home > 通信 >『アセンション館通信』(第573号):『これのこと』2(「誰もいない」から)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/04/05(第573号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在866名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.『これのこと』2(「誰もいない」から)

2.ラングフォードの言葉:【第十四章 体験 旅 最終目的地(12)】

3.編集後記

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■ 1.『これのこと』2(「誰もいない」から)
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曇天ですね。

昔から、なぜか自分は曇天が好きだと思い込んでいました。

なんか、象徴的だなぁ。(-_-;)

ふ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

観念の中に重要なものがあると思い込んでいると、色々もっともら
しい観念、もっともらしい理解に取り込まれます。

そして観念は元々想像(=創造)なので、どこまでも新種や変種が
編み出され、尽きることはありません。

だから、いつまでも流行を追うこともできます。

でも、一回りしてみると、いつの間にか、昔通った道を歩んでいた
りするのかもしれません。

ファンタジー作家の上橋菜穂子さんに『明日は、いずこの空の下』
というエッセイ集があります。

この本に「月の光りに照らされて」というとても印象的なエッセイ
が収められています。

オーストラリアのフリンダースレンジでの雨の日の出来事、広大な
漆黒の闇の中で道に迷った体験が綴られているのです。

寒さに凍える恐怖と闘いながら、上橋さんと青柳先生の二人がひた
すら“文目も分かぬ”闇夜の中を一直線に歩いたはずなのが……。

まあ、そういうことがあるんでしょうねぇ。

現象世界はどこにも向かっていません。

現象世界に何か進化の目的地みたいなものがあるんだったら、じゃ、
なんで今そこにいないの (?_?)、ってことになるでしょうね。

成るべき状態があるなら、最初からそう成ってればいいじゃん。

全知全能の神様が、何を好んで、そんな七面倒臭い迷路に子供たち
を置かなくちゃならないわけ? (?_?)

学んで到達するその過程が素晴らしいのだ、と言うなら、現象世界
がTSUTAYAの棚に並ぶDVDと何も違わないのがよくわかります。

要するに、視聴者にどんな物語が面白いのかを推測し、その好みに
合わせて創られているだけのものだということでしょう。

最初から最後まで何も映らないDVDなら、いくら「究極の風景」と
いうタイトルを付けて、そんなもの誰も借りません。(*^_^*)

そしたら、きっと、俺ならもっとすごい「究極の風景」を創ってみ
せると、どこかのクリエイターが名乗りを上げることでしょう。

そのDVDが評判を呼んだら、俺ならもっと……、という話が起こる
にきまってますよね。

そうやって、このシッチャカメッチャカが続いているのかもしれま
せんし。

かくて、どんな「究極の風景」も作り物です。

「時間は存在しない」というのは、この事実に触れるもうひとつの
アングルでしょうか

今われわれが見ている風景そのものが、最果ての、究極の風景なん
ですよね。

もっとも風景だから、また変わるけど。(^_-)

前回、ヒロさんの新しい訳書、ジョーイ・ロットの『これのこと』
(http://goo.gl/qVHa6D)について書きました。

前回は収められている一冊目「しなくてもいい努力」について書き
ました。

じつは、まだそれしか読んでませんでした、すみません。m(_ _)m

今回は二冊目「誰もいない」から引用しようと思います。

ジョーイ・ロットという方の語り口は、どこを採ってもとてもハイ
テンションで進むので一部を抽出引用するのは難しいです。

「誰もいない」の「はじめに」のなかでジョーイ・ロットは、自分
に起こったことをこう表現しています。

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 探求、不安、強迫観念、恐怖、病気、苦しみが何年も続いたあと、
 体が疲労の極に達しで、僕は探求をそれ以上続けることができな
 くなった。
 そうなったとき、まったく無心に好奇心を持って調べるというこ
 とが初めてできるようになった。
 そして、どれだけ多くのことを信じたり概念化したりしているか、
 それがどれほど役に立たないか、どんなに目を曇らせるかってこ
 とに気づきはじめた。
 
 どんなことが起こっても、それを迎え入れ、手放し、そして好奇
 心を持って見ることで、混乱は消えはじめた。
 自分だと思い込んでいたものと自分ではないと思い込んでいたす
 ベてのもののあいだにあった架空の境界も溶け去った。
 架空の構造全体がしだいに見抜かれるようになった。
 そしてそのあと、派手なことはまったく起こらなかったけれど、
 架空の構造はすべて崩れて、いつでもすでにある空っぽさ、気づ
 いている活動性、無境界性へ消え去った。
 
 なにも変わらなかった。
 まったくなにも。
 といっても、なにかを信じたりすることがなくなり、今あるもの
 の単純さと明白さがはっきりと見えるようになった。
 そのときあきらかになったことのひとつが、誰もいないっていう
 ことだった。
 個別の自己は存在していない。
 存在していたこともない。
 まったくなにもない。
 あるのはこれだけ、
 この気づいている活動性だけで、それは完璧に明白だ。

 『それのこと』(p104-105)
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ジョーイ・ロットのように全身全霊で観念に苦しんだ人が見つけた
平安の風景なのでしょう。

そのときはじめて聞いた話ではなく、ただ調べることが起こった。

> そうなったとき、まったく無心に好奇心を持って調べるというこ
> とが初めてできるようになった。

この「まったく無心に好奇心を持って調べる」ということが、簡単
には起こらないことなんでしょうね。

それが起これば、

> そのときあきらかになったことのひとつが、誰もいないっていう
> ことだった。

というところまで行き着くのかもしれません。

“誰もいない”という知見はとっても特別なことにも聞こえます。

でも、それはそんな劇的な発見ではないという。

このあとの「求めているって、なにを?」のなかでジョーイ・ロッ
トはこう言います。

------------------------------------
 個別の自己が存在してないってことを発見したら絶対にものすご
 い変容が起こるはず?
 それは無理な期待だ。
 たぶんそんなことにはならないから。
 でもそれでもまったくかまわない。
 というのは、そのことが本当にわかったら、当然だけどそれはど
 んな変容もいらないっていう意味になるから。
 変容というのは、なにかを手に入れよう、どこかにたどりつこう
 としている個人にとっては重大事だ。
 でも、個別に存在する自己は単なる思い込みの産物だってこと、
 個別の実在性も実体もじつはなかったってことがはっきりわかる
 と、その虚構の自己に関するどんなことも気にならなくなる。
 
 『それのこと』(p113-114) 
------------------------------------

> 個別の自己が存在してないってことを発見したら絶対にものすご
> い変容が起こるはず?

われわれは、絶対にこう期待しちゃいますよね。

でも、ありがたいことに、ジョーイ・ロットは

> それは無理な期待だ。

と言います。

なぜなら、

> たぶんそんなことにはならないから。

と。

しかし、それでがっかりする必要もないらしい。

> でもそれでもまったくかまわない。

なぜなら、

> というのは、そのことが本当にわかったら、当然だけどそれはど
> んな変容もいらないっていう意味になるから。

と。

たしかに、個人など存在しないことが本当にわかったら、変容があ
ろうがなかろうが、関係ないですよね。

自慢する相手もいなければ、自慢する当人もいないことが、本当に
わかってしまったのだから。

> 変容というのは、なにかを手に入れよう、どこかにたどりつこう
> としている個人にとっては重大事だ。

ですよね。

> でも、個別に存在する自己は単なる思い込みの産物だってこと、
> 個別の実在性も実体もじつはなかったってことがはっきりわかる
> と、その虚構の自己に関するどんなことも気にならなくなる。

そう、腑に落ちた程度に、「どんなことも気にならなくなる」。

この「気にならなくなる」というジョーイ・ロットの記述は、彼の
提案でもあったのでしょう。

というのは、ジョーイ・ロットはつづいてこう言っているからです。

------------------------------------
 いま言ったこと──気にするのをやめようという捏案──は、い
 ままで目にしてきたどんなアドバイスとも真っ向から対立してい
 るはず。

 『それのこと』(p110)
------------------------------------

つまり、一挙に「気にならなく」はならなくても、「気にするのを
やめよう」と言っているようです。

そして、とても親切にも、こう続けているのです。

------------------------------------
 それから、ここにはじつは誰もいないってことが一度わかったと
 しでも、よく言われているとおりで、古い習慣はすぐには消えな
 い。
 だから、なにが起こっても別に不思議はないけど、気にするとい
 う習慣はたいていのケースではそのまま続く。
 かえって激しくなったりすることもある。
 単なる空想にすぎなかったことをばらされてしまったなにかが、
 その影響力を死守しょうとして無駄なあがきをしているような感
 じかもしれない。

 『それのこと』(p110)
------------------------------------

「古い習慣はすぐには消えない」どころか、
「気にするという習慣はたいていのケースではそのまま続く」

というのです。

「かえって激しくなったりすることもある」とまで念を押してくれ
ています。

> 単なる空想にすぎなかったことをばらされてしまったなにかが、
> その影響力を死守しょうとして無駄なあがきをしているような感
> じかもしれない。

ちょっと、ラングフォードふうのレトリック。(^_-)

というわけで、“個人は存在しない”ということを知的に理解して
からも、それまでの習慣は続く状況を丁寧に語っている。

いわゆる【悟り】ということについて、色々な幻想が剥がれていく
時代なんでしょうね。

【悟り】を個人の達成のように言う理解もありました。

むろん、【悟り】が起こったパターンはそんなことは言わないのだ
ろうけど。

どんな理解も、間違っているわけでもないでしょう。

そのようなひとつの観点なのだと思われます。

【悟り】を達成できる者などいないと断言しながらも、【悟り】に
付随するエネルギーシフトを重要視する観点もあるようです。

これは【悟り】をエネルギー現象と見る観点なのでしょう。

そして、セイラー・ボブ・アダムソンのように、エネルギーシフト
など一切なくても、理解したという観点もあります。

それ以後も習慣的思考は戻ってくるけれども、いったん見破られた
嘘は、もう同じ力を持つことはできない、というふうに。

ボブさんは、唯一存在しているものを「知性エネルギー」と呼んで
いたようです。

ジョーイ・ロットは、その同じものを「この気づいている活動性」
と呼んでいるようです。

ジョーイ・ロットは、とてもボブさんに近いような気がします。

上記の引用部分に続いて、ジョーイ・ロットはこう言います。

------------------------------------
 誰もいないってことをはっきりと見るのが愉快な経験になるとは
 かざらない。
 たぷんそうはならない。
 ただ僕に言えるのは、平安と自由をなによりも心から求めている
 のなら、なにも信じないようにしたほうがいいっでことだ。
 自分が信じていることすべてを積極的に疑ってみる。
 信じていることにまったく注意を向けないことによって。

 『それのこと』(p110)
------------------------------------

> 誰もいないってことをはっきりと見るのが愉快な経験になるとは
> かざらない。

この発言、とってもステキですね。

> たぷんそうはならない。

こう言ってもらうと、pariパターンなどは喜ぶ。(^^;)

そして、ジョーイ・ロットの処方箋はこうです。

> ただ僕に言えるのは、平安と自由をなによりも心から求めている
> のなら、なにも信じないようにしたほうがいいっでことだ。

\(^-^)/

> 自分が信じていることすべてを積極的に疑ってみる。
> 信じていることにまったく注意を向けないことによって。

そういうことですね。

またそのことに関するジョーイ・ロットの観点は、むしろ唯物論的
に客観的です。

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 ほとんどの人は、自分が信じていることを最重要視するのが習慣
 になっている。
 誰かがこんなことを言うのを何回聞いただろう。
 「いや、そんなことが本当だなんて僕はまったく信じないよ」。
 まるで大事なことを言っているみたいな感じでそう言う。
 でも実際は?
 大事なことでもなんでもない。
 自分でたしかめてみればいい。
 鉛筆を持ち上げてから、この鉛筆は空中に浮かぶぞと信じながら
 手を離してみる。
 そう信じることでなにか違いが生まれるだろうか。
 もしくはこれはどうだろう。
 明日は太陽は西から昇って東に沈むと信じてみる。
 なにを信じようが関係ない。
 太陽は変わらず東から昇って西に沈む。
 どれだけ真剣に信じても同じことだ。
 
 『それのこと』(p110-111)
------------------------------------

ふふ。

そして、ジョーイ・ロットはこう断言します。

------------------------------------
 信じるというのは単に信じるってことだ。
 意味はなにもない。
 力もない。
 注意を向ける価値なんてまったくない。
 本当だ。
 保証する。
 
 『それのこと』(p111)
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ぷ。(>_<)

この後続く、こんな観点が、ジョーイ・ロット節ということなので
しょうか。

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 でもここでたしかだと思えることがひとつある。
 それは、信じていることが大事だという感じでそこに注意が集中
 すると、はっきりと見るのを邪魔するってこと。
 どう信じていても現実は現実だ。
 現実にはまったく制限がなくて媒介も途切れもないから、なにを
 どう信じていでも、どう概念化しても、現実はそれを完璧に無視
 する。
 現実はそういう信念や概念をすべて含んでいる。
 現実を理解する方法も、概念化する方法も、信じる方法もない。
 まったくない。
 で、それは良い知らせだ。
 というのは、やっとくつろげるから。
 なにかを信じたりしていなくても宇宙はばらばらになったりはし
 ない!
 
 『それのこと』(p111)
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> なにをどう信じていでも、どう概念化しても、現実はそれを完璧
> に無視する。

これは、とてもユニークな表現ですね。

しかも、とっても唯物論的。

> 現実はそういう信念や概念をすべて含んでいる。

この「現実」という言葉は「reality」なんでしょうかね。

> 現実を理解する方法も、概念化する方法も、信じる方法もない。
> まったくない。

なるほどなぁ。

これがジョーイ・ロット流なんでしょうねぇ。

> で、それは良い知らせだ。
> というのは、やっとくつろげるから。

できることはなにもないから。

> なにかを信じたりしていなくても宇宙はばらばらになったりはし
> ない!

そして、何もできなくても、現実はそのままだから。

色々言い方はあるだろうけど、【悟り】って、観念による価値観が
崩壊するということなのかもしれませんね。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 2.ラングフォードの言葉:
           【第十四章 体験 旅 最終目的地(12)】
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『The Most Direct Means to Eternal Bliss』
(『永遠の至福への最も直接の手段』)の順次紹介をつづけます。

まあ、これで大団円というところでしょうか。

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(本文は配信メルマガでお読みください。)

 『The Most Direct Means to Eternal Bliss』(p169-171)
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ここまでです。

以上でラングフォードの本は終わりです。

(-||-)

       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:
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今日は屋根に上って少し仕事をしました。

この頃は、我ながらよく身体を動かす。

まあ、節々が痛むんですけどね。

今夜は遅くなったので、もう満月の皆既月食も終わったでしょう。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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