━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/04/26(第576号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。
したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇
1. 努力が不可能となるまでは
2.編集後記
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■ 1.努力が不可能となるまでは
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一昨日、もう十年以上も音沙汰のなかった本当に久しぶりの友人が
来て、泊まっていきました。
はしゃぐのが上手でサービス精神旺盛な彼なので、われわれ聞き手
二人は笑って笑ってお腹が痛くなってしまいました。
いろんな話題が現れてはまた消えていきます。
朋有り遠方より来たる 亦楽しからずや
彼は長年住みなれた東京を離れるので、もうめったに会うことはで
きなくなるでしょう。
人生とはそういうものだなぁと思える年齢になりました。
まあ、気分は、一瞬一瞬、変化しますけどね。(^_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
人生とは物語なんですね。
物語とは、【観念で構成されたもの】です。
つまり、人生とは観念です、と言ってもいい。
この観念でできた物語が、大好きなんですよ。
誰がでしょう?
なんて言わなくても、明らかですよね。
その観念でできた、虚構の“わたし”がです。(^^;)
そして、つねにその観念でできたドラマを見つづけているんです。
たまに明け方の寝覚めの夢を覚えていることがあります。
むろん、五分もすればすぐに忘れてしまうのですが、その夢のなか
にもちゃんと“自分”がいたりします。
【自分がいる】という言葉には語弊があるかもしれません。
“自分”は夢の中に映像として現れていないこともありますから。
それでも、何か“自分的”な感覚があることは確かですよね。
それは知覚されるもののなかに現れているある感覚です。
現象のなかに現れた物語の“焦点”とも言えるでしょう。
映画を観る場合に喩えるなら、スクリーン上の主人公の画像という
ことになるでしょうか。
観客は暗黙の内に主人公に自己同化して、その主人公の立場からその
映画で展開する場面全体を解釈し、物語に仕立てています。
映画のなかの主人公の画像は、展開する画像を読み解き構成する視点
であり、物語の焦点です。
映写される画面に主人公の画像が現れていないこともあります。
その画面全体が、主人公の視野だったりするかもしれません。
でも、その画面の意味を表す視点が、映画全体をつうじて持続的に
維持されているわけです
そうでなければ映画にはならない。
映画の場合、主人公への自己同化を強制するマナーが通常ですが、
必ずしもそうでもないのもあります。
日本映画で言えば、黒澤明は前者のタイプですが、小津安二郎とな
ると、必ずしもそんなふうにも見えない。
どの登場人物に焦点が合っているとも言いがたいところがあります。
むしろ、個々の登場人物はかなり“静物的”で、その世界の空気感
みたいなものを撮影しているのかもしれません。
一昨日訪ねてくれた友人との話題に、原節子は別格だ、というのが
ありました。
小津安二郎と原節子は、別格と別格の出会いだ、みたいな。(^^;)
まあ、そういうわけで、われわれはドラマが好きです。
つまり、われわれは【物語中毒】なんです。
水彩画のような淡い絵空事として楽しめればいいのですが、たいて
いは度を越します。
止めどもなく、その絵空事のなかに虚構の快楽を求めてしまう。
そして気がついたら、ハマったところから出られなくなる。
一昨日訪ねてくれた友人は、スリランカで大津波に遭い九死に一生
を得た人でした。
そこは大津波の前兆としての“引き潮”が発生しない地形だったそ
うです。
だから、まったく前触れなしです。
突然、高さ十メートルの津波に襲われたわけです。(>_<)
あっという間もなく、時速三十キロの濁流に巻き込まれ、何分間か
上流に運ばれていたそうです。
そのとき、いつか聞いた“こういうときは藻掻いちゃダメだ”とい
う想念が一瞬、浮かんだそうです。
でも無我夢中で藻掻いていたと、言っていましたが。
後で同じ津波で助かった女性に「結局、生死を分けるのは、水のな
かで藻掻くか藻掻かないかの差なのよね」と教わったのだとか。
なぜなら、濁流のなかで藻掻いた場合、助かる可能性は藻掻く方向
が、たまたま上に向かっていた場合だけです。
それ以外は、水平方向はすべてアウト、下に向かっていたら、もち
ろん助かりません。
だから、藻掻いたら助かる可能性は極端に小さくなるわけです。
うーむ。(-_-)
では、彼の場合はなぜ助かったのか。
彼の説明によると、無我夢中で藻掻いているなかで、一瞬、明るい
水面が見えたのだそうです。
そして、一回だけ、息を吸い込めたのだそうです。
「あれで助かったんでしょうね」と言っていました。
そして、それ以後は何も知らない。
気がついたら、海岸から1.5キロ(これ、あやふやです。m(_ _)m)
ほど離れたところに身動きできずに横たわっていた、と。
日差しが眩しくて、目を覚ましたそうです。
後で知ったところでは、その日本人ツアーで生き残ったのはわずか
六人だけだったそうです。
しかも彼以外の生存者は全員、気を失ってはいなかったのだとか。
ということは、助かったのは全員、何らかの意味で濁流のなかであ
まり藻掻かなかった人たちなのかもしれません。
彼の場合は、途中で一度息ができ、その後気を失ったことが、生存
につながったのでしょう。
(もちろん、現象のなかに「原因」も「結果」もない、という正論
は脇に置いておくとしてですが。^^; )
彼は、生存者のなかで自分だけが気を失っていたことを恥じていま
したが、そう言ってもねえ……。
しかし、知識として、“こういうときは藻掻いちゃダメだ”という
ことを覚えていることに有効性があるのでしょうか?
いや、起こることになっていることが起こるだけだろなぁ。(-_-)
こんなこと、証明も何もできないけれど。
現象のなかでできることなど、何もありません。
ただ、ジタバタすることが起こるだけで。
だって、現象にできることなど何もないのだから。
現象が達成できることは何もありません。
現象のなかに“切り離された部分”というのはありえないから。
現象はすべて“不可分性”として起こっています。
現象のなかの見かけ上のどんな“部分”も、宇宙のなかのその他の
すべての部分を“引き連れて”起こっている。
現象は不可分の一体性として今起こっているのですから。
その不可分の一体性のなかで、見かけ上の“わたし”が自分に望ま
しい現象を引き起こすことなどできるでしょうか?
こんなことを思うと、いつも浮かぶのが素粒子のイメージです。
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……例えばその原子の大きさのイメージは、その原子を野球のボ
ール位の大きさとすると、野球のボールは地球位の大きさになっ
てしまうというようなものらしい。
つまり、針の先ほどの空間に何百万もの原子が乗るといった大き
さだという。
そしてその原子を構成している素粒子の世界たるや、『踊る物理
学者たち』の著者ゲイリー・ズーカフ氏の比喩を借りれば、十四
階建てのビルほどの直径があるサンピエトロ大聖堂のドームの真
ん中に塩を一粒置いたような原子核を中心にして、ドームの外周
をその原子核の数千分の一の質量であるほこりの粒のような電子
が回っている、といったような案配のものであるらしい。
いくら物質が生きていると考えたくても、その広大なサンピエト
ロ大聖堂のドームの外周を、まさかその在るか無きかのほこりの
粒が自らの意志で飛び回っていると思う者はいないはずだ。
しかも、素粒子はほこりの粒というような「もの」ですらなく、
もともと物体としてイメージすることすらできないものだという。
それならむしろ、物質を構成している原子とは、「真空」の海の
中で物理次元というある種の“確かさ”の中に出現しようとする
「傾向」、一種の「意志」、「兆し」のようなものだ、とでも言
った方がましではないのか。
『21世紀への指導原理 OSHO』(p248-249)
https://www.ascensionkan.com/work/06eien_05dome.html
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また、かのニューエイジのエンティティ、パシャールがどこかで、
この素粒子こそが意識だと言っていたのを思い出します。
この意識とはニサルガダッタが使う意味での意識、つまり、“現象
という見かけ”を構成する“死物”です。
現象とは「形」であり「名前」であるもの。
言い換えれば、すべての知覚可能なもの、知ることができるもの、
物質現象であり、想念であるものです。
その“見かけ”を見ているのが、生命、気づき、存在、真我です。
次のマハラジの言葉はこの生命、気づき、存在、真我に「あなた」
と呼びかけています。
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あなたには何の間違いもない。
ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。
欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によ
ってあなたの身体に築かれた個人なのだ。
あなたは個人ではない。
これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっし
て見失ってはならないものだ。
通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必
要なのだ。
『私は在る』(p442)
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(-||-)
あるいは、次のようにも呼びかけます。
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あなた自身のためには、何も必要ない。
あなたは純粋な明け渡しだ。
無始無窮(むきゅう)であり、無尽蔵なのだ。
あなたが悲しみや苦しみを見るときは、それとともに在りなさい。
性急に行動に走ってはならない。
学ぶことも行動も、本当の意味での助けにはならないのだ。
悲しみとともに在りなさい。
そして、その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。
理解することを助けることが本当の助けとなるのだ。
『私は在る』(p279-280)
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> あなた自身のためには、何も必要ない。
(-_-;)
> あなたは純粋な明け渡しだ。
ああ……。
> 無始無窮(むきゅう)であり、無尽蔵なのだ。
はい。
> あなたが悲しみや苦しみを見るときは、それとともに在りなさい。
おお……。(;_;)
> 性急に行動に走ってはならない。
(*-_-*)
> 学ぶことも行動も、本当の意味での助けにはならないのだ。
そうなんですか。
> 悲しみとともに在りなさい。
(-_-)
> そして、その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。
……。
> 理解することを助けることが本当の助けとなるのだ。
理解すること……誤解を取り除くこと。
(-||-)
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間違いはあなたの選択にある。
食べ物、セックス、権力、名声といったささいなことがあなたを
幸せにすると想像するのは、自分自身を欺くことだ。
あなたの本来の自己のように、深く、広大な何かだけがあなたを
真に、永遠に幸福にするのだ。
『私は在る』(p229)
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(;_;)
では……そのためには……どうすれば……。
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質問者 あなたは探求によって真我を実現できると言われますが、
何がこの探求の特徴なのでしょうか?
あなたは心である。
あるいは、あなたは心だと考えている。
心とは想念以外の何ものでもない。
さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念
がある。
それがあなた自身である。
この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
この「私」という想念を心に保ちなさい。
そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、
他には何も考えることができなくなるのだ。
『あるがままに』(p102)
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> あなたは心である。
わたしとは想念のことだ。
> あるいは、あなたは心だと考えている。
あるいは、わたしは浮上する想念を自分だと考えている。
> 心とは想念以外の何ものでもない。
わかります。
> さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念
> がある。
なるほど……。
様々な想念が湧いてくるのは、その背後に「私」という普遍的想念
があるからなのか。
> それがあなた自身である。
「私」という普遍的想念がわたし自身……。
> この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
はい。
> この「私」という想念を心に保ちなさい。
「私」という想念を心に保つのですね。
> そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
「私」という想念を心に保ちつづけるのですね。
> この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、
> 他には何も考えることができなくなるのだ。
「他には何も考えることができなくなる」……。
(-_-)
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質問者 私が「私」という想念を心に保とうとするとき、他の想
念が来ては去っていきます。
しかし、そこで「私は誰か?」と自分に尋ねると、どん
な答えもやってきません。この状態のなかにとどまるこ
とが修練なのでしょうか?
マハルシ
これは人びとがしばしば犯す誤りだ。
あなたが真剣に真我を探求するときに起こることとは、「私」と
いう想念が消え去り、探求を始めた「私」ではなく、深淵から別
の何かが現れ、あなたをつかむのである。
『あるがままに』(p102)
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> あなたが真剣に真我を探求するときに起こることとは、「私」と
> いう想念が消え去り、探求を始めた「私」ではなく、深淵から別
> の何かが現れ、あなたをつかむのである。
そういうことなのですか……。
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質問者 その別の何かとは何でしょうか?
マハルシ
それが「私」の真意、真我である。
それは自我ではない。
それは至高の存在そのものである。
質問者 探求の初期段階では他の想念を拒絶しなければならない
と、たびたびあなたは言われました。しかし、想念は果
てしなく起こり、ひとつの想念を拒絶すると別の想念が
現れ、際限がありません。
マハルシ
私は想念を拒絶し続けなければならないとは言っていない。
あなた自身、つまり「私」という想念を固守しなさい。
あなたの関心がそのひとつの想念に絞られたとき、他の想念は自
動的に拒絶され、消え去るだろう。
質問者 では、想念の拒絶は必要ないのですね?
マハルシ
いいや。
しばらくの間は必要となるかもしれない。
想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは
想像している。
それは本当ではない。
終わりは来る。
もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力
をつづければ、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っ
ていくのがわかるだろう。
この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。
質問者 そのときには、努力なしにただ在ることも可能なのです
ね?
マハルシ
それどころか、ある限度を超えれば努力をすることが不可能にな
るのである。
質問者 もっとよく理解したいのですが、私はまったく努力をす
るべきではないのでしょうか?
マハルシ
今の段階では、あなたが努力なしでいることは不可能だ。
あなたがより深く探求していくと、努力すること自体が不可能と
なるのである。
『あるがままに』(p103)
------------------------------------
> あなた自身、つまり「私」という想念を固守しなさい。
> あなたの関心がそのひとつの想念に絞られたとき、他の想念は自
> 動的に拒絶され、消え去るだろう。
そこまでは、「私」という想念を固守することが必要なのですね。
> 今の段階では、あなたが努力なしでいることは不可能だ。
なるほど、わかりました。
> あなたがより深く探求していくと、努力すること自体が不可能と
> なるのである。
そういうことだったのですね。
「努力すること自体が不可能となる」までは、
「努力なしでいることは不可能」なのですね。
了解いたしました。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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> 今の段階では、あなたが努力なしでいることは不可能だ。
> あなたがより深く探求していくと、努力すること自体が不可能と
> なるのである。
このラマナの言葉、とても納得がいきました。
> 今の段階では、あなたが努力なしでいることは不可能だ。
まったくです。
そして、その状態に対して、
> あなたがより深く探求していくと、努力すること自体が不可能と
> なるのである。
このような状態があるということも、とても納得がいきます。
ありがとうございました。
(-||-)
今夜は夕食はまだですが暗くなりましたね。
ではおやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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