━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/05/10(第578号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。
したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.真我の精神的活動(アハム・ヴリッティ)
2.編集後記
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■ 1.真我の精神的活動(アハム・ヴリッティ)
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連休はどんなふうに過ごされましたか?
夢のなかには形をもった「わたし」がいます。
そして無くてもいい様々なドラマに焦点を合わせて、無くてもいい
様々な悲喜こもごもをフォローしているんですね。
それでも、そのドラマに本当に夢中になれているならいいんです。
でもそんな嘘っぽいドラマに夢中になることはできなくて、かと言
って、ひたすらエネルギーが収束している……のでもないなら。
それもひとつの興趣と言ってしまえばお終いですが、神を恨みたく
なるというか、神に祈りたくなる瞬間もありますね。
> 関心をもっているのはあなたなのだ!
(>_<)
> そして、その絵があなたの真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。(p488)
……。(-_-;)
そうか、すぐに責任転嫁を始めるのが人間ゲームなのか。
そして、任せきれずに……足掻く。
なるほど、どちらも同じことなんですね。
ジニャーナ・ヨガもバクティ・ヨガも……。
夢のなかで何者かとして、体験しつづけたいんだ。
それもまた夢のなかの“自分”が選べることではないのか。(-_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
もう本なんて読まなくてもいいのにと思いながら、気分に任せて、
手元にある何冊かの本を、取っ替え引っ替え読んでいます。
今はラマナ・マハルシの『あるがままに』を読んでいます。
そしたら、まるで初めて読むみたいで。(@_@)
夢のなかで夢中になって(^_-) 自分は人間だと思っている者には、
こうして夢のなかに射し込む賢者の光が必要なんですね。
ほんとに、初めて読むようです。
だから、まだまだ読んでもいいんだ。\(^-^)/
マハルシの言葉はどこもここもすばらしいんですが、今回はそれは
措いておいて、ちょっと再発見したことをご紹介します。
マハルシの「真我探求」という技法に関することです。
この『あるがままに』という本は、デーヴィッド・ゴッドマンさん
が編纂された本で、各章の最初に編集者の解説文があります。
これがまた、とても内容の濃い文章です。
それで、「第4章 真我探求──理論」の解説文のなかに以前読み
過ごしていた文章がありました。
というか、以前も気になってその箇所をなんとか理解しようとしま
したが、どうにもイメージが結ばなかったのです。
でまず最初に、ラマナ・マハルシが「真我探求」という技法を提案
したその経緯の状況説明からご紹介しますね。
といっても、単に「第4章」の最初の部分ということです。(^^;)
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「真我の自覚と無知」の章で、シュリー・ラマナは、身体と心を
通して機能している個人が存在するという概念をただ捨て去るだ
けで、真我の実現は起こりうると主張しつづけている。
ほんのわずかな熟達した帰依者たちだけがこれをすばやく容易に
為し遂げたが、他の者たちにとって、何らかの形式の霊的修練を
積むことなしには、それはほとんど不可能に見えた。
シュリー・ラマナは彼らの苦境を理解し、真我の自覚を促す霊的
修練を指導するように頼まれたときは、真我探究と呼ばれるテク
ニックを勧めたのだった。
この修練は彼の実践的哲学の礎となっている。
つづく三章は、真我探究のあらゆる相における詳細な説明に充て
られている。
『あるがままに』(p82)
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「身体と心を通して機能している個人が存在するという概念をただ
捨て去るだけで、真我の実現は起こりうる」……。
ラマナ・マハルシはこう言っていたんですね。
まあ、われわれには及びもつかないことなので、ラマナ・マハルシ
の次なる手立てにすがるしかありません。
上記つづけて、ゴッドマンはこう解説しています。
------------------------------------
そのテクニック自体の説明にとりかかる前に、心の本性に関する
シユリー・ラマナの見解を説明する必要があるだろう。
なぜなら、真我探究の目的は、直接体験によって心が実在しない
ものであると発見することにあるからだ。
シェリー・ラマナによれば、心や身体のあらゆる意識的活動は、
そこに「私」という、何かをする誰かが存在しているという暗黙
の想定を軸に展開している。
「私は考える」、「私は覚える」、「私は行為する」のなかに共
通の要因は、これらすべての活動の責任をもつと想定する「私」
である。
シェリー・ラマナはこの共通の要因を「私」という想念(アハム
・ヴリッティ)と呼んだ。
アハム・ヴリッティとは、逐語的に「『私』の精神的活動」を意
味する。
真我あるいは真実の「私」は、けっして何かをすることも、何か
を考えることもない。
それらすべてを想像している「私」は、まったくの精神的虚構で
あり、それゆえ、逆説的に真我の精神的活動と呼ばれるのである。
この言葉が、アハム・ヴリッティを表すには少々長く、扱いにく
い訳であるため、普通は「私」という想念として訳されている。
シェリー・ラマナは、個人という概念はただ「私」という想念が
さまざまな形で現れているだけだという見解を支持している。
彼はさまざまな心の活動〔自我、知性、記憶など〕を分離した個
別の機能として見なす代わりに、それらを「私」という想念のさ
まざまな表現形式だと見ている。
彼は個人と心、そして心と「私」という想念を同一のものとして
見ているため、個人という感覚の消滅が心と「私」という想念の
両方の消滅を暗示することになる。
このことは、要約すれば、真我の実現ののち、そこには考える人
もなく、行為をする人もなく、個人的存在の自覚もない、という
彼の言葉によって裏づけられている。
『あるがままに』(p82-83)
------------------------------------
ここにはあまりにも集約された内容が解説されているようです。
まず、
> なぜなら、真我探究の目的は、直接体験によって心が実在しない
> ものであると発見することにあるからだ。
ラマナ・マハルシが薦めた【真我探求】とは、「直接体験によって
心が実在しないものであると発見すること」だと言います。
直接体験によって、「心」が「実在しないもの」であることを発見
することを、ラマナ・マハルシは薦めたというのです。
(じゃ、もし「心」が「実在する」ことを直接体験で見届けたら、
ラマナを打倒できるかもしれませんね。(*^_^*) )
> シェリー・ラマナによれば、心や身体のあらゆる意識的活動は、
> そこに「私」という、何かをする誰かが存在しているという暗黙
> の想定を軸に展開している。
わかります。
> 「私は考える」、「私は覚える」、「私は行為する」のなかに共
> 通の要因は、これらすべての活動の責任をもつと想定する「私」
> である。
たしかに。
だからこそ、そう思っているわれわれには、その「私」が実在しな
いことが直接体験でわかったら、大変なわけですよね。
> シェリー・ラマナはこの共通の要因を「私」という想念(アハム
> ・ヴリッティ)と呼んだ。
この【アハム・ヴリッティ】という言葉が、今回理解したというか、
言い換えると、はじめて遭遇した言葉です。
> アハム・ヴリッティとは、逐語的に「『私』の精神的活動」を意
> 味する。
【アハム・ヴリッティ】とは、逐語的には「『私』の精神的活動」
という意味の言葉だというのです。
くどいですが、ラマナ・マハルシは「『私』の精神的活動」という
意味で【アハム・ヴリッティ】という言葉を使っていたのです。
> 真我あるいは真実の「私」は、けっして何かをすることも、何か
> を考えることもない。
ここもです。
こんなに単純に書かれていますが、わたしは初めて知りました。
ラマナ・マハルシによれば、「真我」とは、けっして何かをするこ
とも、考えることもない、のだそうです。
今まで何十年、夢のなかで彷徨ってきて、こういうことをはっきり
理解していませんでした。(*-_-*)
では、「真我」も“自分”と同じように、何かをしたり考えたりし
ていると思っていたのか、と突っ込まれると困るけど。(^_-)
さて、そういう基本的理解をもった上で、次の言葉を聴いてくださ
い。
> それらすべてを想像している「私」は、まったくの精神的虚構で
> あり、それゆえ、逆説的に真我の精神的活動と呼ばれるのである。
つまり、そういったすべての想念や行為を「想像している『私』は、
まったくの精神的虚構」だというのです。
繰り返します。
一切の想念や行為を想像している『私』は、完全に精神的虚構であ
る、とラマナ・マハルシは言っているというのです。
【アハム・ヴリッティ】、つまり「真我の精神的活動」とは、元々
の使い方では、とても逆説的表現だった、ということですね。
ラマナ・マハルシが言う【アハム・ヴリッティ】「真我の精神的活
動」とは、元々は語義矛盾のようなものを意味する言葉だった。
だから、【アハム・ヴリッティ】=「真我の精神的活動」が本当に
実在するかどうか、直接体験で発見しなさいと言ったらしい。
> この言葉が、アハム・ヴリッティを表すには少々長く、扱いにく
> い訳であるため、普通は「私」という想念として訳されている。
【真我の精神的活動】と【「私」という想念】は、そんなに違いは
ないようでいて、かなり違うとも言えます。
“「私」という想念”とすんなり訳されると、精神活動そのものは、
あって当然のものと理解されるように思いませんか?
“「私」という想念”は誤解かもしれないけれど、考えるというこ
と自体は、別に間違いではない、というふうに。
ところが、ラマナ・マハルシ自身は、「真我の精神的活動」自体を
【あるはずのないもの】として前提していたらしい。
だから、ラマナやマハラジのような覚者たちは、まったく思考のな
い状態を【自然な状態】と言っていたんですね。
考えるということ自体が、まったくの虚構の上に成り立っていたわ
けです。
> シェリー・ラマナは、個人という概念はただ「私」という想念が
> さまざまな形で現れているだけだという見解を支持している。
個人という概念は、「私」という想念のひとつの表現形態というこ
とらしい。
言葉を入れ替えると、ここのところはこうなります。
個人という概念は、「真我の精神的活動」(というありえないもの
の)のひとつの表現形態にすぎない。
だから、根源の「真我の精神的活動」が本当に実在するかどうか、
直接体験で発見しなさい、というわけです。
> 彼はさまざまな心の活動〔自我、知性、記憶など〕を分離した個
> 別の機能として見なす代わりに、それらを「私」という想念のさ
> まざまな表現形式だと見ている。
ラマナ・マハルシは、自我、知性、記憶などを、【アハム・ヴリッ
ティ】=「真我の精神的活動」の多様な表現形式と見ていた。
> 彼は個人と心、そして心と「私」という想念を同一のものとして
> 見ているため、個人という感覚の消滅が心と「私」という想念の
> 両方の消滅を暗示することになる。
ラマナ・マハルシは、個人も、心も、【アハム・ヴリッティ】=
「真我の精神的活動」と同一のものと見ていた。
だから、【アハム・ヴリッティ】=「真我の精神的活動」が実在し
ないとわかったら、個人の感覚も消滅せざるをえない。
> このことは、要約すれば、真我の実現ののち、そこには考える人
> もなく、行為をする人もなく、個人的存在の自覚もない、という
> 彼の言葉によって裏づけられている。
だから、「真我の精神的活動」が実在しないとわかったら、あとに
は「真我」しか残らない。
「真我」は、けっして何かを思ったり、行為したりはしない。
うーむ。(-_-;)
それで……【アハム・ヴリッティ】が実在するかどうか、ちょっと
調べてみたんです。
つまり、「真我の精神的活動」ってものが実在するかどうか。
「真我」は、間違いなく実在します。
自分が存在するということ、この存在意識を否定はできませんから。
「真我」は間違いなく実在する。
じゃ、「真我の精神的活動」は実在するのかどうか?
調べてみたんですよね。
いまんところは、見つからない。^^;;
見届けようと思ったら、とたんに姿を消してしまうので。
花婿側の客か、花嫁側の客か、どちらの客かわからない結婚披露宴
の客の話を思い出してしまいました。(^_-)
つづいて、ゴッドマンは次のように解説しています。
------------------------------------
彼は真我だけが唯一存在する真理であると主張し、「私」という
想念は、それ自体では存在をもたないひとつの誤った仮定だと見
なしている。
彼はその現れについて、「私」という想念は対象物と同一化する
ことで存在するように見えるだけだ、と説明している。
思考が活動するとき「私」という想念は、「私は考える」、「私
は信じる」、「私は欲しい」、「私は行為する」といった思考の
所有を主張する。
しかし、同一化した対象物に依存せずに存在する分離した「私」
という想念はない。
それはただ、絶え問ない自己同一化の流れによって、現実に継続
して存在する実体のように見えるだけである。
こういった同一化のほとんどすべては、「私」が身体に限定され
ているという根本的な想定にその源をたどることができる。
この「私は身体だ」という観念が、絶え問なく起こる誤った同一
化の根源であり、そして「私は身体だ」という観念の終焉こそが
真我探究の根本的な日的なのである。
『あるがままに』(p84)
------------------------------------
ちょっと最初の二段落だけ、用語をラマナ・マハルシが使っていた
言葉の逐語訳と置き換えてみます。
「彼は真我だけが唯一存在する真理であると主張し、『真我の精神
的活動』は、それ自体では存在をもたないひとつの誤った仮定だ
と見なしている。
彼はその現れについて、『真我の精神的活動』は対象物と同一化
することで存在するように見えるだけだ、と説明している」
(@_@) ⌒★?
これ、意味のわからないところが、まったくない。(@_@)
ラマナ・マハルシは、「真我(存在意識)」だけは他の何にも依存
せずに唯一自前で存在している真理だと主張したのです。
しかし、「真我の精神的活動」は対象物と同一化することで存在す
るように見えるだけで、自前では存在していない、と。
だから、「真我=存在意識」は実在だが、「真我の精神的活動」は
実在ではないと、説明したわけです。
われわれは通常、
> 思考が活動するとき「私」という想念は、「私は考える」、「私
> は信じる」、「私は欲しい」、「私は行為する」
というふうに考えます。
つまり、身体(という目に見える対象物)に依拠して、思考の所有
を主張しているわけです。
でも、何の対象物もなければ、「真我の精神的活動」だけで自前で
存在することはできない。
> しかし、同一化した対象物に依存せずに存在する分離した「私」
> という想念はない。
同一化の対象物に依拠せずに、「私」という想念(「真我の精神的
活動」)だけで分離して存在することはできない。
> それはただ、絶え問ない自己同一化の流れによって、現実に継続
> して存在する実体のように見えるだけである。
対象物に絶え問なく自己同一化するものだから、あたかも「真我の
精神的活動」も現実に存在しているように誤解されるだけ。
> こういった同一化のほとんどすべては、「私」が身体に限定され
> ているという根本的な想定にその源をたどることができる。
そういう絶えざる同一化の過程自体、「真我の精神的活動」が身体
に限定されるという根本的同一化にその根拠がある。
> この「私は身体だ」という観念が、絶え問なく起こる誤った同一
> 化の根源であり、そして「私は身体だ」という観念の終焉こそが
> 真我探究の根本的な目的なのである。
「私は身体だ」という観念が、この絶え間ない同一化の根源。
だから、この観念の終焉こそが真我探求の目的。
そしてゴッドマンは次のように解説を締めくくります。
------------------------------------
シェリー・ラマナは、この自己限定の同一化の傾向は、主体であ
る「私」をそれと同一化した客体である想念から引き離そうと試
みることによって阻止することができると主張した。
客体である対象物なしに独立した「私」という想念は存在できな
いため、もしすべての注意が「私」あるいは「私は在る」という
主観的感覚に強烈に集中されたならば、「私はこれだ」や「私は
あれだ」といった想念は起こることなく、そうすれば「私」とい
う想念は対象物と関係をもつこともできないだろう。
もしこの「私」への自覚が維持されれば、個としての「私」とい
う想念は消え去り、そのとき、そこには真我の直接体験があるだ
ろう。
この「私」あるいは「私は在る」という内的自覚への継続的な留
意が、シェリー・ラマナによって真我探究(ヴィチャーラ)と呼
ばれているものである。
そして彼はこの裏我探究を、「私」という想念の非実在性を発見
するための直接的、かつ最も効果的な方法として絶えず奨励した
のである。
『あるがままに』(p84-85)
------------------------------------
ラマナ・マハルシは、「真我」が対象物に自己同化して自己限定す
る傾向を阻止することができる、と教えたようです。
それは、想念を真我自体に固定することによって、阻止できると。
なぜなら、「私」という想念(真我の精神的活動)は、対象物なし
には独立しては存在できないからだ、と教えたんですね。
なるほど。
果てしなく続くと思われたこの誤った自己同化の過程は、けっして
果てしのないものではなかったんですね。
「真我探究(ヴィチャーラ)」とは、そういう意味だったんだ。
(-||-)
------------------------------------
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
------------------------------------
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
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■ 2.いただいたお手紙から:vrmrさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
前に質問をいただいたvrmrさんから、再度メールをいただきました。
ご本人のご了解を得てご紹介させていただきます。
【件名】: vrmrです。
------------------------------------
pari館長殿
先日は大変お世話になりました。vrmrです。
父と話をする機会があり3時間ほど話をしました。
生まれ変わりの問題につきまして、まず自分の気持ちを整理した
上で父と今後について有意義に話すことができました。
大変ありがとうございます。
話の中心はライフワークについてでした。
この中で浮かび上がったのは人はすぐ結果を求めたくなるという
ものです。
自分の成果が認められないことで、焦ったり不遇に対する怒りの
気持ちを抱くことはあるでしょう。
この気持ちを私も共有することがあります。
人生は思い通りにならないし、社会的に成功して幸せだという風
に見える人でさえその内側に立てば見えない苦しみはあるもので
す。
今回は焦りについて質問をさせて頂きます。
焦りについて思いますのはこれが常に時間の流れに伴っていると
いうことです。
この苦の原因となるもの、それを突き詰めるとやはり自我(誤っ
て自分自身と錯覚するもの、執着の対象)というものに行き当た
るように思えてなりません。
そこで「自我」と「時間」には何か関係性があって、不可分の何
かがあるような気がします。
そして「焦り」の中ではあるがままの気づきに遠ざかっている気
がします。
これが事態を更に悪化することさえあります。
これらからの開放へ向けて、お気づきの点をアドバイス頂ければ
大変嬉しく思います。
------------------------------------
> pari館長殿
vrmrさん、ご投稿、ありがとうございます。
ただ、vrmrさんのご質問にお答えするには、わたしはあまり向かな
い人間のような気がするのですが。
もっと適切な方が他におられるように思うのです。
とはいえ、こうしてご質問をいただいているので、何かお答えしな
くてはとも思いますが。
> 先日は大変お世話になりました。vrmrです。
いいえ、お役に立てるようなことを言ったとも思えません。
> 父と話をする機会があり3時間ほど話をしました。
ゆっくりお話ができて良かったですね。
> 生まれ変わりの問題につきまして、まず自分の気持ちを整理した
> 上で父と今後について有意義に話すことができました。
そうでしたか。
> 大変ありがとうございます。
とんでもない。
> 話の中心はライフワークについてでした。
なるほど。
> この中で浮かび上がったのは人はすぐ結果を求めたくなるという
> ものです。
たしかに。
> 自分の成果が認められないことで、焦ったり不遇に対する怒りの
> 気持ちを抱くことはあるでしょう。
ええ、その気持は良くわかります。
> この気持ちを私も共有することがあります。
われわれの人生とは、おおよそそういうものではないでしょうか。
> 人生は思い通りにならないし、社会的に成功して幸せだという風
> に見える人でさえその内側に立てば見えない苦しみはあるもので
> す。
物語(=夢)のなかに自分を築こうとしているすべての人にとって、
それは当然ですよね。
> 今回は焦りについて質問をさせて頂きます。
はい。-_-;;
> 焦りについて思いますのはこれが常に時間の流れに伴っていると
> いうことです。
ですよね。
> この苦の原因となるもの、それを突き詰めるとやはり自我(誤っ
> て自分自身と錯覚するもの、執着の対象)というものに行き当た
> るように思えてなりません。
ええ。
> そこで「自我」と「時間」には何か関係性があって、不可分の何
> かがあるような気がします。
たしかに。
> そして「焦り」の中ではあるがままの気づきに遠ざかっている気
> がします。
> これが事態を更に悪化することさえあります。
はい。
> これらからの開放へ向けて、お気づきの点をアドバイス頂ければ
> 大変嬉しく思います。
うーん。(-_-;)
正直を言わせていただければ、こういうご質問にお答えするのは、
ちょっと居心地が悪いです。
自分は、向きじゃないという気がします。
というのは、とても突き放した言い方しか、今の自分にはできない
ように思われるからです。
おっしゃることがわからないという意味では、むろん、ありません。
ただ、こうなさってはいかがでしょう、という類のご返答は、とて
もできにくい、という意味です。
おっしゃるように、「自我」と「時間」には密接な関係があるとい
うか、むしろ、物語の構成要素として、同じものかもしれません。
それと同様の意味で、「焦り」も、物語の情調としては、必須のも
のだと思います。
そして、「焦り」を避けて「平安」を願うのは、ゲームの規則その
ものだろうと思います。
なので、比較や何やかや、すべてを【諦め】て、【お任せ】して、
ゲームを降りたいわけです。
でも、【諦め】て【お任せ】しては、というようなことは、自身が
【諦め】ても【お任せ】してもいない人間には言えません。
そして更に言うなら、この個人という誤解が、森羅万象を創造して
いる、と断言することもできないのです。
どうも覚者方がそうおっしゃっているようにも聞こえるのですが。
なので、お役に立てるようなことが、何も言えないのです。
ただ、虎の威を借りることはできるので、ちょっとだけ。
わたしが知っている最善の情報はこんなたぐいの情報です。
------------------------------------
あなたの幸福への探求自体が、あなたを惨めに感じさせているの
がわからないだろうか?
『私は在る』(p258)
------------------------------------
(-||-)
そして、もうひとつ。
------------------------------------
あなたは、あなた自身の幸福に関心がある。
そして私は、そんなものはないと言っているのだ。
幸福はけっしてあなた自身のものではない。
それは「私」がないときにあるのだ。
私はそれがあなたの手に届かないところにあると言っているので
はない。
あなたはただ、あなた自身の彼方に手を差しださなければならな
いのだ。
そうすればそれを見いだすだろう。
『私は在る』(p457)
------------------------------------
(-||-)
要するに、こういう賢者がおっしゃっているのは、
【諦めなさい】、あなたが今以上のものを手にすることはない。
ただ、移ろいやすい現象(=夢)のなかで、幸福を見つけようと
していることだけが間違いなのだ。
あなたが現実だと思っているものはすべて夢だ。
夢から覚めなさい。
ということのようです。
わたしが知っている最善の情報はそうですが、でも、どなたにも向
く話だとは、とても思えません。
vrmrさん、あまりお役に立てなかったと思いますが。
ありがとうございました。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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………○…………○…………○………
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■ 3.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
わたしがわたしの想念を見ています。
見ているわたしとは誰か?
わたしの想念とは誰の想念か?
理解とは何か?
理解の深まりとは何か?
誰が興味をもっているのか?
興味をもっているのは誰か?
興味をもっていないのは誰か……?
今日はまだまだ明るいです。
ではおやすみなさい。
<(_ _)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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