home > 通信 >『アセンション館通信』(第597号):あたかも“出し抜ける”かのように



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/09/20(第597号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在866名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あたかも“出し抜ける”かのように

2.編集後記
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■ 1.あたかも“出し抜ける”かのように
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このところ、穏やかな秋日和という雰囲気にもなりませんね。

戦争をできる国にしようというのだから、それも仕方ないのかも。

まあ、それはそれでこういう時節なのでしょう。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

確実に知っていることなど何もない、と思えてきます。

本当に確実に知っていると思えたことは、じつはただの記憶にすぎ
ませんでした。

以前あれほど強く確信し、こだわってきたことは、単に一連の記憶
から生まれた感想や想像による捏造にすぎませんでした。

もし記憶が違っていたら、現象を解釈する観点がすべて違っていた
だろうことは間違いありません。

現象の解釈とは、変化の相である現象の一部を、記憶となった別の
変化の相の観点から、決めつけ、断定していただけですから。

それはすべて観念的なものであり、強くこだわればそれなりの実質
を帯びますが、忘れれば自然に消えていくものでした。

現に、すべての死者が抱えていた膨大な記憶は、四六時中絶え間な
く、忘却の彼方へと消えていっています。

確実に知っていると思っていたことは、ただ一連の記憶からでっち
上げられた物語にすぎなかったわけです。

その観念的物語は、強いこだわりや感情が投入されれば、たしかに
それなりのエネルギーを集めることができるようです。

でも、ただそれだけのこと。

自然に放って置かれれば、たちまち雲散霧消していくのです。

現象の解釈とは、記憶が創る観点【が】、現前する変化の相である
現象の一部を、解釈し、断定している……わけではありません。

なぜなら、“記憶が創る観点”とは、単なる観念、抽象的記憶であ
って、それにどんなパワーもエネルギーもないからです。

“記憶が創る観点”とは、言ってみれば、エネルギーを通すための
つかの間の観念的構築物とも言えるでしょう。

一瞬の雲の形のようなものです。

放っておけば、じきに消えてしまう。

ただ、その“記憶が創る観点”に、エネルギーを流す存在がいる。

それは観念にエネルギーを流し、鑑賞して、味わう存在です。

それはゲームプレイヤーと言えるかもしれません。

ゲームプレイヤーはゲームのなかで楽しみ、苦しみ、憤る。

でもここで見逃されやすいのは、ゲームプレイヤーもまた、知覚の
対象物だということです。

ゲームプレイヤーもまた、現象の一部です。

想像のなかで楽しみ、苦しむ者。

想像の舞台のなかの登場人物です。

それも知覚されるものであって、知覚している当の者ではない。

ただ現象のなかで一定の形を保っている時間スケールが、空の雲よ
り少し長いというだけです。

雲を見れば、それがただ離合集散を繰り返す粒子の集合であって、
そこにどんな独立した実体もないことは直ちに理解されます。

ところが、現象する想像の舞台のなかの登場人物の場合、そこに生
じる効果は少し違います。

それがつかの間の離合集散する粒子が創りだす幻影であると、自明
に理解されることはありません。

身体として現象している実体が、すべての現象を知覚しているかの
ような幻想が、そこに起こっているからです。

この幻想が壊れるのは、通常は現象を見ている者の視点が、身体か
ら離れていくときだけです。

そのときばかりはさすがに、眼前に見えているその身体が、見てい
た当人ではなかったのだと、自明に理解されるでしょう。

けれどもどの身体を通じて見ていた者にも、それが起こるわけでは
ありません。

なぜなら、見ている当人が身体を離れるとき、たいていは気を失う
ことになるからです。

この身体が知覚する者なのだと深く確信していれば、身体が崩壊す
るとき、それが自分の最期であることは確かでしょう。

そこに気づいている者などいるはずもないのです。

現象世界の身体に入り込むという、現象する身体に自己同化して自分
を表現するというゲームは、とても深刻なことにもなりえます。

そこから抜け出すことができない深刻な中毒状態にもなりかねない
からです。

そのことを連綿と伝え続けてきているいわゆる霊的伝統もあります。

でも、その霊的伝統は、現象世界自体を崩壊させるほどの圧倒的力
をもつことはありません。

なぜなら、最初からそのようなことは意図されていないからです。

そして、さらにいうなら、現象世界のなかで“苦しむもの”には、
じつはどんな実体もないからです。

それはただの夢幻(ゆめまぼろし)のなかでの気晴らしです。

夢の世界のなかの登場人物であるわれわれが、映画や架空のドラマ
を見て、楽しむのと同じことです。

そして、それが絵空事だと知っていながらも、それでも楽しむこと
ができ、悲しむことができ、感情が発動するのと同じことです。

また、あまりにゲームやドラマに夢中になると、羽目をはずして、
正気を失ってしまうのと同じことです。

現象世界のなかで実際に苦しんでいるどんな実体も存在しません。

ただ、“苦しみ”という【観念】のなかに意識エネルギーが流れこ
むという、つかの間の現象が起こっているだけです。

“楽しみ”という【観念】のなかに意識エネルギーが流れこむとい
う、つかの間の現象が起こっているだけです。

このような夢が存在しなければならない絶対的な理由など存在しな
いでしょう。

存在は、観念の存在を可能にしているだけで、観念の許可を得て、
存在しはじめたわけではありませんから。

存在するものは、他の誰の許可を得て、存在しはじめたわけでもあ
りません。

意識は誕生できません。

意識は、ただ在るだけです。

だから、もし後から観念的識別が起こるなら、意識とは存在と同じ
ものだとも言えるでしょう。

意識が揺らぐとき、現象が起こります。

意識がその現象に自己同化するとき、そこに立場が生まれます。

その立場から判断するとき、意識内にたくさんの観点と矛盾とドラ
マが生まれます。

相対的に広い観点は“正しい”と呼ばれたり、相対的に狭い観点は
“間違っている”と呼ばれたりするかもしれません。

相対的に繊細な観点は“善い”と呼ばれたり、相対的に粗雑な観点
は“悪い”と呼ばれたりするかもしれません。

相対的に繊細な対照の妙は“美しい”と呼ばれたり、相対的に粗雑
な対照の妙は“醜い”と呼ばれたりするかもしれません。

でも、すべては絵空事、架空の創造(想像)です。

それらのつかの間の現象のなかに、何らかの実体があるわけではあ
りません。

なによりも、そこに実際に“苦しんでいる者”は存在していないと
いうことです。

なぜなら“苦しみ”を知覚できるのは“苦しんでいる者=苦しみ”
ではないからです。

“苦しみ”ではない者だけが“苦しみ”を知覚できます。

“苦しみ”は現象の解釈である記憶のなかにしか存在できません。

すべては、意識の虚構の自己分割による想像です。

とはいえ、自分が“苦しんでいる”と思い込んでいるものには、そ
のような説教は世迷い言としか思えません。

そういうことすべてが自然現象であり、あるべき姿なのでしょう。

現象のなかに登場する知覚対象の想念が、現象の理由や目的を問う
ことなどできるはずもありません。

そのような問そのものが、現象のなかの束の間の想念として予定さ
れていたというだけのことです。

現象世界のなかのわれわれ人間は、源から流れだす全体の計画を、
あたかも“出し抜ける”かのように幻想するだけです。

この現象界に“誕生”してきたとき、われわれ人間は自分がどんな
ことを欲望することになるかなど、まるで知りませんでした。

ただ、腹が空いたら自然に泣き声が出ていただけです。

それがやがて自分の姿と名前を教えられ、自他の区別を学びます。

そして“善い”と“悪い”を教えられ、“善い”ことが自分の利益
になるのだと学ばされるわけです。

そして“善い”ことを求めるようになり、いつか自分が求めている、
自分が欲望しているのだと、思いこむのです。

そしていつか思春期を迎え、性欲が発動してきたら、自分が欲望し
ているのだと思うようになっているわけです。

でも事実は、赤ん坊として生まれてきたとき、自分が性欲を持つよ
うになるなどとは夢にも知りませんでした。

ただ身体の成長段階が思春期を迎えたら、性欲が発動してきただけ
のことです。

身体である自分が欲望しているのでしょうか?

いや、ありていに、素直に言うなら、ただ欲望させられているだけ
です。

でもそこに、自分が欲望しているかのような幻想が起こっているの
です。

そしてその欲望を恥ずかしがったり、隠そうとしたりする。

あたかも現状がいけないことでもあるかのように。

そしてわれわれは心配する。

あたかも、心配することで、何かの手を打てるかのように。

あたかも、努力することで、何かを改善できるかのように。

あたかも、現象世界という波動で織り込まれた全体のなかで、自分
という個人が全体を“出し抜ける”かのように。

でも、それはすべて自然現象として起こっている。

自分が欲望していると思い込むことも、自分が頑張れば何かを改善
できると思うことも、すべてが起こるべくして起こっている。

そして頑張れば何かを出しぬいて本来起こるはずのことよりも、少
しましな現実を呼び出せるかのような幻想が起こることも。

すべては自然現象として起こっている……。

どんなに個人の存在を信じようとも、誰ひとり一年先に自分が遭遇
している状況を言い当てることはできません。

それどころか、一瞬先の自分の思考内容すら知ることはできません。

身体は食べたものによって作られています。

思考は接触し取り入れた情報内容によって構成されています。

原因があって結果が起こっている自然現象です。

この知覚対象である現象世界は、すべてがすべてを相互に織りこん
でいる自然現象です。

その自然現象を“出し抜ける”ような、個人という分離した実体が
存在しないことは自明です。

ただ長い間の習慣で、一瞬そんな思考が湧いてくるだけです。

唯一確かに言えることは……「私は在る」。

誰に保証してもらう必要もない。

他の誰に依拠することもなく、わたしは在る。

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 あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟
 るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならな
 いからだ。
 あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚え
 ておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
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> あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚え
> ておきなさい。

はい。

> あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。

わかりました。

(-||-)

マハラジから、幸せになるために他に必要なことは何もないのだと
教わっています。

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 あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。
 あなたに言おう。
 これが幸福の秘密なのだ。
 あなたの幸せがものごとや人びとに依存すると信じることは、自
 己の真の本性に関するあなたの無知によるものなのだ。
 自己知識を除いては、幸せとなるために必要なものは何もないと
 知ることが智慧なのだ。
 
 『私は在る』(p523)
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ありがとうございます。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
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ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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というのを作らせていただきました。(^^;)

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■ 2.編集後記:
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今日は、墓参りに行ってきました。

世の中ちょっと騒々しいけれど。

でもそれは単なる場面の問題です。

幸せになるために他に必要なことは何もないと教わっているし。

自分が存在していることは、知っているので。

気のせいか、あまり心配しなくなっているような気もします。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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