home > 通信 >『アセンション館通信』第518号:死に関する二つの想像



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2014/03/09(第518号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

実在は概念ではなく、概念の顕現でもない。概念は実在しない。
概念はただ“見かけ”の解釈のなかにのみ現れる。

実在は、“見かけ”の発現を可能にし、解釈の発現を可能にする。
“見かけ”と解釈のなかで迷子になると、苦楽の海に溺れる。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在865名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.死に関する二つの想像

2.ボブさんの言葉:【内容物は目覚めの状態の上で起こっている】

3.編集後記:枯れ木なんて、そりゃ褒めすぎでしょう。(*-_-*)
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■ 1.死に関する二つの想像
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春になって、今日は雲ひとつない晴天です。

ありがたいことです。(-||-)

わたしは在る。

その他は現れているだけ。

なんと単純な。

まるでバカみたい。\(^-^)/

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

馬鹿のひとつ覚えで、私は在る、その他は現れているだけ、としょ
っちゅう思いだすようになると、なんか話は単純ですね。

存在意識はたしかに在って、この感覚(というか事実)を否定する
ことはできない。

ニサルガダッタが言うように、否定すれば、その否定自体が、それ
を否定する何か(自己)が在ることを証明するわけですから。

この「在る」ということ、「知る」ということ、この働き(または
エネルギー)は、意識していようがいまいが、在ります。

と同時に、この「在る」という働き、「知る」という働きが、厄介
な問題になりうる、という思い込みもまたあります。

何も存在しなければ良かったのにとか、死んでしまいたい、とか。

これは、死んだらすべてから開放される、死んだら完全な空無にな
る、という思い込みがあるからでしょうね。

でも、どうかな、ボディを離れたからといって、それだけで完全な
空無になれるものかしら。

そんなことは、考えてわかるということじゃないかもしれない。

でも、よく考えれば、わかることもあります。

つまり、ボディを離れたらそれだけで完全な空無になれるのなら、
われわれは完全な空無から現れたことになる、ってことです。

あるいは、ボディを離れても完全な空無にはなれないというなら、
死んでもやっぱり何らかの現象はついてまわる、ってことです。

で、この二つの想像を、よくよく考えてみます。

この上に述べた二つの状況というのは、一見、まったく背反する、
別の状況のように思われます。

1)ボディを離れたら完全な空無になれる
2)ボディを離れても完全な空無にはなれない

これだけ見れば、正反対で、完全に背反しています。

ところが、上述の二つの文章の後半だけを並べてみます。

3)われわれは完全な空無から現れた
4)死んでもやっぱり何らかの現象はついてまわる

この二つの文章、微妙に意味深だと思いません? (*^_^*)

ちょっとこの二つの文章を微修正してみましょうか。

3)(見かけの)われわれは完全な空無から現れている
4)死んでもやっぱり何らかの(見かけの)現象はついてまわる

(@_@)

これ、まったく矛盾も背反もしてないじゃないですか。

つまり、こちら(の生の)側からは見えない、向こう(の死の)側
に想定した状況はまったく背反しているはずなのに……。

見えるこちら(の生の)側での対応する状況は、完全に両立しうる
わけです。

これは、他人が“死ぬ”のは見たことがあるが、自分が“死ぬ”の
は見たことがない、という事実とどこかで共鳴しているかも。^^;

さらには、“死”は存在しないという覚者たちが伝える事実と遠く
共鳴しているかもしれません。

まあ、ボディに自己同化したわれわれには、ボディを失った状態の
ことは単なる想像にすぎません。

でも、これぐらいは言えそうですね。

つまり、

1)ボディを離れたら完全な空無になれる   と想像しても、
2)ボディを離れても完全な空無にはなれない と想像しても、

別に、何も違わないということです。

だって、身体が死んだら、その身体としては完全に消失するでしょ
うよ。^^;

ボディを離れたら(そのボディとしては)完全な空無になれる。

当然です。

ただ、形を変えているだけど。(^_-)

また、ボディを見ている「私」は、ボディを離れても完全な空無に
雲散霧消するはずもないわけです。

これも当然。

まあ、そんな心配に基づいた憶測などどうでもいいんですよね。

たった今、否定できないことがひとつだけある。

それは、「私は在る」ということです。

そして、その「在る」「私」は、完全な空無のなかから突然現われ
たりはできない。

これは<永遠の今>であり、不生不滅です。

想像の奴隷になったエゴが何を心配しようが、そんな想像とは関係
ない永遠の常在です。

これを盤珪禅師は、<不生の仏心>と言われたはずです。

「在る」という働き、「知る」という働き自体は、何の問題も引き
起こしてはいないわけですよね。

「私は在る」が厄介な問題になるのは、この単純な「私は在る」が
「私は“何か”だ」になったときにかぎる。

そうなると、その“何か”は宇宙構造体にその一部として組み込ま
れるわけですから、自由ではなくなります。

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 客観的な世界には構造があり、秩序をもち、美しいものだ。
 誰もそれを否定できない。
 だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示している
 のだ。
 
 『私は在る』(p305)
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「私は“何”だ」と言ったとたん、宇宙幻想劇場の木戸口で下足札
をもらって、代わりに「自由」は置いてくることになる。

ただし、単なる“思い込み”で。

だから、どんな画面を見ていても、ただ現象(またはその解釈であ
る想念)に注意を払うのをやめたら、それだけで自由に戻る。

------------------------------------
 あなたは世界のなかにいるのだろうか、それともあなたのなかに
 世界が在るのだろうか?
 あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、
 世界が知覚されていないことを認めるに違いない。
 その世界はあなたが目覚めるときに現れる。
 では、それはどこにあるのだろうか?
 明らかに世界はあなたの想念なのだ。
 想念とはあなたが投影したものである。
 はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。
 世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。
 そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造
 の謎も解明されるのである。
 それゆえ、私は言うのだ。
 「真我を探求しなさい」と。
 
 『あるがままに』(p323) 
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(-||-)

こんなにも、わかりやすいことをおっしゃってたんですね。

> あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、
> 世界が知覚されていないことを認めるに違いない。

間違いありません。

> その世界はあなたが目覚めるときに現れる。

はい、今日も現れました。(^^;)

> では、それはどこにあるのだろうか?

(-_-)

> 明らかに世界はあなたの想念なのだ。

ああ。

> 想念とはあなたが投影したものである。

そうか。

> はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。

(-_-)

> 世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。

はい。

> そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造
> の謎も解明されるのである。

なるほど。

> それゆえ、私は言うのだ。
> 「真我を探求しなさい」と。

「私とは何か?」

これはニサルガダッタが受け継いだ方便では、「私は在る」という
感覚にすがることでした。

ニサルガダッタのところで“私”というのが単なる観念にすぎない
ことを理解したボブさんが、こう語っている方法だと思います。

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 それが「私はこれだ」とか「私はあれだ」へと移動したらいつで
 も、それをただの「私は在る」に戻すのです。
 また「私は在る」というただの存在に、愛を込めて気づいている
 ことです。
 「私は在る」に優しくしてください。
 その「私は在る」を愛してください。
 それがマインドがそれに近づく最初の場所です。
 しばらくすると、自分が存在することを知るために「私は在る」
 と言う必要はないことを理解するでしょう。
 あなたはそれをいつでも知っています。
 「私は在る」「私は在る」と何度も繰り返して言う必要はありま
 せん。
 あなたはそれでも機能しているし、生きつづけている。
 他の思考がやってきたり、他の行動が起こったりしますが、すべ
 ては、マインドを通じて「私は在る」と言われる思考として表現
 される存在感覚に戻ってきます。
 それこそがあなたが否定できないたったひとつの実在です。
 
 充分な時間そこにとどまり、それに愛を向ければ、その温かさに
 対して見かけ上の応答があります。
 その温かさは精神的な温かさにすぎないかも知れない。
 でもその温かさに対して見かけ上の応答があり、その温かさはあ
 なたの存在全体を満たし、あなたの全身とあなたのマインド全体
 を潤します。
 それは存在を満たして、必要な変化をもたらします。
 
 "What's Wrong with Right Now"(p95) 
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(-||-)

何はともあれ万能丸……。

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
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■ 2.ボブさんの言葉:【内容物は目覚めの状態の上で起こっている】
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今回も……ボブさんの無断翻訳を……つづけます。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

ボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれて……今は著者のジェー
ムズ・ブラーハの家に滞在しています。

以下は第六章に集められている週末トークからの翻訳です。

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 【内容は目覚めの状態の上で起こっている】
 
 リタ まあ、もし私が内面に入ったら……。
 
 ボブ
 もし誰が内面に入ったら、ですか?
 あなたは参照点を予期しています。
 あなたがどんな参照点を採用しても、それは偽りです。
 
 リタ もし私が内面に入って意識とひとつになることができたら、
    私はすべてとひとつになって、質問しなければならないこ
    ともないでしょうし、どんな答も必要ないでしょう。私は
    ハリケーンでも何でもそれとひとつになるでしょう。
 
 ボブ
 あなたは実際そうなのです。
 
 リタ でもどうやってそれを意識的な気づきにもたらすのでしょ
    うか?
 
 ボブ
 見てみましょう。
 あなたはたった今目覚めています。
 あなたは今朝目を覚まし、服を着て、朝食を食べました。
 あなたは車でここに来て、今この話を聞いています。
 こういう行為がすべて起こりました。
 一日中あなたと共にあったその目覚めの状態は変化しましたか?
 
 リタ いいえ、それはつねに同じでした。
 
 ボブ
 その通りです。
 ですから、起こったことはすべてその目覚めの状態の内容だった
 のです。
 目覚めの状態がなかったらそれは起こりえなかったでしょう。
 ですから内容は外見なのです。
 この内容はその目覚めの状態の上で起こっています。
 そしてその目覚めの状態はけっして起こっていること、つまり見
 かけによって汚染されることはありませんでした。
 しかしあなたのフォーカスは内容のなかにありました。
 たった今ゆったりくつろいで、何かの思考が起こっている以前も
 あなたはやっぱり見ていたことを理解してください。
 あなたは見ていること、聞いていること、起こっている思考に気
 づいています。
 自分のフォーカスをそれらに向ける代わりに、それらが起こって
 いることにただ気づいているのです。
 そうすればあなたはその味わいがわかり、自分がつねにその気づ
 きであったこと、ただ焦点が内容に向かっていたのだと理解する
 でしょう。
 もし私があなたに、あなたがたった今見ている最初のものは何で
 すかと尋ねたら、あなたは何と答えますか?
 
 リタ 空間です。
 
 ボブ
 その通りです。
 しかしそれを理解している人は非常に少ないのです。
 人々はつねに自分が見ている最初のものは内容だと言います。
 ですから、気づきを同じように扱うことです。
 あなたである気づきがなければ何ひとつ起こりえないのだという
 ことをつねに思いだすのです。
 物事は空間のなかに現れます。
 だから本質的にはそれらは空間以外のものではありえません。
 それはただ異なって見えるだけです。
 ですからこういうすべての見かけや物事はこれまでと同じように
 起こりつづけるでしょうが、それらがある実体のせいにされるこ
 とはないでしょう。
 なぜなら「自分」を精査して、それにどんな実体も、またどんな
 独立した性質もないことがわかったからです。
 そのときあなたは、精子と卵子がいっしょになってあなたとなっ
 て以来、あるいはそれ以前からも、自分が生きられていたのだと
 いうことを理解するでしょう。
 
『Living Reality』(p292-293)
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(-||-)

> 物事は空間のなかに現れます。
> だから本質的にはそれらは空間以外のものではありえません。

こういう論理をはじめて耳にしたときは、いったい何を言っている
のか、と思ったものです。

だんだん、慣れてきちゃいましたけど。(^^;)

> それはただ異なって見えるだけです。

そうなんですね。

> ですからこういうすべての見かけや物事はこれまでと同じように
> 起こりつづけるでしょうが、それらがある実体のせいにされるこ
> とはないでしょう。

まあ、これが即座ではなく、プロセスになるでしょうが。

> なぜなら「自分」を精査して、それにどんな実体も、またどんな
> 独立した性質もないことがわかったからです。

いわゆる“自分”の身体過程が、まわりの環境(空気や食糧)から
独立して、それと無関係に生存できないことは自明です。

またちょっとした“見かけ(現象)”の変化で、いわゆる“自分”
の内面が小突き回されつづけることも、よく知っています。

心臓の鼓動も細胞の新陳代謝も、その“自分”とやらで制御したこ
となど一度もありません。

心身過程のすべてにおいて、独立した制御実体などありません。

ただ、固有の心身過程として生きられているだけ。

> そのときあなたは、精子と卵子がいっしょになってあなたとなっ
> て以来、あるいはそれ以前からも、自分が生きられていたのだと
> いうことを理解するでしょう。

両親の精子と卵子が一緒になったとき、わたしは“自分”が生成さ
れはじめたとは夢にも知らなかったでしょう。

その精神身体構造体が誕生したときにも、わたしは“自分”という
物語がはじまったことすら知らなかったでしょう。

その後はただ教えられた物語を一生懸命覚えようとしただけです。

なぜそんなことが覚えられるのかを疑問にすら思わずに。

間違いなく、わたしは“生きられて”いたようです。

ありがとうございました。

(-||-)


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:枯れ木なんて、そりゃ褒めすぎでしょう。(*-_-*)
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最近、しばらくぶりに連絡があった友人と、Skypeでだいぶお喋り
をしました。

そしたらその後でいただいたメールに、
「今日のPariさんから受けた印象は、枯れ木…..といったものでし
ょうか」という一文がありました。

別にネガティブな意味じゃないという説明がありましたが、いや、
枯れ木なんて、そりゃ褒めすぎでしょう。(*-_-*)

たぶん調子に乗って、実際以上に“枯れた”感じのパフォーマンス
をしたのでしょうね。

こうやって、すぐに単なる言葉に反応して、舞い上がったり、宣伝
したりしてますから。(^_-)

でも、いつもここで復唱しているマハラジやボブさんの言葉は、ち
ょっと世間に出れば、かなり外れた言葉なんですよね。

「私は在る」、ほかのすべては現れにすぎない、なんて、いったい
ナンノコッチャですよ。

でも、やっぱり思いだすと嬉しくなるんですよね。

身体に自己同化した想念群としては、心配も何も一杯あるのに、
でもふっと……「私は在る」って思いだす。

そしたら、やっぱり、少し嬉しくなる。(*-_-*)

いいじゃないですか。

だってそれ以外に必要なことなんて、何もないんだから。

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 あなたが夢を夢として見たとき、為すべきことはすべて為し終え
 たのだ。
 
 『私は在る』(p135)
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なぜなら、

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 あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者とし
 て想像することが奴隷状態の本質なのだ。
 実際には、私たちに物語はない。
 私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
 すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
 
 『私は在る』(p207)
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というわけだから。(-||-)

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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