home > 通信 >『アセンション館通信』第503号:物語とは知覚信号の解釈



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2013/11/24(第503号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

実在するのはただ不垢不浄不増不減の永遠の<今・ここ>のみ。

想念は身体と同じく起こっていても、存在してはいない。ただ想念
は存在していると誤解して、滅ぶことを心配しているだけ。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在863名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.物語とは知覚信号の解釈

2.ボブさんの言葉:【あらゆることはひとりでに起こる】

3.編集後記:メルマガを書いているのは“自分”じゃないと
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■ 1.物語とは知覚信号の解釈
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十一月に入って、晴天の日がつづいています。

もっとも、この身体が生息している近辺のことですけどね。

みなさまのところは、いかがですか?

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

現れの世界に関するかぎり、大宇宙にひとりとして同じ存在はいな
いのでしょうね。

その筋の“担当者”に確認したわけでもありませんが。(^_-)

また、たとえ確認したところで、その確認相手の担当者が提供する
説明と証拠を信じなければ、それまでの話です。

いま、ふっと思い出したんですが、小学生のころ布団のなかで、こ
んなバカなことを熱心に考えたことがあります。

それは、敢えて大人っぽい言葉に置き換えるなら、“科学の妥当性”
とでもいうようなことに関する疑問でした。

つまり、こんなことを思ったんです。

明日もし太陽が西から昇ってきたら、その太陽は“間違っている”
といえる根拠が、人間にあるだろうか?、という疑問でした。

なんでこんなバカげた疑問を思いついたのか。

もしかして、「それでも地球が太陽を回っている」と、ガリレオが
言ったという話を、はじめて読んで興奮したのかもしれません。

うむ、思うに、たぶん、そうかもしれない。(-_-;)

なぜなら、そのとき到達した結論がこうだったからです。

もし錯覚でもなんでもなく事実として太陽が西から昇ってきたら、
人間はその事実を否定することはできない、だったからです。

だって、事実、太陽が西から昇ってきたわけですから。

人間はその事実にあわせて、自分の科学体系を修正せざるをえない
はずです。

今まで東から昇っていた太陽が、ある時から西から昇りはじめたと
いう事実を、包摂できる科学体系を再構築しなければならない。

科学は、観測された感覚的事実を、否定できない。

観測された感覚的事実を、説明する体系が科学ですから。

脱線しましたが、現れの世界のどんな事実が問題になろうと、それ
は感覚的刺激からどのような物語を作るか、ですよね。

現象世界は知覚と記憶によって構成されるもの。

物語とは知覚信号の解釈から生まれるもの。

もちろん、物理的事実に基づく科学的物語もあれば、感情的物語も
あるだろうけど、すべては知覚に由来するわけでしょう。

その知覚を保証する多様多彩な身体が提供され、その身体に乗れば
(自己同化すれば)無限の物語バリエーションが自動展開する。

中間では見かけ上の“仕掛け”の大きな物語が展開しても、最初と
最後は必ず身体にまつわる感覚的物語です。

最初は楽しく、最後は苦く。

まあ、例外はそれこそ掃いて捨てるほどあるでしょうが。

かくて宇宙は意識の大海として、絶えず新たな身体を無数の波しぶ
きのように打ち上げながら、飽くことがないのでしょうね。

個々の波しぶきは、それぞれのDNAと条件づけの指示にしたがい
発生しつづける環境に応じた一場の画像と感覚的刺激を展開する。

その有機物の見かけの展開に随伴して参照点が誕生し、その見かけ
の変化を物語として紡いでいく。

そして、その有機物が崩壊に合わせて、その参照点も拠り所を失っ
て雲散霧消するのでしょう。

宇宙はすべて大小様々なサイクルで構成されているのでしょうね。

大は宇宙の誕生と消滅から、小はその中のごくごく小さな有機物の
形成・成長・解体に至るまで。

それこそ無限のサイクルが包含されているでしょう。

それぞれの身体から誕生する参照点は、その定められた生涯のなか
で、自らの存続を願ったり、滅亡を恐れたりするのでしょう。

大宇宙の内部は、すべて緊密に織り込まれ相関していて、いかなる
部分もそこで独自に、独立した生涯を営むことはできない。

でもまた、そこでは誰もが、自分が独立して生きていると思いこん
でいて、いろいろ期待や悩みや苦しみを創出しているのでしょう。

ここは壮大な意識の“遊び場”、意識の“大実験場”なのかもしれ
ません。

でもまたそこには、意地悪くそんな実験をしている“誰か”がいる
わけでもない。

もしそんな“誰か”がいたとしたら、そんな“誰か”もまた、この
壮大な“遊び場”の一点景でしかないでしょうから。

その現れのなかには、じつは“誰”もいないのでしょうね。

でもやっぱり、見かけとしては個々の生命が誕生し、それを見守り
育てる意識が現れ、つぎつぎに誕生と消滅を繰り返している。

文脈を持つ物語のなかでは、立派な行為もあれば、見苦しい行為も
あるでしょう。

現れの世界のなかでも、形態の区別に囚われた想念は卑しく見え、
形態の区別を超えた想念は美しく見えるのかもしれません。

でもそれもまた、現れの世界の中のひとつの観点、ひとつの文脈、
ひとつの物語にすぎないのかもしれませんし。

すべてはただ、あるがまま、ただの見かけにすぎないのでしょう。

で、気がついてみれば、やはりそこには子供たちがいて、お母さん
たちがいて、いつの間にか自分もいるのかもしれません。(^^;)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
                     『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
                   『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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       ………○…………○…………○………


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■ 2.ボブさんの言葉:【あらゆることはひとりでに起こる】
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今回も……ボブさんの無断翻訳を……つづけます。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

ボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれて……今は著者のジェー
ムズ・ブラーハの家に滞在しています。

7月30日に行われた、ボブ、アン、ヴァスティ、ジェームス、ケリー、
エメット、デルの会話の一部です。

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 【あらゆることはひとりでに起こる】
 
 アン ですから、私が計画していると……。
 
 ボブ
 計画はできるでしょうが、そこに計画する人はいません。
 
 バーバラ 自分が好きなように何でも計画してもいいの、でもそ
      れに執着しないことね。
 
 アン 分かります。
 
 エメット ボブ、私たちはどこから動機を引き出すのでしょう?
 
 ボブ
 心臓を鼓動させたり髪の毛を伸ばしたりするのに、あなたは何か
 動機を必要としますか?
 まあ、それが思考にも拡張されるわけです。
 思考は起こります、すると自分は思考する者だと私たちは思うの
 です。
 あらゆることは独りでに起こるのです。
 
 バーバラ すべてはただ起こっているだけなの。悟りを求めてい
      る人もいれば、そうでない人もいます。でもそれは、
      ただ起こっているだけです。実際は何ひとつ他の何か
      より良いわけではありません。
 
 アン あの、私はいわゆるネガティブな思考に目を向けて捕まえ
    るのがとても上手になったんです。でもそれを捕まえてい
    るのは「自分」でした。今日あなたが教えているのはそれ
    とは別のことです。そこには思考がポジティブだとかネガ
    ティブだとかいう判断がありません。
 
 ボブ
 ただあるがままです。
 
 ケリー 最初あなたが思考を持っていたとき、それは特定の参照
     点からのものでした。それから、いわゆるネガティブな
     思考を捕まえはじめたとき、あなたは二番目の参照点を
     もちました。では、二つの参照点を持っているあなたは
     より良いのでしょうか? そう言うのは誰でしょう? 
     しかし非二元の理解が起こるとき、それは追加の参照点
     ではないのです。私のアドヴァイタンの友人は、幼いこ
     ろサンタクロースがいないのを知ったときの話をします。
     彼は、両親がツリーの下に贈り物を置くのを見ました。
     それが起こったとき、彼のサンタクロース信仰は壊れま
     したが、でも別の参照点がそれに代ることはありません
     でした。サンタクロースはいないのだと自分に思い出さ
     せつづける必要はありませんでした。最初の概念がなく
     なると、サンタクロースに関する概念はないままです。
     正しいですか、ボブ?
 
 ボブ
 ええ、それはかなりいいです。
 
 ケリー かなりいい? ああ、じゃ「Bマイナス」でしたか? 
 
 ボブ
 誰が知りたいんですか?[みんな笑う]
 
 ケリー [ふざけて]グルの陰険です。陰険が起こっています。
 
 ボブ
 さらなる概念です![みんな笑う]
 
                 『Living Reality』(p262-263)
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(-||-)

ボブさんは、別のところで“空の青さ”や“海の青さ”の話をして
いました。

つまり、海に“青い色の水”があるわけではないと知ってからも、
やっぱり海は青く見えると。

“自分”という実体が存在しないこと、それは想像された話にすぎ
ないと知ってからも、やはり“自分”はいるような気がする。

でも、事実は、海に“青い色の水”が存在しないのと同じように、
“自分”という実体は存在しないのだ、と。

ボブさんの説明は、そうでしたよね。

ケリーの友人のアドヴァイタンが語ったという話はどうでしょう。

“サンタクロース”はいない、とわかってしまったら、もう二度と
“サンタクロース”がいるという信仰は蘇らなかったという話。

これは、ほぼ万人に共通する体験であり、ほぼ万人に通用する説明
のような気もします。

それにもかかわらず、ほぼすべての大人が“サンタクロース信仰”
は卒業していても、“自分信仰”は卒業していない。

もし“自分”(という実体)は存在しない、それは“自分”という
つかの間の思考にすぎない、とわかってしまったら。

それで二度と再び“自分信仰”は蘇らないでしょうか?

なかなか、“サンタクロース信仰”が崩壊したように、見事には、
“自分信仰”は崩壊しないかもしれない。

でも、価値観はずいぶん崩壊しますね。

なぜか、努力はだんだん難しくなる。(^_-)

やっぱり、根っこのところで、エゴがやられているんだろうと思い
ます。

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 ここで語られた真理は不動の、永遠のものだ。
 そしてその証拠は聞き手のなかに、彼の存在全体における深い永
 続的な変化のなかにあるのだ。
 彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、その証拠は彼が疑えるよ
 うなものではない。
                     『私は在る』(p376)
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(-||-)


       ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:エネルギーの、葛藤、戯れなのかも
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結局、理解というのは、何者かでありたいエネルギーと、何者でも
ありたくないエネルギーの、葛藤、戯れなのかもしれませんね。

有機体の形成にともなって誕生する若いエゴは何者かでありたい。

有機体の崩壊に直面せざるをえない老いたエゴは、何者かであると
いう責任や努力から逃れたい。

あからさまに言ってしまえば、それだけのことかもしれません。

その路線に沿って、いわゆるスピリチュアルと評されるような意識
の“理解ゲーム”が演じられる。

むろん、理解する“誰か”がいるわけではない。

でも、その“誰か”がいると仮想する想念の配達を受け取っている
間は、心配と苦しみとわずかの喜びのドラマが演じられる。

その想念に、さほどの価値が感じられず、それがただ観られるよう
になると、ドラマの解体も遠くはないのかもしれません。

そして、すべてはただ起こっている。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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