home > 通信 > 『アセンション館通信』第421号:ボブさんの方便:行為者



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2012/4/29(第421号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象のなかに得るべき何ものもなく、探求するその人もいないこと
が納得されても、なおも惰性で書くことが起こっているようです。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在 886名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.ボブさんの方便:行為者

2.写経ニサルガダッタ:
   【24 神はすべてを為す者、ジニャーニは無為の人】4回目

3.編集後記:庭の瓶の金魚に……三回も餌をやりに
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■ 1.ボブさんの方便:行為者
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今日は割合……温かいです。

上天は雲に覆われ……眼前の光景全体に……微かに春霞がかかって
います。

右側に視界を覆ってうずくまる山には……ずいぶん緑のバリエーシ
ョンが盛り上がってきました。

目の前の庭の……賑やか色のなかに……いま一羽のモンシロチョウ
が……物語のなかを舞うように……通りすぎていきました。

戸外で動くものと言ったら……それだけです。

眼下の川沿いには……確かに民家は見えているけれど……でも動く
ものは……視界のなかに何もない……。

そういうことが……多いです。

こうして見えている世界……その点景でもある見ている人物……そ
の光景に浮上してくる想い……そういうものが現れています。

もちろん……こういう世界は……確かにあるのだけれど……それは
今こうして……ここに現れているだけ。

一瞬一瞬……現れては……記憶のなかに消えていく……。

在ると言えば……在る……。

無いと言えば……無い……。

この空間のなかに充満している気づきは……つねに在る……。

浮上してくるすべての光景……その点景としての見てい人物……そ
こに浮かぶ想い……すべてを含めて……現れは……過ぎ去る……。

これは……自明です。

あえて受け入れる必要もない……単純な……事実です。

事実は……認められるか……認められないかを……気にしない。

事実は……いずれにせよ……事実ですから……。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

セイラー・ボブさんを……読むということは……とても不思議なこ
とですね。

セイラー・ボブさんの言葉を読んでいると……理解できないという
ことが……ありません。

それが事実だということが……はっきりわかる。

つまり……それは否定しがたい……単なる……事実なのです。

というのも……ボブさんが言っていることを……まったく否定でき
ないわけですから。

とは言っても……ボブさんを読む前と……ボブさんを読んだあとと
……何か体験が変わるわけでもない。

ただ……“分離した主体”としての自分がある思っていたのは……
単なる誤解だった……とわかってしまっただけです。

つまり……変な話ですが……わたしというものが在る……と思って
いたのは……ただの誤解だった……ということです。

わたしというのは……ただの……ひとつの“括りの表現”です。

人間と呼ばれる……ひとつの有機体現象のなかに……たとえば……
胃袋と呼ばれる……有機体現象がある。

その胃袋は……もちろん……わたしという呼び方で……自分を指し
てても……いいわけです。

いいわけですが……その胃袋が……わたしは独立したひとつの実体
だ……と言ったら……それは少し事実に反する。

胃袋の意見も聞かずに……口が勝手に何か食料を摂り込んでも……
胃袋はその食料を……消化吸収せざるをえない。

今気分じゃないから……それは嫌だとは……言えない。(^_-)

胃袋という括りは……人間という括りほど自惚れていないので……
そんなバカなことは……思わないかもしれません。

でも……人間という括りは……相当バカなのか……自惚れが強いの
か……それともそう意図されているのか……わかりませんが……。

とにかく……わたしという独立した実体がある……という思い込み
を……まずは生きるように……仕込まれる……括りです。

でも……そういう……事実と異なる思い込みを実演していると……
その想念過程は……とても苦しいことになります。

あんまり苦しくて……苦し紛れに……「何故にすべては始まってし
まったのか?」などと……分不相応な想念まで……浮上させる。

とまあ……そう思うのも……これまた……自惚れです。(^_-)

というのは……“そう思う”独立した実体など……どこにも存在し
ないからです。

ただ……そういう想念が……浮上してくるだけです。

いま……ここに……。

まあ……そういう想念が……自然に浮上するように……なってきた
んですよね……ボブさんを……読んでいると……。

何が原因で……何が結果だ……などとは……とても言えません。

だって……何ひとつ……独立した実体があるものなど……存在しな
いわけですから。

ただ……そのように……現れているだけだと思います。

いや……思う人もいない……。

ただそういう想念が……浮上してくるだけ……。

ほんの少し前……ニサルガダッタからこう聞いたとき……そのこと
を納得するのは……不可能のようにさえ思われました。

------------------------------------------------------------
 マハラジ
 すべてはひとりでに起こる。
 探求者は何もせず、グルも何もしない。
 ものごとは起こるように起こる。
 行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるの
 だ。
 
 質問者 何と奇妙なのでしょう! 行為者はかならず行為の起こ
     る前に現れるはずです。
 
 マハラジ
 それはその反対だ。
 行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。
 あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わし
 いことを示している。
 責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
 何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考
 えていくと、すべてが起こるための責任は、いかに間接的であっ
 てもすべてにあると認めるほかはない。
 行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神
 話なのだ。
                   『私は在る』(p393-395)
                  http://tinyurl.com/s747u
------------------------------------------------------------

ところが……今これを読むと……なんと?! (@_@)

まったく……当前のことでしかない。

> すべてはひとりでに起こる。
> 探求者は何もせず、グルも何もしない。

探求者などという個人は存在せず……無論……グルなどという個人
も……存在しません。

> ものごとは起こるように起こる。

はい。

> 行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるの
> だ。

まったくです。

不思議なものですねぇ……こんな言葉が……当然になるとは……。

わたしがこの理解を……呼び出したのではない……この理解が……
わたしに呼ばれたわけでもない……。

ただ……いまここで……そのような想念が……浮上しているだけ。

セイラー・ボブさんを読むだけで……どうしても……そういうこと
が……理解されてしまう。

行為者がただの観念だということ……すべてはただそのように起こ
っているだけだということが……理解されてしまう。

これは……どうしようもありません。

では……セイラー・ボブさんが……行為者について……どういうこ
とを言っているというのか?

いえ……今となっては……ほんとに特別なことなど……おっしゃっ
ていません。

これまでも……何度か……ご紹介していますし。

「エゴ(自我)」の成り立ちについては……こんなふうです。

------------------------------------------------------------
 エゴは作り話である
 
 私たちの問題は、二歳か二歳半頃に身につけた一個の分離した実
 体、すなわち「自分」という考えから起こります。
 あなたは、「自分」とか「私」という言葉に対して何かできるで
 しょうか?
 それについてできることはあまりありません。
 そこで、私たちは、出来事、経験、条件付け――自分に起こった
 物事――を加えるのです。
 そこに信念のエネルギーが入り込み、それは見かけ上、具体的な
 ものになり、それが現実に存在しているように思えてきます。
 それが、我とかエゴとか呼ばれているものです。
 それは、自分自身はこうだと信じるための参照点となります。
 何かを見て、私はそれを好きになります。
 それを好きになるとは知るはずもありませんでした。
 まあ、それが以前に起こったことであれば、私はその過去のイメ
 ージと結びつけて、「これはいいな」と言うのでしょう。
 
 やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。
 でも、私はそうなってほしくありません。
 そのとき、何が起こるでしょうか?
 私がそれらを本当に好きなとき、私は何をするでしょうか?
 私はそれらが去るのに抵抗しようとします。
 抵抗とは何でしょうか?
 抵抗は葛藤であり、葛藤は病気(dis-ease=安らかではない)で
 す。
 もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です――心安らかではあり
 ません。
 それが病気です。
 もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、私は再びこの
 記憶の自分を参照します。
 それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?
 私はそれを押しやり、取り除こうとします。
 またもや、抵抗、葛藤、病気です。
                 『ただそれだけ』(p127-p128)
                 http://tinyurl.com/7o89r5x
------------------------------------------------------------

(-||-)

もう……何度か……ご紹介しましたよね。

上に引用した言葉の……どれか一言でも……否定できますか?

自分というのは……ただ記憶のなかの参照点との関係で起こる……
概念的……比較考量作業に……すぎなかった。

ついでに……「参照点」についても……ちょっと再確認……。

------------------------------------------------------------
 ■参照点が、私が抱える問題すべての原因である
 
 質問者 自分は何かを得るだろう、と私は心のどこかで思ってい
     るようです。思っているのは誰なのでしょうか?
 
 ボブ
 あらゆることは、例の自己中心すなわちエゴに関係しています。
 そこからよいとか悪いとか、快適とか不快が判断されます。
 あなたは以前あることを経験しました。
 それで、その記憶を思い出して、あれはあまりよいことではなか
 ったから、今度も同じことになるだろうとか言います。
 物事をその瞬間において新鮮に見るかわりに、自分自身について
 抱いているイメージと照らし合わせるのです。
 それは常にそのイメージと関係しています。
 
 つまり、関係性が私たちの問題なのです。
 すべての問題は、人間関係の問題と言ってもいいでしょう。
 たとえば恋愛関係にある人がいつも、争いなどの問題を抱えてい
 るのは当然のことです。
 本当はどんな関係もないのです――ただ自然にくっつき、自然に
 生活を共にし、あるいは、自然に別れる――それが、自然な成り
 行きです。
 
 私たちがそれを問題にするのは、自分が願うイメージと比較する
 からです。
 それが離れ始めるとき、私たちはどうするでしょうか?
 私たちはそれに離れていってほしくないと思い、それが離れるこ
 とに抵抗し、それにしがみつこうとします。
 あるいは、何か自分が願っていない物事が生じたとき、何が起こ
 るでしょうか?
 私たちはそれを排除したいと思います。
 それで私たちは何をするでしょうか?
 再び私たちはそれに抵抗します。
 抵抗は葛藤であり、葛藤は病気です。
 ……
                 『ただそれだけ』(p138-p139)
------------------------------------------------------------

> つまり、関係性が私たちの問題なのです。
> すべての問題は、人間関係の問題と言ってもいいでしょう。

そう言えば……カルキもそんなことを……おっしゃってたけど。

> 私たちがそれを問題にするのは、自分が願うイメージと比較する
> からです。

われわれが……ただ自然に起こっていることから……問題を創造し
てしまうのは……自分が願うイメージと比較するから……。

しかし……実はそこに……本当に「自分」という実体が……存在す
るわけではない。

そこに……比較によって発生した……想念が浮上しているだけです。

すべては……単なる……想像上の観念です。

では……そういう理解に達するために……何かしなければならない
ことは……あるのか?

ボブさんは……こう言っています。

------------------------------------------------------------
 瞑想やらなんやかやしなければならないと考えている間は、それ
 をしようとしている行為者が実体として存在すると考えているこ
 とになります。
 一つであるものを依然として二つの局面――たとえば男性と女性
 ――に分割し続けているわけです。
 しかし、全体は、それ全部なのです。
 どんな分離もなく、また、かつて分離していたこともないのです。
 ただ一つの知性エネルギーがあるだけです。
 
 質問者 「この自分とは誰か?」という質問をし続けていけば、
     自己概念は衰えてなくなりますか?
 
 ボブ
 それを衰えさせる必要などありません。
 それは存在さえしていないのですから。
 あなたはそこにないものをどうやって衰えさせることができます
 か?
 私たちが自分だと思っているこの「自分」を調査し、眺めるとき、
 それは単なる思考にすぎないことがわかるでしょう。
 そうではありませんか?
 私たちは、自分が自分自身にいだいている心理的イメージをたえ
 ず参照しています。
 自分は何々で、かくかくしかじかであると考え、信念を自己イメ
 ージの中に貯め込んでいきます。
 
 しかし、観察すれば、それはただの思考で、何らかの実質や独立
 した性質をそなえた何かがあるわけではないことがわかります。
 思考や言葉や概念は実在するものではありえません。
 では、「自分」がいないのに、私たちは何を参照しようとしてい
 るのでしょうか?
 そこにはまったく何もないことを見てください。
 あらゆることは以前と同じように進行しますが、それを固定した
 り矯正したり、そのせいで苦しんだりする何らかの実体に帰属す
 るものではありません。
 それがくっつく場所がどこにもないのです。
 ……
                 『ただそれだけ』(p191-192)
------------------------------------------------------------

なんと?! (@_@)

> どんな分離もなく、また、かつて分離していたこともないのです。
> ただ一つの知性エネルギーがあるだけです。

確かに……全体から分離しては……一瞬と言えども存在できない。

自分などというものは……ただ慣れ親しんだ虚構にすぎなかった。

> 私たちは、自分が自分自身にいだいている心理的イメージをたえ
> ず参照しています。

はい。

> しかし、観察すれば、それはただの思考で、何らかの実質や独立
> した性質をそなえた何かがあるわけではないことがわかります。

まったくです。(-_-)

> 思考や言葉や概念は実在するものではありえません。

そうです……それは単なる……参照点との比較考量による……解釈
にすぎなかった。

ボブさんがよくおっしゃる……起こっていることの翻訳です。

その翻訳自体も……行為そのものと同じように……「認識する空」
のなかに……ただ浮上している……だけなのです。

では……いったい……悟り、光明、覚醒などは……ボブさん的には
……どういうことになるのか?

------------------------------------------------------------
 質問者 では、あなたがときどき「自然の機能」と呼んでいるも
     のは、悟り、光明、覚醒、自己実現として言及されるよ
     うなものですか?
 
 ボブ
 あなたはそれを、「そこには何もないと理解すること」と呼べる
 だろうと思います。
 ただ「それだ」と言ってもいいでしょう。
 しかし、悟りに関していえば――誰が、何を悟ることができるの
 でしょうか?
 それは単に、事実に気づくというだけのことです。
 たとえば、あなたは朝、急いで職場へ行こうとして、大あわてで
 ドアをバタンと閉め、道路を百メートル行ったところで、突然、
 鍵を忘れたことに気づきます。
 その間ずっと、あなたは鍵を置いてきたことを知っていたのに、
 でも思い出すまで実際は知らなかったのです。
 ……
                   『ただそれだけ』(p193)
------------------------------------------------------------

ははは。(*^_^*)

いやー……何というか……。

しかし……否定できません……。(-_-)

> しかし、悟りに関していえば――誰が、何を悟ることができるの
> でしょうか?

まったくです。

> それは単に、事実に気づくというだけのことです。

これは……否定できない……事実ではないでしょうか。

てっきり……自分が気づいているのだと……思っていたのに……。

------------------------------------------------------------
 「私は聞く」という思老が、実際聞くことができるのでしょうか?
 思考が行なうのはただ翻訳することだけです。
 このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたり
 するパワーを持っていないのです。
 「私は選ぶ」という思考は、選ぶことができません。
 「私は気づいている」という思老は、あなたの気づきではありま
 せん。
                 『ただそれだけ』(p130-p131)
------------------------------------------------------------

> 「私は気づいている」という思老は、あなたの気づきではありま
> せん。

(@_@)

これ……どう考えても……本当です……。(-_-)

自分が気づいている……のではなくて……気づきのなかに……そう
いう想念が……起こっていいるだけです……。

だって……自分という観念の根拠が……どこかに実体をもって……
存在しているわけではないのですから。

自分が在るんじゃなくて……自分という想念が……浮上していただ
けなのです……「認識する空」のなかに……。

いま……ここの……なかに……。

------------------------------------------------------------
 このように、この虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた
 一つの思考なのです。
 エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまには悪運
 に見舞われることもある一つの実体である、という信念は、ただ
 の思考にすぎません。
 それが作り話であると気づくとき、いったい何が起こるでしょう
 か?
 自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いてい
 くのではありませんか?
 それが、あなたを呼吸させています。
 それが、あなたの心臓を鼓動させています。
 それが、あなたの髪の毛や爪を成長させ、食べ物を消化し、細胞
 を新陳代謝させ、考えること、感じること、感情、あらゆること
 が、まったく努力なく起こることを可能にしています。
 
                 『ただそれだけ』(p130-p131)
------------------------------------------------------------

> エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまには悪運
> に見舞われることもある一つの実体である、という信念は、ただ
> の思考にすぎません。

まさに……真実です……。(-_-)

> それが作り話であると気づくとき、いったい何が起こるでしょう
> か?

いったい何が? (-_-)

> 自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いてい
> くのではありませんか?

ああ……。

確かに。(-_-)

> それが、あなたを呼吸させています。

はい。

> それが、あなたの心臓を鼓動させています。

はい。

> それが、あなたの髪の毛や爪を成長させ、食べ物を消化し、細胞
> を新陳代謝させ、考えること、感じること、感情、あらゆること
> が、まったく努力なく起こることを可能にしています。

おっしゃるとおりです。

------------------------------------------------------------
 もしこうした身体機能が「自分」とは関係のないものだとすれば、
 そのとき何が問題ですか?
 もしそれはもっと違ったふうであるべきだ、と考える一個の実体
 と関連づけられないかぎり、よい悪いは問題ですか?
 そのことは、問題がもう起こらないという意味ではありません。
 もちろん、問題は起こるでしょう。
 なぜなら、自然の中では、正反対のペアがたえず機能しているか
 らです。
 でも問題が現れてきても、それらはそのあるがままに見られるの
 です。
 物事を固定的に捉えない意識があれば、問題は動いていきます。
 私たちがしがみついたり、執着したりするとき、問題はそこに留
 まり続けます。
 抵抗が続いているため、それは自由に動けないのです。
 
 私たちが抱える問題のすべては、一個の分離した実体が存在する
 という信念から生まれる、というのはそういうわけです。
 それがけっして実在するものではなかったことに気づけば、物事
 はただそういうふうに起こってきたのだと理解できるでしょう。
 
                 『ただそれだけ』(p130-p131)
------------------------------------------------------------

(-||-)

> もしそれはもっと違ったふうであるべきだ、と考える一個の実体
> と関連づけられないかぎり、よい悪いは問題ですか?

いいえ。

> そのことは、問題がもう起こらないという意味ではありません。

わかります。

> もちろん、問題は起こるでしょう。

はい。

> なぜなら、自然の中では、正反対のペアがたえず機能しているか
> らです。

はい……誕生したものは……死ななければなりませんから。

> でも問題が現れてきても、それらはそのあるがままに見られるの
> です。

はい。

> 物事を固定的に捉えない意識があれば、問題は動いていきます。

わかります。

> 私たちがしがみついたり、執着したりするとき、問題はそこに留
> まり続けます。
> 抵抗が続いているため、それは自由に動けないのです。

確かに。

> 私たちが抱える問題のすべては、一個の分離した実体が存在する
> という信念から生まれる、というのはそういうわけです。

よくわかりました。

> それがけっして実在するものではなかったことに気づけば、物事
> はただそういうふうに起こってきたのだと理解できるでしょう。

おっしゃるとおりです。

今回も……少しボブさんからの無断翻訳をご紹介しますね。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』(http://tinyurl.com/88zpf7p )
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

著者ジェームズ・ブラーハは……まだボブさんに会っていません。

これは……フロリダから……オーストラリアにかけた……初めての
電話の……会話の一部です。

------------------------------------------------------------
 ジェームズ わかかりました。あなたが私と話してくださってい
       ることに本当に感謝しています。電話をかけるのは
       私にはちょっと大変でした。少し勇気を出しました。

 ボブ
 ええ、もしあなたが自分に自己中心がないことを理解したら、他
 の誰にもないことがわかります。
 そうなれば、他の人びとと応対する恐怖はだんだんなくなります。
 優れている人もいなければ、劣っている人もいません。
 
 ジェームズ 私の友人のケリーは、ラメッシュ・バルセカール
       (ニサルガダッタの弟子だった有名なインド人教師)
       に会いに行きます。彼にはワクワクする体験でしょ
       う。私もときどき覚醒した教師に会いに行くことを
       考えますが、でもそのとき彼らが私に実際何をして
       くれるだろうと思うのです。彼らは私に悟りをくれ
       はしないでしょう。数日間、私はいい気分かもしれ
       ませんが、やがては以前と同じに感じるようになる
       でしょう。いい気分はやってきては過ぎ去ります。
       それはただある種の絶頂体験にすぎません。
 
 ボブ
 それこそが問題なのです。
 多くの探求者は体験のなかで立ち往生します。
 すべての体験はマインドのなかにあります。
 それらはマインドが作ったものです。
 私はニサルガダッタに出会った一九七〇年代には、ムクタナンダ
 のところにいました。
 当時、私はムクタナンダのアシュラムにいたのです。
 そうですね、なかには三〇年間もムクタナンダのアシュラムに通
 っている人もいますが、彼らは体験で立ち往生しています。
 彼らはそこから動きません。
 
 ジェームズ あなたは至福体験を意味しているのですか?
 
 ボブ
 ええ、人びとはあらゆる類の体験をしますが、しかしそれは一時
 的なものです。
 人びとはクンダリーニの(エネルギーが脊椎を上る)体験、至福
 体験など、あらゆる体験をします。
 しかしそれらは現れては消えます。
 それはあなたが求めているものではありません。
 存在の気づきは体験を超えたものであり、体験以前にあります。
 それはすべての体験が起こることを許すものです。
 
 多くの人びとは沈黙と静寂のなかに入ることを望みます。
 私には、お喋りが起こっていようと、沈黙が起こっていようと、
 問題ではありません。
 それは両方とも体験です。
 存在の気づきは体験を超えたもの、体験以前にあるものです。
 私には長い沈黙の期間がありましたし、精神的なお喋りの期間も
 ありました。
 それは私にとってはまったく同じことです。
 
 ジェームズ あなたは沈黙の方を好むのではないのですか?
 
 ボブ
 いいえ、なぜならそういうものは体験だからです。
 私は体験を超えています。
 私であるものとはすべての体験がそのなかで起こるものです。
 それは現在進行形の体験することであって、体験者や体験ではあ
 りません。
 そのなかに見る者と見られるものが現れる、見ることと同じです。
 見る者は偽物の主体であり、見られるものは対象です。
 しかしそれらは両方とも見ることのなかに含まれています。
 見ることがなかったら、見る者も存在できなかったでしょう。
 見ることがなかったら、見られるものもありえなかったでしょう。
 
 ジェームズ では、すべての浄化のためのテクニック、瞑想やヨ
       ガといったすべては本当に必要ないのですか?
 
 ボブ
 ありません、どんな必要もありません。
 もちろん、もしそれが起こるなら、それに何も間違ったことはあ
 りません。
 しかしそれらが生みだすのはすべて体験です。
 それらは現れては、また消え去るものです。

                  『Living Reality』(p14-15)
                 http://tinyurl.com/88zpf7p
------------------------------------------------------------

(-||-)

何も……求める必要はない……。

何を求めようと……わたしはすでに……それなのだから……。

いかなる分離も……ただの誤解による……虚構すぎない。

わたしは……在る。

------------------------------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
                    『あるがままに』(p58)
                 http://tinyurl.com/2aar6zj
------------------------------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:
   【24 神はすべてを為す者、ジニャーニは無為の人】4回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

求道者が……消えて……、

> 分離した「私」という概念を放棄しなさい。
> そうすれば「誰の経験か?」という疑念が湧いてくることはない
> だろう。

こういう言葉が……聞こえるようになって来ました。

(-||-)

では【24 神はすべてを為す者、ジニャーニは無為の人】の最終、
4回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解さ
 れることを願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、それを読んでいただければいいです。

------------------------------------------------------------
 質問者 あなたは非顕現の目的について語ってはいません。
 
 マハラジ
 もちろん、目覚めるためには眠らなければならない。
 生きるためには死ななければならない。
 新たな形に再生するためには溶け去らなければならない。
 構築するために破壊し、創造する前に絶滅させなければならない。
 至高なるものは普遍の溶媒だ。
 それはあらゆる器を溶解し、あらゆる障害を焼き尽くす。
 すべてを絶対否定しないことには、ものの専制性は絶対的なもの
 となってしまうだろう。
 至高なるものは偉大な調和をもたらす。
 それは自由なる生の完璧な均衡と究極の保証だ。
 それはあなたを溶解し、このようにあなたの真の存在を再生する
 のだ。
 
 質問者 それ自体のレベルにおいては、それでいいかもしれませ
     ん。しかし、日々の生活において、それはどう作用する
     のでしょうか?
 
 マハラジ
 日々の生活は行為の生活だ。
 好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。
 何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発す
 る。
 ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。
 あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺
 (あざむ)くなら、ことは一層悪化するだろう。
 なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念
 によって決定すべきではないからだ。
 他者にとって何が良いのかを知っていると公言する者は危険だ。
 
 質問者 では、人はどのようにして働くべきでしょうか?
 
 マハラジ
 あなた自身のためでも他者のためでもなく、仕事自体のために働
 きなさい。
 するだけの価値のあることには、それ自体の目的と意味がある。
 何かほかのことの手段にしてはならない。
 拘束してはならない。
 神はひとつのものをほかのものに仕えるために創造してはいない。
 それぞれがそれ自身のために造られたのだ。
 それがそれ自身のために造られているため、干渉することがない。
 あなたは物や人を、彼らとは相容れない目的のために用いるため、
 世界とあなた自身を台無しにしてしまうのだ。
 
 質問者 実在はつねに私たちとともに在るとあなたは言われまし
     た。どうして私たちはそれに気づかないのでしょうか?
 
 マハラジ
 そのとおり、あなたはつねに至高なるものなのだ。
 しかし、あなたの注意はいつも身体的あるいは精神的なものに注
 がれている。
 あなたの注意がひとつのものを離れて、まだほかの対象物に固定
 される合間、あなたは純粋な存在なのだ。
 識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)* の実践を通
 して、あなたは感覚的そして精神的状態の視野を失い、純粋な存
 在が自然な状態として現れだす。
 
 * 訳注 識別と無執着
     ヴィヴェーカ Viveka 識別。真実と偽りを識別するこ
     と。ヴァイラーギャ Vairagya 無執着。世俗的欲望の
     不在。非実在とはかなき存在への無執着。
 
 質問者 この分離された存在の感覚をどうやって終焉(しゅうえ
     ん)させることができるのでしょうか?
 
 マハラジ
 「私は在る」にマインドの焦点を合わせることによって、「私は
 これだ」という存在の感覚は消え去る。
 そこに「私はただの観照者だ」が残り、それさえも、「私がすべ
 てだ」のなかに沈んでいく。
 そのときすべてはひとつとなり、ひとつは――私から分離してい
 ないあなたの自己となるのだ。
 分離した「私」という概念を放棄しなさい。
 そうすれば「誰の経験か?」という疑念が湧いてくることはない
 だろう。
 
 質問者 あなたはあなた自身の体験から語っています。どうやっ
     てそれを私のものとすることができるのでしょうか?
 
 マハラジ
 私の体験とあなたの体験が異なると言うのは、私とあなたが分離
 しているとあなたが信じているからだ。
 より深いレベルでは、私の体験はあなたの体験だ。
 あなた自身の内面深くに入っていきなさい。
 そうすれば、あなたはそれをいともたやすく、簡単に見いだすだ
 ろう。
 「私は在る」の方向へと入っていきなさい。
 
                   『私は在る』(p107-109)
                  http://tinyurl.com/s747u
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(-||-)

> 質問者 あなたは非顕現の目的について語ってはいません。

目的かぁ……。

そういうのは……意識の内容で……非顕現のあずかり知らぬことじ
ゃないのかしら。

> マハラジ
> もちろん、目覚めるためには眠らなければならない。

確かに。(^^;)

> 生きるためには死ななければならない。

はい。

> 新たな形に再生するためには溶け去らなければならない。

わかります。

> 構築するために破壊し、創造する前に絶滅させなければならない。

なるほど。

> 至高なるものは普遍の溶媒だ。

はい。

> それはあらゆる器を溶解し、あらゆる障害を焼き尽くす。

ええ。

> すべてを絶対否定しないことには、ものの専制性は絶対的なもの
> となってしまうだろう。

あ。(@_@)

> 至高なるものは偉大な調和をもたらす。

(-_-)

> それは自由なる生の完璧な均衡と究極の保証だ。

そういうことか……。

> それはあなたを溶解し、このようにあなたの真の存在を再生する
> のだ。

ふーん。

> 質問者 それ自体のレベルにおいては、それでいいかもしれませ
>     ん。しかし、日々の生活において、それはどう作用する
>     のでしょうか?

うん。

> マハラジ
> 日々の生活は行為の生活だ。
> 好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。

いや……まったくです。

> 何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発す
> る。

アチャ。(>_<)

> ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。

そういうことか。(-_-)

> あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺
> (あざむ)くなら、ことは一層悪化するだろう。

ふーむ。(*-_-*)

> なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念
> によって決定すべきではないからだ。

了解です。

> 他者にとって何が良いのかを知っていると公言する者は危険だ。

確かに。

> 質問者 では、人はどのようにして働くべきでしょうか?

うむ。

> マハラジ
> あなた自身のためでも他者のためでもなく、仕事自体のために働
> きなさい。

(@_@)

「仕事自体のために」働く……。

> するだけの価値のあることには、それ自体の目的と意味がある。

なるほど。

> 何かほかのことの手段にしてはならない。

うむ。(-_-;)

> 拘束してはならない。

はい。

> 神はひとつのものをほかのものに仕えるために創造してはいない。
> それぞれがそれ自身のために造られたのだ。

了解しました。

> それがそれ自身のために造られているため、干渉することがない。

はい。

> あなたは物や人を、彼らとは相容れない目的のために用いるため、
> 世界とあなた自身を台無しにしてしまうのだ。

うーむ……。

> 質問者 実在はつねに私たちとともに在るとあなたは言われまし
>     た。どうして私たちはそれに気づかないのでしょうか?

うん。

> マハラジ
> そのとおり、あなたはつねに至高なるものなのだ。

はい。

> しかし、あなたの注意はいつも身体的あるいは精神的なものに注
> がれている。

なるほど。

> あなたの注意がひとつのものを離れて、まだほかの対象物に固定
> される合間、あなたは純粋な存在なのだ。

そうか。

> 識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)* の実践を通
> して、あなたは感覚的そして精神的状態の視野を失い、純粋な存
> 在が自然な状態として現れだす。

対象を求めてさ迷わないとき……。

> 質問者 この分離された存在の感覚をどうやって終焉(しゅうえ
>     ん)させることができるのでしょうか?

(-_-)

> マハラジ
> 「私は在る」にマインドの焦点を合わせることによって、「私は
> これだ」という存在の感覚は消え去る。

はい。

> そこに「私はただの観照者だ」が残り、それさえも、「私がすべ
> てだ」のなかに沈んでいく。

(-_-)

> そのときすべてはひとつとなり、ひとつは――私から分離してい
> ないあなたの自己となるのだ。

はい。

> 分離した「私」という概念を放棄しなさい。
> そうすれば「誰の経験か?」という疑念が湧いてくることはない
> だろう。

了解です。

> 質問者 あなたはあなた自身の体験から語っています。どうやっ
>     てそれを私のものとすることができるのでしょうか?

……。

> マハラジ
> 私の体験とあなたの体験が異なると言うのは、私とあなたが分離
> しているとあなたが信じているからだ。

はい。

> より深いレベルでは、私の体験はあなたの体験だ。

(-_-)

> あなた自身の内面深くに入っていきなさい。
> そうすれば、あなたはそれをいともたやすく、簡単に見いだすだ
> ろう。

はい。

> 「私は在る」の方向へと入っていきなさい。

(-||-)

……。(-_-)

ありがとうございました……。<(_ _)>

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


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■ 3.編集後記:庭の瓶の金魚に……三回も餌をやりに
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今日は……暖かかったです。

庭の瓶の金魚に……三回も餌をやりに行きました。

誰がやっている……というのでもないだろうけど……いまのところ
は……こうして……書くことがつづいています。

今日は……明るいうちに終えました。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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