━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2014/06/08(第531号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
実在は概念ではなく、概念の顕現でもない。概念は実在しない。
概念はただ“見かけ”の解釈のなかにのみ現れる。
実在は、“見かけ”の発現を可能にし、解釈の発現を可能にする。
“見かけ”と解釈のなかで迷子になると、苦楽の海に溺れる。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在876名
------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇
1.『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』
2.ラングフォードの言葉:【第三章 詐称者のツール】(4)
3.編集後記:ラングフォードは、とても強烈です。
------------------------------------------------------------
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
昨夜来の雨が今はもうやんでいます。
毎年この季節はいつもそうですが、このごろ下の河原で砂利を採石
していて、時々ショベルカーのゴソゴソいう音が聞こえてきます。
その他は、風もやんでいるので静かな感じですね。
あ、庭の桜の木の梢の葉先が少し揺れました。
樹の葉が揺れるのだから、風があることは間違いない。
風は見えないけれど。
こうして知覚世界が見えているのだから、わたしが存在しているの
は間違いない。
わたしは知覚対象にはならないけれど。
問題を探すほどのこともない。
問題があったところで、それはつかの間の想念にすぎないから。
わたしのなかに現れたいっときの儚い見かけです。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
年に四回、毎年季節の変わり目に東京の病院に行きます。
ホルモン治療のための内科外来です。
それと年に一回、MRI検査の結果を聞きに脳外科外来に行きます。
MRI検査自体は内科外来の日の午後に兼ねているので、年に一度この
時期だけは、間をあまり空けずに二回通うことになります。
先に行った内科外来の日に、病院帰りに新宿の紀伊國屋書店に立ち
寄りました。
resonanz360のヒロさんの新刊翻訳書を買うためでした。
(もちろん、アマゾンでも買えるのですが、せっかくの機会だから、
ちゃんと本屋でと思っていました。
たまに本屋の空気に触れたくなるのは、本屋の息子のノスタルジ
ーでしょうか。
それとアマゾンで買うのは、この頃は困ったことに、「1円」と
かに馴れちゃったというのもあるかもしれません。^^;; )
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(グレッグ・
グッド著、古閑 博丈訳 )という本です。
先週ご紹介しようかとも思っていたのですが、ひょんなことから、
ひょんな話題で、先週は「番外」記事を書いてしまいました。
そういうわけで、このグレッグ・グッドの本は帰りの電車と、帰っ
てからと、二回目の電車の往復と病院で読みました。
短い期間にじっくり二回通読した感じです。
それから、ヒロさんのサイト(http://resonanz360.com/)に翻訳さ
れている他のグレッグ・グッドの記事も読みました。
以前にもチラッと見たことがあるはずなのですが、そのときは特に
何も印象に残りませんでした。
まったく引っかからなかったんでしょうね。
ところが、一度まとめてこの本を読んであると、同じ文章を読んで
も、聞こえてくることがまったく違ってしまいます。
この本は、すごい本です。(-_-)
ヒロさんは本当にいい本を翻訳してくださいます。
ありがたいことです。(-||-)
本当に何かを掴みたいと思っている者にとっては、この本は必読書
の一冊だと思います。
たとえば、こんな一節を読んだらやっぱり何かが変わりませんか?
------------------------------------
この探究はわかるということに関するものです。
感じるとか、自分のものにするということではありません。
特定の感情や欲求だけを感じて、そうでないものは感じないとい
うことではないんです。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p137)
------------------------------------
(@_@) ⌒★?
この言い回しでしか理解できなかった、ということがあります。
わたしの場合がそうでした。
たとえば、マハラジにはこういう表現がありました。
------------------------------------
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌い
だということだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為
し終えたのだ。
『私は在る』(p135)
------------------------------------
なるほど。(-||-)
わかったつもりでいました。
でも、
> この探究はわかるということに関するものです。
> 感じるとか、自分のものにするということではありません。
> 特定の感情や欲求だけを感じて、そうでないものは感じないとい
> うことではないんです。
こう言われると、否応なく理解されることがありますよね。
そういうことだったんですね。
だから、マハラジは、自分は再誕生の魅力に抵抗できないかもしれ
ない、と心配する質問者にこう答えていたんですね。
------------------------------------
抵抗という問題は起こらない。
誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。
それを起こらせるがいい。
それが起こるのを見なさい。
『私は在る』(p488)
------------------------------------
と。
われわれは無意識に、「誕生し、再誕生するもの」が自分だと思っ
ている。
でも、その「誕生し、再誕生するもの」が夢の一場面にすぎないこ
とを知っているマハラジは、
> それを起こらせるがいい。
> それが起こるのを見なさい。
と、応ずるわけです。
どうしても再誕生したくない質問者が、では、なぜそれに関心をも
つのか?、と食い下がるのもわかります。
すると、マハラジはこう答える。
------------------------------------
関心をもっているのはあなたなのだ!
そして、その絵があなたの真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、
あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
調和と平和への熱望は、消し去ることのできないものだ。
だが、ひとたびそれが満たされれば関心は去り、身体的生活は注
意のレベル以下の努力を要しないものとなる。
身体を得るか、身体を去るかは、あなたにとって同じこととなる。
あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。
『私は在る』(p488)
------------------------------------
と……。(-||-)
転生するということが、苦楽に翻弄されることの同意語だと思って
いるわれわれには、
> 身体を得るか、身体を去るかは、あなたにとって同じこととなる。
と言われても、納得できるものではありません。
でも、
> 誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。
ということが自明な気づき自体にとっては、気づきのなかに現れる
意識の表面は、いっときの見かけにすぎない。
グレッグ・グッドのこの本は「気づきの視点に立ってみる」ことに
関する本です。
本の最初にグレッグ・グッドの「気づき」の説明があります。
(また、立ち入った引用をしてしまうかもしれませんが、無断引用
というより、無料宣伝とお考えいただければありがたいです。)
------------------------------------
そもそも気づきとは何だろうか。
気づきの視点に立つということについて話す前に、まずは気づき
そのものについての話をしよう。
気づきは生じるものを見る。
何が生じるとしても、それは気づきに対して現れる。
形、思考、感情、感覚、時間、空間、単一性、多様性といったも
のが気づきに現れるためには、気づきそのものがそうした要素に
制限されたり限定されたりすることはありえない。
気づきはすべての対象に対する唯一の主体なのだ。
気づきには形がないが、あらゆる形を見る。
気づきは見られることがないが、見ている。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p12)
http://goo.gl/1yG1ow
------------------------------------
これは、「気づき」の説明として誰が聴いても納得できる話です。
> 気づきは生じるものを見る。
> 何が生じるとしても、それは気づきに対して現れる。
何も問題ないですよね。
そこからただちに、グレッグ・グッドは「気づき」とは「私」のこ
となのだ、というところまでごく簡単に議論を進めます。
------------------------------------
自分の本質が気づきだということは簡単に経験できる。
教えでは、気づきとは見られるものすべてを見ているものだとさ
れている。
「見る」ということが自分に生じているとき、人は視覚を直接経
験する。
見ることが自分以外の場所で生じるのをじかに経験することはな
い。
自分が見ているということを「見る」こともできない。
もっとはるかに近いのだ。
視覚はいつでもここで生じるものとして感じられる。
いつも「私」が見ていると感じられる。
気づきが見る。
私が見る。
どちらも同じだ。
気づきとは「私」のことなのだ。
あるいは、シユリ・アートマナンダの言葉を借りれば、気づきと
は「私−原理」だ。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p13)
------------------------------------
> 視覚はいつでもここで生じるものとして感じられる。
> いつも「私」が見ていると感じられる。
> 気づきが見る。
> 私が見る。
> どちらも同じだ。
> 気づきとは「私」のことなのだ。
え、そんなに簡単に (@_@)、とも思います。
でも、意味さえわかれば、誰にも反論できないと思います。
つづいて、グレッグ・グッドは論旨をこう展開します。
------------------------------------
気づきは対象ではない
以上のことは、ある認識につながる。
それはこの時点ではたいした認識ではないように思えても、いず
れ大きな変容をもたらすことになるだろう。
その認識とは、気づきあるいは「私−原理」は見ている側である
ため(気づきは視覚の主体だから)、気づき自体を見ることはで
きないというものだ。
気づきは対象ではなく、主体だ。
気づきは見られるものではなく、見ている側なのだ。
この認識がいずれ変容をもたらすだろうと言ったのは、これがわ
かると探求のなかで気づきを対象化したり特別視したりしようと
する傾向がなくなっていくからだ。
気づきとは自分の本質だと聞けば、気づきを自分の手元に引き寄
せて自分のものにしたくなるのはきわめて当然のことだろう。
そして気づきを心の眼の前で拡大して見てみたいとか、気づきが
皿の上に盛られているかのように目の前でじっくり観察してみた
いと思うのではないだろうか。
だが気づきは対象として存在しているわけではない。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p13-14)
------------------------------------
> その認識とは、気づきあるいは「私−原理」は見ている側である
> ため(気づきは視覚の主体だから)、気づき自体を見ることはで
> きないというものだ。
> 気づきは対象ではなく、主体だ。
> 気づきは見られるものではなく、見ている側なのだ。
こう簡単に展開された言葉は、聴いていれば確かに反論のしようが
ないのですが、ここで言われているのはかなりのことです。
この段落が理解されたら、気づきにまつわるほとんどすべての表面
的努力は、終わりを告げるだろうと思います。
「気づきが見る」と「自分が見る」が同義語だとわかってしまった
ら“気づきに近づく”努力の話は全部吹き飛んでしまうからです。
------------------------------------
気づき自体を見ることができるかどうか、試してみてほしい。
それでだめならダグラス・ハーディングの実験はどうだろうか。
何度やってもみごとに失敗するはずだ。
対象と気づきのあいだのこの違いが腑に落ちるほど、気づきを確
認するために何か特別なものを探そうとはしなくなる。
気づきを自分に引き寄せようとか、これこそ気づきだと信じて特
定の対象にしがみつこうとすることもなくなる。
そうなれば、素晴らしい自由がもたらされるだろう。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p15)
------------------------------------
(-||-)
いろいろな道があるものですね。
ラマナ・マハルシは「私とは何か?」という探求によって、「私」
という原初の想念の不在性を見破ることへと誘いました。
そして「私」という想念に汚染されない、純粋な気づきに着地させ
ようとしたのだと思います。
グレッグ・グッドが伝えているダイレクトパスの創始者シュリ・ア
ートマナンダは、直接気づきの視点に立つことを教えたようです。
本書の「はじめに」にはグレッグ・グッドの次の言葉があります。
------------------------------------
はじめに
この本の題名"Standing as awareness"(気づきの視点に立つ)は、
『アートマ・ダルシャン Artma Darshan』と『アートマ・ニルヴ
リティ Artma Nirvriti』の著者である、シュリ・アートマナン
ダ(クリシュナ・メノン、一八八三−一九五九)の教えに敬意を
あらわす意味でつけられた。
気づきの視点に立つと、世界は気づきだということがじかに経験
できる。
何も改善しなくていいし、何かになる必要もない。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p9)
------------------------------------
> 気づきの視点に立つと、世界は気づきだということがじかに経験
> できる。
こういう否定できない事実に基づいたアプローチがあるんですね。
ありがたいことです。(-||-)
ところで、わたしは気づきですが、もちろん、個人としてのわたし
が気づきを所有しているわけではないのです。
あなたの気づきと、わたしの気づきがあるわけではない。
------------------------------------
観照する気づきは個人のものではない
どんな現れも観照する気づきに対して現れるが、この観照する気
づきは誰のものでもない。
ひとりに一つずつ分けられているわけではない。
そのようなことはありえないのだ。
それが確認できる方法がいくつかある。
ひとつは、気づきに物質的な属性がないことを認識するという方
法だ。
気づきを分割することはまったく不可能だ。
気づきに対して現れは生じる。
したがって、気づきには形も輪郭も色も質感も位置もない。
だから、ある場所には気づきがたくさんあって別の場所には気づ
きはそれほどない、ということはありえない。
気づきには密度がない以上、人の頭の中には気づきがたくさんあ
るけれども、モハーべ砂漠の真ん中にはあまり気づきがないとい
うこともない。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p9)
------------------------------------
うーむ。(-_-;)
「気づきに物質的な属性がないことを認識する」……。
なるほど。
気づきに物質的な属性がなければ、気づきを識別する手段がない。
これでは、気づきに個人の名札を付けられないわけです。
その上さらにグレッグ・グッドは、気づきを分割する手段もないこ
とを指摘します。
なぜなら、仕切りとか容れ物といった概念自体が「気づきに対する
現れ」だからだと。
------------------------------------
気づきが個人のものではないことを理解するもうひとつの方法は、
気づきを分割するための材料や原理として作用できるような、独
立して存在するものが何もないことを認識するというやり方だ。
気づきは頭蓋骨によって空間的に仕切られていると考えてはいな
いだろうか。
だとすれば、頭蓋や骨といった物質も観照する気づきに対する現
れであり、思考や感覚(現れ)として経験されているにすぎない
ということが十分にわかっていない。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p53)
------------------------------------
気づきを識別する手段は存在しない。
気づきを分割する手段も存在しない。
気づきを識別する手段も、気づきを分割する手段も、気づきのなか
に現れることなしには現象できないというのです。
これはもう、一度聴いてしまったら聞かなかったことにはできない
ような理解です。
グレッグ・グッドはさらに、これまで気づきに押し付けられてきた
あらゆる人間的属性の虚偽を剥ぎ取ります。
------------------------------------
このような創造の物語では、退屈、望み、産出などのいかにも人
間的な性質が気づきに与えられてしまっているのがわかるだろう
か。
だが気づきに対する愛によって、気づきについてもっと深遠な真
実を知りたいという願いが生まれる。
そして高次の理性が明らかにするのは、そうした人間的性質も気
づきの中に生じる現れだということだ。
気づきの中に生じるものである人間的な性質は、気づきを分割で
きる個別化原理として作用する力をそれ自体としてはまったく持
っていないのだ。
地割れの絵では地面を割れないのと同じだ。
こうして、気づきを個別化しているように見えるものがあったと
しても、それは実際には現れとして、もともと気づきの内部にあ
ることが高次の理性によって判明する。
気づきは空間よりはるかに微細であり、完全で、無傷で、連続し
ている。
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』(p54)
------------------------------------
> 地割れの絵では地面を割れないのと同じだ。
ふー。(-_-)
まさに……圧倒的ですね。
……。(-||-)
今回は、
気づきはすべての現れを見ている、ということ。
わたしもすべての現れを見ている、ということ。
「気づき」と「私」は、まったくの同義語だということ。
気づきは対象にはなりえない、ということ。
気づきは属性を持ちえないということ。
気づきは分割できないということ。
区別や分割や属性や物語といったすべての識別要素は、気づきのな
かに現れる観念にすぎない、という事実を学びました。
なんか、エライことになったという気もします。
今回はもう、腹いっぱいです。
少し消化しなくては。
というわけで。
------------------------------------
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
------------------------------------
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.ラングフォードの言葉:【第三章 詐称者のツール】(4)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。
グレッグ・グッドがとても洗練された知性の使い方をするとすれば、
ラングフォードはひたすら知性からの脱出を呼びかけます。
語弊はあるかもしれませんが、文化会系と体育会系の感じがなきに
しもあらずです。(^^;)
(見かけはグレッグ・グッドの方が体育会系ですけど。(^^;)
http://goo.gl/rTEubK )
まあ、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ自体に体育会系的雰囲気
があるかもしれませんね。
------------------------------------
質問者 知性(ブッディ)とは何でしょうか?
マハルシ
思考あるいは識別の機能です。
それらは単なる名前でしかありません。
自我、心、知性、それらはみな同じものです。
誰の心でしょう?
誰の知性だと言うのでしょう?
自我のです。
自我は実在でしょうか?
いいえ。
私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶのです。
『ラマナ・マハルシとの対話 第1巻』 (p379)
------------------------------------
とおっしゃる方ですから。
ヒロさんのサイトには「ダイレクトパス グレッグ・グッドのイン
タビュー」という記事も翻訳掲載されています。
http://tinyurl.com/n2vmtcr
そこでダイレクトパスが「知的なプロセスなのか?」という質問に、
グレッグ・グッドは「いえ、包括的なものです」と答えています。
そして「情報の伝えられ方の種類が多ければ多いほど、それを受け
る人が教えと共鳴する可能性が高まると思います」とも。
そして「本やウェブサイトを自分で読むということは、たいていの
場合は十分ではありません」と断って、
------------------------------------
これまでのところは最も価値のあることのほとんどは公表されて
いません。
それをインターネットで検索することもできなければ、それにつ
いて書店で読んで調べることもできません。
http://tinyurl.com/n2vmtcr
------------------------------------
ともおっしゃっているようです。
どんな道も、文字だけで完了するものではないのでしょう。
気づきへの憧れだけに浸りきる過程があるのでしょうね。
ラングフォードは、ただそれだけを促しているようです。
------------------------------------
(本文は配信メルマガでお読みください。)
『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p37-39)
------------------------------------
今回は、ここまでです。
> 90. もし解放を求めるきわめて強烈な欲望があなたのなかに目覚
> めたら、その解放へのきわめて強烈な欲望がもたらす明晰性、
> 正直、洞察、責任感、そして熱望が、解放を求めるその欲望
> が二度と弱くなることを許さないだろう。
はい。
> 91. もし解放を求める欲望が弱まるようなら、それは解放を求め
> るきわめて強烈な欲望が、まだあなたのなかに目覚めていな
> かったということだ。
わかりました。
これがラングフォード節ですよね。
(-||-)
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
みおさんから、資料請求フォームからの依頼があると伺ったので、
掲載しておきます。(記事はこちら→ http://goo.gl/T0zQkh )
『乳酸菌発酵食品資料請求フォーム』
http://my.formman.com/form/pc/uIHqH7Nz40FzSYYe/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「私は在る」、つまり「気づき」は存在します。
現象は知覚の対象としてそのわたしの前を流れていく。
その意味では、すべては流れているんだと思います。
もちろん、このメルマガも含めて。
眼前に流れる風景も、それに対する解釈も、すべては気づきを背景
にして現れている。
雨がやんで、遠くに雲間が現れています。
今日はまだまだ明るいようです。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
------------------------------------------------------------
『アセンション館通信』の既刊号を毎日連続で配信いたします。
連続配信をご希望の方は“『アセ通』連続配信依頼フォーム”
https://www.ascensionkan.com/mm/deliver.html
↑より、空メールをお送りください。翌日より毎日配信されます。
ただし、これからの号の購読にはメルマガ登録が必要です。(無料)
------------------------------------------------------------
このメールマガジンは二つの配信スタンド
『まぐまぐ!』http://www.mag2.com/ と
『melma』 http://www.melma.com/ を利用して発行しています。
「まぐまぐ」は:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
「melma」は :http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2014 paritosho
↑コピーレフトの概念についてはこちら↓をご覧ください。
http://now.ohah.net/commune/?license/copyleft.html
------------------------------------------------------------
|