home > 通信 >『アセンション館通信』(第574号):あなたの想像以外は何も困難を



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/04/12(第574号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在868名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたの想像以外は何も困難を

2.ラングフォードの言葉:【第十四章 体験 旅 最終目的地(12)】

3.編集後記

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■ 1.あなたの想像以外は何も困難を
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昨夜来の雨が上がって今は曇天ですね。

ほとんど無風で、昨日よりずっと温かい。

わが家の庭の正面の花桃は五分咲き、左手の桜は三分咲きというと
ころかな。

なぜか切ないような感じもあって、これも人生の情緒です。(-_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

これといって特別の体験があるわけでもありません。

その時々の思いつきや、不幸は、ただ配給されてきた想念にすぎな
いのかもしれません。

パターンによっては幸福の瞬間を最大限に拡大しようとするタイプ
もあるようです。

それと逆に、“自分”が体験したわずかの不幸を、最大限に拡大し
ようとするパターンもあることでしょう。

どれをとっても、そんなことができる分離・独立した実体が存在し
えないことは明らかです。

どんな現象も、まわりの環境との応接のなかで存在できるにすぎず、
見かけ以外のどんな本質的境界も発見できないのですから。

謙遜したり、自慢したり、いろいろすることもあるようだけれど、
それもまた自然に浮上してくる想念にすぎません。

別に“自分”の手柄でもないし、“自分”の罪でもない。

ただ自然に湧いてくる想念に真面目に注意の焦点を合わせているに
すぎません。

現象のなかに、全体から分離して存在できる“自分”などというも
のが存在しえないことは自明なのですから。

湧いてくる想念以外の何処かに権威を求め、その権威にすがりつこ
うとすることも、そのように自然に起こっているにすぎません。

誰の手柄でもなく、誰の罪でもありません。

もちろん、現象構造体のそれぞれの部分には、その範囲内で拘束力
を持つそれなりの法則性のようなものはあるのかもしれません。

でも、どこまでそれを追求したからといって、“分離独立”してい
ると想像する観念が満足することはありえないでしょう。

この幻想世界で一生と言えるほどの長いこと、確かな言葉を求めて
さまよい続け、やっと得心がいったのはこんなことでした。

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 師や聖者や探求者たち
 彼らはみな違ったことを言う

 『Ashtavakra Gita』(p78)
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これは、本当でした。

ほんとに、みんな違うことを言うのです。(>_<)

そしてまさに、現象世界とはそのための仕組みでした。

すべてが一目瞭然に見えているのなら、そして現象世界のあらゆる
細部が一瞬で整合するなら、現象世界はありえません。

現象世界とは、喜怒哀楽を起こすための、想像のなかで、喜び、
怒り、哀しみ、楽しむための場所です。

pariパターンのなかにその了解の予兆が現れ、それを表現させられ
たのが「大歓喜自在童子」というお伽話でした。

お伽話:大歓喜自在童子(1) 

お伽話:大歓喜自在童子(2) 

お伽話:大歓喜自在童子(3) 

この「お伽話」はむろん、マインドの作品、作り話にすぎません。

幻想構造体という大博物館の一隅に掛かっている一枚の絵です。

でも、一瞬その絵の模写をさせられたからといって、pariパターン
が解体したわけでは、むろん、ありませんでした。

pariパターンがたどる物語を決定しているのは、パターンが肉体と
して誕生するときの核となる欲望のエネルギーでしょう。

そこに原因となる欲望がある間は、身体は定められた軌道をたどら
ざるをえません。

pariパターンの場合、エネルギー的な大事件を期待することはでき
ません。

なぜなら、それは「大歓喜自在童子」のようなお伽話を書くために
用意されたエネルギーパターンで、それ以外ではないからです。

pariパターンはどこまでも言葉の世界で迷わなければなりません。

その迷走コースにしたがって迷いに迷った挙句、pariパターンのな
かに沈着しはじめたのは次のような言葉でした。

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 ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、
 と絶対の確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見
 解に注意を払わず、真実とともにのみ生きるだろう。
 
 『私は在る』(p131) 
------------------------------------

何度も何度も、pariパターンによって素通りされた言葉でした。

……。(-_-)

言葉って、不思議だと思いませんか。

何度も何度も、わたしが素通りした言葉でした。

と書くと、あたかも“わたし”という実体があるかのような表現に
なってしまう。

それを避けようとして、

何度も何度も、pariパターンが素通りした言葉でした。

と書くと、pariパターンに選択の余地があるかのような表現になっ
てしまう。

じゃあ、というので、上に書いたように、

何度も何度も、pariパターンによって素通りされた言葉でした。

と表現してみても、やはり“pariパターン”という識別可能な実体
に何らかの選択の余地があるかのような含意は避けられません。

つまり、現象の一部を取り出してラベルを貼り、それについて何ら
かの記述をしたら、誤解を創造する以外のことはできないのです。

もし現象のなかに分離独立した実体が存在しえないのなら、現象に
ついてのどんな記述も、荒唐無稽なお伽話にすぎません。

つまり、現象についてのどんな定義も物語も、現象世界に現実性を
感じようとする、欲望にとってしか意味はないのです。

このとき、はじめて

「すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない」

というマハラジの言葉が意味を持ってきます。

これはどこか、禅の三祖僧燦*(そうさん)の

「一切二辺 妄自斟酌」(いっさいにへん もうじしんしゃく)

と遠く響き合っているようです。

【*注 「僧燦」のサンは、本当は王偏です。それではメルマガで
    送信できないので「愛燦燦」の「燦」で代替します。】

つまり、定義とか物語というのは、現象世界のなかでの立場を前提
にしなければ語ることはできないのです。

そして、ひとたび定義や物語を語れば、それは身体を実体化して、
分離幻想を強化することしかできない、ということです。

------------------------------------
 ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは
 何もなく、「私は在る」ということ以外に自己を語ることができ
 ないと確信すれば、「私は在る」という指針の役目は終わる。
 もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなど
 とはしないだろう。
 必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
 すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
 この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に
 努力することなく帰り着くだろう。
 
 『私は在る』(p27)
------------------------------------

> 必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。

肝心なのは、これだったんですね。

そして、自己を定義すれば、必ず惨めになるということです。

それが、埴谷雄高さんの≪自同律の不快≫の真意だったでしょうね。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol346.html#1

> すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。

すべての定義づけは、身体とその表現の延長上にあるのです。

> この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に
> 努力することなく帰り着くだろう。

この身体への固執が消えれば、無用な定義づけでいたずらに惨めに
なる必要もないわけです。

そんなことを選択できる個人もいないので、余計なお世話とも言え
ますが。(^^;)

「師や聖者や探求者たち
 彼らはみな違ったことを言う」

と教えてくださった、アシュターヴァクラからの祝福の言葉も聴き
ましょうか。

------------------------------------
 あなたは身体ではない
 身体はあなたではない
 
 あなたは行為者ではない
 それを楽しむ人でもない
 
 あなたは純粋な気づき
 すべてのものごとを見守る観照者だ
 
 期待もせず
 自由だ
 
 どこへ行こうと
 幸せでありなさい!
 
 欲望や嫌悪は心のもの
 そして心はあなたのものではない
 あなたはその混乱から自由なのだ
 
 あなたは不変なる
 気づきそのもの
 
 どこへ行こうと
 幸せでありなさい
 
 なぜなら、 見るがいい
 真我は生きとし生けるものの中に存在し
 生きとし生けるものは真我の中に存在している
 
 知るがいい
 あなたは私からも
 私のものからも自由なのだ
 幸せでありなさい!
 
 『Ashtavakra Gita』(p77-79)
------------------------------------

(-||-)

何を聴くか何を聴かないかを選択できるような、どんな実体も存在
しませんが……。

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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■ 2.いただいたお手紙から: vrmrさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


今回、vrmrさんという方から初めてご投稿をただきました。

早速ご紹介させていただきます。

【件名】: アセンション館通信の一読者です
------------------------------------
 はじめまして、PARI樣。
 一読者vrmrです。
 若い頃仏教の教学の初歩を学んだことのある父からこんな質問を
 されて返答に窮したことがあります。
 その質問とは
 「人は何故生まれ変わる必要があるのか」
 家業を継ぐため好きな学問への道を諦めた父はやはり心の中で
 本当は学問をもっと続けたかったと思い続けておりました。
 本当に学問が好きな人で特に数学をよくたしなんでおりました。
 一回しかない思い通りにならない人生は他にも多々あるかと思い
 ます。
 どうして生まれ変わることによる霊性進化?にどんな価値がある
 のか。
 そんなこと私には説明がつきません。
 生まれ変わるかどうかも本当のところ確証はもてないからです。
 競争社会でもあるまいし、スローライフでもいいじゃないという
 考えもあります。

 私はふと思う時があります。
 生まれてこの人生の色々な出来事、辛いこと、悲しいこと、楽し
 いことを全て体験したかった誰か
 により私たちはここに今あるのではと。
 つまり生まれ変わるというよりはこの地上での体験そのものが
 目的なんじゃないか?
 旅の終着点(解脱)よりも旅の途中での出来事の中で感じる何か
 を私たちは求めたんじゃないかと思うんです。

 ホントのところどうなんでしょう。
 旨い説明ができなかった私に何かヒントなりご教授お願いできな
 いでしょうか。

 長いメール大変失礼いたしました。
 ありがとうございます。
------------------------------------

vrmrさん、とても真摯な質問をわたしなどにぶつけてくださって、
恐縮というか、感謝しております。m(_ _)m

> はじめまして、PARI樣。
> 一読者vrmrです。

はじめまして、pariです。

> 若い頃仏教の教学の初歩を学んだことのある父からこんな質問を
> されて返答に窮したことがあります。

はい。

> その質問とは
> 「人は何故生まれ変わる必要があるのか」

あ、なるほど。

> 家業を継ぐため好きな学問への道を諦めた父はやはり心の中で
> 本当は学問をもっと続けたかったと思い続けておりました。

そうでしたか。

> 本当に学問が好きな人で特に数学をよくたしなんでおりました。

そうなんですね。

> 一回しかない思い通りにならない人生は他にも多々あるかと思い
> ます。

まったくです。

> こうして生まれ変わることによる霊性進化?にどんな価値がある
> のか。

そう思いますよね。

> そんなこと私には説明がつきません。

まったくです。

> 生まれ変わるかどうかも本当のところ確証はもてないからです。

おっしゃるとおりだと思います。

> 競争社会でもあるまいし、スローライフでもいいじゃないという
> 考えもあります。

ええ。

> 私はふと思う時があります。

はい。

> 生まれてこの人生の色々な出来事、辛いこと、悲しいこと、楽し
> いことを全て体験したかった誰か
> により私たちはここに今あるのではと。

なるほど。

> つまり生まれ変わるというよりはこの地上での体験そのものが
> 目的なんじゃないか?

はい。

> 旅の終着点(解脱)よりも旅の途中での出来事の中で感じる何か
> を私たちは求めたんじゃないかと思うんです。

わかります。

> ホントのところどうなんでしょう。
> 旨い説明ができなかった私に何かヒントなりご教授お願いできな
> いでしょうか。

わかりました。

vrmrさん、このような真摯な問を、わたしなどにぶつけてくださり、
ありがとうございます。

ご質問を読んで、自分に湧いてくる想念を書いてみますね。


●まずお父様からvrmrさんが尋ねられたという

「人は何故生まれ変わる必要があるのか」

という問いに関してですが……。

vrmrさんがおっしゃるように、転生があるかどうかは死後に転生し
た過程をつぶさに覚えている人がきて言ってくれないと。

また、たとえそういう方がいたとしても、今度は聞く側がその言葉
を信じるかどうかということもあります。

つまりは、自分で死んで生まれ変わるすべての体験をしないかぎり、
それは断言できないでしょうね。

そして極言するば、たとえ自分にそういう体験が起こったとしても、
それが真実かどうかはわからないと思います。

もっとも、自分にその体験の明確な記憶があれば、他人にそれを教
わろうとは思わないでしょうが。

だから、本当のところ、我々が確実に知っているのは「私は在る」、
自分は存在しているということだけなんですよね。

と、最初にお断りして。(^^;)

肉体の死を体験して戻ってきたという話は、臨死体験者の記述など
にはよく見かけるようです。

でも、“戻ってきた”ということ自体、じつは死んだのではなく、
臨死体験をしたにすぎないとも言われるようです。

そして“臨死体験”と“死”はまったく別なものだ、という言い方
もあるようです。

もっと正確に言うと、「死」というものは存在しない、と。

我々が“死”とか“死後の状態”を知りたがるのは、自分がそれを
体験していないと思っているからでしょうね。

一方、我々が「夢見のない深い睡眠状態」を別に知りたがらないの
は、自分にその体験があることを疑わないからでしょう。

そこに意識的体験は存在しないと確信しているわけでしょうね。

そして「死」についてですが、覚者がたがよく使うのは、自分は
“すでに死んでいる”という表現です。

たとえば、

------------------------------------
 質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょ
     う?
 
 マハラジ
 ジニャーニはすでに死んでいる。
 あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?

 『私は在る』(p202)
------------------------------------

といった具合です。(^^;)

そして別のところでは、こんな風にも言っています。

------------------------------------
 質問者 普通の人が死ぬとき、彼には何が起こるのでしょうか?
 
 マハラジ
 彼が信じるところにしたがって、それは起こる。
 死以前の生が単なる想像にすぎなかったように、死後もまたそう
 なのだ。
 夢は続いていく。
 
 質問者 では、ジニャーニ(賢者)においてはどうなのでしょう
     か?
 
 マハラジ
 ジニャーニは死なない。
 なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。
 
 質問者 他者にとっては、彼はそのように見えません。
 
 マハラジ
 しかし、彼自身にとってではない。
 彼自身のなかでは、物理的にも精神的にも自由なのだ。
 
 質問者 それでも、あなたは死んだ人の状態を知っているはずで
     す。少なくとも、あなた自身の過去生から。
 
 マハラジ
 私のグルに出会うまでは、私は非常に多くのことを知っていた。
 今、私は何ひとつ知らない。
 なぜなら、すべての知識は夢のなかだけにあり、根拠の確かなも
 のではないからだ。
 私は自己を知っている。
 そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在――これで
 もあれでもなく、ただ在ることだけがある。
 しかし、マインドが貯蔵庫から記憶を引き出し、想像しはじめる
 と、それは空間を対象物で、時間を出来事で埋めつくしてしまう。

 『私は在る』(p280-281)
------------------------------------

と……。

マハラジは、意識的体験がすべて想像であることを知っているので
しょう。

知覚対象がすべて崩壊すれば、ただ【在る】だけなのでしょう。

それが、夢を見ていない、ということなのだと思います。

ですから、そのような言葉を信じる立場からは、

> 「人は何故生まれ変わる必要があるのか」

というお父様の問いには、

・「魂」とか「生まれ変わり」といった概念は、個人の延長を願う
 欲望の想像ではないでしょうか、ということ。

・今“自分”が生きていると信じている人には、人生を体験したい
 という欲望があるのでしょうね

と答えることはできるかもしれません。

そういう言葉もすべて、ただの観念であることも事実ですが。


●またvrmrさんがおっしゃる

 「そうして生まれ変わることによる霊性進化?にどんな価値があ
  るのか」

という点についてですが……。

様々な状況に対する、様々な観点からの答があるでしょうが……

もし、ぶっきらぼうな言い方が許されるなら。

生まれ変わりもなければ、霊的進化もない。

もともと現象に固有などんな価値もない。

どんな観点のどんな理解も答も、すべては観念、想像(=創造)、
娯楽にすぎない。

ということにでもなるでしょうか。

すみません、こんな言い方しかできなくて。m(_ _)m


●またvrmrさんに湧いた思い、

「私はふと思う時があります。
 生まれてこの人生の色々な出来事、辛いこと、悲しいこと、楽し
 いことを全て体験したかった誰か
 により私たちはここに今あるのではと」
 
という点に関してですが。

Oshoは、転生があるかのような表現をする場合が多いのですが、
あるとき子供の質問にこんなふうに答えたことがあります。

子供に訊かれたのでは、嘘を言うわけにはいかない。(^^;)

じつは生まれ変わりというのは存在しない。

死者の中にあったたくさんの思考がばらばらに解体するとき、その
幾分かが一緒に新たな子宮に入っていくことがあるだけだ、と。

そして、また別のところで、その多くの思考群をひとつに固めてい
るのが「欲望」という“糊”だ、と言っています。

だから、vrmrさんの直感は、じつに正確だと思います。

 
●それから、

「つまり生まれ変わるというよりはこの地上での体験そのものが
 目的なんじゃないか?
 旅の終着点(解脱)よりも旅の途中での出来事の中で感じる何か
 を私たちは求めたんじゃないかと思うんです」

という点に関してですが。

わたしにも同じような個人的思い出があります。

昔、挫折感と不満でいっぱいになっていたとき、自分は人生がまっ
たくの不毛だということを覚えていよう、と思ったのです。

いつか誰かが、この人生の意味を明かしてくれるのかもしれない。

もしかしたら、自分がいつか悟って、この不毛な時間が何のために
あったのかを理解することが、あるのかもしれない。

しかし、今の自分のこの思いを、いったい誰が補償できるというの
だろう?

未来の悟った自分の理解が、この今の自分の状態をどう補償できる
というのだろうか。

今の、この自分の状態の意味が、今自分が支えているこの「意味」
以外にあるはずがないではないか、と。

そう、そのときのわたしは思いました。

その論理は、じつに鉄壁の論理のはずでした。(*^_^*)

でも、そのとき、わたしが思いつかなかったことがあるのです。

それは、

【未来のわたし】といのは、じつはいないかもしれないこと。

そして【今いるわたし】が悟ったとき、その【今自分が支えている
この「意味」】自体が、雲散霧消してしまう可能性でした。

そんな可能性は、思いつきもしませんでした。

あのときの自分も、こう書いているわたしも、同じ<いま>のなか
の一風景なのでしょう。

> 長いメール大変失礼いたしました。

こちらこそ、長いこと勝手に書かせていただきました。

> ありがとうございます。

vrmrさん、ご投稿、とても嬉しかったです。

ありがとうございました。

m(_ _)m

       ………○…………○…………○………


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       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:
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先日屋根に上ったのは、じつは屋根の雨漏り修理のためでした。

そのとき、完璧に修理してもう絶対大丈夫と思っていました。

ところがなんと、まだ微かに漏るのです。(>_<)

もう、今度はどこを直せばいいのかわからない。

あと、ほんの少しなんですがねぇ。

でも、なんか象徴的な気もして、笑ってしまいます。(*^_^*)

昨日でしたよね、茨城県だかで、海辺に瀕死のゴンドウ鯨が何頭も
打ち上げられたのは。

地震などなければいいですが。

ま、夢のなかのお話です。

今夜もけっこう遅くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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