━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/09/27(第598号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。
したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在865名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.自分が身体ではないことを腑に落とす
2.いただいたお手紙から: アドヴァイタのオッサンさん
3.編集後記
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■ 1.自分が身体ではないことを腑に落とす
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今日も、結構、寒かったですね。
彼岸も過ぎて、朝晩ずいぶん寒く感じるようになりました。
それもこれも、自分がこの世界に興味があって、この世界に焦点を
合わせているということでしょう。
まあ、それを称して、夢を見ているというのでしょうが。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
いつも土曜日になると、モニター画面の前でしばらく自分の気分を
整えて、何か文字が出てくるのを待つのですが……。
今回はありがたいことに、最初から【お題】をいただいているよう
な気がしています。
先週のメルマガを配信してからすぐに、とても嬉しいご投稿をいた
だいたのです。
通常ならもちろん、「いただいたお手紙から」のコーナーでご紹介
するのですが、次回はこのテーマで、とそのとき思ったのです。
こんなメルマガでも、もし何かお役に立てるという幻想を紡げるな
ら、やはりそれも嬉しいですから。
このメルマガも、夢のなかに織り込まれた情報の移動媒体であるこ
とは間違いないので。
では早速、uocudaさんからいただいたご投稿をご紹介します。
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始めまして。
毎回拝見させてもらっていますが、今回の「あたかも“出し抜け
る”かのように」は、内容が自分に合っていたのかもしれません
が、一段と良かったと感激しました。
「この幻想が壊れるのは、通常は現象を見ている者の視点が、身
体から離れていくときだけです。」
私は、自分が体ではないというのが、いまいち腑に落ちていない
ので、あこがれです。
これからも、楽しみにしています。
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uocudaさん、ここでご紹介させていただきました。
> 始めまして。
はじめまして。
> 毎回拝見させてもらっていますが、今回の「あたかも“出し抜け
> る”かのように」は、内容が自分に合っていたのかもしれません
> が、一段と良かったと感激しました。
そうでしたか。
そういう反応をいただけるのはとても嬉しいです。(^^)/
> 「この幻想が壊れるのは、通常は現象を見ている者の視点が、身
> 体から離れていくときだけです。」
> 私は、自分が体ではないというのが、いまいち腑に落ちていない
> ので、あこがれです。
ここを読んで、あ、次回は、このことについて書かせてもらおうか
な、と思ったのです。
> これからも、楽しみにしています。
ありがとうございます。
この「自分が体ではないというのが、いまいち腑に落ちていない」
方は、uocudaさん以外にもたくさんいらっしゃると思います。
わたしは、自分が理屈で納得したタイプなので、それが納得できる
ことなのかどうかを、何度も何度も反芻しました。
つまり、観念という状況証拠で、自分が身体ではないという事実を
納得しようとしたわけです。
今は生き延びる努力に齷齪しながら、同時にこの(自分の現実を)
知覚している存在がこの身体でないことは知っています。
【自分が身体ではない】ことが腑に落ちる仕方は、細かく言えば、
求める人の数ほどの多様な道筋があるのだろうと思います。
でも、いわゆる禅で言う「見性」体験以外は、すべて論理的な状況
証拠(つまり観念)に拠る間接的納得だろうと思います。
これから、その【状況証拠】をいくつか挙げていこうと思いますが、
それらはすべて納得したい「状態」があってこその証拠です。
そもそもそんなことを知りたい状態がなければ、そんな【状況証拠】
に何の意味も効力もないわけです。
語られていることの意味が「わかる」という場合、多様な水準があ
ると思います。
言葉のごく表面的な意味をたどれる、という意味での「わかる」も
あります。
でも、それではたいした共感も共振も起こらないでしょう。
意味が「わかる」ということのもう少し深い水準は、なぜそんなこ
とを問題にしているのかがわかる、ということです。
このレベルの「わかる」がなければ、そもそも理解の土台がないわ
けです。
なので【自分が身体ではない】ことを腑に落としたい状態があるな
ら、じつはすでに直感的にはそれを知っているとも言えます。^^;
とまあ、屁理屈の前置きをしたうえで、【自分が身体ではない】こ
とを腑に落とすための論理的情況証拠を挙げていきますね。(*^_^*)
●情況証拠1:物質の空間イメージ
pariパターンの場合、【自分は身体ではない】という理解は、現代
物理学における物質の空間イメージから起こりました。
それは喩えてみれば、動く電車の実体が目に見える車輌ではなく、
パンタグラフを通じて入る電気だったと知るようなものです。
これまでにも何度か触れましたが、科学記者ゲイリー・ズーカフ氏
が書いた『踊る物理学者たち』という本を読んだのです。
その「素粒子」の項には、こういうことが書かれています。
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素粒子
マクロのレベルからミクロのレベル、つまり非常に小さいものの
領域へと下っていく過程には二つの段階がある。
原子のレベルに至るのが第一段階、素粒子のレベルに至るのが第
ニ段階である。
顕微鏡まで動員して我々が見ることのできる物体でも何百万もの
原子を含んでいる。
原子を野球ボールの大きさにする倍率だと野球ボールは地球の大
きさになる。
ぶどうで満杯の巨大なガラス球のイメージで地球を思いうかべて
みれば、それは原子で満杯の野球ボールのイメージに近い。
ここから先は第二段階。
ここには、原子を作り上げている粒子がある。
原子のレベルと原子以下のレベルの差は非常に大きく、原子レベ
ルと普通の世界、棒きれや石ころの世界との差と同じくらいであ
る。
原子をぶどうの大きさに拡大しても、部屋の大きさに拡大しても
原子核を見ることはできない。
原子核を見えるようにするには、何と原子を十四階だてのビルに
拡大しなければならないのだ!
そうまでして、ようやく原子核は塩の一粒の大きさになる。
原子核は電子の数千倍の質量だから、原子核の周囲をまわってい
る電子は、こんなに倍率をあげでもほこりの粒ぐらいの大きさで
しかない。
ヴァチカンにあるサンピエトロ大聖堂のドームの直径は十四階分
ある。
ドームの真中に塩を一粒置き、ドームの外周を回っているほこり
の粒がある、と想像してほしい。
原子以下のレベルの粒子たちはこんな尺度にある。
そしてまさにこんな領域では、ニュートン力学はあてはまらず、
素粒子のふるまいを説明するのに量子力学が必要なのである。
素粒子たちはほこりの粒のような「粒」ではない。
両者の差は大きさだけではない。
ほこりの粒はものであり物体である。
素粒子はものでイメージできない。
だから素粒子を物体として考えることはあきらめなければならな
い。
量子力学的な見方をすると、粒子は「存在への傾向」「生ずる傾
向」である。
この傾向の強さは確率で表現される。
原子より小さい粒子を「量子」というが、これはもともと一定量
(どれほどか)を意味している。
しかし、それが何の量なのかを考えることは思弁的な問題であっ
て、こうした問いを立てることがそもそも無意味なのだと感じて
いる物理学者は多い。
宇宙の究極的物質を追い求めることは幻想へ向かう十字軍かもし
れないのである。
原子以下のレベルでは質量とエネルギーは絶えず相互転換してい
る。
量子物理学者たちは両者が相互転換する現象に慣れているので、
量子の質量をエネルギーの単位で測定するのが通例である。
一定の条件の下で原子以下のレベルの現象が実際に起こる傾向は
確率で表わされるから、問題は統計学のもの(物ではない、念の
ため)となる。
『踊る物理学者たち』(p71-72)
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こういう文章は、読む気がある人にしか読めません。(^_-)
逆にいうと、読む気がある人には、その意味が入ってくるというこ
とです。
じゃ、pariパターンには、それがどんなふうに入ってきたのか?
わたしが理解したのはこういうことです。
われわれが自分だと思っているこの身体は、目に見える以上、もち
ろん、物質です。
で、われわれは通常、この目に見える物質の身体が、知覚したり、
意志したり、行為したり、しているのだと思っています。
でも、当時それまで自分が読んでいた本からの知識でも、どうも、
それは怪しいような気がしていました。
『踊る物理学者たち』という本に手が伸びたのは、自分の意図とい
うものの【物質的根拠】のイメージを確認したかったのです。
どういう【物質的根拠】が、このわたしの意図を担っているのかと。
この本はわたしに、予期していた以上の知見を与えてくれました。
特にわたしにインパクトがあったのは、現代物理学(量子力学)が
到達しているらしい物質の空間的イメージでした。
わたしが知りたかったのは、分子や原子がどうやって意志的行為を
実現しているのかというイメージでした。
その意図がたどり着いた本が『踊る物理学者たち』だったのです。
この本の「素粒子」の項の記述から知ったことはこうです。
われわれが知っている物質は、生活レベルでは確かに個体であった
り、流体であったりの明確な実体があるように感じられる。
でも、少し精度を上げた観察機器で調べていくと、物質には様々な
スケール上の「層」がある。
たとえば、この人体は様々な種類の細胞からなり、その細胞はまた、
膨大な数の分子によって構成されている。
さらにその分子は、多様な原子からなっている、と。
ここまでは、まあ、現代人の常識となっていることです。
じゃ、もし【身体が自分だ】とするなら、われわれの意図の根拠は
そのどれが担っているのか?
細胞レベルが担っているのか、分子レベルが担っているのか、それ
とも原子レベルが担っているのか?
さらにその根拠を物質的構造のなかに求めていくと、原子のなかに
は、原子核というものがあるらしい。
原子核には「中性子」と「陽子」というものがあるらしく、それは
たしかに、われわれの知覚と意図の根拠のようにも思われる。
ではその原子核の「中性子」と「陽子」が、われわれの知覚や意図
の基本単位なのだろうか?
膨大な数の独立した原子が連携を取り、構造的に組み合わさって、
われわれ個々人の知覚や意図を構成しているのだろうか?
そしてまた意図とその表現には、物理的な動きが必要なはずだが、
その現象上の動き(行為)は何が担当しているのか?
原子イメージのなかでその動きを担当しているのは「電子」かもし
れない。
では、「電子」は自らの意図で動くのか、それとも「陽子」の意図
を反映して動くのだろうか?
【身体が自分だ】とするなら、その自分の中核をなす知覚や意図の
物質的根拠は何なのか、まあそういうことを思ったわけです。
そんなことを思いながら、この『踊る物理学者たち』の記述を読む
ことは、とても面白い経験でした。
ゲイリー・ズーカフ氏の報告がpariパターンに与えた印象の大きさ
は、彼が提供する空間イメージによるものでした。
> 原子をぶどうの大きさに拡大しても、部屋の大きさに拡大しても
> 原子核を見ることはできない。
素粒子レベルにスケールを移すと、この部屋全体のなかに、わたし
の意図を担う物理的存在は痕跡も認められいないというのです。
この部屋全体のなかには、ただ空間あるのみです。
> 原子核を見えるようにするには、何と原子を十四階だてのビルに
> 拡大しなければならないのだ!
十四階だてのビルの空間のなかではじめて、わたしの意図の根拠を
担う物理的存在の痕跡が姿を現す、と。
> そうまでして、ようやく原子核は塩の一粒の大きさになる。
わたしの知覚や意図の根拠は、十四階だてのビルの空間のなかに、
塩の一粒の大きさで姿を現す、と。
そんな片隅でいったい何を意図しているんでしょう? (*^_^*)
> 原子核は電子の数千倍の質量だから、原子核の周囲をまわってい
> る電子は、こんなに倍率をあげでもほこりの粒ぐらいの大きさで
> しかない。
肝心のわたしの動きの表現の担い手は、その広大な空間でも存在の
痕跡が推測されるだけだというのです。
> ヴァチカンにあるサンピエトロ大聖堂のドームの直径は十四階分
> ある。
> ドームの真中に塩を一粒置き、ドームの外周を回っているほこり
> の粒がある、と想像してほしい。
> 原子以下のレベルの粒子たちはこんな尺度にある。
もし、この物理的【身体が自分だ】とするなら、空間イメージ的に
はどういうことが起こっていることになるか?
サンピエトロ大聖堂のドームの中心にある一粒の塩が知覚し、意図
して、ドームの外周にいるほこりに動きを指示している、か。
あるいは、サンピエトロ大聖堂のドームの外周を回っているほこり
が、ドームの中心に位置する塩粒の意図を察知している、か。
あるいは、サンピエトロ大聖堂のドームの外周を回っているほこり
が、健気にも懸命に自らの意図で動きを表現しているか……。
まあ、そんなことが起こっていることになります。(^^;)
それに、もし前二者の場合なら、その塩粒と外周のほこりの間で、
どうやってコミュニケーションが可能なんでしょう。
【身体が自分だ】と思っていたわたしですが、さすがにここまでく
ると、こりゃ、生きているのは空間のほうだわ、と納得しました。
当時は、その生きている実体を、物質ではないものという意味で、
「真空」と呼んでいましたが。
https://www.ascensionkan.com/work/06eien_05dome.html
またサンピエトロ大聖堂のドームの中心にある一粒の塩と、ドーム
の外周のほこりのイメージは、別のことも納得させてくれます。
もし空間が意識であり意図であるなら、このサンピエトロ大聖堂の
ドームの塩とホコリは、幻影装置としてならピッタリだな、と。
もちろん、それがどんなふうに実現されているのかは、pariパター
ンなどにはわかりません。
そんなことは、どこかの上位次元さんの担当でしょう。
わたしとしては、知覚し意図しているのは物質ではないな、という
ことが腑に落ちれば、それでよかったのです。
●情況証拠2:臨死体験者による報告
見ること聞くことなど、われわれの知覚は、どうやら肉体がやって
いるのではないらしい、と教えてくれる別の情報源があります。
それは1980年代頃から報告されはじめた臨死体験者の報告です。
わたしの場合、最初に最も強い印象を受けたのは、セイボム博士の
『「あの世」からの帰還―臨死体験の医学的研究』という本でした。
なかの記述を引用すると、たとえば、こんな感じです。
------------------------------------
セイボム
その器械やそれが乗ってた台車について細かいことでお気づきに
なったことはございましたか。
患者
正面にメーターがついていた覚えがあります。
多分電圧とか電流とかワット秒とかそういうことを計るメーター
だと思いますね。
セイボム
そのメーターはどんな感じのものかおわかりになりましたか。
患者
四角い形で針が二本付いてて、一本は固定される方で、もう一本
が動くようになっていました。
セイボム
針はどんなふうに動きましたか。
患者
かなりゆっくり起きてくるようでしたね。
電流計とか電圧計とかと違って、速い動きはしませんでしたよ。
セイボム
針はどのくらいのところまで行きましたか。
患者
最初は時計で言えば、11時から12時当たりを指していました。
二回目は12時を超えるところまでいって、三回目は1時半くらい
までいきましたね。(p165)
……
一般的な医学的な見地から考えると、本患者が行った蘇生場面の
自己視的描写は、集中治療病棟内で熟練した専門家が心肺蘇生を
行う際予測される内容と正確に一致している。
除細動装置に充電が行われているときに、そのメーターの「固定
される」針と「動く」針について患者は的確に描写しているが、
その点に私は特に強い印象を受けた。
この二本の針の動きは、この装置が使用されている場面を実際に
見たことがなければ分からないものなのである。(p170-171)
『「あの世」からの帰還』
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セイボム博士がこの蘇生術を受けた患者の証言に、非常に衝撃を受
けたことは間違いないでしょうね。
ご自分でその除細動装置の針の動きを知悉しているだけに、患者が
想像で捏造するのは不可能であることが自明でしょうから。
もちろん、この証言は、必ずしも『「あの世」からの帰還』を、つ
まり「あの世の」存在を証明するものではないと思います。
でも、この証言が描写している事実は、除細動装置による蘇生術を
受けている患者の身体が見た光景でないことは明らかです。
患者の身体が横たわっている位置からは計器は見えないのです。
当人が証言しているように、天井あたりから自分の身体を見ている
人が見た光景です。
たしかに、こういう報告は例外的とはいえます。
でも、こういう報告は現にこうして存在するし、今やそれほど珍し
いものですらなくなってきています。
「死の臨床」の世界的権威キューブラー・ロス博士の『死後の真実』
には次のような文面があります。
------------------------------------
何千年もの間、私たちはあの世に関するものを「信じる」ように
仕向けられてきました。
しかし、私にとってはもはや信じるかどうかの問題ではありませ
ん。
知るかどうかの問題なのです。
みなさんが心から知りたいと望むのなら、この知識をどうすれば
得ることができるのか、みなさんに話してあげることもできます。
知りたくなければ、それでいっこうに構いません。
みなさんもどっちにせよ死ねば分かることだからです。
『死後の真実』(p14)
------------------------------------
身体を離れても、現象に興味があるかぎりは、おそらく見るという
体験、聞くという体験はあるのでしょう。
見るという体験、聞くという体験は、カントが「先験的知覚」とい
う言葉を使ったように、身体がなくても存在しているのです。
というわけで、【身体が自分だ】という信念の中核を構成すると思
われる“身体が知覚している”はどうやら幻想のようです。
身近に知らない人の例ばかり挙げましたから、最後に少し、日本で
会うこともできる著名人の例も挙げておきましょう。
日本最大のNGO、環境ネットワーク『地球村』の代表高木義之さ
んの人生の転換点で起こった出来事です。
------------------------------------
・一九八一年四月二十七日 日曜日午後三時
その日、昼寝から目覚めると、珍しくオートバイに乗りたくなっ
た。
そしてどこに行くでもなく国道一号線を京都に向かって走ってい
た。
そして、気づいたときは遅かった。
自動車がこちらみ向かって走ってくる!
“何なんだ、これは!”
分離帯のある国道でクルマがこちらに走ってくることはありえな
い。
ありえないから夢に違いない。
ともかくブレーキをかけなければ。
だが、とうてい間に合う距離ではない。
急ブレーキの音。
スローモーションのようにクルマが近づく。
ゆっくりと接近……そして……ガッシャーン!
………………………………………………
“ん? 痛くない…………”
周りを見ると、オートバイが横転……
バウンドしながら横すべりしていく……
自分の身体も吹っ飛び、道路に叩き付けられる……
ヘルメットがこわれて、道路を転がっていく……
それを見ている私。
私は、自分の交通事故を目撃しているのだ。
ヘルメットは歩道を歩いている女の人の足元まで転がっていった
……
その人が振り向いた。
“あれは合唱団のSさんだ!
おおい、僕だよ、僕だよ!”
Sさんはしばらく足を止めて事故現場を見ていたが、やがて行っ
てしまった。
Sさんが“大したことないみたい、私には関係ない”と考えてい
るのがわかる。
“おいおい、ひどいよ、あれは僕だよ、関係大ありだよ!”
『転生と地球』(p18-19)
------------------------------------
……。(-_-)
見ていたのは、高木さんの身体じゃなかったんです……。
だから、身体が生きていると思っているのは幻想です。
身体は単なる死物で、物理次元の体験をするための潜水服みたいな
ものだとも言えるでしょうか。
その潜水服に入って見たり聞いたりしている存在がいるのです。
●情況証拠3:論理的推論
これまで何度か、【意識は誕生できない】という事実について触れ
てきました。
今の学校教育の常識は知りませんが、以前は無生命の鉱物の世界の
海から生命が誕生した、という神話が教えられてきました。
それは物質界から生命が誕生したというお話とも言えます。
どんな意図もない無生命の物理次元に、機械的偶然過程のなかから
星が誕生した、かのようなお話です。
その無生命の鉱物圏のなかから考えられないほどの偶然が重なって
海が出現し、そこに有機物の世界が発生したというのです。
そしてその有機物たちがいつか惑星の生態系を構成するようになり、
ついにはホメオスタスシを持つ生命世界が誕生したと。
その生命世界に植物圏と動物圏が誕生し、それぞれの進化を遂げ、
その進化の頂点として霊長類の人類がいるのだと。
そしてその人類のなかではじめて自省的な意識が発生したと。
この神話は、ある意味で別に間違っているわけではなく、ひとつの
世界、ひとつの時代の常識を構成する観念です。
でも、どんな観念(常識)もそれが有効なタイムスパンをもってお
り、それを超えて生き延びることはできません。
この神話は、物質的世界からの生命(=意識)の誕生をイメージさ
せるものでした。
でも、意識を覆っていた雲が薄れていくにつれ、じつはそんなこと
はありえないことが自明になってきます。
そういうことが明らかになるのは、そう、コンピュータが世界中に
溢れるような時代でしょうか。
世の中に自動機械が溢れ、人間のふるまいを非常に高度に模倣でき
るロボットが出現するような時代です。
このとき、ロボットに意識をもたせられるかどうか、という疑問が
生まれる可能性があります。
もちろん、意識を持っているふりをさせることはできますよ。
でも、そうではなくて、ロボットに意識をもたせられるかどうかで
す。
これは、結局、ロボットに意識に憧れさせることができるかどうか
という問題だ、ということがわかります。
無生命のロボットが、どうやって、意識に憧れることができるでし
ょうか?
それは、言い換えると、ロボットに人間になりたいと思わせられる
かどうか、と同じことです。
見事にそのふりを演じるロボットを作ることはできるでしょう。
でも、ロボットに意識を憧れさせることはできない。
そこには、死物と生命の絶対的な断絶があります。
死物は、生命に憧れることはできないのです。
そして、生命は最初から生命です。
無意識・無生命の物質世界から、ホメオスタシスをもった有機世界
が誕生し、そこから意識生命が誕生することなどありえません。
意識は無始無終に存在し、生命は無始無終に生命しています。
pariパターンにとっては、こういうことはとても【論理的】な事実
だと感じられます。
でも、こういうことは、通常語られる「論理」とは違うのかもしれ
ません。
われわれ人間は、過去の記憶から未来を推測する「知性」をもって
いるため、「自分が必ず死ぬ」ことを知っています。
「自分が必ず死ぬ」ことを知っているこの声を、Oshoは「肉体の声」
だと言います。
そしてその「肉体の声」に自己同化したとき、われわれは震えると。
けれども一方、われわれはどうにも自分そのものが死ぬことを想像
できません。
あたかも、死んでいく自分を見ている自分がいるかのように。
絶えざる「肉体の声」にも負けずに生きていられるのは、我々がど
こかで自分が死なないことを知っているからだ、とOshoは言います。
これほど多くの死に取り囲まれながら、なおかつ生きていられるの
は、何かが自分はけっして死なないと言い続けているからだと。
つまり、死ぬことを知っている者は、不生不滅なのです。
これが【自分は身体ではない】ことの、もう一つの論理的証明です。
uocudaさん、お陰で好きなだけ書くことができました。
もしお役に立てたら、嬉しいです。
ありがとうございました。m(_ _)m
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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はい。
(-||-)
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永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:アドヴァイタのオッサンさん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
今回アドヴァイタのオッサンさんからも、ご投稿をいただきました。
早速、ご紹介させていただきます。
【件名】: 背中押します2
------------------------------------
pari さん、こんにちは、再び参上。
毎週、拝読しております
---------
>(第597号)
唯一確かに言えることは……「私は在る」。
誰に保証してもらう必要もない。
他の誰に依拠することもなく、わたしは在る。
---------
そうだ!そうだ! この現象世界が消滅しても、わたしは在る。
pari さんの背中押します、グイグイ。
「聖典は賢者の為に書かれたものではありません、何故なら彼ら
に聖典は必要ないからです。
また、無知な人が聖典を求めることはありません。
解脱を求める人だけが聖典を必要とするのです。」ラマナ
今日、pariさんに語りたいのは「観念」です。
人はあまりにも当然のように現象世界の実在性を信じています。
現象世界の実在性は全ての前提条件である、と言えます。
この現象世界の実在性を信じる心、これを「観念」と定義したい。
この「観念」を捨て去ることは可能か?
真我は「観念」によって覆われている。
探求者の正念場。
自分で現象世界を創って、そこへ入り込んで、自ら苦しむ。
捨てればOK、しかし、現象世界への執着がある。
幼稚園生の時に砂場で泥団子を作って磨きを入れてペカペカにし
て、スベリ台の下の秘密基地に隠して置く。
その泥団子は実在である。w
アジャータ・ヴァーダ(非起源論)、世界創造は一度も起こらな
かった、これを受け入れられる日がくれば観念(泥団子)が消え去る。
。。。
○「失敗と中断が起こる度に、再び歩み出そうとする決意が衝動
となって起こる」ラマナ
○「アジニャーニは身体を真我と混同するため、グルも身体だと
見なします」ラマナ
○「内に向けられた心で、「私」という言葉を発することなく、
内部に「私」の源を捜し求めることが真の知識の道である」
ラマナ
徐々に現象世界が薄く透けてゆく、衝動、決意、ラマナやニサル
ガさえも観念、この現象世界も幻と退ける、もはや執着の心が湧
かない、言葉を発することなく、ただ独り歩む、私は知る、
「名前と形」を超えた原初の意識。。。
大げさだけど私の体験0.1秒。
私が、pariさんを、愛おしいと感じるのは、真我の愛ゆえです。
ラマナのパクリ。w
------------------------------------
> pari さん、こんにちは、再び参上。
> 毎週、拝読しております
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
今度、引用なさるときは、書名やページなどを教えていただけると
ありがたいです。
アドヴァイタのオッサンさん、ご投稿ありがとうございました。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 3.編集後記:
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こんな毒にも薬にもならないことに一日を使えるのは、まあ、させ
られていることは間違いないでしょうね。(^^;)
もちろん、自分が意図してやっているような面もあります。
でも、好きでなければこんなことはできません。
まあ、天才バカボンのパパではありませんが……。
これでいいのだ!\(^-^)/
(*^_^*)
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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