home > 通信 >『アセンション館通信』第514号:見守る者の反映



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2014/2/09(第514号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

実在は概念ではなく、概念の顕現でもない。概念は実在しない。
概念はただ“見かけ”の解釈のなかにのみ現れる。

実在は、“見かけ”の発現を可能にし、解釈の発現を可能にする。
“見かけ”と解釈のなかで迷子になると、苦楽の海に溺れる。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在861名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.見守る者の反映

2.ボブさんの言葉:【意識のないピラミッドはイメージできない
        (または、時間は存在するようにみえるだけ)】

3.編集後記:テレビではソチ・オリンピックの映像が
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■ 1.見守る者の反映
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皆さんのところもそうでしょ、今日は白で覆われた世界です。

上を見れば、灰色一色……。

激しくはないですが、雪が降りつづけています。

ゆきがふる……♪ (-_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

マインドのなかには、回想という音色があります。

回想というのは、むろん、ある意味では、フィクションです。

今のなかのある位置が、今のなかの別の位置を思っているわけです
から。

実在は、その虚構に関与してはいないでしょう。

というか、実在はいっさいの虚構に関与していないでしょう。

でも、それは実在が許している虚構とは言えるかもしれません。

間違いなく、実在なくしてその虚構はありえない。

その意味では、実在がその虚構を可能にしているわけです。

そして、その虚構を根拠に、ドラマは生きているわけです。

ドラマが生きている、と言うとき、われわれはもちろん、ドラマの
なかの個々のキャラクターが生きているのだと思う。

個々のキャラクターが生きているからこそ、ドラマが成り立つわけ
ですから。

それはそうなのですが、その当然の前提を、ちょっと疑ってみるく
らいのことはしてもいいかもしれません。

なぜなら、何も疑わずに真面目にドラマを生きていても、その結果、
何故にそのドラマがあるのかを疑うような事態も起こるからです。

これは不思議なことではないですか?

ドラマの登場人物が、どうしてそんなドラマがあるのかを疑問に思
っているんですよ。

たとえばの話、ある漫画のなかでドラマが展開され、その主人公が
何のためにこんな苦しみがあるのか、と叫んだとします。

ちょっと考えてみてください。

その主人公のなかに彼のその叫びの根拠があるでしょうか?

漫画のなかのペンで描かれたその画像が、どうやってそんなことを
発想できるでしょうか?

たとえば、最近小学校で“閉架にするか開架にするか”で話題にな
った『はだしのゲン』という漫画があります。

この主人公の中岡ゲン少年が、たとえば「なんでこんなことがある
んじゃー!」と天を呪った場面があったとしましょう。

漫画に完全に夢中になった小学生の子供には、まるでゲン少年がそ
の言葉を叫んだとしか思えないかもしれない。

しかし通常の大人が読めば、ゲン少年のその言葉は作家中沢啓治氏
が作っている台詞だという意識がつねにあるでしょう。

漫画のなかのペンで描かれたその画像が、その言葉を発想し、叫ん
でいると思う人はいません。

そこまでは、大人なら誰にとっても自明のことです。

上で「何も疑わずに真面目にドラマを生きていても、何故にそのド
ラマがあるのかを疑うような事態も起こる」と書きました。

このメルマガを読んでくださっている方なら、自分の体験にもそう
いうことはあった、と思われる方も少なくないかもしれません。

もう、何度も書きましたが、このpariパターンにもそういう体験が
起こりました。

     <何故にすべては始まってしまったのか?>

と……。

これは不思議なことではないでしょうか?

こんなことを、ドラマの登場人物が発想するなんて、ありうること
だと思いますか?

漫画『はだしのゲン』の場合は、ゲン少年の台詞はすべてペン画の
画像からではなく、作家の中沢啓治氏のなかから生まれています。

じゃあ、pariパターンの

     <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問は、pariパターンを構成しているある時期の肉体のなか
から発生したものでしょうか?

もちろん、ご存知のとおり、世間の常識はすべてその線でまとまっ
ています。

そうでなければ、すべての作家は著作権料をもらう根拠を失ってし
まうでしょう。(^_-)

『カラマーゾフの兄弟』のイワンの台詞は、作家ドストエフスキー
の頭のなかから出てきたということになっています。

別にそれを否定しようとは思いませんが。

『カラマーゾフの兄弟』のイワンの台詞は、神が作家ドストエフス
キーに書かせた台詞だ、と言おうというのではありません。

でも、でもですよ。

禅語で「臭皮袋(しゅうひたい)」“臭い物を入れる皮袋”と言わ
れるこの肉体に、

「何故にすべては始まってしまったのか?」

なんて、そんな洒落た台詞を思いつけるでしょうか?

なかでも極めつきの台詞は、言わずと知れた、

「私は誰か?」、あるいは「私とは何か?」です。

こんな台詞を、この身体が思いつけますか?

いえ、この身体のことを悪く言うつもりなんかありませんよ。

ただ、この身体のなかで本当に生きているのは身体そのもじゃない、
ってことは、これはもう間違いのないことだと思うんです。

漫画のなかのペン画の画像も、映画のなかの登場人物も、ある意味
では同じことですよね。

要するに、形をもって現象として現れているもの、ってことです。

以前、いつもお世話になっているヒロさんのサイトで、とても秀逸
な表現に出会ったことがあります。

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 映画で通りのシーンがスクリーンに映っていると想像してくださ
 い。
 「私」を探求することは、映画の中で登場人物が通りを行ったり
 来たりしてスクリーンを探しているのと似たようなものです。
 
 「私は在る」について ルパート・スパイラ
 http://resonanz360.com/2011/01/02/
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これはもう、見事としか言いようがない。\(^-^)/

とは言え、その半面、現象として顕現しているわれわれ、つまり、
映画のなかの登場人物が、自分探しをしているのも事実です。

じゃ、その“自分探し”は、漫画『はだしのゲン』で言うなら、な
かの中岡ゲン少年(ペン画の画像)がしているのでしょうか?

いやー、それは、いくらなんでも、ありえない。(^_-)

中岡ゲン少年(ペン画の画像)の台詞が、漫画家中沢啓治氏による
ものなら、pariパターンのこの文字を書いているのは……。

まあ、言わぬが花かもしれません。(^_-)

でも、まあ、こういうことは言えます。

現象構造体のなかでpariパターンは、創造者としての「神」を立て
る文化伝統には、それほど親和性を感じていません。

だから、ニサルガダッタが

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 私は永遠について語っている。
 神と宇宙は来ては去っていく。
 アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎ
 つぎと現れ、最終的に私たちは源に帰っていく。
 私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在、そして未来の時間を
 超えた源についてのみ語っているのだ。 

 『私は在る』(p141)
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と言うのを聞けば、そうか「神」というのは「宇宙」との相対概念
なのか、と納得してしまいます。

ならば、ひとつの宇宙が滅びたら、その宇宙を主宰していた神もま
た忘却の彼方に消えてしまうわけだ、と。

まあ、そんな言葉のほうに事実性を感じてしまうんですよね。

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 個人とは単なる誤解の結果だ。
 実際には、そのようなものはないのだ。
 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡
 を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け
 抜けていく。
 マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり
 出し、個人は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
 実際には、個人というものは存在しない。
 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
 
 『私は在る』(p360)
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……。

だから……そうなんですよね。

pariパターンのなかで、またはpariパターンを使って書いているの
は、pariパターンに自己同化した見守る者の反映でしょう。

その見守る者の反映が、pariパターンに親和性を感じている間は、
ラメッシ・バルセカールが言う「聖なる催眠」は健在です。

そして、その見守る者の反映が、pariパターンに自己同化すること
に興味を失ったら、それはやがては解体するしかない。

もともと実体のあるものではないのだから。

単なる概念的な構築物です。

それ自体の理解のなかで、それがでっち上げにすぎないことが自明
になってしまえば、放っておいても消えていくでしょう。

pariパターンに自己同化しているのは、見守る者の反映です。

見守る者の反映が興味を失ったら、pariパターンという顕現波動は
まわりの波動と融合していくだけでしょう。

見守る者の反映がその渦の中心を失って、自己解体したら、実在す
るのが見守る者だけであることが自明になるのでしょう。

反映にパワーを供給していたのは見守る者であり、それはモノでは
ない。

強いて言うなら、それは現れの世界では無なのだと思います。

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 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という
 実体から解放されることなのだ。
 
 『私は在る』(p361)
------------------------------------

はい。(-_-)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
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ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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■ 2.ボブさんの言葉:【意識のないピラミッドはイメージできない
        (または、時間は存在するようにみえるだけ)】
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今回も……ボブさんの無断翻訳を……つづけます。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

ボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれて……今は著者のジェー
ムズ・ブラーハの家に滞在しています。

以下は第六章に集められている週末トークからの翻訳です。

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 【意識のないピラミッドはイメージできない
  (または、時間は存在するようにみえるだけ)】
 
 訪問者 すべてが一体性であるなら、そこに判断はありません。
 
 ボブ
 その通りです。
 ごく幼い年齢で私たちの分離の感覚がはじまり、私たちが全体に
 なろうとしはじめたとき、それが神という観念がやってきたとき
 です。
 それが、将来いつか天国と呼ばれるところで玉座にいる誰かの隣
 に自分が座る未来という想像、つまり概念的イメージでした。
 そして私たちは復活を想像します。
 あるいは、私たちが東洋人なら、生まれ変わりを信じます。
 これはすべて、未来という時の投影です。
 そう、古の人たちは遥か昔から私たちに、存在は遍在である、と
 語ってきました。
 それは時間を超越しています。
 過去も未来もありません。
 「もし私がそれを考えなければ、過去や未来はあるだろうか?」
 と自問することです。
 
 訪問者 では、ピラミッドや5000年前のローマ人やエジプト人に
     ついてはどうですか?
 
 ボブ
 彼らがあなたに対してもっている実在は、あなたが彼らを思いだ
 している今にしかありません。
 それが事実ではありませんか?
 
 訪問者 しかし私が彼らを見ているときは……。
 
 ボブ
 しかしあなたは今彼らを見ていません。
 それは記憶にすぎません──あなたのマインドのなかの観念です。
 あなたは20億光年の彼方について話すことができます。
 しかしあなたがそれを語っているときは、たった今です。
 何らかの参照点によって分割しなければ、あなたは時間や空間を
 もつことはできません。
 
 訪問者 では、私がピラミッドを見るときは……?
 
 ボブ
 今この部屋のなかを見ると、すべては何のなかに包含されていま
 すか?
 
 訪問者 空間です。
 
 ボブ
 そうです。
 気づきのなか、あるいは意識のなかです。
 では、その意識または気づきのなかに、エジプトのピラミッドも
 含まれているのではありませんか?
 
 訪問者 はい。
 
 ボブ
 それらは思考としてあなたに現れています。
 その実体はここにはありません。
 そしてあなたのもとにある意識には始まりがありますか?
 
 訪問者 それはたった今です。
 
 ボブ
 それには始まりがありません。
 それには終わりがありません。
 あなたは、ピラミッドが存在しなかった時、あるいはそれが存在
 しなくなる時を、想像することはできます。
 しかしその想像することは、たった今の気づき無くしては起こり
 えなかったでしょう。
 そしてその気づきには、どんな実体もありません。
 それはマインドが把握できるモノではありません。
 ピラミッドは何らかの形であり──それらは何らかのモノです。
 
 訪問者 歴史的には、ピラミッドは5000年前に存在しました。し
     かしあなたは5000年前というものはないと言います。そ
     こには思考しかないと。私が過去5000年間に起こったこ
     とを考えると……。
 
 ボブ
 これは驚きました。
 時間には参照点が必要ですが、時間には参照点がありません。
 時間はいつ始まりましたか?
 
 訪問者 では、過去のものはすべてただ私たちのマインドのなか
     にしかないのですか? 歴史は私たちに過去があったと
     教えます。あなたは時間はないと言う。では、すべては
     幻想なのですか?
 
 ボブ
 それはすべて見かけです。
 外に出て空を見てください。
 あなたは今日の空と昨日の空を識別できますか?
 あなたは今の空間を5分前の空間と識別できますか?
 そこには参照点がありません。
 あなたはそれをどこから測るつもりですか?
 私たちの参照点はつねに無根拠なのです。
 あなたの参照点は、ただあなたが自分で持っているイメージです。
 時間の概念は私たちが住んでいる見かけのなかでは役に立つでし
 ょう。
 しかしだからといってそれが真実だというわけではありません。
 
『Living Reality』(p286-287)
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> それはすべて見かけです。

はい、と言えるときばかりでもないけど。(^^;)

> 外に出て空を見てください。
> あなたは今日の空と昨日の空を識別できますか?

記憶を参照するか、壁の暦を見るか、モニターの右下でも見ないか
ぎり、見ただけで識別はできません。

> あなたは今の空間を5分前の空間と識別できますか?

いや、見ただけではとても無理です。

> そこには参照点がありません。

ありません。

> あなたはそれをどこから測るつもりですか?

そうか……。

> 私たちの参照点はつねに無根拠なのです。

はい。

> あなたの参照点は、ただあなたが自分で持っているイメージです。

なるほど。

> 時間の概念は私たちが住んでいる見かけのなかでは役に立つでし
> ょう。

はい。

> しかしだからといってそれが真実だというわけではありません。

わかります。

社会全体が認めているからといって、単なる便宜上の概念が真実に
なるわけではない。

ですよね。

わかります。

(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

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るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:テレビではソチ・オリンピックの映像が
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今日は一日、雪ですね。

こんなに風の音まで聞こえてきて。

このところ何年も、こんなことはありませんでした。

テレビではソチ・オリンピックの映像が流れています。

これも、この宇宙の一つの画面として用意されていたのでしょう。

この画面と、この気分が……。

灰色の空から降ってくる雪。

今の画面はそれだけ。

じきにそれも昏くなっていくようです。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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