━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/1/04(第561号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
空間のなかにパターンが現れ、そのパターンは変化しつづける。
空間はパターンに気づいているが、パターンは気づきえない。
パターンが自前の気づきを想像すると、無知の物語が現れる。
想像が物語のエネルギーを蕩尽すると、物語は自然に崩壊する。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在868名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.自分の責任じゃない
2.ラングフォードの言葉:【第十三章 リマインダー(4)】
3.いただいたお手紙から:拓さん
4.編集後記
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■ 1.自分の責任じゃない
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人生とは個々人の記憶の継ぎ接ぎです。
“個々人”という実体が存在するわけではないので、もう少しあり
ていに言えば、人生とは個々の記憶断片の継ぎ接ぎです。
その個々の記憶断片への執着が強ければ、そこから紡がれる物語は
磁化され、エネルギーを帯びます。
すると、連続性を持った物語へ、いわゆる目覚めの意識が見る夢へ
と誘導されることになるのでしょう。
その夢に意識エネルギー(=注意)を注ぎ続けるかぎり、その夢は
どこまでもリアルに次の画面を展開し続けるでしょう。
でも、その過程で何かがおかしいと感じられる状況が生まれるかも
しれません。
もちろん、その個々の目覚めの意識が見る夢自体が、そんなことを
思いつくわけではない。
その目覚めの意識が見る夢の物語が、そんなことを思いつく筋書き
になっていた、ということでしょう。
そして、そういう筋書きの夢のなかでは、夢を紡ぐエネルギー自体
が遅かれ早かれ衰退していくことになる。
すると、まるで映写機が故障しはじめたように、夢の展開に細かい
脱落が起こることになる。
これは、夢を見ている仮想の個人の手柄とかではありません。
仮想の個人は、頑張るつもりだけれど、ただどことなくお手上げに
なっていて、物語の進行にはかばかしく追従できていない。
年寄りが若者ほどには新しいドラマに熱中できないようなもので、
だんだんどうでもよくなってくる。
Who cares? 誰が気にする? (^_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
ラメッシ・バルセカールは『誰がかまうもんか?!』のなかで、こう
言っていました。
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いったんあなたがどんな個人も何もしていない──行為は、神の
プログラムによって、おのおのの肉体精神機構を通じて起こる─
─ことを受け入れれば、そのときには、四つの美しいことが起こ
ります。
罪悪感もなく、プライドもなく、憎しみもなく、妬みもない。
人生はシンプルになります。
『誰がかまうもんか?!』(p139-140)
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と……。
pariパターンの場合、行為者としての自分がいると思っていたとき、
一番しょっちゅう浮上してきたのは「恥ずかしさ」でした。
これは、ラメッシが挙げている、
> 罪悪感もなく、プライドもなく、憎しみもなく、妬みもない。
で言うなら、罪悪感とプライドがゴチャ混ぜになったような感情か
もしれません。
対人的関心が比較的希薄なpariパターンの場合は、憎しみや妬みは
あまり感じたことはありませんでした。
羨ましさは、感じましたが。
まあ、そんなDNAの組み合わせのどうこうは、どうでもいいですね。
夢が崩壊してもいないのに、夢の傾向分析をしても仕方がない。
要するに、問題というのは、物語のなかにしかありません。
物語の価値とか意味が疑われてくると、問題というのは居所がなく
なってくるようです。
すべての物語の価値、といっても、よく知っているのは“自分”と
いう物語ですが、これが疑われると問題は存在しにくくなる。
こういうのが、pariパターンの場合の道なんでしょうか。
瞑想とか愛とかいうのが、どちらもあまりピンとこない。(*-_-*)
それはマインドがまだまだ元気だからだと言われれば、そのとおり
なのかもしれないけど。
でも、その元気なマインドも、そうとう綻びてきています。
だんだん、興味を維持することが難しくなってくる。
(いい傾向じゃないの、なんて突っ込まないでね。(^_-) )
まだまだ真面目に、人間やってます。
ただ、人間というのは、思考のなかにしか存在していない、という
ことが自明にわかるようにも、なってしまいました。
つまり、考えているから、人間がいるだけです。
ときどき、考えるのがバカらしくなるか、あるいは、ただ何も考え
ていないときは、人間は存在していない。
もっとはっきりしているのは、夢も見ないような、深い睡眠状態の
なかでは、人間なんてものは存在していない。
で、これまでの人生の大部分では、深い睡眠状態などまったく視野
に入っていませんでした。
そして、考えている状態だけが、問題(大事)だったわけです。
ところがいまや、考えている状態というのは、記憶の継ぎ接ぎのな
かを右往左往するだけのこと、というのが自明になってしまった。
それ自体、大して価値のあることとも思えないし、しかも、それを
しているのは“自分”でもないらしいことがわかってしまった。
考えている“自分”が存在しているのではなく、投影される思考に
注意の焦点を奪われているだけなのが、自明になってしまった。
こういう話は、聞こえるタイミングと、聞こえないタイミングが、
あると思います。
でも、聞こえてしまった。
こういう話が聞こえてしまったら、夢を見ている当人(という架空
の実体)に起こることは、当人のコントロールを超えています。
つまり、遅かれ早かれ、そんな当人などもともと存在していなかっ
たということが、ますます自明になるだけです。
すべては、自動過程でしょう。
そうなったら、誰が一生懸命に問題など担ごうとするでしょうか?
いずれにしろ、それはマインドのスクリーンに投影されている思考
にすぎないことが自明なのですから。
もちろん、これまでの癖で、ある程度は真面目に応対します。
でも、いわば自然発生的な、サボタージュも起こるでしょう。
夢のリアリティが綻びてくるのです。
いずれにしろ、自分の責任じゃないんですから。(*^_^*)
マハラジだって保証しています。
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質問者 では、私は何でも好きなことをして、普遍的な力に非難
を浴びせればいいということですか? なんと楽なこと
でしょう!
マハラジ
そうだ。
とても楽なのだ。
すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさ
い。
もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我
の実現への最短の道だ。
欲望と恐れなしにすべてのコントロールと責任を放棄しなさい。
『私は在る』(p167)
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こんな言葉が納得されて来ようとは、思っていませんでした。
> すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさ
> い。
そんなこと、できっこないと思っていた。
でも、「すべての動きを司るものの存在」は明らかだし、だんだん
「彼にすべてをまかせ」ることの方が自然になってくる。
> もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我
> の実現への最短の道だ。
ですよね……。(-_-)
神を出し抜こうと思って、もう少しあれこれやりくりするだろうけ
ど、それだっていつまで続くものか……。
> 欲望と恐れなしにすべてのコントロールと責任を放棄しなさい。
マハラジはそう言います。
でも、それができないpariパターンのようなタイプに対しては、
ラメッシ・バルセカールの方便がある。
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人生では、決断しないで生きることはできません。
そして私の答えは、まるで自分に自由意志があるかのように決断
しなさい、というものです。
すべての結果と選択を考え、それから決断に至ってください。
でも、心の奥深くでは、その決断は神の意志と異なることはあり
えないとあなたは知っています──さもなければ、その決断は起
こらなかったでしょう。
もしそれが神の意志でなければ、決断は起こりませんし、それが
神の意志でないかぎり、決断が行為になることもありません。
そして、決断は神の意志に従って厳密に結果を生じます。
まるであなたが自由意志をもっているかのように決断をするとい
うこと以外に、どこに「あなた」が入ってくる余地があるのでし
ょうか?
『誰がかまうもんか?!』(p286-287)
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【まるで自分に自由意志があるかのように決断】する……。
まるで自分に自由意志があるかのように考えることに興味を持ち、
まるで自分に自由意志があるかのように考えることに興味を失う。
問題というのは、それを支えることに興味があるから生じます。
問題を支えるエネルギーが枯渇すれば、自然に問題は消失する。
もともと、問題自体が自前で存在しているわけではないので。
問題の発生も、問題の消失も映写対象の一部でしかない、わたしな
どの一存で決まることではない。(-_-)
……。
最近、Oshoの言葉を翻訳する機会があったんですが、こんな言葉が
あったのでご紹介します。
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あなたはこれまでに人が死んでいくのを見たことがあるかね?
きっとあるに違いない。
この次誰かが死を迎えているとか、誰かが死んだと耳にしたら、
すぐにそこに行って座り、何が起こっているのかをただ感じよう
としてみなさい。
もし人が死んでいくのを見守ったら、あなたは自分の中でたくさ
んのことが起こっているのを感じるだろう。
なぜなら死んでいく人は、自分の思考をすべて放出するからだ。
今やこの家はもう安全ではない。
それらの思考は出発しはじめる。
まるで巣がもう安全でなくなって、小鳥たちが飛んでいるかのよ
うに。
この家はもう役に立たない。
中にいるのは危険だ。
これは壊れる可能性がある。
今にも壊れそうだ。
だから全員が立ち去ろうとしている。
すべての思考が飛んでいる。
もし死を迎えているのが善人なら、傍らに座っているあなたは、
突然自分の中に善良さが目覚めるのを感じるだろう。
もし死につつあるのが悪人なら、あなたは自分の中に突然、悪が
目覚めるのを感じるだろう。
もし死んでいくのが非常に邪悪なら、あなたは自分が邪悪になる
のを感じるだろう。
もし聖者が死を迎えているなら、あなたは突然かつて覚えがない
ほどの無邪気さが自分の中に起こるのを感じることだろう。
その死者がまわりにその雰囲気全体を生み出しているのだ。
彼の思考が動いている。
思考の一団が、小鳥の一団のように動いているのだ。
じきにそれらは別の子宮に降りていくことになる。
どこかで男女がセックスをすることだろう。
全世界で、いついかなるときにも、無数の人々がセックスをして
いる。
その人たちこそが、その一団の思考にとっては、入っていく子宮
の、手に入る新しい家のチャンスだ。
もしあなたが自分の死の前に、それらの思考が分離しており、そ
れらの中に無限の空間が、隔たりがあることを理解していたら。
もし生きているうちにエゴが解体して、エゴなど存在しないこと
が、内側に「自分」などというものが存在しないことを理解して
いたら。
そのときは、あなたは再び生まれようとする欲望を持たずに死ぬ
ことになる。
それが無駄なのを知っているからだ。
あなたがエゴなど存在しないことを知っているとき、すべての欲
望は消える。
あなたは欲望しない。
あなたはただ死ぬ。
欲望という粘着力がなくては、思考は放出されるが、それらが塊
になることはできない。
その粘着力が欲望だ。
それはすべての思考を他の思考とくっつけてひとつの全体を作る。
もしそこに欲望がなければ、思考は消えることになる。
それらは無限の大空に動いていくが、一団としてではなく、個別
の原子として移動していき、あなたは完全に消えてしまう。
この消滅がニルヴァーナ(涅槃)だ。
だが人は、死ぬ前にそれを知らなくてはならない。
人は死の前に、死ななくてはならない。
宗教のすべての技とは死ぬ方法だ。
だがそのとき言外に生きる方法が含まれるのは、正しく生きては
じめて、あなたは正しく死ぬことができるからだ。
正しくと言うとき、私は善良な人生を意味しているのではない。
正しくと言うとき、私は瞑想的な生を意味している。
正しい人生と言うとき、それは道徳的な人生という意味ではない。
私が言うのは、ごくごく理解している人生、気づいている、油断
のない人生だ。
あなたが自分の内側に入って、誰もそこにいないことを知らない
かぎり、それは難しい。
あなたがどのように多くの人生を通過してきたかを理解すること
は不可能だろう。
『Tao: The Three Treasures』V01.2 #4
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いかにも、瞑想を薦めるOshoらしい表現ですが、欲望の何たるかを
とてもイメージのある言葉で明かしてくれています。
> その粘着力が欲望だ。
欲望とは、記憶の継ぎ接ぎを参照して紡いできた物語への執着であ
ることが、ここで見事に表現されていると思います。
> それはすべての思考を他の思考とくっつけてひとつの全体を作る。
個人の物語として維持するということでしょう。
> もしそこに欲望がなければ、思考は消えることになる。
思考は雲散霧消し、苦しむべき当人の物語を形成できなくなる。
国家が、司令塔を失い、特定秘密保護法を維持できずに、防衛省が
解体してしうようなものでしょうか。(^^;)
> それらは無限の大空に動いていくが、一団としてではなく、個別
> の原子として移動していき、あなたは完全に消えてしまう。
どんな物語の価値も信じられなくなっているのでしょう。
すばらしいことです。(-||-)
ただ、こんなことを書いているからと言って、pariパターンの肉体
崩壊時の粘着力の状態は、保証の限りではありません。(^_-)
Oshoは別のところで、
> 瞑想者だけが闘わずに死ぬことができる。
などとイケズなことを言って、脅していますから。(*^_^*)
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瞑想者だけが闘わずに死ぬことができる。
さもなければ闘いは無意識だ。
あなたが闘うだろうというのではない。
あなたは自分が闘っていることに気づくのだ。
そして闘わないことはほとんど不可能だ。
抵抗は無意識であり、それは組み込まれたものだ。
『The Beloved』V01.21 #7
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なるほど。(-_-;)
まあ、そういうところを通って、pariパターンは今もこうしている
のかもしれませんが……。
でも、たとえ永遠にそうだとしても、それは全宇宙・全顕現のなか
の束の間の極小パターンの一存でどうなるものでもない。
そもそも、“束の間の極小パターン”に“一存”などというものが
あるはずもない。
全宇宙・全顕現に織り込まれた、一瞬のエネルギーパターンでしか
ありません。
以前、こんなことを書いたことがあります。
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そして後年、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で次兄
イワンが弟のアリョーシャにした、あの“幼児の苦痛”の話を読
んだのだった。
それは全身が震えるような感動であり、私の全細胞が同意を叫ん
だ。
おねしょをして折檻された幼児が、押し込められた便所の中で、
「神ちゃま」と助けを求めるとき、その幼児の苦痛を正当化でき
るような神の法則があったとしても、自分にはそんなものは受け
入れられない、というあのイワンの言葉に。
『21世紀への指導原理 OSHO』(p83-86)
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「赤心(しゃくしん)もとゞまらず、片々として往来す」。(-||-)
ドストエフスキーが描いたイワンには、神に抗うエネルギーがあり
ました。
そしていまは亡き昔の一時的pariパターンにも、そのエネルギーが
ありました。
しかし、現在のこの一時的pariパターンにそのエネルギーがあるだ
ろうか? (-_-)
いや、とんでもない。
昔あったそのエネルギー状態も、今は亡き昔の一時的pariパターン
の所有物だったわけじゃありません。
そのエネルギー状態を“自分”だと誤解する粘着力(聖なる催眠)
が、当時現象していたというだけのことでしょう。
当時もpariという個人は存在していなかったし、まったく同じく、
現在もpariという個人は存在していない。
当時観ていたのも<いま>だし、今見ているのも<いま>です。
それだけが、存在する「実在」ですから。
どんな状態も、その状態がそれを知覚し、その状態がそれを見てい
るわけではない。
状態は映画のなかの登場人物、観ているのは観客の<いま>です。
あるいは、きわどい言葉で、「わたし」と言ってもいい。
「私は在る」こそ、顕現と非顕現をつなぐ通路なのだから。
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
------------------------------------
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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■ 2.ラングフォードの言葉:【第十三章 リマインダー(4)】
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『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。
今回で第十三章「リマインダー」は終わりです。
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(本文は配信メルマガでお読みください。)
『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p139-142)
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今回は、ここまでです。
次回から本書の最終章、第十四章に移ります。
少しずつ、ご紹介していきます。
(-||-)
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■ 3.いただいたお手紙から:拓さん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
今回世界一周の旅をなさっている拓さんという方から、このサイト
へのリンク許可を求められたご投稿をただきました。
ご本人の許可を得て、早速ここにもご紹介させていただきます。
【件名】: リンクの許可願い
------------------------------------
初めてメールさせていただきます。
私は今、メルボルンに滞在して、セーラー・ボブ・アダムソンの
話を聞いております。
その様子をブログに書こうと思っていますが、パリトーショさん
が翻訳されたボブの本「living reality」が大変参考になるの
で、リンクを貼らせていただけないでしょうか。
リンク先 https://www.ascensionkan.com/mm/vol442.html
私のブログhttp://yosikoakihiro.cocolog-nifty.com/blog/
ブログは1月10日、午前零時公開予定です。
------------------------------------
> 初めてメールさせていただきます。
はじめまして、pariです。(^^)/
> 私は今、メルボルンに滞在して、セーラー・ボブ・アダムソンの
> 話を聞いております。
はい。
> その様子をブログに書こうと思っていますが、パリトーショさん
> が翻訳されたボブの本「living reality」が大変参考になるの
> で、リンクを貼らせていただけないでしょうか。
> リンク先 https://www.ascensionkan.com/mm/vol442.html
>
> 私のブログhttp://yosikoakihiro.cocolog-nifty.com/blog/
>
> ブログは1月10日、午前零時公開予定です。
了解いたしました。どうぞリンクを貼ってください。
なお、このご投稿は『アセンション館通信』の次号にも
掲載させていただきます。
もしよろしければ、この投稿欄を使って『アセンション館通信』
にもボブさん関連の記事をご投稿ください。
喜んで、掲載させていただきます。
Love pari
………○…………○…………○………
【追補】
拓さんからメールをいただいたのは
http://yosikoakihiro.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-1.html
この記事↑を書かれたころです。
『アセ通』にまでご投稿いただけることはなさそうなので、ご興味が
ある方は、彼のブログをご覧ください。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 4.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
自分でもちょっと思いがけないことを書いているなぁ、という気も
します。
でも、そう言うしか他に言い方がないよなぁという感じもします。
まあ、予定の画面が自然に流れているのでしょう。
いずれにしろ、映画のなかの登場人物の責任ではありません。
たしかに、気楽になりますね。
少し日が長くなってきたのでしょうか。
まだ明るいですね。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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