home > 通信 >『アセンション館通信』(第600号):どこに向かっているのか?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/10/11(第600号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在864名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.どこに向かっているのか?

2.編集後記
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■ 1.どこに向かっているのか?
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こういう秋の日もありますね。

曇り空に焚き火の煙が昇っている光景です。

ここは眼前の光景より高くなっているので、煙が下の方から昇って
きて上の方に広がっていきます。

だからまわりの空気は薄ぼんやりと煙ったような感じ。

だからどうということでもないですが。^^;

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

ちょっと驚きました。

今、ヘッダーに号数を入れたのですが、600号なんですって。

よしなしごとを週に一回、600回も書きつづけてきたんですね。

それらはすべて今の瞬間に書かれたものです。

ただ一瞬では体験できないので、600回にも分けて体験されたとい
うことでしょう。

すべて、何かに向かっているようでありながら、ただ現象のなかの
一風景、観念の“盥(たらい)回し”の一場面にすぎません。

すべては現象に織り込まれたパターンの一場の夢にすぎません。

どこに向かっているわけでもない。

そしてそれをやっている人もいない。

やらされているわけでもない。

なぜなら、やらせている誰もいないからです。

じつは、先週、配信前の土曜日にご投稿をいただいていました。

ちょっと予定があって時間に余裕がなく、メールを確認していませ
んでした。

それで今回掲載させていただくのですが、前々回と同じく、これも
ここでご紹介させていただきます。

Kenさんという方からのご投稿です。

【件名】: どこに、向けばいいのか?
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 pariさん、いつも拝見しています。
 
 自分が身体ではないことを腑に落とすとの記事については、
 特に、ひきつけられました。
 
 何回も、読み直しています。
 
 確かに、頭の中では、何回も読み直すことにより自分は、この身
 体ではないんだと、(頭では)理解したように思います。
 
 しかし、実体験では、なにも、理解、体験、できていません。
 頭の理解、と実際の体験では、まったく違うのではないでしょう
 か。
 
 自分では、頭の理解までしかないもので。
 マハルジの私は在るという感覚、
 ダグラス・ハーディングの自分を見る、
 この、感覚は、同じなんでしょうか?
 
 自分を見る、外、内、頭では理解不能です。
------------------------------------

Kenさん、ご投稿ありがとうございました。

とても普遍的なテーマに触れている内容でしたので、ここでご紹介
させていただきました。

> pariさん、いつも拝見しています。

いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

> 自分が身体ではないことを腑に落とすとの記事については、
> 特に、ひきつけられました。

それは嬉しいです。

なにしろ一日がかりで書いていましたから。^^;

> 何回も、読み直しています。

ジーン。(-||-)

> 確かに、頭の中では、何回も読み直すことにより自分は、この身
> 体ではないんだと、(頭では)理解したように思います。

そうでしたか。

では、文章の意図は十分に伝わったんですね。

嬉しいです。

> しかし、実体験では、なにも、理解、体験、できていません。

ええ、今はそういうご感想をお持ちなんですね。

わかります。

> 頭の理解、と実際の体験では、まったく違うのではないでしょう
> か。

なるほど。

> 自分では、頭の理解までしかないもので。

ええ、書き手の方も“頭の理解までしか”意図していません。^^;

> マハルジの私は在るという感覚、
> ダグラス・ハーディングの自分を見る、
> この、感覚は、同じなんでしょうか?

なるほど。

> 自分を見る、外、内、頭では理解不能です。

Kenさん、とても素直なご感想を、ありがとうございます。

こういう真摯な言葉をいただくと、マインドにエネルギーが起こっ
てくるみたいです。(-||-)

まず、メールのタイトルでいただいた

        【どこに、向けばいいのか?】

ですが、これは単純です。

Kenさんとかpariとか、われわれが自分だと思っているマインド
は、自分が本当は何であるかの理解へと、突き動かされています。

つまり、自分の能力以上のことを求めさせられているのです。^^;

こう言うと、どうしても、それを求めさせている誰かがいるような
語法になってしまいますが、これは言葉の限界です。

誰かが誰かをハメて、相手をからかって、いじめて楽しんでいるわ
けではありません。

強いて言うなら、いつも永遠の創造(想像)ゲームが、無限のチャ
ンネルで放映されているだけです。

あるチャンネルでは、本気で新たな創造を信じていて、本気で新た
な創造に向けての冒険のドラマが放映されています。

別のチャンネルでは、本気で新たな発見を信じていて、本気で新た
な発見に向けての努力のドラマが放映されているかもしれません。

そういう無限のチャンネル群のなかに、「私とは何か」症候群に向
けたチャンネル群もあるということです。

そんななかで、たとえば、KenさんはKenチャンネルを視聴し、
pariはpariチャンネルを視聴しているわけです。

これらの無限のチャンネル群のなかに、高級低級といった区別や、
上級初級といった区別があるわけでもありません。

そういう区別はすべて、放映されるドラマのなかにしかないので、
いわば高級そうな夢や、低級そうな夢があるだけです。(^^;)

誰がいつ始めたとか、そういうものではありません。

永遠の過去から、永遠の未来にかけて、無始無終の<いま>のなか
で演じられている、永遠に視聴無料の「夢の遊園地」です。

こういう状況を、古来ヒンドゥー教では「リーラ」(神の遊び)と
呼んできたようです。

ここには、むろん、誰もいません。

意識が無数の観客を装って、無数のドラマを楽しんでいるのだ、と
いう説を唱えているチャンネルもあります。

神は現象世界の存在すら知らない、神は現象世界の存在については
まったく無実だ、という説を唱えているチャンネルもあります。

かと思えば、人生とは修行道場だ、ここで多くの学びを得て、次の
段階に進化するのだ、という説を唱えるチャンネルもあります。

こういった、ランクもレベルも方向性もない、無限のチャンネル群
が存在するわけです。

なぜ、ランクもレベルも方向性もないと断言できるのかといえば、
レベルや方向性があっては現象世界は存在できないからです。

現象世界に全体としての向かうべき方向があったら、なぜ永遠のな
かで<いま>そうなっていないのでしょうか? (*^_^*)

<いま>放映されているチャンネルこそが、永遠の<いま>の究極
のゴールだということがわからないでしょうか。

たった<いま>あるのが、永遠の<いま>のゴールであり、出発点
であり、現在上映中の夢なのです。

でも、そんな理屈では

        【どこに、向けばいいのか?】

と問われたKenさんが納得できないのもよくわかります。

では、Kenさんが問われている【どこに、向けばいいのか?】に
は、どう返答すべきなのか。

それもまた単純です。

Kenさんやpariなど、自分とは何かの理解へと突き動かされてい
るマインドは、マインドの限界の理解へと向かっています。

マハラジは、美しくこう表現しています。

------------------------------------
 あなたはマインドを超えている。
 だが、あなたはマインドで知るのだ。
 知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに
 依存するということは明らかだ。
 あなたの手段を改善しなさい。
 そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。
 
 『私は在る』(p330) 
------------------------------------

> あなたはマインドを超えている。

つまり、あなたに問わせているものはマインドではない、と。

> だが、あなたはマインドで知るのだ。

だが、あなたはマインドでそのことを納得しなければならないのだ、
というのです。

Kenさんやpariというマインドは、自分がマインドだと思ってい
ます。

しかもそれは、必ずしも間違っているとも言えない。

しかし、マインドであることに疲れ、マインドを超えるなどという
言葉を聞けば、そこに何らかの真実があるようにも感じる。

マインドを超えたいものだと思う。

でも、自分はこのマインドだと自認しているわけです。

この知覚対象である身体や想念が自分だと思っているのです。

マインドがマインドを超えたいと願っているというわけです。(^_-)

それは、端的に言って、不可能です。

でもそういうドラマを放映しているチャンネル群があるのです。

そういうチャンネルの視聴者に、マハラジは続けてこう言います。

> 知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに
> 依存するということは明らかだ。

あなたは、もう、理屈に飽きたらなくなっているのだ。

それなら、理屈でない理解が必要だと思わないかね、と。

> あなたの手段を改善しなさい。
> そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。

「手段を改善しなさい」なんて、いかにもそんな手段があるかのよ
うです。(^^;)

そんなことを言われたら、貪欲なマインドは、よし自分は絶対その
手段を改善してやる、と思う。

もちろん、そのチャンネルの夢も間違いではありません。

でも、別の夢想者を相手にしたときは、マハラジは、はっきりこう
言っています。

------------------------------------
 質問者 私には理解できません。
 
 マハラジ
 マインドでは理解できない。
 なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたから
 だ。
 一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。
 
 『私は在る』(p549) 
------------------------------------

> 質問者 私には理解できません。

そんなことを言われたって、私には理解できません。

このチャンネル群の視聴者によくある一般的な台詞です。

> マハラジ
> マインドでは理解できない。

ほら、こんなに明確に「マインドでは理解できない」と言っている
わけです。(^^;)

> なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたから
> だ。

そうそう、「理解し、把握する」ことならやりつけているけど、ギ
ブアップは最後の最後までやるつもりはない。(^_-)

> 一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。

でも、こうしてマハラジは明確にゴールを言語化しています。

それは、あなたの“理解”にも“把握”にも収まらないのだ、と。

別の夢想者に対して、それは次のように語られています。

------------------------------------
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞
 賛の誤りであることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければ
 ならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
------------------------------------

(-||-)

> 解放への道には何も立ちはだかっていない。

あなたの誤解とその誤解による執着以外に、何ひとつあなたの解放
を邪魔しているものはない。

> そしてそれは今ここで起こることができる。

解放は、たった今でも可能なことだ。

なぜなら、実在しているのは解放だけだから。

あなたの想像以外に、あなたを拘束するものは何もないのだ。

> だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。

だがあなたは解放よりは、マインドで解放を理解することの方に、
もっと興味がある。(^_-)

> そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。

マインドである我々にはその興味と闘うことはできないのです。

> あなたはそれとともに行き、それを見抜き、それが単に判断と賞
> 賛の誤りであることを、それ自体が自ら暴くのを見守らなければ
> ならないのだ。

ああ……。

(-||-)

Kenさんは、メールのタイトルで

        【どこに、向けばいいのか?】

と問われています。

むろん、われわれはマインドの超越に向かっているのです。

マインドの超越とは、マインドはマインドを超越できないというこ
とを理解することです。

マインドにできるのは、永遠の盥回しだけですから。

子供なら、お月様に手が届くかと思って、跳び上がることもできる
かもしれませんが、大人は本気でそんなことはできません。

マインドのなかで失った解放を、マインドで掴むことはできない。

その意味では、マインドはマインドに興味を失うことに向かってい
る、とも言えるでしょう。

そしてマインドを超越しているものは、想念があるかないかなど、
あまり問題にしないでしょう。

想念自体に、なんの意味もないからです。

すると自然に、想念に意識のエネルギー(注意)が注がれなくなっ
て、想念も少しずつ張り合いを失うかもしれません。

こうしてpariパターンが賢げな言葉を吐き出しているのは、これが
まったく無意味であることを理解するためです。

これが完璧に無意味であることを納得したら、もうpariパターンは
こういう言葉を吐き出さなくなるかもしれません。

        【どこに、向けばいいのか?】

むろん、マインドの死に向かっていけばいいのです。

もし、望んでそういう進路を取ることができるのであれば……。

つまり、もし、そういう進路を取ることになっているのなら。

------------------------------------
 マインドの死は智慧の誕生だ。
 
 『私は在る』(p379)
------------------------------------

(-||-)

マインドの死こそが目指すところですが、でも、マインドがそれを
目指すことはあまりないようです。(*^_^*)

だから、それは恩寵といわれるのです。


再掲すると、Kenさんは投稿のなかでこうおっしゃっています。

> 確かに、頭の中では、何回も読み直すことにより自分は、この身
> 体ではないんだと、(頭では)理解したように思います。

はい。

> しかし、実体験では、なにも、理解、体験、できていません。

「実体験」とは、どういう意味でしょうか?

頭では理解できるけれど、どうもそんな気がしない、という意味で
すか?

理屈はわかったけど、「悟った」ような気がしないとか。

> ……、なにも、理解、体験、できていません。

なにも「悟り」を実感できていない、という意味ですか?

たとえば、Kenさんはいま、宇宙全体が地球を中心に回転してい
るという天動説を信じてはいませんね。

他のみんなと同じく、地球が太陽の回りを回っているという地動説
を信じていらっしゃると思います。

では、Kenさんは地球が太陽の回りを回っていることを実感して
いるのでしょうか?、

たぶん、早い時期にこの地動説を教わっているので、そのことでは
「体験、できていません」とは言わなかったと思います。

いつの間にか、それを信じて疑わなくなっていただけです。

でも、実際は、毎日“東から日が昇って”、“日が西に沈む”のを
見ているし、言葉でもそういうふうに表現すると思います。

その意味で、天動説を信じていた中世の人たちも、現代のわれわれ
も、別に“違う体験”をしているわけではありません。

ただ、現象の解釈が違っているだけです。

中世のころ、「自分は身体ではない」などということは、まったく
異常な、桁外れの見解だったと思います。

でも、その当時ですら、わずかでしょうが「自分が身体ではない」
ことを、自明のこととして知っていた人たちもいるでしょう。

現代においては、「自分は身体ではない」という見解は、それほど
突飛な見解ではないようです。

それを自明のこととして知っている人は少なからずいるでしょう。

また、わたしが「自分が身体ではないことを腑に落とす」で書いた
ことは、この事実を知的に理解するための方便にすぎません。

だから、Kenさんが、

> 確かに、頭の中では、何回も読み直すことにより自分は、この身
> 体ではないんだと、(頭では)理解したように思います。

と書かれたとき、この文章の目的は十分に果たされたのです。

それ以上の何を目指したわけでもありません。(^^;)

ガリレオやケプラーが地動説を唱えたとき、地球が太陽の回りを回
っているという“体験”を提供したのでないのと同じです。

でも、今になってみれば、地球が太陽を回っている体験ができてい
ませんと、心配する人は誰もいないのです。

あまりにも当たり前のことなので。

なので、体験については、何も心配しなくて大丈夫です。(*^_^*)

もし、“(頭では)理解した”のなら、それで十分です。

あとは、その理解が仕事をしてくれます。

われわれが見ているものは、自分が信じているものだ、というのは
覚者方がよくおっしゃることです。

しかし、こんな話を聞いて、Kenさんがどんどん楽になってしま
うかどうかは、まったくKenさんの手中にはありません。

というのは、Kenさんとかpariという独立した個人の実体など、
もともと【見かけ】以外には、まったく存在していないからです。

ラメッシ・バルセカールは、自分が「行為者ではないことを理解す
る一番良い方法」についてこんなふうに言っています。

じつは、前々回この文章を引用したかったのですが、いろいろ探し
てもその箇所が見つからなかったのです。(^^;)

これは多少なりとも現代物理学の恩恵を受けている現代人だからこ
そ、容易に納得できる説明ではないでしょうか。

------------------------------------
 質問者 人が行為者ではないことを理解する一番良い方法は何で
     すか?
 
 ラメッシ
 人が行為者ではないことを理解する一番良い方法は、あなたは固
 体の肉体ではないことを理解することです。
 あなたは単なる虚空であり、その中でこの特定のパターンに従っ
 て、エネルギーが振動しているのです。
 ですから、あなたは個人的存在ではありませんし、まして個人的
 行為者ではありません。
 あなたは個人的実体でさえありません!
 
 あなたは何もないものなのです。
 あなたは単なる振動するエネルギー・パターンです。
 確信をもってそのことを本当に理解することが、ものすごく助け
 になるでしょう。
 
 『意識は語る』(p589) 
------------------------------------

> 人が行為者ではないことを理解する一番良い方法は、あなたは固
> 体の肉体ではないことを理解することです。

ここを読んだときは、まさに我が意を得たりという感じでした。

このことは、自分も何度も何度も反芻したことだったからです。

> あなたは単なる虚空であり、その中でこの特定のパターンに従っ
> て、エネルギーが振動しているのです。

まったくそうなのです。

> ですから、あなたは個人的存在ではありませんし、まして個人的
> 行為者ではありません。
> あなたは個人的実体でさえありません!

そう、全体から分離された個人的実体というものはありえません。

> あなたは何もないものなのです。

はい。

> あなたは単なる振動するエネルギー・パターンです。

そのとおりです。

> 確信をもってそのことを本当に理解することが、ものすごく助け
> になるでしょう。

このことは、現代物理学のおかげで、昔よりはずっと理解しやすく
なったと思います。


Kenさんは、頭での理解を過小評価して、こう嘆いています。

> 自分では、頭の理解までしかないもので。

頭ではっきり、疑問の余地なく、ありありと理解してみてください。

そして何度も何度も、ことあるごとに反芻してみてください。

もう一度、pariパターンに起こったイメージを描写してみますね。

今年は、ニュートリノに質量があることを実験的に証明された日本
の梶田隆章氏が、ノーベル物理学賞を受賞されましたね。

ニュートリノとは、最小素粒子のひとつだそうです。

最小素粒子にも質量(重さ)があると証明されたのなら、物理現象
の担い手には、多少なりとも質量(慣性)があるわけです。

これは物理現象という一種の“鈍感力”の実現には、絶対に必要な
要素のように思われませんか。

まあ、それはいいのでが。(^^;)

前々回も書きましたが、わたしが知りたかったのは、自分の意図の
物理的根拠のイメージでした。

もし、このわたし(身体)が何かを意図して、自分の意志で行為し
ているのなら、それには何らかの物理的根拠があるはずです。

分子や原子がどうやって意志的行為を実現しているのかを、自分な
りにイメージしたかったのです。

それで『踊る物理学者たち』という本に出会ったわけでした。

それで、サンピエトロ大聖堂のドームの中心にある一粒の塩と、ド
ームの外周にいるほこりのイメージを教えられたのでした。

サンピエトロ大聖堂のドームの大空間には、物質的痕跡はそれ以外
には何もありません。

このわたし(身体)が何かを意図して、自分の意志で行為している
のなら、この塩粒とホコリが頑張って実現しているわけです。

サンピエトロ大聖堂のドームの大空間に、その以外に物質的痕跡は
皆無なのですから。

では、塩粒とホコリが実現しているとして、おそらく一つの塩粒と
ホコリが、全現象世界を構想し実現するのは無理でしょうね。

ということは、物質世界が現象するには、広大な空間内の塩粒とホ
コリのネットワークみたいなものが必要でしょう。

もしそうだとすると、ではその微小な塩粒とホコリは、どうやって
他の塩粒とホコリの存在を察知し、連携できるのでしょうか。

何よりも、その微小な塩粒とホコリという物質的根拠は、どうやっ
て全現象世界をイメージできるのでしょうか?

結局こういう思考は、

   【物質はどうやって意識に憧れることができるのか?】

という疑問に行き着くのです。

わたしに自然に備わっている判断力は、

    「意識でないものが意識に憧れることはできない」

という結論に達しました。

この“私の身体”を最大限に依怙贔屓しても、無意識の物質が意識
に進化したのではない、と結論せざるをえませんでした。

素粒子はたしかに意識の材料かもしれませんけど。

「身体が自分だ」と思っていたわたしですが、ここまでくると、こ
れは、生きているのは空間の方だ、と納得せざるをえませんでした。

つまり、物質現象は単に【見かけ】を担当しているだけなのです。

森羅万象のなかに、分離独立した固有の実体というものは存在しま
せん。

分離独立した固有の実体という【見かけ】があるだけです。

唯一無二の実在である【意識】に逆らって何かを実現できるような、
どんな実体も存在しないのです。

だから、たとえ神を出し抜いて何かを“自分”の思う方向に進めた
いと思ったところで、そういう“自分”はいません。

そういうドラマが放映されているチャンネルがあって、それに焦点
をあわせている意識がいるだけです。

我々は次に“自分”が思いつくことも知らないのです。(*^_^*)

ある状況(刺激)が来て、それに応じてある思考(刺激)が浮上す
るので、それに従っているだけです。(^_-)

あはは!

まあ、そういうことです。

自分が意識しているのではなく、意識のなかに“自分”という想念
が湧いているだけなのです。

> マハルジの私は在るという感覚、
> ダグラス・ハーディングの自分を見る、
> この、感覚は、同じなんでしょうか?

マハルシやマハラジが言う「私は在る」という感覚とは、誰も否定
できない【存在感】のことです。

Kenさんは、自分が【存在している】ことを否定できますか?

これは、誰も否定できません。

「いや、私は存在していない」と誰かが言ったとしても、その発言
そのものが、その発言者の存在を証してしまうからです。

このマハルシやマハラジが言う【存在感】と、

> ダグラス・ハーディングの自分を見る、
> この、感覚は、同じなんでしょうか?

と、言うわけですね?

マハルシやマハラジは、全現象に現実性を与える、実在性の根拠と
しての【存在感】を、「私は在る」と呼んだと思います。

対して、ダグラス・ハーディングは、この全現象に立ち会っている
のは誰か、に注目する意味で「自分を見る」を使ったと思います。

違いはそういうことですが、それを同じと判断するか、違うと判断
するかは、判断する人にお任せするしかないですね。(^^;)

> 自分を見る、外、内、頭では理解不能です。

えへへ。

どうしても理解する必要があれば、理解するでしょうし、理解した
くなければ、誰もそれに文句をつける人はいません。(^^;)

それもこれも、Kenさんの手中にはありません。

Kenさんが理解することになってるのなら、つまり、理解したい
のなら、理解するでしょうね。

どうにも「頭では理解不能です」と主張したいのなら、おそらく、
理解することになっていないのでしょう。

その場合は、

> 頭の理解、と実際の体験では、まったく違うのではないでしょう
> か。

ということで、一段落していいのではないでしょうか。(^^;)

なにしろ……、

------------------------------------
 すべての「なぜ」や「どうして」を知る必要はない。
 質問には終わりがないのだ。
 すべての欲望を放棄しなさい。
 マインドの沈黙を保ちなさい。
 そうすればあなたは発見するだろう。
 
 『私は在る』(p471)
------------------------------------

というわけですから。

最後のあらためて、

        【どこを向けばいいのか?】

に戻って言うなら……。

配給されるマインドのなかで理屈を考える(自動操縦で追いまくら
れる)ことに興味を失うこと、に向かっているのです。

でも、完全に興味を失うまでは、こうして理屈を述べ立てることに
なる、というわけです。(^_-)

(*^_^*)

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


      ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

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       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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今日もずいぶん書きました。

すべて湧いてくる想念の自動操縦です。

pariというパターンは、全体が機能するための単なる道具にすぎず、
独立した実体としてのどんな“自分”もいませんから。

この身体も、湧いてくる知覚可能な想念も、すべては意識の指揮に
したがって起きている物質現象・波動現象にすぎません。

それに逆らうという想念自体も、すべては意識の指揮にしたがって
起きていることは間違いありません。

わたしが何を思うとしても、それもまた独立した誰かによるもので
はありえません。

何が起ころうとも、わたしにできることは何もない。

今晩は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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