━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/1/04(第560号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
空間のなかにパターンが現れ、そのパターンは変化しつづける。
空間はパターンに気づいているが、パターンは気づきえない。
パターンが自前の気づきを想像すると、無知の物語が現れる。
想像が物語のエネルギーを消尽すると、物語は自然に崩壊する。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.罪悪感、プライド、憎しみ、妬み
2.ラングフォードの言葉:【第十三章 リマインダー(3)】
3.編集後記
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■ 1.罪悪感、プライド、憎しみ、妬み
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夢のなかで新しい年が始まりました。
もし苦しむためのエネルギーが尽きたら、もともと存在してはいな
い苦しみは蒸発して、ただの空が残るのでしょう。
空は永遠の存在、苦しみは解釈を伴ったエネルギー状態です。
苦しみを生みだすことに興味があるかぎり、そのプロセスを楽しむ
しかありません。
たとえそれが、ただ苦しむだけのことであったとしても。
苦しむことが、流れるエネルギーのモデリングの型にすぎないこと
が自明だったら、いつまでも続くものでもないかもしれない。
それもまた、誰かが意図して操れるようなものではない。(-_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
やっと運命がわたしに、ラメッシ・バルセカールの次の言葉を吸収
することを許してくれたようです。
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ピーター 私は、あなたが先日、「自分のしたいことをしなさい」
と言われたと思っています。自分がしたいことをする
のと、自分が正しいと考えることをするのとでは、大
きな違いがあるように思えます。
ラメツシ
あなたが、正しい・間違っているという自分の感覚に従ってある
特定の瞬間にしたいと思うことは、まさに、源泉がその瞬間にあ
なたに考えてほしいことなのです。
さもなければ、「あなた」が主導権をもっています。
そして、私が言いたいのは、どんな個人もいないということです。
人生では、決断しないで生きることはできません。
そして私の答えは、まるで自分に自由意志があるかのように決断
しなさい、というものです。
すべての結果と選択を考え、それから決断に至ってください。
でも、心の奥深くでは、その決断は神の意志と異なることはあり
えないとあなたは知っています──さもなければ、その決断は起
こらなかったでしょう。
もしそれが神の意志でなければ、決断は起こりませんし、それが
神の意志でないかぎり、決断が行為になることもありません。
そして、決断は神の意志に従って厳密に結果を生じます。
まるであなたが自由意志をもっているかのように決断をするとい
うこと以外に、どこに「あなた」が入ってくる余地があるのでし
ょうか?
問題は、「自分」に何が起こるのだろう?と考えるから起こるの
です。
でも、どんな「自分」もいないのです!
それゆえ奥深いところでは、それは「自分」の決断ではなく、神
の意志であると知って決断してください。
責任とは、まるで自由意志があるかのようにあなたが行為すると
いう事実から、生まれます。
あなたがまるで自由意志があるかのように行為することで、あな
たは結果に対する責任を想定します。
でも、心の奥深くでは、結果がどうであれ、それはその肉体精神
機構の運命なのだと知っています。
私の考えでは、責任という問題はないのです。
しかし、世間で生きるのに、責任感を無視することはできません。
それなら、どうしたらいいでしょうか?
あなたがプログラムされているだけ、責任をもって行動してくだ
さい。
『誰がかまうもんか?!』(p286-287)
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> ピーター 私は、あなたが先日、「自分のしたいことをしなさい」
> と言われたと思っています。自分がしたいことをする
> のと、自分が正しいと考えることをするのとでは、大
> きな違いがあるように思えます。
せっかく覚者が「自分のしたいことをしなさい」と言ってくれても、
“道徳”に拘束されている我々はそうもできません。
だから、ピーターを代理人に立てて、こう聞くわけです。
【自分がしたいことをするのと、自分が正しいと考えることをする
のとでは、大きな違いがある】のではないか、と。
このラメツシの解答には、ある意味で、すべてが含まれています。
> ラメツシ
> あなたが、正しい・間違っているという自分の感覚に従ってある
> 特定の瞬間にしたいと思うことは、まさに、源泉がその瞬間にあ
> なたに考えてほしいことなのです。
まず、【源泉】というラメッシの方便を理解する必要があります。
ラメッシ・バルセカールのいう【源泉】とは、ありとあらゆるもの
すべての源であり、かつ実体であるものです。
ラメッシが使う観念を“意識一元論”と呼んでもいいでしょうが、
その意味では、「源泉」はその「意識」の同意語です。
ラメッシは「意識」という言葉を次のように使います。
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存在するすべては意識です。
それは、現象がそこから生じてくる源泉です。
現象の機能とは、私たちが知っているような人生であり、現象の
機能においては、個人の意志ゆえに起こることは何もありません。
神の意志でなければ、何ごとも起こりえないのです。
そして、私がここで「神」と言うのは、源泉を意味しています。
ですから、まず第一に、存在するすべては源泉です。
それを意識と呼んでもいいし、ラマナ・マハルシの言うように、
真我と呼んでもいいですし、あなたが好きなように呼んでかまい
ません。
『誰がかまうもんか?!』(p58)
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といったような感じです。
その【源泉】と、我々の人生がどのような関係にあるのかと言えば、
ラメッシが使うイメージはこのようなものです。
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源泉はそれ自身の中にこの現象を映像として創造し、現象が機能
するようにしています。
ですから、現象とその機能──私たちが人生と呼んでいるもので
すが──そのすべては、源泉の中の映像なのです。
……まず初めに源泉があります。
源泉が映像を創造します。
映像とは「私は在る」です。
『誰がかまうもんか?!』(p62)
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まあ、これがドラマも意味も含めた全宇宙ということでしょう。
だから、ラメッシが使う方便では、ドラマも意味も含めた全宇宙を、
源泉とも意識とも神とも呼ぶわけです。
その意味では、ニサルガダッタが使う実在と現象を峻別する次のよ
うな方便とは異なるようでもあります。
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不変なるものは、あなたにとって何の役にも立ちはしない。
あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望すると
きだけ、マインドのレベルから見たとき空や暗闇として描写でき
るものへと方向転換し、踏み込む用意ができたのだ。
なぜならマインドは内容と多様性を求めるからだ。
一方、実在とはマインドにとって内容物のない不変なるものなの
だ。
『私は在る』(p454)
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とはいえ、ラマナ・マハルシも、ニサルガダッタも、ラメッシ・バ
ルセカールも、ともに【源泉】から流れだすパターンでしょう。
すべては【源泉】から飽くことなく流れ出すパターンであることは
間違いないでしょう。
我々人間(エゴ)は、自分を対象化して、全体から分離し、それか
らそれを現象世界の一隅に閉じ込めては苦しんでいます。
と同時に我々は、自分(エゴ)を主体として、対象化から免れよう
とする癖も担わされています。
それもこれも、ラメッシのいう【聖なる催眠】の一部です。
でも事実は、我々人間はこうして身体として物理次元に現れ、想念
としてメンタル次元に現象しています。
現れている以上、人間は対象です。
主体ではありえません。
【主体性に引きこもる】ことなど人間にはできません。
つまり、【主体性に引きこもる】ことができる実体は、人間ではな
いと言えそうです。
というわけで、少し寄り道して周辺情報を再確認しました。
もう一度、ラメッシの言葉を再掲しましょう。
> あなたが、正しい・間違っているという自分の感覚に従ってある
> 特定の瞬間にしたいと思うことは、まさに、源泉がその瞬間にあ
> なたに考えてほしいことなのです。
この言葉が、比喩としてではなく、事実として聞こえてきたら、そ
れが運命が許容している理解の曙なのかもしれません。
わたしというDNAと条件づけによるプログラミングが、まさにいま、
わたしに理解させようとしている。
> さもなければ、「あなた」が主導権をもっています。
もし、そうでなければ、これまでわたしが思わされてきたように、
わたしという個人がいて、わたしが考えていることになる。
プライドと、疚しさと、恥ずかしさをゴチャ混ぜに伴いながら。
わたしはあるときから、こんな疑問を抱懐するようになりました。
<何故に全ては始まってしまったのか?>
もちろん、自分がこの疑問に思い至ったのだと思っていました。
まさか、そのように運命に導かれたのだとは思っていなかった。
でも、今になってみれば、それがわかります。
そのような運命だったのですね。
映画のシナリオだったと言ってもいい。
ラメッシが言うように。
> そして、私が言いたいのは、どんな個人もいないということです。
まさに、どんな個人もいない。
プログラミングを担ったバイオコンピュータが現象しているだけ。
> 人生では、決断しないで生きることはできません。
まったくです。
感覚器官への入力を無視できるバイオコンピュータはありません。
何かかにかの出力をアウトプットしなければならない。
> そして私の答えは、まるで自分に自由意志があるかのように決断
> しなさい、というものです。
事実は、それしかできないわけです。
与えられた刺激に対する脳の演算結果を出力する過程こそが、自分
の自由意志による決断という幻想過程なのですから。
その自動過程を無視することも、それに逆らうこともできません。
> すべての結果と選択を考え、それから決断に至ってください。
エゴは、つぶさに“自分”の都合を勘案し、“自分”に一番有利な
“自分”に一番ふさわしい決断をせざるをえない。
それが、その瞬間の入力刺激に対する“自分”というバイオコンピ
ュータの演算と出力という、その瞬間の自動過程なのだから。
> でも、心の奥深くでは、その決断は神の意志と異なることはあり
> えないとあなたは知っています──さもなければ、その決断は起
> こらなかったでしょう。
自分の意志と神の意志が同じであるはずがない、というような遠慮
自体が、源泉から流れ出している幻想です。
自惚れも源泉から流れ出ている幻想なら、遠慮も源泉から流れ出て
いる幻想です。
高邁な精神も、卑劣な策略も、すべて源泉から流れ出している幻想
です。
いったい何のために? (@_@)
あえてマインドで答を捻り出すなら、われわれが知っているような
人生を可能にするために……。
そんな馬鹿なことがあるはずがない、と思えるのなら、そう思える
間は、自分の自由意志を信じて決断すればいいだけです。(^_-)
その決断が神の意志と異なることはありえないのですから。
さもなければ、その判断は起こらなかったでしょう。
> もしそれが神の意志でなければ、決断は起こりませんし、それが
> 神の意志でないかぎり、決断が行為になることもありません。
これはまったく数学的に客観的なお話です。
> そして、決断は神の意志に従って厳密に結果を生じます。
映画があるゴールに向かって厳密に細部を積み上げていくように。
> まるであなたが自由意志をもっているかのように決断をするとい
> うこと以外に、どこに「あなた」が入ってくる余地があるのでし
> ょうか?
このラメッシの言葉の包含を考えてみてください。
じつに、数学的に美しい表現じゃありませんか。
【まるであなたが自由意志をもっているかのように決断をする】
……。(-_-)
もし、分離した意志を持つ諸実体が【自分の自由意志で決断する】
という世界がありうるなら、それこそは混沌そのものでしょう。
そこにどんなパターンを識別することもできないでしょう。
ちょっと全体を統括するいかなる原理も存在しない世界を想像して
みてください。
それは指揮者のいないオーケストラという言葉から連想される状況
をはるかに上回る混沌でしょう。
それを世界として認識することは不可能でしょう。
誰が認識するのか、という問いは措いておくとしても。
では、識別可能な世界のなかで【自分の自由意志で決断する】とい
うドラマを展開したいとなったら、どうすればいいのか?
想像するに【まるであなたが自由意志をもっているかのように決断
をする】という幻想を実現する以外に、方法はないのではないか?
ま、そういった観念論は脇においておきましょう。
ただ、
【まるであなたが自由意志をもっているかのように決断をするとい
うこと以外に、どこに「あなた」が入ってくる余地があるのでし
ょうか?】
というラメッシ・バルセカールの言葉は味わってみるに値します。
これ以外に、「あなた」が入ってくる余地などないということを。
> 問題は、「自分」に何が起こるのだろう?と考えるから起こるの
> です。
それは、体験的に保証できます。
> でも、どんな「自分」もいないのです!
「自分」と思われる体験はあります。
でも、その体験を実現した自分は、少なくともこの「自分」でない
ことは間違いない。
> それゆえ奥深いところでは、それは「自分」の決断ではなく、神
> の意志であると知って決断してください。
まったくです。
(-||-)
> 責任とは、まるで自由意志があるかのようにあなたが行為すると
> いう事実から、生まれます。
たしかに。
> あなたがまるで自由意志があるかのように行為することで、あな
> たは結果に対する責任を想定します。
そう。
そして、自惚れと、疚しさと、恥ずかしさを、捏造するのです。
> でも、心の奥深くでは、結果がどうであれ、それはその肉体精神
> 機構の運命なのだと知っています。
まさに、担ったDNAと条件づけが導く運命です。
> 私の考えでは、責任という問題はないのです。
はい。
> しかし、世間で生きるのに、責任感を無視することはできません。
同意します。
> それなら、どうしたらいいでしょうか?
ええ。(-_-)?
> あなたがプログラムされているだけ、責任をもって行動してくだ
> さい。
そういうことですね。
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いったんあなたがどんな個人も何もしていない──行為は、神の
プログラムによって、おのおのの肉体精神機構を通じて起こる─
─ことを受け入れれば、そのときには、四つの美しいことが起こ
ります。
罪悪感もなく、プライドもなく、憎しみもなく、妬みもない。
人生はシンプルになります。
『誰がかまうもんか?!』(p139-140)
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> いったんあなたがどんな個人も何もしていない──行為は、神の
> プログラムによって、おのおのの肉体精神機構を通じて起こる─
> ─ことを受け入れれば、
たしかに、知的には理解できました。
> そのときには、四つの美しいことが起こります。
(-_-)?
> 罪悪感もなく、プライドもなく、憎しみもなく、妬みもない。
ああ。
……なるほど。
> 人生はシンプルになります。
わかりました。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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はい。
(-||-)
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永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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■ 2.ラングフォードの言葉:【第十三章 リマインダー(3)】
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『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。
前回からの第十三章「リマインダー」のつづきです。
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(本文は配信メルマガでお読みください。)
『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p136-139)
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今回は、ここまでです。
こういう表現は、確かに客観的だとは思いますが、いかにもラング
フォード流という感じもします。(*^_^*)
本書は第十四章まであります。
少しずつ、ご紹介していきます。
(-||-)
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 3.編集後記:
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ラメッシ・バルセカールは、
> いったんあなたがどんな個人も何もしていないことを受け入れれ
> ば、そのときには、四つの美しいことが起こります。
と言います。
> 罪悪感もなく、プライドもなく、憎しみもなく、妬みもない。
(@_@)
> 人生はシンプルになります。
と。(-_-)
確かに、全体に逆らって、自ら何かを選択できるような行為者は、
存在しえないようです。
もしその事実を心底受け入れたとしたら、あなたというパターンに
起こる最大の変化は何だと思いますか?
罪悪感がなくなることでしょうか?
プライドがなくなることでしょうか?
憎しみがなくなることでしょうか?
それとも、妬みがなくなることでしょうか?
どう思いますか?
そしてそのようないささか【個人的な偏り】は、あなたが選択した
のだと思いますか?
それとも単に、あなたはそれを負わされただけでしょうか?
だとしたら、自分とはいったい何なのでしょうか?
今日はもう真っ暗になりました。
お休みなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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↑コピーレフトの概念についてはこちら↓をご覧ください。
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