home > 通信 > 『アセンション館通信』第441号:火のないところに煙は立たぬ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2012/9/16(第441号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象世界はすべて変化の意識であり、変化するものは永遠に変化す
るのみ、見かけの自分はその変化のなかの出来事にすぎません。

相変わらず分離感覚はありますが、まあ、これは仕方ないです。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在879名
------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇

1.火のないところに煙は立たぬ

2.写経ニサルガダッタ(最終回):【03 今を生きる】2回目

3.編集後記:『私は在る』を……丸々一冊……写経して
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■ 1.火のないところに煙は立たぬ
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視界の上半分を占める眼前の空に……乱立する秋型の積乱雲が……
団団と盛り上がっています。

どんな風景にも……それ固有の情緒がありますね。

そのことに何も……悪いことはありません。

昔からの癖で……すぐに何か……不満の種を探そうと……マインド
が動くのですが……気にする必要は……なさそうです。

マインドはマインドなりに……勤勉なのだから。

どんな今にも……何かの理屈を……つけたがる……。

どんな状況にも……不満の種を……見つけたがる。

マインドは確かに……不屈の勤勉さを誇っているけれど……なにも
……わたしまでが……その勤勉さに……自己同化する必要もない。

だって……今日は……土曜日なんだし。(なんちゃって。(^_-) )

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を……いかがお過ごしでしょうか?

マインドは……ただ何でもなくは……いられない。

マインドは……何でもない状態には……慣れていないのです。

というか……マインドというようなものは……ありません。

ただ……一瞬一瞬……ふつふつと……想念が湧いてくるだけです。

この勤勉さを……ずっと……自分なのだと……思ってきた。

それが……間違っていただけです。

どんな瞬間にも……別に……何かの気分で……いなければならない
わけではない。

確かに……想念は……湧いてきます。

いろんな気分が……湧いてくるものです。

でも……それは……ただ湧いているだけ……。

それは……わたしではない。

「應無所住而生其心(オウムショジュウニショウゴシン)」

「まさにじゅうするところのうして、しかもそのこころをしょうず
 べし」

だから……「私は在る」とは……ある水準では……絶えず湧いてく
るこの想念に……耐えることです。

そして……それらの想念が……わたしに対して……湧いてくるので
あって……それがわたしなのではないと……知っていること。

そういうことだと……思います。

もちろん……この理解……この気分も……わたしではありません。

知りうることは……すべて……わたしではない。

つまり……わたしなどというものは……いないわけです。(^_-)

そこに……絶対的に……落ち着くことができたら……どれほど……
楽なことか。

それが……至福というものだろうと……思います。

わたしなどというものは……いない。

そして……それにもかかわらず……「私は在る」のです。

なぜなら……すべてが……現れているから。

まったくの……空無から……何かが現れることはできません。

火のないところに煙は立たぬ……です。(^_-)

火があるから……煙が立っているのです。

空即是色……です。

誰かが……何かが……在るから……森羅万象が……現れている。

誰が……何が……森羅万象の顕現を……可能にしているのか?

その……森羅万象の顕現を……知ることができる者です。

それだけが……在る。

それ以外は……何も……在りません。

それ以外は……ただ……現れているだけです。

現れ自体に……何の実体もありません。

色即是空……です。

でも……森羅万象の顕現を……知ることができる者は……四六時中
……知るという労働に……携わっているわけではない。

知ることができることを……知っていれば……何も実際に……知る
という苦役に……携わる必要はない。

なぜなら、

> 在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。

からです。

にもかかわらず……マハラジはこう言います。

------------------------------------------------------------
 在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。
 それでも私はそれを愛している。
                     『私は在る』(p435)
------------------------------------------------------------

と……。

で……このマハラジの言葉は……むろん……賢者ニサルガダッタと
いう誰かに……関わっているわけではない。

そんな存在は……ラベルとしてしか……いないわけですから。

つまり……この言葉は……わたしの……あなたの……ことを言って
いるわけでしょう。

> それでも私はそれを愛している。

と……。

どうしてなんだろう……とは思いますが……。(-_-;)

マハラジは……こう↓言っているんですけどね。

------------------------------------------------------------
 私の本性そのものが愛なのだ。
 苦痛に満ちたものでさえ、愛すべきものだ。
 
 質問者 それが苦痛を弱めるわけではありません。なぜ無限のな
     かにとどまらないのでしょう?
 
 マハラジ
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのもので
 るように、成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの
 本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。
 
                     『私は在る』(p435)
------------------------------------------------------------

おお……。(;_;)

(-||-)

------------------------------------------------------------
 人間のありさまを観察し
 快楽と知識への欲望
 そして人生そのものへの欲望を
 放棄した人は稀だ
 彼は祝福されたのだ
            『アシュターヴァクラ・ギーター』(p77)
------------------------------------------------------------

……。(-_-)

そういうことなのか……。

(-||-)

今回も……ボブさんの無断翻訳から……少しご紹介しましょう。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』(http://tinyurl.com/88zpf7p )
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

念願かなって……ついにボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれ
て……今は著者ジェームズ・ブラーハの家に滞在しています。

ここでは……ジェームズ・ブラーハは……ボブさんと対面して……
会話しています。

二日目の会話に入り……ジェームズはボブさんの昔話を聞きます。

------------------------------------------------------------
 ジェームズ アドヴァイタの本で読んだことで私にはわからない
       ことがあります。彼らは私たちが待ち望んでいるも
       のは、実際は「私は在る」を超えていると言います。
       彼らが言っているのはどういうことですか?
 
 ボブ
 あなたはあなたが存在することを知っています。
 その存在感覚は思考を通じて「私は在る」として表現されます。
 あなたは「私は在る、私は在る、私は在る」と言って、歩き回る
 必要はありません。
 つまり、「私は在る」とは最初の思考なのです。
 あなたは今「私は在る」と考えていますか?
 
 ジェームズ いいえ。
 
 ボブ
 それで、あなたは見ていますか?
 あなたは聞いていますか?
 あなたは機能していますか?

 ジェームズ はい。
 
 ボブ
 それが思考を超えているということです。
 それはラベルを貼らなくても存在しています。
 それはマインドを超えて在ります。
 人びとは「マインドを超えていきなさい」と言います。
 それで彼らは、マインドを超えているものを発見しようと何年も
 何年も探求するのです。
 
 ジェームズ 私たちはマインドを超えて生きているのですね。
 
 ボブ
 その通りです。
 この直接の現在進行形の体験――見ること、聞くこと、味わうこ
 と、匂いを嗅ぐこと、触れること――のなかで、マインドを超え
 て生きることが起こっているのです。
 それはいかなるラベル貼りにも先立って、どんな思考にも先立っ
 て起こっています。
 マインドがすることは、ラベルを貼ること、概念化することだけ
 です。
 私たちはつねにマインドを超えて生きているのです。
 そして探求者がつねに使っているあの「私は誰か?」という疑問
 ですが……。
 人びとは何年も何年もそれを探すことに費やしています。
 もし一瞬停止して、「誰がこの質問をしているのか?」と尋ねた
 ら、その質問者はまさにその質問そのものであることが、わかり
 ます。
 その質問が尋ねられていなければ、そのとき質問者はいません。
 だから質問者もいないし、質問もない……。
 そのときあなたはどこにいますか?
 
 ジェームズ 存在の気づきに戻っています。
 
 ボブ
 その通りです。
 それぐらいシンプルなのです。
 
 ジェームズ ところで、ラマナ・マハルシが「私は誰か?」とい
       う疑問を霊的探求に使うように探求者たちに告げた
       とき、彼の言葉は誤訳されたと聞きました。ラメッ
       シュ・バルセカールによれば、私の理解では、その
       実際の翻訳は「この自分とは誰か?」であるべきだ
       ったというのです。それだと少し違う意味になりま
       すね。
 
 ボブ
 ほう。
 私の本の最初で私が何と言ったか覚えていますか?
 「私は誰かに話しているのではありません。
  私はどんなマインドに話しているのでもありません。
  私が話しているのは、私である『私は在る』に対してです」と。
 
 ジェームズ これはちょっとまごつきますね。
 
 ボブ
 ええ、そうかもしれません。
 いいですか、私はあなたの身体に話すことはできません。
 あなたの身体は私の言葉を聞くことができません。
 
 ジェームズ あなたは私のマインドに話すことはできますか?
 
 ボブ
 いいえ。
 なぜならマインドというものはないからです。
 マインドとはただの想念の集合で、想念にはどんな独立した本質
 もありません。
 私はあの生の本質に話しかけているのです。
 私は、私であるところのあの「私は在る」に話しかけています。
 存在の感覚に話しかけているのです。
 そのようにして、私たちはコミュニケートしています。
 
 ジェームズ ではこれは存在が存在に話しているのですね……。
       存在は存在に話すことができるのですか?
 
 ボブ
 存在は存在と共鳴しています。
 それはおよそ話すということではありません。
 それは自己を知ることです。
 
 ジェームズ ボブ、政治や世の中の出来事で、何かあなたを煩わ
       せるものがありますか?
 
 ボブ
 そうですね、それは聖書の言葉の「一千があなたの左側に落下し、
 一万があなたの右側に落下するだろう。だがあなたの住処(すみ
 か)の間近に落ちては来ない」というようなものです。
 私は世界がつづくのを見ますが、それは私の近くにはきません。
 
 ジェームズ 私はそれに気づきました。何ひとつあなたの気にか
 かることはない。それは楽しみなのですか?
 
 ボブ
 それはただあるがままです。
 
 ジェームズ 人びとは世界での出来事、すべての苦しみにひどく
       動揺しています。私は世界は幻想だと理解しますが、
       もし自分がたった今イラクにいる人間だったら、そ
       れはかなり酷いことです。
 
 ボブ
 そうですね、それはすべてどのようになりますか、苦しみという
 考えですか?
 
 ジェームズ 参照点からです。
 
 ボブ
 それはつねに最初の二元論――「自分」と「他人」――とつなが
 っています。
 もしあなたがその参照点、マインドが作った「自分」をとおして
 見ていたのなら、このいわゆるすべての苦しみが起こっているの
 は誰に対してでしょうか?
 出来事は起こっていますが、どの人に対してでもありません。
 また、人びとは他の人びとの問題を想像することで、つねに自分
 の苦しみに追加してもいるのです。
 
                  『Living Reality』(p91-93)
------------------------------------------------------------

……。(-_-)

> なぜならマインドというものはないからです。
> マインドとはただの想念の集合で、想念にはどんな独立した本質
> もありません。

これ……どうしても……わかってしまいます。

まったく……そのとおりなんですから。

マインドというような……実体は……存在しないわけですよね。

> 私はあの生の本質に話しかけているのです。
> 私は、私であるところのあの「私は在る」に話しかけています。
> 存在の感覚に話しかけているのです。
> そのようにして、私たちはコミュニケートしています。

そういうこと……なんだなあ。(-_-)

> ジェームズ ではこれは存在が存在に話しているのですね……。
>       存在は存在に話すことができるのですか?
> 
> ボブ
> 存在は存在と共鳴しています。
> それはおよそ話すということではありません。
> それは自己を知ることです。

ほんとだ……。(@_@)

(-||-)

------------------------------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
                     『私は在る』(p421)
------------------------------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
                    『あるがままに』(p58)
------------------------------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ(最終回):【03 今を生きる】2回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

この章でマハラジは……、

> 快楽の瞬間とは苦痛の流れの間に起こるものにすぎないのだ。
> どうしてマインドが幸福になれるだろう?

こんな表現↑をするかと思えば……また、

> 宇宙とは完成されたものだ。
> そこに何も欠如していない完全性が在るとき、苦痛を与えられる
> ものがあるだろうか?

こんな表現↑もしています。

どうやらそれはすべて……どこから見るかによるようです。

> 全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全と
> なる。
> 孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処(ありか)となる。

と。

これまでつづいた一連の写経は……これが最後の章になりました。

つきあって……読んでくださった方には……感謝です。

つきあって……打ってくれたシャーラにも……感謝です。

どこからも……特段の苦情をいただかなかったことにも……感謝し
ます。m(_ _)m

一段落はしましたが……マハラジの言葉は好きなので……また少し
形を変えて……何かつづけるかもしれません。

(-||-)

では【03 今を生きる】の2回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解さ
 れることを願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、それを読んでいただければいいです。

(あとは……ああとか……ううとか……言ってるだけですから。)

------------------------------------------------------------
 質問者 深い眠りのなかには、今現在の現実感はありませんでし
     た。
 
 マハラジ
 深い眠りにおける空白は、完全な記憶の欠如によるものだ。
 だが、幸福という総括的な記憶がそこにはある。
 「深い眠りのなかにいた」と言うのと「存在していなかった」と
 言うのとでは感覚の違いがある。
 
 質問者 はじめの質問に戻りますが、生の源とその表現(つまり
     身体)との間には、絶え間なく変化しつづけるマインド
     の状態があります。この精神状態の流れは際限なく、無
     意味で苦痛に満ちています。苦痛がその変わることのな
     い要因です。私たちが快楽と呼ぶものは、二つの苦痛に
     満ちた状態の狭間(はざま)にすぎません。欲望と恐れ
     は生の横糸と縦糸で、ともに苦痛でできているのです。
     いったい、幸福なマインドというものがありうるのでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。
 それらはともにマインドを揺り動かす。
 快楽の瞬間とは苦痛の流れの間に起こるものにすぎないのだ。
 どうしてマインドが幸福になれるだろう?
 
 質問者 私たちが快楽を求めたり苦痛を予期したりするときは、
     確かにそのとおりです。しかし予期せぬ、思いもよらな
     かった喜びの瞬間も存在します。不相応な、求めてもい
     なかった、神からの贈り物――欲望に汚されていない純
     粋な喜びがあります。
 
 マハラジ
 それでも、喜びは背景にある苦痛に対しての喜びでしかないのだ。
 
 質問者 苦痛とは宇宙的な現実なのでしょうか、それとも単に精
     神的なものなのでしょうか?
 
 マハラジ
 宇宙とは完成されたものだ。
 そこに何も欠如していない完全性が在るとき、苦痛を与えられる
 ものがあるだろうか?
 
 質問者 宇宙は、全体としては完全かもしれませんが、詳細にお
     いては不完全です。
 
 マハラジ
 全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全と
 なる。
 孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処(ありか)となる。
 何が孤立をもたらすのだろうか?
 
 質問者 もちろんマインドの限界です。マインドには全体として
     の部分を見ることができません。
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 マインドはその本質上、分割し対立するものだ。
 統合し、調和をもたらし、部分のなかに全体を見て、全体との完
 全な関連性をもった部分を見ることのできる何か別のマインドと
 いうものが在りうるだろうか?
 
 質問者 別のマインド――どこを探せばいいのでしょう?
 
 マハラジ
 限界をもたらし、分割し、相対立するマインドを超えた彼方だ。
 周知のように、この精神的過程が終焉(しゅうえん)したときだ。
 これが終わりを告げたとき、そのマインドが生まれる。
 
 質問者 そのマインドのなかでは、喜びと悲しみの問題はもはや
     存在しないのでしょうか?
 
 マハラジ
 私たちが知るような望むべき、あるいは憎むべきものとしてでは
 ない。
 それはむしろ、愛がその表現を求めて障害にであうようなものだ。
 包括的なマインドとは、愛が活動のなかで環境と戦い、初めは挫
 折しつつも最終的には勝利をおさめるようなものなのだ。
 
 質問者 魂と身体との間に橋を渡すものは愛なのでしょうか?
 
 マハラジ
 ほかに何があろう?
 マインドが奈落を生みだし、ハートが橋を架けるのだ。
 
                   『私は在る』(p29-30)
------------------------------------------------------------

(-||-)

> 質問者 深い眠りのなかには、今現在の現実感はありませんでし
>     た。

確かに。

> マハラジ
> 深い眠りにおける空白は、完全な記憶の欠如によるものだ。

はい。

> だが、幸福という総括的な記憶がそこにはある。

ふーん。

……そうなんだ。

> 「深い眠りのなかにいた」と言うのと「存在していなかった」と
> 言うのとでは感覚の違いがある。

感覚の差はよくわかりませんが……ただ朝6時に散歩する約束をし
たら……なぜか翌朝5時半ころに……目が醒めました。

だから「深い眠り」と「存在しない」は……違うんでしょうね。

> 質問者 はじめの質問に戻りますが、生の源とその表現(つまり
>     身体)との間には、絶え間なく変化しつづけるマインド
>     の状態があります。この精神状態の流れは際限なく、無
>     意味で苦痛に満ちています。苦痛がその変わることのな
>     い要因です。私たちが快楽と呼ぶものは、二つの苦痛に
>     満ちた状態の狭間(はざま)にすぎません。欲望と恐れ
>     は生の横糸と縦糸で、ともに苦痛でできているのです。
>     いったい、幸福なマインドというものがありうるのでし
>     ょうか?

この方……かなり悲観的ですね。(^_-)

まあ……ナンダン風の言い方をすれば……目くそ鼻くそを評する…
…の類ですけど。(^^;)

> マハラジ
> 欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。

「欲望とは快楽の記憶」……「恐れとは苦痛の記憶」……。

これはまた……端的な。

> それらはともにマインドを揺り動かす。

はい……揺り動かされてます。

> 快楽の瞬間とは苦痛の流れの間に起こるものにすぎないのだ。

わかります。

> どうしてマインドが幸福になれるだろう?

はい。

幸福になったら……マインドが死んじゃう。

> 質問者 私たちが快楽を求めたり苦痛を予期したりするときは、
>     確かにそのとおりです。しかし予期せぬ、思いもよらな
>     かった喜びの瞬間も存在します。不相応な、求めてもい
>     なかった、神からの贈り物――欲望に汚されていない純
>     粋な喜びがあります。

ふむ……ちょっと反論。

> マハラジ
> それでも、喜びは背景にある苦痛に対しての喜びでしかないのだ。

なるほど。

……同意します。

> 質問者 苦痛とは宇宙的な現実なのでしょうか、それとも単に精
>     神的なものなのでしょうか?

おお……グッドクエスチョン。

> マハラジ
> 宇宙とは完成されたものだ。

(@_@)

> そこに何も欠如していない完全性が在るとき、苦痛を与えられる
> ものがあるだろうか?

へー……こんなふうに答えることもあるんだ。

> 質問者 宇宙は、全体としては完全かもしれませんが、詳細にお
>     いては不完全です。

まあ……そういう言い方も……あるかもしれません。

> マハラジ
> 全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全と
> なる。

なるほど。(@_@)

> 孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処(ありか)となる。

おお……。

> 何が孤立をもたらすのだろうか?

何が孤立をもたらすか? (-_-)

> 質問者 もちろんマインドの限界です。マインドには全体として
>     の部分を見ることができません。

すばらしい。

> マハラジ
> そのとおりだ。
> マインドはその本質上、分割し対立するものだ。

はい。

現れるためには……自らを定義しなくてはならない。

自らを定義するためには……対極に……分割しなくてはならない。

> 統合し、調和をもたらし、部分のなかに全体を見て、全体との完
> 全な関連性をもった部分を見ることのできる何か別のマインドと
> いうものが在りうるだろうか?

マインドにも……そういうタイプの……マインドがあるのかしら?

> 質問者 別のマインド――どこを探せばいいのでしょう?

確かに。

> マハラジ
> 限界をもたらし、分割し、相対立するマインドを超えた彼方だ。

その彼方にも……マインドは在るんだ。(@_@)

そうか……ラメッシュ・バルセカールが言う……「考えるマインド」
に対する……「機能するマインド」か。

> 周知のように、この精神的過程が終焉(しゅうえん)したときだ。
> これが終わりを告げたとき、そのマインドが生まれる。

悟った後にも……働きは……残る。

> 質問者 そのマインドのなかでは、喜びと悲しみの問題はもはや
>     存在しないのでしょうか?

いや……個人的ではない……喜びと悲しみは……あるのでは。

> マハラジ
> 私たちが知るような望むべき、あるいは憎むべきものとしてでは
> ない。

欲望とか……嫌悪は……もうないんだ。

> それはむしろ、愛がその表現を求めて障害にであうようなものだ。

へー。

> 包括的なマインドとは、愛が活動のなかで環境と戦い、初めは挫
> 折しつつも最終的には勝利をおさめるようなものなのだ。

こういう言葉を語った……マハラジもいるんだなぁ。

> 質問者 魂と身体との間に橋を渡すものは愛なのでしょうか?

なんか……ちょっと……くすぐったくなるような質問。^^;;

> マハラジ
> ほかに何があろう?

おお。

> マインドが奈落を生みだし、ハートが橋を架けるのだ。

「マインドが奈落を生みだし、ハートが橋を架ける」……。

そうかぁ……。

……。(-_-)

ありがとうございました……。<(_ _)>

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

というか……一連の写経は……これで一段落でした。

マハラジの言葉は好きなので……少し形を変えて……また何か……
つづけるかもしれません。

わかりませんが。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

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「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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『アセ通』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:『私は在る』を……丸々一冊……写経して
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良太さんのお誘いに乗って始めた……「写経ニサルガダッタ」です
が……『私は在る』を……丸々一冊……写経してしまいました。

それで……何かわかったのか?

わかったとも言えませんが……わからないとも言えない感じです。

少なくとも……ニサルガダッタの語法は……わかりました。

どういうことを……意味しているかも……わかりました。

実質的な意味で……もう誰の助けも要らないことも……確かです。

と同時に……分離感覚が……消えていないのも……事実です。

恩寵を……起こらせることなど……できないわけですから。

和尚が……ニサルガダッタに送り出してくれて……ニサルガダッタ
が……ボブさんに送り出してくれて……。

すべては……現れの上での……戯れなのでしょう。

今日は……明るいうちに終えました。

でも……昏くなるのが……早くなって来ましたね。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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