを受け入れることが可能ならば、
 それは心地好く、受け入れがたければ、苦しいのだ。
 何がそれを受け入れられるようにするのかは重要でない。
 原因は物質的、心理的、あるいは理由のわからないものかもしれ
 ないが、受容がその決定要因だ。
 相対的に、苦しみは受け入れないことによるものだ。
 
 質問者 苦痛は受け入れがたいものです。
 
 マハラジ
 どうしてかね?
 試してみたことがあるのかね?
 試してみなさい。
 そうすれば苦しみには快楽が生みだすことのできない喜びがある
 ことを見いだすだろう。
 なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあな
 たを導くという純然たる理由があるからだ。
 個人の自我はその本性からしてたえず快楽を求め、苦痛を避けて
 いる。
 このパターンの終焉(しゅうえん)が自我の終焉なのだ。
 自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなた
 の真の本性に帰り着くことを可能にする。
 絶え間ない快楽への欲望は、内なる永遠の調和の反映なのだ。
 人が自我を意識しだすのは、選択と決定を要求する、快楽と苦痛
 の合間での葛藤(かっとう)に捕らえられたときだけだ。
 この欲望と恐れの衝突が、人生において正常な、偉大なる破壊者
 である怒りを生みだす。
 苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注
 意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊
 され、それらはともに抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快い
 という体験になるのだ。
 
 質問者 あなたは快楽を避け、苦痛を追求するように勧めている
     のでしょうか?
 
 マハラジ
 そうではない。
 また快楽を追求し、苦痛を避けることも勧めはしない。
 それらが来るがままに受け入れなさい。
 それらが続く間はその両方を楽しみなさい。
 そして去るべきとき、それらを去らせるがいい。
 
 質問者 どうすれば苦痛を楽しむことができるというのでしょう
     か? 身体的苦痛は行動を要求します。
 
 マハラジ
 もちろんだ。
 そして精神的にもそれは同じことだ。
 至福は、その気づきのなかにしりごみせず、苦痛に背を向けない
 ことのなかにあるのだ。
 すべての幸福は気づきからやってくる。
 私たちがより意識的であれば、喜びはより深くなる。
 苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐――それらは、深く永久に枯渇
 しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。
 
                   『私は在る』(p295-297)
                  http://tinyurl.com/s747u
------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 あらためて、私は快楽と苦痛、欲望と恐れの質問をした
>     いと思います。恐れとは、苦痛の記憶と予測だと私は理
>     解しています。それは有機体とその生活様式の保護のた
>     めに本質的なものです。欲望が感じられると苦痛に満ち、
>     その期待は恐れでいっぱいになります。私たちは基本的
>     な必要性を満たせないことを、当然のことながら恐れま
>     す。欲望が満たされたとき、安心を経験したり、不安が
>     静められたりするのは、もっぱら苦痛が終わるためです。
>     私たちはそれに快楽や喜び、あるいは幸せといった積極
>     的な名前を与えますが、それは本質的に苦痛からの解放
>     なのです。私たちの社会的、経済的、政治的な制度を維
>     持しているのは、この苦痛への恐れです。
>     私を困惑させるのは、生存とは何の関係もないものやマ
>     インドの状態から私たちが喜びを引き出すことです。そ
>     の反対に、私たちの快楽はたいてい破壊的です。それら
>     は対象物を、また快楽の主体をも傷つけ、破壊します。
>     そうでなければ、快楽と快楽の追求には何の問題もあり
>     ません。これが私の質問の核心に導きます。なぜ快楽は
>     破壊的なのでしょうか? なぜ破壊的であるにも関わら
>     ず、それは求められるのでしょうか?
>     言っておかなければなりませんが、私は自然が要求する
>     快楽と苦痛のパターンについては考えてはいません。私
>     が考えているのは、過食のようにもっとも粗雑なものか
>     らもっとも純粋なものまで、感覚的、そして神秘的なも
>     のの両方です。快楽に耽溺(たんでき)することは、た
>     とえどのような犠牲を払おうとも普遍的なものであり、
>     その根本には何か深い意味があるに違いありません。
>     もちろん、人のすべての活動は功利主義的な、必要を満
>     たすためだけのものとはかぎりません。例えて言えば、
>     遊びは自然なものであり、人間は存在のなかでもっとも
>     遊び好きな動物です。遊びは自己発見や自己開発のため
>     の必要を満たします。しかし、遊びにおいてさえ、人間
>     は自然やほかの生きもの、そして彼自身に対して破壊的
>     になるのです。

うーん。

> マハラジ
> ようするに、あなたは快楽には反対でないが、苦痛と苦しみへの
> 代価には反対だということだ。

ふふ……適確。(^^)

> 質問者 もし実在そのものが至福であるならば、快楽はそれに何
>     らかの形で関係しているはずです。

これが……身に覚えのある……誤解ですよね。

> マハラジ
> 言葉の上の論理によって話を進めるのはやめよう。

はい。

> 実在の至福は苦しみを除外しないのだ。

了解です。

> その上、あなたは快楽のみを知り、純粋な存在の至福を知っては
> いない。

まったくです。

> だから、快楽をそれ自体のレベルで調べてみることにしよう。

はい。(?_?)O

> もしあなたが快楽や苦痛の瞬間にある自分を見てみれば、快楽や
> 苦痛はものごと自体のなかにあるのではなく、状況のなかにある
> ということを、いつもきまって見つけだすだろう。

ああ……そういうことか。

> 快楽は楽しむ人と楽しまれるものとの関係性のなかにある。

はい。

> そしてその本質は受容にあるのだ。

わかりました。

> 状況がいかなるものであれ、それを受け入れることが可能ならば、
> それは心地好く、受け入れがたければ、苦しいのだ。

単純なんですね。(-_-)

> 何がそれを受け入れられるようにするのかは重要でない。
> 原因は物質的、心理的、あるいは理由のわからないものかもしれ
> ないが、受容がその決定要因だ。

そうなんだ……。

> 相対的に、苦しみは受け入れないことによるものだ。

(@_@)

これが……ズバリか……。(-_-)

> 質問者 苦痛は受け入れがたいものです。

うん。

> マハラジ
> どうしてかね?
> 試してみたことがあるのかね?

ああ……。

> 試してみなさい。

わかりました。

> そうすれば苦しみには快楽が生みだすことのできない喜びがある
> ことを見いだすだろう。

そうか……。

> なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあな
> たを導くという純然たる理由があるからだ。

和尚からも……聞いていたけど……やっと聞こえた。

> 個人の自我はその本性からしてたえず快楽を求め、苦痛を避けて
> いる。

はい。

> このパターンの終焉(しゅうえん)が自我の終焉なのだ。

そういうことか……。

> 自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなた
> の真の本性に帰り着くことを可能にする。

わかりました。

> 絶え間ない快楽への欲望は、内なる永遠の調和の反映なのだ。

……。(-||-)

> 人が自我を意識しだすのは、選択と決定を要求する、快楽と苦痛
> の合間での葛藤(かっとう)に捕らえられたときだけだ。

その葛藤のなかで……自我を意識しだすのか。

> この欲望と恐れの衝突が、人生において正常な、偉大なる破壊者
> である怒りを生みだす。

なんと。(@_@)

> 苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注
> 意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊
> され、それらはともに抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快い
> という体験になるのだ。

うーん……。

(-||-)

> 質問者 あなたは快楽を避け、苦痛を追求するように勧めている
>     のでしょうか?

そんな。

> マハラジ
> そうではない。

はい。

> また快楽を追求し、苦痛を避けることも勧めはしない。

わかります。

> それらが来るがままに受け入れなさい。

はい。

> それらが続く間はその両方を楽しみなさい。

うーむ。(-_-)

> そして去るべきとき、それらを去らせるがいい。

わかりました。

> 質問者 どうすれば苦痛を楽しむことができるというのでしょう
>     か? 身体的苦痛は行動を要求します。

確かに。

> マハラジ
> もちろんだ。

やっぱり。(@_@)

> そして精神的にもそれは同じことだ。

ふーん。(-_-)

> 至福は、その気づきのなかにしりごみせず、苦痛に背を向けない
> ことのなかにあるのだ。

どういう意味だろう。

> すべての幸福は気づきからやってくる。

「すべての幸福は気づきからやってくる」……。

そうなのか……。

> 私たちがより意識的であれば、喜びはより深くなる。

はい。

> 苦痛の受容、無抵抗、勇気、忍耐――それらは、深く永久に枯渇
> しない真の幸福、真実の至福の源を開くのだ。

そういうことに……なっているのか……。

……。(-_-)

ありがとうございました……。<(_ _)>

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.いただいたお手紙から:或る私さん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


或る私さんから……祇園さんの投稿への……コメントをいただきま
した。

或る私さんの独特の展開……。(*^_^*)

早速ご紹介します。

【件名】: 純粋な存在感覚って何のことでしょうね???
------------------------------------------------------------
 こんにちわ。
 祇園さんの「純粋な存在感覚って何のことでしょうね???」っ
 て質問につられて
 あつかましながらも投稿させていただきました
 
 私は在ります。
 脳が知ることのできるのはその反映だけで私ではないと思いま
 す。
 つまり、私をおいといて、純粋な私って誰?って質問が起こるの
 は誤解のせいだと思います。
 こんな誤解が起こるのは多分、常識のせいだと思います。
 あまりにもあたりまえな常識はあまりにも大きな誤解かもしれま
 せん。
 つまり、私が言いたいことは、私たちは生まれていないってこと
 です。
 
 この辺でつまらないと感じるホルモンが脳内で分泌されるかもし
 れません。
 脳は自分の存在を強化するものを好むのに、生まれてこなかった
 などと言われたら
 今まで感じてきた脳が自分の存在と関連があると信じてきたもの
 つまり、楽しいもの、美しいもの、光、愛など・・・
 その根拠を根こそぎ否定してしまうから
 脳が本能的にそれを受け入れないようにするからだとおもうから
 です。
 多分、赤ん坊だったらつまらないと感じないかもしらないです
 ね。
 
 しかしその記憶のなかにある私の存在、それらはすべて存在その
 ものではないと思います。
 この前提を受け入れれば、よりまぶしい光こそがより大きい誤解
 に導くことになります。
 その光を自分の存在と関連づける脳の作業を一掃しないかぎり
 私は在るという事実をありのまま理解することはできないと思う
 んです。
 
 実は、私は生まれていないから光を見たこともありません。
 生まれていないと言う前提を受け入れれば、当たり前です。
 光を見たと思うことはすべて脳がその光に私の存在の感覚を分け
 あう事が起っただけでしょう。
 しかし、私が知るものは私だけで、その光ではありません。
 その光がなんだと言われていても、それは私ではありません。
 つまり、その光こそが自分だと、あるいは神だと信じることはで
 きないと言うことです。
 いくら素晴らしいセックスをしたとしても、それは夢でしかない
 のです。(例えが下品でしょうか・・・)
 
 赤ん坊が初めて世界を見ているとき起こっていることは、
 偉大な誤解が起こっているだけだとおもいます。
 世界が存在するという誤解・・・
 だから大人はその赤ん坊を愛してあなただけが存在すると確信を
 与える必要があるのです。
 その信頼こそが生きるための愛の根源になりますから・・・
 
 私だけがあります
 マハラジも何度も何度もそう言ってくれました。
 しかし、すべてが私だからその私の存在の感覚を知ることは実は
 できないのです。
 ただ、脳が私だと、あるいは私ではないと信じてきたすべての誤
 解をじっくりと分析して消化してしまえば
 自然と純粋な存在感覚って名付けられたものが理解できるのだと
 思います。
------------------------------------------------------------

或る私さん……ありがとうございました。

> 脳が知ることのできるのはその反映だけで私ではないと思いま
> す。

素晴らしいですね。

> つまり、私が言いたいことは、私たちは生まれていないってこと
> です。

はい。

> 実は、私は生まれていないから光を見たこともありません。

なるほど。

> 光を見たと思うことはすべて脳がその光に私の存在の感覚を分け
> あう事が起っただけでしょう。

このへんの展開は……とても独自で……難しいですね。

> 私だけがあります
> マハラジも何度も何度もそう言ってくれました。

はい。

> しかし、すべてが私だからその私の存在の感覚を知ることは実は
> できないのです。

なるほど。

> ただ、脳が私だと、あるいは私ではないと信じてきたすべての誤
> 解をじっくりと分析して消化してしまえば
> 自然と純粋な存在感覚って名付けられたものが理解できるのだと
> 思います。

このへんもまた……とても独特の展開で……難解ですね。

何はともあれ……ありがとうございました。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『アセ通』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 4.編集後記:いま隣の部屋で……
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

いま隣の部屋で……母が……眠っています。

パターンは……わたしの元型ですから……生きるのはとても不器用
な……人でした。

何よりも……自分の思いを曲げない……あるいは曲げられない……
明治の女性でした。

百四歳まで……本人の願いどおり……病気も入院もせず……亡くな
る一と月前まで……杖なしで歩ける……自分流の生活をしました。

眠るように……息を引き取りました。

診療所の先生に……来ていただいたときは……まだ身体に温かさが
……残っていました。

最後に一週間だけお世話になった訪問介護の方には「誰もが望んで、
叶えられない、一番贅沢な死に方です」とお褒めいただきました。

マインドのいろいろ素朴な側面を……見せていただきました。

昔の母のことも……思い出します。

お世話になりました。

ありがとうございました。

合掌 (-||-)

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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