━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/2/15(第566号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
こうして顕れているものはすべてパターンです、概念です。
そのパターン、意識作用、概念化の背景に……不動の実在が在る。
意識作用は専ら分離、識別、対比などの二元化の作業に忙しい。
概念化の作業は永遠の盥回し・創造であり、そこに安らぎはない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.未探求と未調査、想像と軽信のなかに
2.ラングフォードの言葉:【第十四章 体験 旅 最終目的地(5)】
3.編集後記
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■ 1.未探求と未調査、想像と軽信のなかに
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今日は温かい日ですね。
頭が何かの情報に気づく前に、身体の何処かにある感じが浮かんだ
りすることがあります。
そのときその身体のある部分は何かを感じているのでしょうか?
たとえば、みぞおちのあたりになにか微かな感じが起こって、あれ
これは何かな、と思っても、その原因に思い当たらないとか。
そんなこともあります。
もちろん、感覚の鋭い人だったり、あるいは何かの訓練をしている
人だったりすると、それが何なのかわかるのかもしれません。
でも、いずれにしろ、すべてはただ起こることになっていることが
起こるだけだと思います。
それにどんな“解釈”が同伴するかどうかは、それもまた起こるこ
とになっていることの一部でしょう。
だから、まあ、どうでもいいこととも言えます。
ナンノコッチャ。(^_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
pariパターンのこれまでの一生は、いつも“こうすれば良かった”
とか、“こうだったら良かったのに”とかいうものでした。
あるいは、“これは何故こうなのか?”とか、“何故こんなものが
必要なのか”とか、まあ、そんなようなことでした。
そういうこと全体は、たぶん、不必要だったのかもしれません。
でも、それはそのように起こった。
ということは、いまのこの感想や解釈が不必要であるのと同じく、
不必要でありながら起こったのでしょう。
ということは、それは起こることになっていたから、起こったわけ
ですよね。(*^_^*)
このメルマガも、まったく同じことです。
それは不必要だったのかもしれないけれど、でもこのように起こっ
ています。
ならば、それは起こることになっているから、起こっているわけで
しょう。
そうでないと、起こることになっていないことを、pariパターンが
起こせることになってしまう。
現象世界という投影物の一部であるpariパターンに、むろん、そん
なことができるはずがありません。
すべては、今現在、この<いま>のなかにすべて存在しています。
そして“こうすれば良かった”とか“こうだったら良かったのに”
といった幻想を創造するために、この仕掛けはあるのです。
それは「リーラ(神の遊び)」とも言われていて、全身全霊で、ト
ータルに遊ぶための仕掛けだ、という方もいます。
その「リーラ」があまりにもつらいものになったら、それは限度を
超えてしまうということもあるかもしれない。
でも、いったい、誰の限度を超えるのでしょうか?
神のですか?
神って、限度のない存在のことじゃなかったでしたっけ?
限界のないものに限界を幻想させること自体が、現象世界の役割な
のかもしれません。
pariパターンは思いが何よりも大切だと思ってきた人でした。
だから、振り子を振って、ちょうどその逆も起こるわけでしょう。
思いはただこの瞬間に差し出された「メニュー」にすぎない。
かならずしも、受け取らなければならないものでもない。
【配達を受け取らない】ということも大いにあっていいわけです。
吟味すれば、ほとんどの思いは受け取るに値しないかもしれない。
別に欲しくもないわけです。
配達を受け取れば、そこに体験が起こります。
体験について、マハラジはこんなことを言っています。
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質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚も
また体験ではないでしょうか?
マハラジ
明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。
記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関
係の根底において共通の要因があるためだ。
同一性と連続性は同じものではない。
ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのす
べての色は同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記
憶においては別々でありながら、本質においては同一の分割不可
能な気づきのなかに現れる。
この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の
「可能性」なのだ。
『私は在る』(p23-25)
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> 質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚も
> また体験ではないでしょうか?
これ、なかなか微妙なところを突いた質問ですね。
> マハラジ
> 明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
体験されたことはすべて体験、うん。
> そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。
ほう。
ボブさんは、「質問者」とは「質問」のことだと言っていたけど、
それと似たようなことかな。(-_-;)
> 記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
なるほど。
> 実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
(@_@) ⌒★?
「各体験にそれぞれの体験者がいる」……。
それなら、体験と体験者を区別する意味がないな。
あ、もしかして、ひとつの人生と、転生とか魂とかいう概念の関係
も、同じようなものかも。(@_@)
ほらほら、そうやってすぐに観念に夢中になる。(^_-)
……。(*-_-*)
> そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関
> 係の根底において共通の要因があるためだ。
はい。
> 同一性と連続性は同じものではない。
む。(?_?)O
“連続性”というのは誤った概念なのか……。
> ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのす
> べての色は同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記
> 憶においては別々でありながら、本質においては同一の分割不可
> 能な気づきのなかに現れる。
ああ、なるほど。わかります。
> この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の
> 「可能性」なのだ。
なるほど。
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すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。
体験からは何も期待してはならない。
それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自
体はひとつの体験ではないのだ。
新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実
だというわけではない。
真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
それは体験を可能にする気づきなのだ。
すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべ
ての体験のなかには気づきが存在している。
それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。
『私は在る』(p420-421)
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> すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。
すべての体験が一時的な幻想なんですね。
わかりました。
> 体験からは何も期待してはならない。
はい。
> それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自
> 体はひとつの体験ではないのだ。
そうなんだ……。(-_-)
でもついつい【新しい次元の体験へと導く】ような体験を望んじゃ
うんだよな。
> 新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実
> だというわけではない。
こういう強烈なメッセージは、覚者であれば誰でも言える、という
わけでもないような。
(-||-)
> 真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
体験を吟味して学んだ理解なんですね。
> それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
わかります。
> それは体験を可能にする気づきなのだ。
はい。
> すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべ
> ての体験のなかには気づきが存在している。
体験が知覚されなければ現象できないことは、よくわかります。
つまり、知覚を可能にする背景の<気づき>が必要なことは。
> それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。
わかります。
<鏡>は鏡像ではありませんから。
それは<鏡>が自ら<鏡>であることを自覚すること、
体験(=一時的幻想)ではなく、常在が自己同定することです。
しかし、めまぐるしく変化する現象に目を奪われて、ついつい、
眼の背後ろから見ている自分を忘れてしまう。
そして虚しく体験のなかに幸福を求めてしまうのです。
起こるすべての体験が自分の体験だと思っているから。
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それらはみな、「私は身体だ」という基本的観念の糸に連なって
いるのだ。
しかし、これもまた精神的状態で永続せず、ほかのすべての状態
のように来ては去っていく。
「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく
調査しなかったからだ。
未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
それは暗室の暗闇のようなものだ。
一見、それはそこにあるように見える。
だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
どこへも行きはしない。
なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探
求と未調査、想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」
と言うことは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無
関心の現れだ。
『私は在る』(p151-152)
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> それらはみな、「私は身体だ」という基本的観念の糸に連なって
> いるのだ。
はい。
> しかし、これもまた精神的状態で永続せず、ほかのすべての状態
> のように来ては去っていく。
はい、四六時中“自分”を意識しているわけでもないです。
> 「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく
> 調査しなかったからだ。
そうか、まだ一度も調査していないのかな。(-_-)
> 未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
はい。
> それは暗室の暗闇のようなものだ。
あ。
> 一見、それはそこにあるように見える。
> だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
なるほど。
> どこへも行きはしない。
> なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
はい。
> すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探
> 求と未調査、想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
【未探求と未調査、想像と軽信のなかに】……。
そこか。
> 「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」
> と言うことは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無
> 関心の現れだ。
うーむ。(-_-)
ほとんど一生かけてジタバタしているんだから、無関心というわけ
でもないんだけど。(*^_^*)
知的な理解では足りないのか。
それともボブさんが言うように、理解は理解なのか。
とはいえ、何かを求めているというのでもないような……。
まあ、自分がいないのに、自分にできることなど何もない、という
感じかな。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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はい。
(-||-)
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永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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■ 2.ラングフォードの言葉:
【第十四章 体験 旅 最終目的地(5)】
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『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。
「第十四章 体験 旅 最終目的地」のなかの
前回からの「最終目的地」のつづきです。
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(本文は配信メルマガでお読みください。)
『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p153-156)
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今回は、ここまでです。
この「第十四章」は、初版の頃はなかった部分で、後から追加され
た部分です。
ラングフォードはこれらの説明は重要ではないと言っていますが、
ただマインドとしては一番面白いところですよね。
全体的に、だいぶ終わりが見えてきました。
少しずつ、ご紹介していきます。
(-||-)
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 3.編集後記:
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ほんと、ただ惰性で書いているだけです。
洒落て言うなら、DNAと条件づけというプログラミングをとおして、
源泉から投影されたあるパターンが書いているというか。
映画のなかで起こることになっていることは、とにかく起こらなけ
ればならないので。
こんなことを書くことが、存在しない誰かのエゴの蒸発を妨害する
のか、助けるのか、そんなことはわかりません。
そういう意識の内容は、いずれにしろ、つかの間の場面です。
注意しなければ、消えていく。
まったく見なければ、存在しないでしょう。
起こることしか起こらない……。
今日は、すっかり昏くなりました。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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