home > 通信 >『アセンション館通信』(第589号):無知のヴェールを剥ぐことだけ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/07/26(第589号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在869名
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◇◇ もくじ ◇◇

1. 無知のヴェールを剥ぐことだけ

2.編集後記
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■ 1.無知のヴェールを剥ぐことだけ
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夏ですね。

暑くなりました。

つまりは、いろんな話がつながっていて、この想念群のなかに注意
を閉じ込めようとするんですね。

むろん、そんなお話もすべて観念ですけど。

観念群、想念群が、その煙幕のなかに注意の焦点を閉じ込めようと
しているわけです。

次から次へと現れる観念群・想念群に、そのような意図がある、と
いうわけでもないでしょうが。

顕現するすべての現象は、ただの【見かけ】であり、そこにどんな
独立した実体もありません。

ただ、湧いてくるすべての観念や想念を却下しようとする態度が、
それを見ている者にまだ定まっていないのだと思います。

そして、それらの目眩ましに無防備に応対してしまうのでしょう。

それもこれも【見かけ】のなかで起こるべくして起こっている。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

われわれは四六時中、湧いてくる想念に応対して、この身体を現象
世界のなかで生き延びさせる算段をしてるんですね。

“身体”という概念はこの肉体だけを指すわけではなく、何らかの
個別の実体、個人、つまりは“自分”を指すわけでしょう。

もちろん、“自分”というのは誤解です。

現象世界のなかに、どんな“個別の実体”も存在しえないことは、
知的には自明と言えると思います。

たとえば、われわれのいわゆる「個人」という幻想を取り上げてみ
ましょうか。

現在地球上には七十二億人を超える人間が住んでいるそうです。

でもその誰一人として意識的に自分の心臓を動かしてはいない。

自分で自覚的に自分の身体に血を巡らせてはいないわけです。

ましてや七十二億人の“個人”の誰も、自分の体内にいる百兆個
の腸内細菌をコントロールしてなどいません。

また七十二億人の“個人”の誰ひとり、自分が次の瞬間に思い浮か
べる想念を自覚的に準備してもいません。

一瞬先に自分が何を思うかすら、知らないわけです。

自分の身体がどうやって生存しているのか、自分がどうやって考え
ているのか、次に何を考えるのか、それすら何も知らない。

それで、「自分は……」なんて言ったって、え、誰のこと (?_?)、
って言いたくなりますよね。(*^_^*)

じゃ、その“自分”は、どこにいるのか?

別にどこにもいないんだけど、ただ、ときどき発生します。

たとえば、海の波だったら、波頭が高く舞い上がったとき、舞い上
がった波しぶきが、落ちたくない、とは言わないでしょう。

ところが、われわれ人間の場合は、舞い上がるのは好きなのに、
落ち込むのは好きじゃない。

高く上がるのは「好きー!」、落ちるのは「嫌ー!」と言った瞬間
に、“自分”が発生する。

まあ、それだけのことなんだけど、でもこの“自分”という幻想で、
われわれは一生苦しむんですよね。

とにかく、【見かけ】を解釈するための身体精神機構を手に入れた
瞬間から、体験すること、意識することに夢中なんです。

そういう物語への“入れ込み”全体が、【見かけ】に対する抵抗と、
抵抗から発生する苦しみを生んでいるんでしょうね。

実在を覆う煙幕のなかで、われわれは物語を紡ぎ、その虚構の物語
のなかで、われわれは獲得を楽しみ、喪失を苦しむ。

長い長い獲得の夢のなかで、新たな真理探しに追い込まれる。

そして何がなんだかわからなくなって、何が真実なのか、どこかに
真実が存在するはずだと、文句を言う。

でも、じつは、何も失っていない。

獲得も喪失も、ただ実在を覆う煙幕のなかで想像している、虚構の
物語のなかにしかないお話なのだから。

でも、そのお話への執着が残っているかぎり、一瞬一瞬に湧いてく
る想念を却下する態度は、なかなか定まらない。

そしてついつい、物語のなかでの延命、獲得の夢に注意を奪われる。

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 質問者 どのようにして真我に到達すればよいのでしょうか?
 
 マハルシ
 真我に到達するというようなことはない。
 もし真我が到達されるようなものなら、それは今ここにはなく、
 未来に獲得されるべき何かを意味する。
 新たに得られたものは、やがて失われるだろう。
 それゆえ、それは永遠のものではない。
 永遠のものでないなら、そのために努力する価値はない。
 だから私は、真我は到達されないと言うのだ。
 あなたは真我である。
 あなたはすでにそれなのである。
 
 事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。
 無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールを
 かけてしまう。
 ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試
 みればよい。
 誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。
 この偽りの同一視がなくならなければならない。
 そうすれば、ただ真我だけが残る。
 
 『あるがままに』(p36-37) 
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> 質問者 どのようにして真我に到達すればよいのでしょうか?

わかるけど。

> マハルシ
> 真我に到達するというようなことはない。

はい。

> もし真我が到達されるようなものなら、それは今ここにはなく、
> 未来に獲得されるべき何かを意味する。

まったくです。

> 新たに得られたものは、やがて失われるだろう。

ああ……。

「新たに得られたものは、やがて失われるだろう」

(-||-)

このことだけ、しっかり覚えておけばいいんだ。(-_-)

> それゆえ、それは永遠のものではない。

はい。

> 永遠のものでないなら、そのために努力する価値はない。

ああ……。

「永遠のものでないなら、そのために努力する価値はない」

なぜなら、それもまた必ず失うのだから。

> だから私は、真我は到達されないと言うのだ。

ありがとうございます。

> あなたは真我である。

はい。

> あなたはすでにそれなのである。

(-||-)

> 事実は、あなたが自分の至福に満ちた状態に無知だということだ。

たしかに。

> 無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールを
> かけてしまう。

わかります。

> ただ誤った知識である無知のヴェールを剥(は)ぐことだけを試
> みればよい。

(-_-)

> 誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。

誤った知識とは、真我を肉体の生存や、湧いてくる想念と関係があ
ると思ってしまうことだ。

> この偽りの同一視がなくならなければならない。

肉体の生存や、湧いてくる想念が、真の自分と関係があるという、
この偽りの同一視がなくならなければならない。(-_-)

> そうすれば、ただ真我だけが残る。

この偽りの同一視さえ一掃されれば、ただ真我だけが残る。

現象世界はすべて単なる【見かけ】であり、偽りの印象にすぎない
と知的には納得していても、なぜその理解は失われるのか?

そしてまたすぐに、偽りの印象のなかでのサバイバルに巻き込まれ
てしまうのか……。(-_-;)

つねに真我であるという自覚、になぜ留まってはいられないのか?

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 質問者 なぜ私は私が真我であると覚えていることができないの
     でしょうか?
 
 マハルシ
 人びとは、すべてに満ちわたる真我を覚えていることや忘れるこ
 とについて語る。
 記憶も忘却もともに単なる想念の状態でしかない。
 そこに想念があるかぎり、記憶と忘却は交互に起こるだろう。
 だが、真理はその彼方に在る。
 記憶や忘却は何かに依存しなければならない。
 その何かは真我にとって異質なものであるに違いない。
 そうでなければ忘れるということはありえないだろう。
 記憶と忘却は個人という観念に依存するものである。
 この個人的な「私」という想念は、見つけだそうとしても見つか
 らない。
 なぜならそれは実在しないからだ。
 それゆえ、この「私」という想念は、幻想あるいは無知(マーヤ
 ー、アヴィディヤー、アジニャーナ)と同意語なのである。
 この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それ
 がすべての霊的教えの目的である。
 無知とはその無知を自覚している人のものであるに違いない。
 その自覚がジニャーナである。
 ジニャーナは永遠で自然なもの、アジニャーナは不自然で偽りの
 ものなのだ。
 
 『あるがままに』(p53-54)
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> 質問者 なぜ私は私が真我であると覚えていることができないの
>     でしょうか?

うん。

> マハルシ
> 人びとは、すべてに満ちわたる真我を覚えていることや忘れるこ
> とについて語る。

あ、はい。

> 記憶も忘却もともに単なる想念の状態でしかない。

おお……。(@_@)

> そこに想念があるかぎり、記憶と忘却は交互に起こるだろう。

なるほど。

> だが、真理はその彼方に在る。

真理は想念の彼方に在る。

> 記憶や忘却は何かに依存しなければならない。

(-_-)?

> その何かは真我にとって異質なものであるに違いない。

そうなんですか。

> そうでなければ忘れるということはありえないだろう。

なるほど……。

> 記憶と忘却は個人という観念に依存するものである。

はぁ……。

> この個人的な「私」という想念は、見つけだそうとしても見つか
> らない。

個人的な「私」という想念は、調査に耐えられない。

> なぜならそれは実在しないからだ。

そうか。

> それゆえ、この「私」という想念は、幻想あるいは無知(マーヤ
> ー、アヴィディヤー、アジニャーナ)と同意語なのである。

ふーん。

> この無知が今までけっして存在していなかったと知ること、それ
> がすべての霊的教えの目的である。

そうなんだ……。

> 無知とはその無知を自覚している人のものであるに違いない。

へぇー、独特の語法だけど、そういう言い方もできる。

> その自覚がジニャーナである。

へぇー。(@_@)

> ジニャーナは永遠で自然なもの、アジニャーナは不自然で偽りの
> ものなのだ。

なんか、わかったような、わからないような。(^^;)

でも、「記憶も忘却もともに単なる想念の状態でしかない」という
言葉は印象に残りました。

いつまでも覚えているとは思えないけど。

でも、それも単なる想念の状態でしかないんですよね。

真理はその彼方に在る……。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.編集後記:
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いつも土曜日ばかりこんな偉そうな言葉を綴って……。

とも思います。

でも、自分って、いないんですよね。

「このメルマガの趣旨」にも……、

「起こっていること……一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の
 意志にしたがっている」
 
と謳っている。

起こるべきことが起こっているだけです。

そうでなければ、エゴとしてのわたし、肉体に自己同化したわたし
が、自分の思いで何かができることになってしまう。

夢のなかの登場人物が、夢のなかで何かを実現できることなど、
ありえないと思います。

今日は明るいうちに終えました。

<(_ _)>

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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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