home > 通信 >『アセンション館通信』第540号:スクリーン、光、そして見る力



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2014/08/10(第540号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

わたしが在るがゆえに、その光のなかにすべての現象は現れる。
わたしの幸せは在ることのなかにあり、現象のなかにはない。

現象に注意を向けることが夢を見ること、見かけへの努力を放棄し、
何も起こっていないことを思いだすために探求が起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在877名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.スクリーン、光、そして見る力

2.ラングフォードの言葉:【第六章 
              気づきを見守る気づきの発見】(4)

3.編集後記
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■ 1.スクリーン、光、そして見る力
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このマインドの靄のなかで息絶える。

そしてその息絶えるものに自己同化したままひとつの夢を終える。

するとその夢が始まる前の状態の夢に戻る。

すると身体をもたないことの自由、自分が身体ではないことの自由
が感じられる。

でもその時のその現れは、どこまで行っても、一瞬一瞬の想像にす
ぎない、つかの間の曖昧な現れ。

そしてその現れに焦点を合わせているかぎり、今度はその理解をも
って、他者のいる確かな現れを体験したいと思う。

現れに焦点を合わせているかぎり、起こることはそのようなことな
のでしょう。

どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ。

たしかに夢の風景は変る。

だがそれはどこまで行っても見かけであり、想像であり、物語にす
ぎない。

なぜなら、自分のまわりに世界の存在を想像している者が、自前で
存在していると想像しているのだから……。

(-_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

意識の内容はすべて想像……。

現れに身をあずけるかぎり、休まることはありえません。

現れは永遠に変化するだけですから。

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 身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
 そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
 あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)
 れにすぎないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑
 ったり泣いたりしている人のようなものだ。
 その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行さ
 せるだけで充分なのだ。
 身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事
 の連鎖である人生は終わりを迎える。
 それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
 注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
 あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
 すべては起こるのだ。
 あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自
 覚しなさい。
 そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。
 
 『私は在る』(p407)
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ここにすべてが教えられていますね。

エゴがどれだけの理解を許してくれるかだけでしょう。

> 身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。

はい、たしかに。

> そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。

間違いありません。

> あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)
> れにすぎないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑
> ったり泣いたりしている人のようなものだ。

……。(*-_-*)

> その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行さ
> せるだけで充分なのだ。

(@_@)

> 身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事
> の連鎖である人生は終わりを迎える。

はい、わかります。

> それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。

(@_@)

> 注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。

ほんとですか……。

> あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。

これがコツか。

> すべては起こるのだ。

はい。(-_-)

> あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自
> 覚しなさい。

(-_-)

> そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。

エゴの靄を突き破って夢のなかに入ってくるグルからの言葉。

(-||-)

------------------------------------
 本当にあなた自身のものを意識することはない。
 あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのも
 のでもない。
 あなたのものとは知覚の力であり、あなたが知覚しているもので
 はない。
 意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。
 人は無意識であり、意識であり、超意識だ。
 だが、あなたは人ではないのだ。
 あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。
 だが、映像はあなたではない。
 
 『私は在る』(p463)
------------------------------------

> 本当にあなた自身のものを意識することはない。

あ、そうか……。(-_-)

> あなたが意識していることは、あなたでもなければ、あなたのも
> のでもない。

なるほど。

> あなたのものとは知覚の力であり、あなたが知覚しているもので
> はない。

「知覚の力」はわたし、しかし「知覚しているもの」はわたしでは
ない。

「知覚されるもの」に自己同化した観点から分泌される解釈もまた、
「知覚されるもの」であり、わたしではない。

> 意識を人の全体像として見なすのは間違いだ。

(-_-)O

> 人は無意識であり、意識であり、超意識だ。

はい。

> だが、あなたは人ではないのだ。

ああ……。

> あなたのものとは映画のスクリーン、光、そして見る力だ。

わたしのものは「スクリーン、光、そして見る力」。

映画館と観客か……。

いや、まてよ。

> だが、映像はあなたではない。

だが、そこにかかっている映画は、わたしではない。

そして、観客が分泌する情動も、わたしではない。

わたしのものとは「スクリーン、光、そして見る力」か……。

------------------------------------
 私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。
 画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消
 えていく。
 どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。
 また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。
 スクリーンは画像を遮(さえぎ)り投影する。
 スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。
 それはフィルムと何の関わりもない。
 フィルムはフィルムとしてひと塊(かたまり)の運命なのだ。
 だが、私の運命ではない。
 スクリーン上の人びとの運命だ。
 
 『私は在る』(p286)
------------------------------------

> 私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。

マハラジは、つまり本来のわたしは「スクリーンのように明白で空
っぽ」……。

> 画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消
> えていく。

現れは本来のわたしの上を通り過ぎ、本来のわたしの明白で空っぽ
のままの状態を残して消えていく。

> どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。

「スクリーンが画像に影響されることはない」……。

本来のわたしが世界のなかの物語に影響されることはない。

そうか。

> また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。

「画像もスクリーンによる影響を受けはしない」……。

世界のなかの物語も本来のわたしによる影響を受けはしない。

なるほど。

> スクリーンは画像を遮(さえぎ)り投影する。

本来のわたしは世界のなかの物語の存在を可能にする。

> スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。

本来のわたしが世界のなかの物語を形づくるのではないのだ。

> それはフィルムと何の関わりもない。

本来のわたしは世界のなかの物語と何の関わりもない。

> フィルムはフィルムとしてひと塊(かたまり)の運命なのだ。

世界のなかの物語は世界のなかの物語としてひと塊の運命なのだ。

> だが、私の運命ではない。

だがそれは、本来のわたしの運命ではない。

> スクリーン上の人びとの運命だ。

本来のわたしが存在を可能にした物語のなかの人びとの運命だ。

------------------------------------
 あなたは世界に属するのではない。
 あなたは世界のなかにいるのでさえない。
 世界は存在しない。
 あなただけが在るのだ。
 あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。
 あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身か
 ら独立した外側の世界をもつこともできないのだ。
 独立しているのは、世界ではなくあなただ。
 
 『私は在る』(p471)
------------------------------------

> あなたは世界に属するのではない。

はい、やっと意味が伝わってきています。

> あなたは世界のなかにいるのでさえない。

はい。

> 世界は存在しない。

ついつい、まだ世界にフォーカスしてしまって。(*-_-*)

> あなただけが在るのだ。

はい。

> あなたは想像のなかで世界を夢のように創造している。

理解できます。

> あなたがあなた自身を夢から分離できないように、あなた自身か
> ら独立した外側の世界をもつこともできないのだ。

わたしが自分を夢から分離できないように、わたし自身から独立し
た外側の世界をもつこともできない……。(-_-)

わたしが注意を向け知覚しなければ、それでも存在できる独立した
外側の世界などというものは存在しない……。

(-_-)

そうか、わたしが現れに注意を向け、現れを知覚して、分泌される
解釈に注意を向けて、世界を存在させているのか。

わたしは夢を見ているんだ。

> 独立しているのは、世界ではなくあなただ。

わたしが注意を向けなければ、わたしから独立して存在できる世界
というものは存在しない……。

------------------------------------
 そこには想像があるだけだ。
 知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされ
 てしまった。
 あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほ
 ど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなって
 しまったのだ。
 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
 宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。
 それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
 かにあり、実際は存在しないのだ。
 
 『私は在る』(p306-307)
------------------------------------

> そこには想像があるだけだ。

はい。

> 知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされ
> てしまった。

(;_;)

> あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほ
> ど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなって
> しまったのだ。

(>_<)

> 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。

たしかに。

> 宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。

わかります。

> それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
> かにあり、実際は存在しないのだ。

ああ……。

(-||-)

------------------------------------
 あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネ
 ルギーをつぎこんできた。
 今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。
 事実、破壊することはたやすい。
 なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
 すべては「私は在る」という想念にかかっている。
 それを徹底的に調べるがいい。
 それはあらゆる困難の根底に存在している。
 それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。
 実在は皮の内側にも外側にもある。
 しかし、皮そのものは実在ではないのだ。
 この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたので
 はない。
 あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。
 それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。
 それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。
 それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまっ
 た。
 そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。
 私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはあ
 る。
 「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
 
 『私は在る』(p317)
------------------------------------

> あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネ
> ルギーをつぎこんできた。

本当にそうですね。(;_;)

> 今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。

はい。

> 事実、破壊することはたやすい。

ホントですか。(@_@)

> なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。

そうか。(-_-)

> すべては「私は在る」という想念にかかっている。

(?_?)

ああ、分離幻想の元種としての「私は在る」ですね。

> それを徹底的に調べるがいい。

はい。

> それはあらゆる困難の根底に存在している。

たしかに。

> それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。

そうか。

> 実在は皮の内側にも外側にもある。
> しかし、皮そのものは実在ではないのだ。

たしかに。

たしかに、間違いなく、分離は想像から生まれた幻想ですね。

だって、分離独立したものは、現象界に幻象できませんから。

> この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたので
> はない。

(-_-)O

> あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。

おお……。

> それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。

なるほど。

見かけの分離から想像されたものであることは間違いない。(-_-)

> それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。

はい。

> それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまっ
> た。

そうか。

> そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。

(>_<)

> 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。

それがいいな。

> 私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはあ
> る。

(@_@)

たしかに。

> 「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。

ホントです。

それが身体の運命を想像して、勝手に苦しむのです。

------------------------------------
 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。
 マインドを超えたところに苦しみはない。
 苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号
 なのだ。
 同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あ
 るいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。
 苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。
 しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。
 苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に
 起こる。
 それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しな
 いことの兆候なのだ。
 健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみか
 ら自由なのだ。
 
 『私は在る』(p289)
------------------------------------

> 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。

はい、間違いなく。

> マインドを超えたところに苦しみはない。

そうか。

> 苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号
> なのだ。

わかります。

> 同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あ
> るいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。

ああ……、なるほど。

「個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あるいは変化によっ
 て脅かされている」……。

なるほどぉ。

> 苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。

はい。

> しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。

おお。

> 苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に
> 起こる。

あれま、よくわかります。(@_@)

> それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しな
> いことの兆候なのだ。

あ、そういうことか。

たしかに。

> 健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみか
> ら自由なのだ。

なんと。(-_-)

(-||-)

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 誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、
 そのなかで生きているのだ。
 わたしたちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定す
 ることだけだ。
 
 『私は在る』(p226)
------------------------------------

> 誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、
> そのなかで生きているのだ。

そうだなぁ。(-_-)

> わたしたちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定す
> ることだけだ。

間違いない。

(-||-)

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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■ 2.ラングフォードの言葉:【第六章 
               気づきを見守る気づきの発見】(4)
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『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。

前回、ラングフォードは「気づきを見守る気づき法」こそが諸宗教
の開祖たちが伝える教えの、核心部分だと伝えていました。

それに続いて今回の部分では、しかしそれらの教えがいかに弟子た
ちのなかのエゴによって歪曲されたかを伝えています。

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(本文は配信メルマガでお読みください。)

 『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p71-74)
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今回は、ここまでです。

> 99. エゴは過去のすべての宗教的および霊的教えを歪曲してしま
>   った。
>   その結果、過去のすべての宗教的また霊的教えは今ではエゴ
>   に仕えており、解放への最も直接で迅速な手段を隠している。

このことに、わたしは納得し、同意します。

>100. 過去のすべての宗教的、霊的教えに起こったのは、読む者と
>   聴く者のなかのエゴが、いわゆる「霊的教師」のなかのエゴ
>   と協力して、エゴに仕える教えを製造したことだった。
>   それから「霊的教師」と学生の両方が、その偽りの教えを
>   「真の教え」と呼ぶのだ。

そのとおりとしか言いようがない。

>   過去の霊的また宗教的教えは、偽って真理の系統としてラベ
>   ルを貼られ奨励された利己主義の系統だ。

完全に同意します。

>105. そのエゴの歪曲は、時間の経過につれてさらに大きくなる。
>   エゴの歪曲は、過去の霊的また宗教的教えの書かれた言葉と
>   話された言葉の両方に、いつでも見ることができる。

多くの出版物に見られる仏陀の教えなど、まったく似て非なるもの
ですよね。

>106. 過去の霊的教えから有益な引用を抽出することは可能だ。
>   しかしその引用は覚醒した賢者によって抽出されなければな
>   らない。

まったくです。

>107. もし抽出の試みが、解放を求めるきわめて強烈な欲望をもっ
>   てはいても、まだ覚醒していない者によって為されるなら、
>   選択されたその引用のいくつかまたはすべては、エゴに仕え
>   ることになる。

でしょうね。

>115. 「気づきを見守る気づき法」では、いかなる外部の教師も必
>   要ない。

ラングフォード師は、実際に実習が必要であることを示すと同時に、
可能なかぎりその指示を純粋に保とうとしたのでしょうね。

>119. したがって、教師は「気づきを見守る気づき」の実習だ。
>   「気づきを見守る気づき」の実習こそが真実の、実在する、
>   永続する教師だ。

ここまで聴けば、あとはもう実習するかしないかしかありません。

>126. 実践すれば、「気づきを見守る気づき法」があなたにとって
>   効果があるかないかを、あなたは確実に知ることになる。

これは公平です。

>127. したがって、それを誠実に、公平に、試してみることを考え
>   なさい。

はい。

>128. 誠実に、公平に、試してみるには、二、三ヶ月では充分では
>   ない。

二、三ヶ月では充分ではない。(-_-)

内山興正師などは、黙って十年坐るとおっしゃるくらいですから。

それからまた十年、そしてまた十年と。(*^_^*)

あはは。

(-||-)

       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

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       ………○…………○…………○………



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■ 3.編集後記:
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pariパターンという意味での“自分のこと”は、まったく棚に上げ
て書いています。

そうでないと、まったく書けなくなるので。

ただの言葉ではあっても、まともな教えの導管に成れればそれでい
い、という感じです。

今日はまだまだ明るいです。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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