home > 通信 >『アセンション館通信』第505号:冬枯れの野の大根やネギが



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2013/12/08(第505号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

実在するのはただ不垢不浄不増不減の永遠の<今・ここ>のみ。

自分の想像以外は何も困難をもたらすことはできない。ただそうい
う想像の物語のなかの誰かであることへの興味を断ちがたいだけ。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在863名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.冬枯れの野の大根やネギが

2.ボブさんの言葉:【五感を広く開いて生きる】

編集後記:午後はコンピュータをもって出かけなくちゃ。
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この季節の、つまり初冬の晴天の朝のこの空気感……。

なぜかふっと、昔インドに行った時の朝の感じを思い出しました。

こういう感覚的体験に、別に意味というものはありません。

ただ、それがある新鮮な情緒だというだけでしょうね。

もちろん、意味という言葉の使い方にもよるでしょうが……。

ただ“それだけのもの”、そのあるがままが、色々なふうに汚れて
いくのでしょうね。

「意味」や「目的」といった不純物が醸成され、やがて「価値」や
「効率」といった概念を生むところまで堕ちていくのでしょう。

汚れれば汚れるほど、命は苦しくなるわけでしょうね。(-_-;)

は、なんのこっちゃ。(^_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

若いころ、一種の生命的ピンチ状態から脱したときに読んだ文章を
思い出しました。

岡潔さんの『春風夏雨』という本の中の一節でした。

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  生命というのは、ひっきょうメロディーにはほかならない。
  日本ふうにいえば“しらべ”なのである。
  そう思って車窓から外を見ていると、冬枯れの野のところどころ
  に大根やネギの濃い緑がいきいきとしている。
  本当に生きているものとは、この大根やネギをいうのではないだ
  ろうか。
  
  医者に、生命とは何か、何をもって生きているとするのかと聞い
  ても、医者はわからないと答える。
  これは聞くのが無理なので、医学は物質科学であって、決して生
  命のことを扱っているのではない。
  生命に非常に関係が深いと思われているもの、たとえは心臓の鼓
  動や脈博は、生命に随伴した物質の現象にすぎない。
  私たちは物質現象にすぎないものを間違って生命と思ってきたよ
  うである。
  「生きている」という言葉を学校で教えるときに“ミミズが生き
  ている”などという例をあげるのが間違いなので、あれは物質の
  運動にすぎない。
  冬枯れの野の大根やネギが生きているというのが本当なのである。
  
                    『春風夏雨』(p14-15) 
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たぶん、命に飢えていたのでしょう、この岡潔さんの不思議な言葉
が真実であることに、まったく疑いは起こりませんでした。

岡潔さんは数学者ですが、もしまた命を得ることがあったら、今度
は宗教をやりたい、とおっしゃっていました。

ある単純な情緒、ただそれだけになった瞬間の体験がその後の人生
の“生きている”という実感の参照点になるのかもしれませんね。

たとえば、pariパターンの場合で言えば、北海道ではじめて体験さ
れた台風一過の朝などが、それに当たるのでしょう。

すると、それを基準にして、そこに戻りたいという衝動のようなも
のがそれ以後の人生の通奏低音のようなものになる。

pariパターンの場合は、そののち

    <何故にすべては始まってしまったのか?>

といったような概念が、エネルギー集積の“核”みたいなものにな
ったということでしょう。

pariパターンの人生とは、この概念として代表されるようなカルマ
の弾道を描くことだったのかもしれませんね。

    <何故にすべては始まってしまったのか?>

すると、別に何も始まってはいないよ、という答えに突き当たる。

あなたは、たった今、その夢を紡いでいるのだ、と。

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 質問者 夢はいつはじまったのでしょうか?
 
 マハラジ
 それにははじまりがないように見える。
 しかし、事実はたった今だ。
 一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
 しかし、あなたは見ない。
 なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。
 いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと
 一心に願う日がやってくるだろう。
 その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うこと
 だ。
                     『私は在る』(p525)
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そうか……。(-_-)

ここで「興味」という概念が、新しい意味を帯びてきます。

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 質問者 私にはまだ理解できていません。解放への道に何も立ち
     はだかっていないのなら、なぜそれは今ここで起こらな
     いのでしょうか?
 
 マハラジ
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞
 賛の誤りであることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければ
 ならないのだ。
                     『私は在る』(p475)
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(-||-)

そうなんですねぇ。

そして、ラマナ・マハルシの「幸福とは何でしょうか?」に出会う
ことになるわけですね。

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 24 幸福とは何でしょうか?
 
 幸福とは真我の本性そのものである。
 幸福と真我は別のものではない。
 世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
 われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思って
 いる。
 心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
 心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻って
 おり、真我である幸福を楽しむのである。
 同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得
 たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去っ
 たりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我―幸福を楽し
 むのである。
 このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、
 また戻ってくるということを繰り返している。
 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと
 感じる。
 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻
 ってくるのは愚かなことである。
 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
 同じように、真理を知る人は、ブラフマンを離れることはない。
 その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い
 歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は平和
 を体験する。
 世界が現れると、不幸を味わうのである。
 
                 『あるがままに』(p404-405)
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(-||-)

そして、このことの理解の前に、カルマはカルマとしてそのエネル
ギーを燃やし尽くさなければならないのでしょう。

生命はただ探求を続けているから。

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 探求者は消え去るが、探求は続く。
 探求は究極であり、永遠の実在だ。
                     『私は在る』(p241)
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そうなんですねぇ。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
                     『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
                   『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 2.ボブさんの言葉:【五感を広く開いて生きる】
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今回も……ボブさんの無断翻訳を……つづけます。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

ボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれて……今は著者のジェー
ムズ・ブラーハの家に滞在しています。

7月30日に行われた、ボブ、アン、ヴァスティ、ジェームス、ケリー、
エメット、デルの会話の一部です。

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 【五感を広く開いて生きる】
 
 エメット ボブ、私たちはみんな「悟る前は、薪を割り水を運ぶ。
      悟っても、薪を割り水を運ぶ」という表現を聞いたこ
      とがあります。しかしその薪を割り水を運ぶやり方の
      何かが変化するわけですよね?
 
 ボブ
 悟る前は、人生はすべて「自分」にまつわるものでした。
 「今日は薪を割らなくちゃならないけど、やりたくないな。難儀
 な仕事だ」とか、「なぜ私がこの薪を割るんだ? 他のやつの番
 じゃないか」といったようなことです。
 悟ってからは、それはすべてただなされます。
 それは出来事です。
 何の配達を受け取る者もいません。
 それに関心をもつ者がいません。
 精神的感想はすべて消えます。
 
 ヴァシティ ボブ、あなたは人格が脇にどけると、五感が適切な
       場所を担うことができる、とおっしゃいました。
       五感が広く開いていると、それらはより平等にまた
       完全に機能すると。だから、人がもし五感を広く開
       いた状態で薪を割り水を運ぶなら、その行動の体験
       は別のものに、つまりもっと豊かになる、と。
 
 ボブ
 行為は努力のないものになるでしょう。
 注意は物事全体に向けられるでしょう。
 五感すべてに均等な注意が向けられることになります。
 聞くこと、見ること、味わうこと、匂いをかぐこと、触れること
 が均等になるはずです。
 人々がしていることは、注意を等しく分かつのではなく、非常に
 多くの注意を過去、現在、未来の関心、といった精神的機能に向
 けることです。
 もし五感が均等に機能していたら、問題はけっして起こりません。
 鍵の穴から見ることを想像してください。
 あまり多くは見えません。
 しかしもし扉や壁をすべて叩き落としたら、自分が処理している
 ものの全体像を見ることができます。
 
 ヴァシティ だから自分の感情がつつきまわされないわけですね。
       「わあ、今日は上手く薪が割れた感じがする。明日
       も今日みたいな感じだといいな」といったふうに。
 
 ボブ
 そうですね。
 すべてはその瞬間のあるがままです。
 もしいいなら、それはいい。
 明日のことは明日に任せます。
 あなたはやはり聞き、味わい、匂いをかぎ、触り、見ることでし
 ょう。
 未来を予想したり想像したりといった、思考部分には入りません。
 また記憶のなかにも戻っていきません。
 あなたのエネルギーはすべて全般的なものです。
 仏教徒には「五感を広く開いて、完全に目覚めていなさい」とい
 う言い方があります。
 また彼らは「注意を固着させず、完全に開いていなさい」とも言
 います。
 どんなものにも固着しないのです。
 
 ヴァシティ そういう注意は子供の注意のようなものだと言えま
       すか? もし子供が薪を割っていたとしたら、子供
       たち使っているのは固着しない注意でしょうか?

 
 ボブ
 ええ。
 理性が分離の感覚をもたらすまでは、小さな子供は自然な状態に
 います。
 そしてその分離があらゆる「主義」を生じさせます――資本主義、
 理想主義、無神論、共産主義といったすべてを。
 それらはすべて「自分」と他者という考えによって誘発されます。
 「自分」や他者がいなければ、すべてはただあるがままです。
 
 ヴァシティ では、もし子供と大人が両方とも五感を広く開いて
       いたら、結果が異なるのは、大人がもっと多くのこ
       とを成し遂げられるという意味だけですか?
 
 ボブ
 ええ、大人はより多くの能力を持つでしょう。
 
                 『Living Reality』(p265-266)
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(-_-;)

ふーむ。

「五感を広く開いて生きる」と聞くと、手も足も出ないような。

まあ、起こることしか起こらないので、仕方がありません。

(-||-)


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:午後はコンピュータをもって出かけなくちゃ。
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コンピュータがとても不安定になっています。

今日は土曜日だから、直しに行かなくては。

お昼が鳴ったので、今日はここで早めに切り上げます。

午後はコンピュータをもって出かけなくちゃ。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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