home > 通信 >『アセンション館通信』(第581号):【この身体が“自分”だ】とは



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/05/31(第581号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在875名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.【この身体が“自分”だ】とは

2.編集後記

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■ 1.【この身体が“自分”だ】とは
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すばらしい晴天です。

庭いっぱいに広がった少し伸びすぎた感じのマーガレットが、その
白い花を風に揺らしています。

もう完全に夏という感じですね。

南側と北側の両方の窓をいっぱいに開けているので、家のなかを風
が吹き抜けていきます。

気持ちがいいですね。

ありがたいことです。(-||-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

われわれが“自分”と呼んでいるものは、じつは誤解によるひとつ
の観念であって、実体としては存在していないらしい。

つまり、通常「個人」と呼ばれる、この身体の範囲内にいるとされ
る全体から分離した実体は存在していないらしいのです。

もちろん、精神身体過程は現象していますよ。

この身体という有機体の生成過程は間違いなく起こっています。

実在(=気づき)が【見かけ】にフォーカスしているかぎりは。

視覚対象として現れている身体過程だけでなく、想念として現れて
いる精神現象も同時に起こっています。

実在(=気づき)が【見かけ】にフォーカスしているかぎりは。

それはわれわれの実際の体験ですから、否定できないし、否定する
必要もないことです。

ただここで“われわれ”と言及されたもの、暗黙に前提されている
「個人」という分離した実体は、存在しないということです。

これは屁理屈でも何でもなく、否定しようのない単純な事実です。

われわれは通常、この身体が“自分”だと思っています。

それはこの精神身体機構が成長してくる過程で、親、隣人、教師な
ど周囲の全員にそう教わり、またそれを信じてきたからです。

そのこと自体は、たぶん、この人生というゲームの規則の一部で、
人生を願うかぎり不可避のことなんでしょうね。

この通過儀礼を通り抜けることによって、われわれはこの人生とい
う虚構のドラマに参加できるわけですから。

で、状況を整理するために、上に挙げた言葉をもう一度見てみまし
ょう。

再録すると、こういう言葉です。

われわれは通常、この身体が“自分”だと思っている。

周辺部分と、中核部分を明示化すると、こうなります。

われわれは通常、【この身体が“自分”だ】と思っている。

中核部分を公式のように表現すると

われわれは通常、【身体=自分】と思っている、となります。

この【身体=自分】という等式は、色々な観点から評価できます。

言い方を換えると、【身体=自分】の等式には色々な層が内包され
ているとも言えるでしょうね。

【身体=自分】は、真実の表現となることも、虚偽の表現となるこ
ともあるでしょう。

まず、一般社会の常識では、【身体=自分】は「真」です。

その意味では、これは誤解に基づき、事実に反しているので、つね
に苦しみを生みだす仕掛けとして機能します。

この人生という虚構のドラマを成立させるための等式ですよね。

「誤解に基づき」と言ったのは、言葉が誤用されているからです。

“主体”を意味する「自分」という言葉が、“客体”でしかありえ
ない「身体」と同定されているのだから、元々誤解です。

【身体=自分】という元々無理筋の概念を維持するために、われわ
れはとっても落ち着かない思いをしているわけですよね。(^^;)

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 幸せな人が幸せを探すだろうか?
 なんと人びとは落ち着かないのだろう!
 なんとつねに動きまわっているのだろうか!
 彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
 彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証
 なのだ。
 
 『私は在る』(p163-164) 
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ということになる……。(-_-)

まあ、われわれは気づきですから、体験に焦点をあわせるかぎり、
自分が“主体”であるとは言えるかもしれません。

でも、自分が“客体”(知覚の対象)だというのは、その辻褄を合
わせるために相当無理をしても、無理は無理でしょう。(*^_^*)

自分が“客体”になることだけは、できるはずがありません。

その“無理筋のゲーム”が人生というドラマなんでしょうね。

だから人生は「熱いトタン屋根の猫」みたいなんですよね。

落ち着くことができない。

でも、われわれは【身体=自分】という社会的通念のなかで生きて
いるわけです。

そうすると、どういうことが起こるか?

この【身体=自分】(身体である自分)という概念を延命させるた
めに、“真の自己”というものが発明されたりします。

【身体=自分】という概念だけでもそうとう無理だと思うのに、そ
こから“真の自己”なんてどうやって発明するのか?

そう、過去の物語のなかにその根拠を求めるんですよね。

“自分”はいついつの時代には歴史上の誰だったとか、“自分”は
惑星マルデックを破壊してしまった技師のひとりだったとか。

多次元宇宙美術館に展示されている絵のなかには、そういう場面を
描いたものがあるのかもしれません。

でも、古い絵だから新しい絵より根拠があるわけでもありません。

もし、たったいま、【身体=自分】(身体である自分)という概念
が虚偽だったら、過去の絵もやっぱり同じ虚偽でしょう。

この身体は、わたしが知覚する対象で、わたしではありません。

じゃ、「何」がこの身体を知覚しているのか?

まあ、それを「わたし」と言ったのかもしれないけど、少なくとも
それは知覚対象であるこの「身体」ではない。

ソクラテスは毒杯を仰いで、下半身の感覚を失っても、まだ自分は
いる、と言ったと言われています。

胴体の感覚はなくなったが、まだ自分はいる。

何も見えなくなったが、まだ自分はいる、と。

自分というのは、その【自分はいる】(「私は在る」)と言ってい
る「存在意識」ですよね。

戦場で両手両足を失うような悲惨な目に遭われる方がいます。

でも、“自分”はいるのだとすれば、両手両足は“自分”ではなか
ったわけでしょう。

では、“自分”は上半身にいるのか?

しかし、“自分”の上半身も見えるではないか? (@_@)

これもまた、わたしの知覚の対象であるなら、わたしではない。

では、わたしは首から上にいるのか?

「兜首(かぶとくび)」といって、戦場で身分のある武将を仕留め
た者は、相手の“首”を切り離して証拠として持参したそうです。

敗れた武将が“晒し首”になるような時代は、それほど大昔のこと
ではなかったはずです。

首と胴体を切り離せば、切り離された人間が生きていられないこと
は、大昔から誰もが知っていたという当たり前の話です。

では、その“晒し首”になった武将の“自分”はどうなったのか?

ギロチンはフランス革命で受刑者の苦痛を和らげる人道目的で採用
された斬首刑の執行装置だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%B3

この人道的配慮を受けて斬首される受刑者は、刃が落ちてくる寸前
までは【自分はいる】ことに疑問を持たなかったでしょう。

では、刃が首を切断した後には、その“自分”はただちに空無に帰
するのか?

唯物論者は、死んだら何も残らない、“自分”は空無に帰する、と
考えるのかもしれません。

それは、ちょっと甘いというか、そうは問屋が卸さないというか、
ちょっと牧歌的すぎるかもしれません。(^^;)

もし、死んだら何も残らないのなら、何もないところからまた突然
“自分”が現れないものでもありません。(^_-)

ニューエイジの探求者は、“自分”は身体から解放された「魂」と
なって、更なる成長と冒険の旅に出ると考えるのかもしれません。

成長し進化して、神々の世界まで上昇していく“自分”を想像する
のでしょうね。

もちろん、その願いは叶えられる可能性があります。

そのような神々の世界が、この今の世界と同じ程度に存在すること
は、ラマナ・マハルシも保証してくださっていますから。

でもどんな高みにまで達しても、それは観念のなか、夢のなかでし
かありえません。

宇宙の果てまで行って印をつけてきた孫悟空のように、実際は、今
から一歩も離れてはいないわけですよね。

人道的配慮を受け、ギロチンの刃で斬首される直前と直後の受刑者
には、どんな変化が起こると思いますか?

首が胴体から離れたら、それまでその精神身体機構で起こっていた
心理ドラマは、少なく見積もっても、継続はできません。(*^_^*)

ならば、その心理ドラマを自ら体験していた“当人”は、継続でき
ないでしょうね。

ひとつの夢が終わったということでしょう。

でも、それはすべてが空無に帰し、何も無くなる、ということでは
ない。

なぜなら、その夢が起こることを許容している何かは、つねに同じ
ように在るからです。

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 夢は同じではない。
 だが、夢見る人はひとりだ。
 夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
 私は光だ。
 その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
 私は夢の内側と外側だ。
 頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないこ
 とを知っているように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見
 ないことを同時に知っている。
 私は私で在る。
 夢の前も、夢の間も、夢の後も。
 だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。
 
 『私は在る』(p135)
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(-||-)

> 夢は同じではない。
> だが、夢見る人はひとりだ。

この言葉の光がこの埃のつぶに吸収されますように。(-||-)

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 眠りも目覚めも、ともに正しい名称ではない。
 私たちは夢を見ているだけなのだ。
 真実の目覚め、真実の眠りはジニャーニだけが知っている。
 私たちは目覚めているという夢を見ている。
 私たちは眠っているという夢を見ている。
 三つの状態は、ただの異なった種類の夢の状態だ。
 すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。
 夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。
 ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定
 のものとして在ることの奴隷になってしまう。
 あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者とし
 て想像することは奴隷状態の本質なのだ。
 実際には、私たちに物語はない。
 私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。
 すべてを夢と見て、動じずにいなさい。
 
 『私は在る』(p207)
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> あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者とし
> て想像することは奴隷状態の本質なのだ。

(-||-)

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 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
 これが絶対的な真理なのだ。
 
 『私は在る』(p351)
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> 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。

はい。

> 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。

わかりました。

> いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
> これが絶対的な真理なのだ。(p351)

ありがとうございます。

(-||-)

何が実在するのがについて、ラマナ・マハルシは次のように言及し
ています。

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 もし事物が独立した存在を持っているなら、
 つまり、もしそれがあなたから離れて存在しているのなら、
 あなたがそれから立ち去っていくことも可能だろう。
 
 だが、事物はあなたから分離しているのではない。
 それはあなたゆえに、あなたの想いゆえに存在するのである。
 だとすれば、それから逃れてどこへ行けるというのだろうか。
 
 『静寂の瞬間』(p51) 
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(*_*) ⌒★?

……。(-_-;)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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今日は、驚くほど言葉を紡ぐことができませんでした。

最初にちらっと見えた流れの四分の一も書けなかったというか。

考えて何かを書こうとすることが、難しくなるのでしょうか。

ただ連想に任せていると、その連想は勝手に四方八方へと飛躍して、
どんな理路にもたどりつかない。

おやめなさいということなのか。

すべては、御心のままですね。

今日は夜も晩くなりました。

ではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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