home > 通信 >『アセンション館通信』第520号:観念に注意を払っているかぎり



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2014/03/23(第520号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

実在は概念ではなく、概念の顕現でもない。概念は実在しない。
概念はただ“見かけ”の解釈のなかにのみ現れる。

実在は、“見かけ”の発現を可能にし、解釈の発現を可能にする。
“見かけ”と解釈のなかで迷子になると、苦楽の海に溺れる。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在866名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.観念に注意を払っているかぎり

2.ボブさんの言葉:
    【ただ思考とフィーリングをあるままにしておきなさい】

3.編集後記:すべての「意味」は、観念のなかにあった
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■ 1.観念に注意を払っているかぎり
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思えばこのメルマガも、もう十年も書いています。

“思えば遠くへ来たもんだ”という台詞が浮かぶほどです。(^^;)

そういう武田鉄矢さんの歌がありますよね。

今歌詞を調べてみたら、映画もあるんですね。

映画のあらすじを読めば、それはそれでひとつの物語世界が展開し
ていきます。

それはそれで、なんとなく切ないような気分にもなる。

ついでに武田さんの歌をYoutubeで聴いてみたら、終わった画面に
中島みゆきさんの「地上の星」というのがありました。

ついでにそれも聴いたら、すばらしいパフォーマンスでした。

それでやめておけばよかったのに、まだちょっとGoogleの検索画面
で目がたゆたってしまった。

Google先生の画面というのは恐ろしいものですね。

別に知らなくても良かったんですけど、中原中也の詩との類似の話
まで知ってしまいました。

「頑是ない歌」という詩の最初の一行が「思へば遠く来たもんだ」
という言葉で、そのあとの展開も似ているようです。

でもこれ、仕方がないんと思うんです。

現象世界すべてが、いわばコピーで成り立っているわけですから。

コピーがいけなければ、もともと言語は成り立たないし、言語世界
が成り立たなければ、物語世界も存在できないでしょう。

もちろん、こんなメルマガなどとうてい成り立ちませんし。(^_-)

仕方がないんですよね。(;_;)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

現象世界で“生きている”われわれは物語に取り憑かれています。

物語こそが、違和感という基底上で、大部分の“苦しみ”のなかで
ごくわずかの“喜び”を求めるための装置なのでしょう。

たとえそのことを意識していてさえ、“物語中毒”の解毒というの
はめったに起こらない。

なぜなら、物語世界への没入こそが個人たちの主要関心事だから。

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 集合的な存在への愛から、人は生まれる。
 そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。
 運命とは、成ることから分離できないものだ。
 特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といった
 すべてを含んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。
 ある偉大な人物を見てみなさい。
 何と素晴らしい人物だったのだろう!
 だが、何と彼の人生は困難に満ち、その成果はかぎられたものだ
 ったろうか。
 何と人の人格は完全に依存したものか。
 そして何と世界はそれに無関心なのだろうか。
 そしてそれにも関わらず、私たちはそれを愛し、その取るに足ら
 ない無意味さゆえに、それを保護するのだ。
 
 『私は在る』(p436)
------------------------------------

……。(-_-)

> 集合的な存在への愛から、人は生まれる。

苦楽への自己同化を代償に、人は物語世界への切符を手に入れる。

> そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。

いったん物語世界に入ったら、固有の経緯と条件を課される。

> 運命とは、成ることから分離できないものだ。

物語世界を生きるとは、固有の経緯と条件を引き受けることだ。

> 特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といった
> すべてを含んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。

物語世界全体への興味を失わないかぎり、その固有の経緯と条件へ
の執着を手放せるものではない。

------------------------------------
 生命への執着は不幸への執着だ。
 私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
 私たちの本性とはそんなものなのだ。
 
 『私は在る』(p436)
------------------------------------

(-||-)

生命(この場合、現象世界)への執着を支える仕掛けとして、「死」
「性欲」「意味」といった仕掛けが用意されているのでしょう。

通常なら人間を含めた生き物たちは、死ぬことを望みません。

でも独特の物語を紡ぐために、人間はラメッシ・バルセカールのい
う“聖なる催眠”をかけられている。

その“聖なる催眠”の一部ということか、人間は一定の記憶能力と
未来を推測する心配能力を与えられています。

“自分”の未来の死を心配するということは、“死”という現象に
幻想を抱くということでもあるでしょう。

自然の“死”が来るまでの恐怖に耐えられずに、早く楽になりたく
て、自ら“死”を選ぶということもしばしば起こることです。

でも、このゲームでは、それはほとんど役に立たないらしい。

------------------------------------
 質問者 ……ですが、自殺のどこが間違っているのでしょうか?
 
 マハラジ
 もしそれが問題を解決するならば、何も間違ってはいない。
 もし解決しないなら、どうなるのかね?
 ある苦痛に満ちた不治の病気や、耐えがたい災難のような外部的
 な要因で起こった苦しみなら、正当性があるかもしれない。
 だが、智慧と慈悲の欠如による苦しみなら、自殺は助けにはなら
 ない。
 愚かな死は愚かな再誕生を意味するだけだ。
 その上、カルマ(因果関係)の法則も考慮に入れなければならな
 い。
 忍耐は普通、もっとも賢明な身の振り方なのだ。
 
 『私は在る』(p484)
------------------------------------

というわけですから。

「愚かな死は愚かな再誕生を意味するだけ」なら、たしかに、自殺
はあまり役に立たない。

つまり、この“物語世界”というゲームでは、中途半端に途中下車
することはできないということです。

途中下車しても“聖なる催眠”の魔法が解けることはない。

ならば、何の解決にもならない以上、途中下車は無意味です。

そしてマハラジによれば、“死”とは単なる観念でしかない。

------------------------------------
 私もまた生まれてきたという幻想のもとにいた。
 だが私のグルが誕生と死はただの観念だということを私に見せて
 くれたのだ。
 誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体
 を失った」という観念なのだ。
 今、私が身体ではないと知ったとき、身体がそこにあろうと、な
 かろうと、いったいどんな違いがあるというのだろうか?
 「身体―精神」は部屋のようなものだ。
 それはそこにある。
 しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。
 
 『私は在る』(p170)
------------------------------------

(@_@)

> 誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体
> を失った」という観念なのだ。

なんということ。(-_-)

“生”(物語世界)もまた夢、“死”もまた別の夢。

> 「身体―精神」は部屋のようなものだ。

そうなんですか。

> それはそこにある。
> しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。

(-_-)

「性欲」については、マハラジはこんなことを言っています。

------------------------------------
 例えば、あなたが魅力的な女性とともにいるとしよう。
 彼女のことを想い、それが性的な状況をつくり出す。
 問題は生じて、あなたは禁欲の、あるいは快楽の本を探しだす。
 もしあなたが赤ん坊だったら、ふたりとも裸でいても何の問題も
 起こらない。
 ただ、あなたが身体だという考えをやめてみるがいい。
 そうすれば愛とセックスという問題は意味を失うだろう。
 すべての制限の感覚が去るとともに、恐れ、苦痛、快楽の探求、
 すべてがやむ。
 ただ気づきだけが残るのだ。
 
 『私は在る』(p253)
------------------------------------

なんと……。(@_@)

そんな簡単なことなら誰が苦労する、とも思います。

でも、じつは、そう簡単なことでもなさそうです。(^^;)

なぜなら、この文章の前にあるのは次の文章だからです。

------------------------------------
 自分のものであれ他人のものであれ、観念に注意を払っているか
 ぎり、あなたは困難に陥るだろう。
 しかし、もしあなたがすべての教え、すべての本、すべての言葉
 で表されたものを無視し、あなた自身のなかに深く潜りこみ、あ
 なた自身を見いだしたならば、これのみがあなたのすべての問題
 を解決するだろう。
 そして、これはあなたがあらゆる状況を完全に統御できるように
 するだろう。
 なぜなら、あなたは状況についての自分の観念に支配されないか
 らだ。
 
 『私は在る』(p253)
------------------------------------

(@_@)

つまり、われわれと赤ん坊の違いは、観念に注意を払っているか、
いないかでしかない、とマハラジは言うわけです。

イエスに確かめても、マハラジに確かめても、どうやら赤ん坊と同
じにならなければダメみたい。(*^_^*)

> 自分のものであれ他人のものであれ、観念に注意を払っているか
> ぎり、あなたは困難に陥るだろう。

ってわけです。(>_<)

ははは……。(;_;)

死んでも逃げられない、耽溺しても逃げられない、何とまあひどい
世界に送り込まれたことか。

神様、あんた、ちょっと残酷なんちゃう? (\/U)

とまあ、単なる概念に楯突いてもしゃーないか。(^_-)

> あなたがあなたの世界の神であり、愚かで残酷なのはあなたなの
> だ。

(*@_@*)

------------------------------------
 神は概念であると言うならば、そう言うがいい。
 それはあなた自身の創造物なのだ。
 あなたが誰なのかを見いだしなさい。
 あなたがどのように生き、邪悪な世界で真実と善と美を熱望する
 ようになったのかを見いだしなさい。
 誰が神なのか、あなたが何を話しているのかをわかってもいない
 とき、神に対してのあなたの議論が何の役に立つというのだろう?
 恐れと期待から生まれ、欲望と想像から形づくられた神が、宇宙
 のマインドとハートである力のはずがない。
 
 『私は在る』(p169)
------------------------------------

(*>_<*)

はー、驚いた。

(*-_-*)

> あなたがあなたの世界の神であり、愚かで残酷なのはあなたなの
> だ。

ジーン。(-_-)

> あなたがどのように生き、邪悪な世界で真実と善と美を熱望する
> ようになったのかを見いだしなさい。

(-_-;)

「私は在る」……。(-||-)

------------------------------------
 ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは
 何もなく、「私は在る」ということ以外に自己を語ることができ
 ないと確信すれば、「私は在る」という指針の役目は終わる。
 もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなど
 とはしないだろう。
 必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
 すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
 この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に
 努力することなく帰り着くだろう。
 
 『私は在る』(p27)
------------------------------------

> ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは
> 何もなく、「私は在る」ということ以外に自己を語ることができ
> ないと確信すれば、「私は在る」という指針の役目は終わる。

そうなんですね。(-_-;)

わかりました。

> もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなど
> とはしないだろう。

いや、それがなかなか……。(*-_-*)

> 必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。

(@_@)

そうか……。

> すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。

はい、伺っています。

> この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に
> 努力することなく帰り着くだろう。

はい。

(-_-)

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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       ………○…………○…………○………


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■ 2.ボブさんの言葉:
    【ただ思考とフィーリングをあるままにしておきなさい】
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今回も……ボブさんの無断翻訳を……つづけます。

『Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob
 Adamson』
(『生きている実在:セイラー・ボブと過ごした途方もない夏』)
からの抽出翻訳です。

ボブさんご夫妻は……アメリカにきてくれて……今は著者のジェー
ムズ・ブラーハの家に滞在しています。

以下は第六章に集められている週末トークからの翻訳です。

以上で、この本に収められている対話部分はすべて終わりです。

こういう翻訳を続けるかどうか、少し考えます。

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 【ただ思考とフィーリングをあるままにしておきなさい】
 
 ジェームス 恐れは起こっていますが、誰かにではありません。
       リタが言ったのは、自分が考えていると感じられる
       けど考えていたくはない、ということです。まあ、
       彼女は考えていません。思考は起こっていますが、
       その考えごとは彼女がしていることではない。
 
 リタ 7年間先生についていたので、私は理論は良く知っていま
    す。知的には、私たちはみんなそれを知っているんです。
    でも、しょっちゅう反応ばかりしないように、どうやって
    実際にそれにいつも気づいているのでしょう?
 
 ボブ
 [ジェームズに]知的に理解しているということについて、あな
 たが理解したことを彼女に話してあげてください。
 では、彼が言っていることを注意深く聞いてください。
 
 ジェームス 何かを知っているか知らないかのどちらかなんです。
       もし、海からコップに一杯青い水をとってきて、と
       ボブに言われたら、あなたはできないと言うでしょ
       う。たとえ青く見えても、水が青くないことを知っ
       ているわけですから。あなたは「まあ、知的には水
       が青くないことを私は知っていますが」とは言いま
       せん。
 
 リタ オーケー。
 
 ジェームス だから、「知的には、私は自分が行為者でないこと
       を知っているとか、知的には、考えているのが自分
       ではないことを知っている」というのは、適切じゃ
       ないんです。
 
 リタ 分かります。でもあなたが話しているのは概念的なことで
    す。私は実際上のことを話しているんです。どうやって私
    たちは反応や思考から自分を解放するのでしょう? どう
    すれば存在するすべてはひとつだとつねに知っていられる
    のですか? 私が言っているのは、これを考えることにつ
    いてではありません。私が言っているのは、それであるこ
    とについてです。
 
 ボブ
 あなたが今しているのは、未来の出来事を待ち望むことです。
 たった今何が間違っているのですか?
 たった今何かが間違っていますか?
 
 リタ いいえ。何も。でももし誰かが現れて私をひどいピンチに
    追い込んだらどうでしょう? そこに反応が起こるのでは
    ありませんか?
 
 ボブ
 応答は即座に起こります。
 それが起こっているのは今でしょう。
 「自分はどうするだろうとか、自分はどうなるだろうと、仮定す
 る必要はありません。
 仮説を立てる必要はないのです。
 
 リタ 自分が完全に気づいていたら、考えなくても自動的にすべ
    ての答が浮かんでくるのはわかります。でも私はこの世で
    生きているのです。
 
 ボブ
 もしそれがわかっているなら、その観点から生きることです。
 すると「自分は如何に生きるべきか?」を解明しようとするかぎ
 り、その答が見つかることはけっしてないとわかるでしょう。
 それはあなたをマインドのパターンに閉じ込めることになります。
 私はいま実際上の話をしています。
 その観点から生きることについて私は話しているのです。
 
 リタ 私が訊いているのは、どうやって無意識の行動を止めるか
    ということです。それが私の質問です。
 
 ボブ
 それは独りでに抜け落ちるでしょう。
 いざというときには、あなたはそれに注意します。
 そのいわゆる無意識の行動はすべて変わるでしょう。
 
 リタ つまり、それが独りでに起こるまでは、私たちは苦しむこ
    とになると、あなたはおっしゃっているのですか?
 
 エメット 彼女はヒントが欲しいのです。
 
 ジェームス ひとつのヒントは「知的には知っている」と言うの
       をやめることです。事実は、ボブが言っていること
       を実際は知っているのに、あなたは「でも」を差し
       挟んでいるんです。「それは知っていますが……で
       も、私はそれを知的に知っているのです」とあなた
       は言っている。もしあなたがそれをやめて、「私は
       間違いなく知っています」と言いはじめたら、混乱
       が起こったとき、あるがままの人生を受け容れるこ
       とをあなたは学ぶでしょう。あなたは出来事を自分
       個人に起こっていることではなく、ただ起こってい
       ることとして見るでしょう。自分個人に起こってい
       ると思うのは、抵抗を引き起こすだけです。
 
 ボブ
 その「でも」は、あなたをまた時間のなかに連れ戻します。
 あなたがそれについて考えなかったら、どんな条件づけがありま
 すか?
 あなたはそれでも、対極のペアのなかで考えるマインドを持ちつ
 づけるでしょう。
 しかし配達を受け取る実体(中心や参照点)がなければ、思考や
 対極のペアはただ流れるだけです。
 
 リタ 私のマインドのなかには自分は止まれないというイメージ
    があるんです。どうすれば自分のマインドのなかのネガテ
    ィブなイメージを止めて、それについて考えなくてもいい
    ようにできるでしょうか?
 
 ボブ
 それとともにいて、それを止めようとせず、それが展開するのを
 見守ることです。
 思考がその上で起こっているものに焦点を合わせてください。
 気づきともにいるのです。
 それはものではありません。
 あなたは今朝目を覚ましました。
 あなたは一日中目覚めていました。
 その目覚めの状態は、浮上してくる思考や感覚によって触れられ
 ましたか?
 鏡のなかの鏡像が鏡にまったく影響を与えなかったのとまさに同
 じです。
 その鏡像がそこにないとは言えませんが、その鏡像を掴もうとし
 ても掴むことはできません。
 それはあなたのなかで起こっている思考や感情も同じです。
 鏡のなかの鏡像の実在を信じないのと同じように、あなたは思考
 やフィーリングの実在を信じないのです。
 そして、もしあなたが思考やフィーリングをただあるがままにし
 て、それらを信念や力のせいにしなければ、それらがあなたを傷
 つけることはありません。
 あなたであるものとは、すべてがその上に現れるその本質です。
 
 エメット どうも私たちが手放さなくてはならないじつに多くの
      宗教的条件づけがあるように、私には思われるのです。
      私たちを気遣う、人間のような神がいるという考え。
      私たちが特定の仕方で存在することを望み、私たちが
      悲しむのを心配し、私たちが幸せになることを望み、
      といったそんな神が存在するというような考えです。
      そういうもと手を切らなければ、私たちはつねに自分
      の考えが間違っていないか、自分のやった悪い行為が
      自分の現在の問題を引き起こしているのではないかと
      考えるのです。なぜ個人としての「私」が苦しむのか
      を考える条件づけを解体したいのなら、大きな調査が
      必要でしょう。私たちの信念がこの問題を存続させつ
      づけているのです。
 
 ボブ
 まさにその通りです。
 私たちの信念が参照点になるのです。
 しかし信念はけっして事実ではありえません。
 現実は事実です。
 それはたった今起こっていることです。
 これは事実です。
 それは信念ではありません。
 
『Living Reality』(p296-298)
------------------------------------

(-||-)

> ジェームス 何かを知っているか知らないかのどちらかなんです。
>       もし、海からコップに一杯青い水をとってきて、と
>       ボブに言われたら、あなたはできないと言うでしょ
>       う。たとえ青く見えても、水が青くないことを知っ
>       ているわけですから。あなたは「まあ、知的には水
>       が青くないことを私は知っていますが」とは言いま
>       せん。

これは本書で、何度も繰り返し解説された比喩でした。

> ジェームス だから、「知的には、私は自分が行為者でないこと
>       を知っているとか、知的には、考えているのが自分
>       ではないことを知っている」というのは、適切じゃ
>       ないんです。

とするならば、自分が行為者でないことを、自分が理解しているか
どうかを、ここで決めなくちゃならないでしょうね。

もちろん、ボブさんの方便に乗ろうとするならば、ですが。

> あなたは今朝目を覚ましました。
> あなたは一日中目覚めていました。
> その目覚めの状態は、浮上してくる思考や感覚によって触れられ
> ましたか?
> 鏡のなかの鏡像が鏡にまったく影響を与えなかったのとまさに同
> じです。
> その鏡像がそこにないとは言えませんが、その鏡像を掴もうとし
> ても掴むことはできません。
> それはあなたのなかで起こっている思考や感情も同じです。
> 鏡のなかの鏡像の実在を信じないのと同じように、あなたは思考
> やフィーリングの実在を信じないのです。
> そして、もしあなたが思考やフィーリングをただあるがままにし
> て、それらを信念や力のせいにしなければ、それらがあなたを傷
> つけることはありません。
> あなたであるものとは、すべてがその上に現れるその本質です。

これも、ボブさんが繰り返し使う比喩です。

鏡の比喩は、色んな方がいろいろに使いますが。

> 鏡のなかの鏡像が鏡にまったく影響を与えなかったのとまさに同
> じです。

「鏡のなかの鏡像が鏡にまったく影響を与えない」ことは、われわ
れも完璧に同意します。

> その鏡像がそこにないとは言えませんが、その鏡像を掴もうとし
> ても掴むことはできません。

たしかに、鏡の中の鏡像を掴もうとしても絶対に掴めませんから。

でもこれが、思考や感情となると、われわれはつい真面目に応対し
てしまう。

それによって、その思考や感情にエネルギーを注いでいるとは気づ
かずに。

だから、ボブさんに

> それはあなたのなかで起こっている思考や感情も同じです。

と言われても、そうおいそれとは同意できないわけです。(^^;)

> 鏡のなかの鏡像の実在を信じないのと同じように、あなたは思考
> やフィーリングの実在を信じないのです。

うーむ。(-_-;)

マハラジも、言っていたよなぁ。(-_-;)

------------------------------------
 あなたがあなたの世界の神であり、愚かで残酷なのはあなたなの
 だ。
 神は概念であると言うならば、そう言うがいい。
 それはあなた自身の創造物なのだ。
 あなたが誰なのかを見いだしなさい。
 あなたがどのように生き、邪悪な世界で真実と善と美を熱望する
 ようになったのかを見いだしなさい。(p169)
------------------------------------

本当は鏡なのに、鏡像に興味をもってしまったのか……。

> まさにその通りです。

(@_@)

> 私たちの信念が参照点になるのです。
> しかし信念はけっして事実ではありえません。

は、はい。

> 現実は事実です。

はい。

> それはたった今起こっていることです。

あ、なるほど。

> これは事実です。

そうか。

> それは信念ではありません。

……。(-_-)

ありがとうございました。

(-||-)


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:すべての「意味」は、観念のなかにあった
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何のために、こんなことを十年もやっているのか? (-_-;)

こうして自分がやっていることって、いったい何なのか?

たった一つの言葉に出会おうとしでもしているのかしら。

(*@_@*)

あ、いや、これはただ起こっているだけだった。(>_<)

------------------------------------
 必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
 すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
 
 『私は在る』(p27)
------------------------------------

“自己を定義しようとする傾向”って、じつに根深いんだなぁ。

知らなかった。

------------------------------------
 しかし信念はけっして事実ではありえません。
 現実は事実です。
 それはたった今起こっていることです。
 これは事実です。
 それは信念ではありません。
 
 『Living Reality』(p298)
------------------------------------

そうなんだ……。

知らなかった。

これまで対応してきたことはすべて信念であって、事実ではなかっ
たんだ。

知らなかった……。(-_-)

そうか、すべての「意味」は、観念のなかにあったんだ。(@_@)

そうか、「意味」は事実ではなかったんだ。

「意味」とは観念、そしてときには信念。

それは事実ではなかった。

単なる“見かけ”の解釈にすぎなかった。

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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