home > 通信 >『アセンション館通信』(第603号):意識が見る夢のなかで



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/11/01(第603号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在859名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識が見る夢のなかで

2.編集後記
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■ 1.意識が見る夢のなかで
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土曜日というのはわたしにとっては、マインド無礼講の日です。

好きなだけ言いたい放題を言っていい日、と決めた日です。

ところが最近、だんだんそれを決めた自分などいないということに、
納得がいくようになってしまった。

これはただ、見られた夢のなかで避けることのできない役割を演じ
させられているにすぎないことを、納得してしまいました。

自分がやっていることではない、ただ避けがたく演ずるべき役回り
を演じさせられているだけです。

そして考えるということが、考える事の不毛を理解するためのプロ
セスにすぎないことも、だんだん了解されてしまいました。

せっかく国が決めた休日なのだから、その日くらいは生存のためだ
けじゃなく、あらゆるあくせくから解放されてもいいわけです。

でもまだ、それだけの理解が結晶していない。

まだ、夢のなかで休んでもいい場面までたどり着いていない。

だから、未だにこうして、考えることによってまだどこか透明な地
へ行けるかのように、彷徨いつづけるのです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

けっきょく、この身体が誕生したときに刻印されていた運命とは、
どうやって人生を避けるか、だったのではないだろうか。(-_-)

わたしの母の一生は、まさにそのような感じのものでした。

わたしはその母の一生を、論理的に少し煮詰めるために、ふたたび
夢見られた一生だったのかもしれません。

しかし、人生を避けるためなら、最善は生まれてこないことなのだ
から、その意味では、まことに馬鹿げた人生とも言えます。

だが、それを望んだ人物(わたし)がいるわけではない。

意識が見る夢の一パートとして、そのような夢もあるのでしょう。

先日、なにかすべてがあまりにもバカバカしくて、思わず笑ってし
まいました。

二階から「いま笑った?」というシャーラの声が聞こえました。

わが家の二階は吹き抜けなので、下からの声はけっこう二階でも聞
こえるらしい。

われわれが夜寝て見る夢があります。

眠って見る夢のなかで夢見られた登場人物が、当人の行為や思考に
よって、夢のなかの事態を変更できるはずはありません。

自分の“行為や思考”と思っているすべてが、いや自分そのものが
夢見られている内容なのですから。

眠って夢見ているわたしが目覚めたら、夢のなかのその人物もその
行為や思いも、すべてが雲散霧消してしまいます。

元々そんなものは、どこにも実在していなかったのです。

単なるわたしという個人的意識の、その記憶のなかから紡ぎだされ
た、つかの間の夢の場面にすぎません。

夢から覚めたわたしには、それはあまりにも自明です。

ただし、眠って見ている夢は、わたしという個人的意識のなかにあ
る記憶や想像から紡ぎだされたものです。

つまり、わたしが夜寝て見る夢の内容は、わたしという個人幻想の
なかに蓄積された記憶や想像を材料にしているわけです。

では、我々のこの人生という夢は、いったい誰が夢見ているのか?

ラメッシ・バルセカールの『意識は語る』は、我々のいわゆる人生
が、意識が見る夢であることを教えてくれています。

ラメッシ・バルセカールは、それを事実として語ってくれますが、
わたしはそれをメンタル体の理解として語ります。

なぜかわたしの役割はそのようであるらしく、いつまで経っても、
悟りの風景などわたしの前には展開してこないからです。

お前のエネルギーはなかなか使い道があるので、まだまだ悟れるな
どと期待するなよ、と脅されています。(;_;)

ウソです。(*^_^*)

なのでここからは少し『メンタル体は語る』です。(^^;)

われわれの人生は、なぜ本物ではなく、意識の夢なのか?

それは、われわれの人生とは、知覚可能なものでなければならない
からです。

人生とは、つまり体験とは、要するに知覚可能なものの集合です。

知覚することができない体験に、どんな意味があるでしょうか?

知覚できなければ、それは体験とはいえないでしょう。

だがしかし、バットオールソー、そのことは同時に、もうひとつ、
別なことも意味しています。

それは、知覚可能なものの集合のなかには、知覚する主体は含まれ
ていないということです。

繰り返すと、「知覚可能なものの集合」、つまり「我々の人生」の
なかに「知覚する主体」はいない、ということです。

いや、しかし我々は現実に知覚しているではないか、という当然の
反問があるでしょう。

でも、知覚可能なものは、知覚者ではありえないのです。

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 知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚
 えておきなさい。
 あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと――
 起こることがあなたなのではない。
 あなたはそれが起こる当人なのだ。
 「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。
 そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普
 遍的であることを発見することだろう。
 宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに
 起こる。
 その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネル
 ギーであるあなたによって為されるのだ。
 
 『私は在る』(p538-539) 
------------------------------------

> 知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚
> えておきなさい。

この単純な表現が意味することが了解されれば、マハラジが言葉で
伝えたことの意図は成就したわけです。

マハラジは、もっぱら人間のメンタル体に語りかけているので。

「知覚されたものは知覚者ではありえない」とは、人生に現れるも
のはすべて、あなたではない、ということです。

ただ、「知覚されたもの」という言葉が、普通想像される意味範囲
を超えるものだから、なかなか理解できないだけです。

つまり、自分の身体はもちろん、思考も、感情も、崇高な思いも、
すべて「知覚されたもの」は、あなたではない、ということ。

> あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと――
> 起こることがあなたなのではない。

眼前に展開する光景、聞こえる音、湧き起こる想念、感情、信念、
そういう人生で起こることはすべて、あなたではない。

> あなたはそれが起こる当人なのだ。

ここで「当人」と訳された言葉は、モーリス・フリードマンの英語
も単に「he」ですが、現象ではないのでなんとも理解しにくい。

一言でいうなら、現象の「可能根拠」です。

あなたは、すべての現象が起こる可能根拠なのだ。

ラメッシ・バルセカールによると、マハラジは常に「存在するのは
意識」だけだと言っていたそうです。

でも、われわれが一番読む『私は在る』では、「意識」という言葉
は意識のコンテンツの意味で使われています。

わたしは、これがマハラジの「意識」という言葉の使い方なのだと
思っていました。

でも、ラメッシ・バルセカールによると、これはモーリス・フリー
ドマンの解釈(による翻訳)ということのようです。

> 「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。

無心のなかに安らぎなさい、とでも言われるところでしょうか。

> そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普
> 遍的であることを発見することだろう。

これを他の言葉で言い換えてみても無意味ですね。(*-_-*)

> 宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに
> 起こる。

人生で起こることはすべて、現象の「可能根拠」(あなた)に基づ
いて起こっている。

全現象(という「見かけ」)は原子核の中性子を媒体にして知覚さ
れている。(^_-)

> その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネル
> ギーであるあなたによって為されるのだ。

その反面、全現象(という「見かけ」)は原子核の陽子を媒体にし
て実現されている。

さて、こんなことを準備運動にして、ラメッシ・バルセカールが、
われわれのメンタル体に挑戦した仕掛けを楽しみたいと思います。

(無断引用というよりは、無料宣伝とお考えいただければありがた
 いです。皆さま、どうぞ書籍も買ってくださいね。(*^_^*) )

------------------------------------
 (質問者)ある意味では、こういった対話でさえ、エコ・トリッ
      プ(自己顕示的行為)に変わってしまいます。
 
 それはエゴ・トリップです。
 
 (質問者)私があなたに質問して、もしあなたが「はい、そのと
      おりです」と言うと、私は得意になって気分が良くな
      ります。ときには、私が聞けば聞くほど、エコが悪く
      なるように思えます。
 
 何かを知りたがっているのは誰なのかを発見するようにしてくだ
 さい。
 この探求者は誰ですか?
 探求者がそもそも存在するのでしょうか?
 
 (質問者)それは「自分」です。
 
 その「自分」はどこにいますか!
 その「自分」は肉体と結びつけられていますが、顕微鏡で見る肉
 体は細胞が創造され、破壊されるという遊びでしかありません。
 
 (質問者)でも肉体が私の知るすべてです。
 
 はい。
 それが根本的、主体的幻想です。
 この主体的幻想がそこにあるかぎり、幻想的みじめさはそこにあ
 ることでしょう。
 そして、その主体的幻想とみじめさがいつ消えるのかは、主体的
 幻想の手中にはないのです。
 
 (質問者)だから、私は何かが起こるまで、その幻想を維持し続
      けるのです。
 
 はい。
 いつその何かが起こるかは、誰もわかりません。
 神の恩寵が起こったときだけです。
 そして、それもまた単なる観念にすぎません。
 
 (質問者)もしそれが決して起きなければ、私はその幻想をかか
      えて、自分の死にただ向かうだけなのですね?
 
 いえいえ、違いますよ。
 「あなた」は決して死に向かうことはできません。
 肉体が死ぬのです。
 
 (質問者)でも、現在、私はこの肉体を「自分」と呼んでいます。
 
 はい。
 でもそれはただ、その幻想がそこにあるとあなたが意識するから
 ではありませんか?
 この肉体の中に意識があります。
 肉体の中の意識が「私は死ぬでしょう」と言うのです。
 一人の「自分」という幻想が起こるのは、ただ意識がそこにある
 からなのです。
 そして、肉体が死んでなくなるとき、意識は残ることができませ
 ん。
 意識は自分自身を具現化するために、対象物を必要としています。
 
 (質問者)でも、それもすべて観念ですね?
 
 はい。
 今、電気の観念を考えてみてください。
 誰も本当には電気が何かを正確には知りません。
 電気は電気がすることをやります。
 このように電気には、観念と意識の面があります。
 
 (質問者)人はそれを見ることができません。
 
 まさに。
 電気は何十億の電気器具を通じて働きます。
 もし電気器具が心と知力をもったならどうなるか、想像してみて
 ください。
 電気器具はそれ自身のためにたくさんの問題を生み出すことでし
 ょう。
 台所の電気器具は
 「なぜ私が台所の電気器具なんだい?
  私は原子力発電所になりたい。
  不公平じゃないか。
  私を作ったのが誰であれ、不公平で、不当だ」
 と言うかもしれません。
 
 (質問者)あなたは私を電気と比べているのですか?
 
 いいえ。
 私はあなたを電気器具と比べているのです。
 もし電気器具が破壊されたら、電気に何が起こるでしょうか?
 
 (質問者)でも、私は電気器具ではありません。
      私は観念です。
      なぜあなたは私を電気器具、対象物と呼ぶのでしょう
      か?
 
 私のポイントは、肉体精神機構が死ぬとき、その肉体鼎神機構を
 通じて機能していた意識は、電気が電気器具を通じて機能してい
 るのとまさに同じことだということです。
 もしその電気器具が壊れても、電気は機能し続けます。
 あなたは問題を膨らませています。
 なぜなら、あなたは自分自身を一人の「自分」と考え、「自分」
 にとっては、この肉体精神機構はこの世界で起こった最大の出来
 事だからです。
 しかし、永劫の時の間、全体性の機能の壷として、神の意志の一
 部として、対象物は創造され、破壊されてきました。
 どれだけ無数の人間機構が創造され、破壊されてきたことでしょ
 うか?
 なぜあなたは一つの機構に重要性をくっつけるのですか?
 
 (質問者)なぜなら、それは自分だからです。
 
 でも、それを全体的観点から眺めれば、肉体精神機構は何千年も
 の間、創造され、破壊されてきたのです。
 もう一つ肉体精神機構が破壊されたからといって、それがどうし
 たと言うのでしょうか?
 私が今話している全主体的幻想は、「あなた」がこの肉体精神機
 構を「あなた」だと考え、この肉体が死んだあとのこの「あなた」
 に何が起こるかを心配しているということです。
 その「自分」が単なる観念であることをあなたが理解するとき、
 どうして観念が肉体精神機構の死んだあとに何が起こるかを心配
 することができるのでしょうか?

 『意識は語る』(p185-188) 
------------------------------------

(-||-)

この一連のくだりをたどるとき、エゴである我々がいかに自分の立
論の立場を臨機応変させるかに注目すると、面白いですよ。(^_-)

ラマナ・マハルシの話に出てくる、結婚式に登場して大きな顔をし
ているどこの誰ともわからない、あのお客の振る舞いです。

> (質問者)ある意味では、こういった対話でさえ、エコ・トリッ
>      プ(自己顕示的行為)に変わってしまいます。

質問者の「エゴ・トリップ」という言葉は、アシュラムなどで語ら
れる「エゴ・トリップ」の意味でしょうね。

だから翻訳者の高木悠鼓さんも「自己顕示的行為」と訳注を入れて
います。

> それはエゴ・トリップです。

バッサリ!(^_-)

これは流行りのスピリチュアル用法ではなく、厳密な意味です。^^;

> (質問者)私があなたに質問して、もしあなたが「はい、そのと
>      おりです」と言うと、私は得意になって気分が良くな
>      ります。ときには、私が聞けば聞くほど、エコが悪く
>      なるように思えます。

これはもちろん、スピリチュアル用法を解説したものです。

> 何かを知りたがっているのは誰なのかを発見するようにしてくだ
> さい。

この「知りたがっているのは誰なのか」という聞き慣れた言葉が、
一頃と響く範囲がずいぶん違ってきますね。

> この探求者は誰ですか?

今、質問しているその人は誰ですか?

> 探求者がそもそも存在するのでしょうか?

そもそもそういう想念を人と言えるのでしょうか?

> (質問者)それは「自分」です。

もちろん、質問者は「自分」の存在を確信し、前提しています。

> その「自分」はどこにいますか!

今「自分」と言ったその想念は、どこにいますか?

> その「自分」は肉体と結びつけられていますが、顕微鏡で見る肉
> 体は細胞が創造され、破壊されるという遊びでしかありません。

あなたはその「自分」と言った想念を肉体と結びつけていますが、
肉体は一連の物理現象にすぎませんよ。

> (質問者)でも肉体が私の知るすべてです。

質問者(エゴ)はこの瞬間、自分は肉体だと主張しています。

> はい。
> それが根本的、主体的幻想です。

ええ、それが肉体を根城とする根本的主体幻想ですよね、と。

> この主体的幻想がそこにあるかぎり、幻想的みじめさはそこにあ
> ることでしょう。

その主体幻想に自らを委ねるかぎり、あなたの幻想的惨めさは約束
されています。

> そして、その主体的幻想とみじめさがいつ消えるのかは、主体的
> 幻想の手中にはないのです。

その主体幻想にはいかなる意味の主体性もないので、それを手放せ
るかどうかは、その主体幻想が左右できることではありません。

> (質問者)だから、私は何かが起こるまで、その幻想を維持し続
>      けるのです。

この瞬間、質問者(エゴ)は、自分は幻想の保持者だと主張してい
るようです。

> はい。
> いつその何かが起こるかは、誰もわかりません。

自分が肉体ではないとわかる瞬間がいつくるかは、その主体幻想に
はわからない。

> 神の恩寵が起こったときだけです。

神の恩寵が起こるその時までは。

> そして、それもまた単なる観念にすぎません。

これもまた、現象のなかでのひとつの説明方法にすぎません。

> (質問者)もしそれが決して起きなければ、私はその幻想をかか
>      えて、自分の死にただ向かうだけなのですね?

もしその恩寵が起こらなければ、幻想の保持者である私はただ自分
の死に向かうだけなのですね?

恐怖に晒されながら、ただ死に向かうしかないのですね。

> いえいえ、違いますよ。

いえいえ、そんなことはありません。

> 「あなた」は決して死に向かうことはできません。

「あなた」はけっして死にませんから。

> 肉体が死ぬのです。

崩壊するのは肉体だけです。

> (質問者)でも、現在、私はこの肉体を「自分」と呼んでいます。

でも、私は今、この肉体を「自分」だと言っているわけですよ。

この瞬間、質問者(エゴ)は、自分を現象の保持者というよりは、
むしろ肉体だと主張したいかのようです。

> はい。
> でもそれはただ、その幻想がそこにあるとあなたが意識するから
> ではありませんか?

でも、その幻想が可能なのは、あなたという意識がそこにあって、
その幻想を意識しているからではありませんか?

> この肉体の中に意識があります。

意識は肉体という有機体のなかで現象します。

> 肉体の中の意識が「私は死ぬでしょう」と言うのです。

その肉体のなかの意識が「私は死ぬ」と言っているのです。

> 一人の「自分」という幻想が起こるのは、ただ意識がそこにある
> からなのです。

「自分」という幻想の発生は、その可能根拠としての意識の存在に
よって可能になっているのです。

> そして、肉体が死んでなくなるとき、意識は残ることができませ
> ん。

肉体という有機体が崩壊するとき、そこにあった意識現象は根城を
失って雲散霧消します。

> 意識は自分自身を具現化するために、対象物を必要としています。

意識現象が現れるためには、「形」であれ「意味」であれ、何らか
の対象物が必要なので。

> (質問者)でも、それもすべて観念ですね?

そういう説明も、すべて観念にすぎませんよね?

> はい。
> 今、電気の観念を考えてみてください。

この電気の観念は、ラメッシ・バルセカールがよく使う比喩ですが、
とてもわかりやすい、秀逸な比喩だと思います。

> 誰も本当には電気が何かを正確には知りません。

たしかに。

> 電気は電気がすることをやります。

ここ、いまいちピッタリ来なかったので、ちょっと確認しました。

Electricity is what electricty does.

ですね。

「電気とは、電気がすることです」

ぐらいの感じでしょうか。

> このように電気には、観念と意識の面があります。

ここも、いまひとつよくわからなかったので、見てみました。

Electricity is thus a concept, an aspect of Conciousness.

でした。

「ですから、電気とは観念です。意識の一側面です。」

なんか、揚げ足取りみたいで、感心しませんが。(-_-)

英語を読んでも、高木悠鼓さん訳の『意識は語る』を読むように解
るわけではけっしてないのです。

英語だけ読んだら、何となく文字面わかった気分になるんすけど、
でも何もヒットしていない。

それで『意識は語る』を読むと、ああそういう意味か、という感じ
です。

大部分はそうです。(^^;)

でも、たまーに日本語ではピンと来ない時があって、ちょっと調べ
たりするだけです。

> (質問者)人はそれを見ることができません。

人は、電気そのものを見ることはできません。

> まさに。

ですよね。

> 電気は何十億の電気器具を通じて働きます。

何十億の電気器具をとおして同じ電気が働いている。

> もし電気器具が心と知力をもったならどうなるか、想像してみて
> ください。

これがすばらしく面白い。(*^_^*)

> 電気器具はそれ自身のためにたくさんの問題を生み出すことでし
> ょう。
> 台所の電気器具は
> 「なぜ私が台所の電気器具なんだ?
>  私は原子力発電所になりたい。
>  不公平じゃないか。
>  私を作ったのが誰であれ、不公平で、不当だ」
> と言うかもしれません。

これこそ、まさに、ですね。(*^_^*)

> (質問者)あなたは私を電気と比べているのですか?

ここ、とっても面白いですよ。

ちょっとご自分で考えてみてください。

ラメッシ・バルセカールは、質問者を、電気と電気器具のどちらに、
喩えているのか? (^_-)

> いいえ。
> 私はあなたを電気器具と比べているのです。

プ!(>_<)

(誰かがジョーン・トリフソンに、

 「自分が身体でないことは知っています」

 と言ったら、彼女は

 「いえ、あなたは身体ですよ」

 と、言っていましたね。(^^;) )

> もし電気器具が破壊されたら、電気に何が起こるでしょうか?

電気器具が壊れたら、電気に何が起こりますかねぇ?

でも、その前に、質問者が切れました。(^_-)

> (質問者)でも、私は電気器具ではありません。

ほう。

>      私は観念です。

ここで質問者は、自分は観念だと立ち位置を変えました。

>      なぜあなたは私を電気器具、対象物と呼ぶのでしょう
>      か?

自分は、電気器具に喩えられるような対象物ではない、と。

ここでのラメッシ・バルセカールの説明は本当にすばらしいです。

> 私のポイントは、肉体精神機構が死ぬとき、その肉体鼎神機構を
> 通じて機能していた意識は、電気が電気器具を通じて機能してい
> るのとまさに同じことだということです。

(@_@) ⌒★?

わたしの心配も、身体が崩壊する前に自分が解放されなかったら、
また肉体として誕生しなければならない、ということでした。

エゴの杞憂がどのように生成されるのか、よくわかりますね。

順を追って、ラメッシの言葉を聴いていきましょう。

> もしその電気器具が壊れても、電気は機能し続けます。

これは明らかです。

世の中のどの電気製品が壊れても、電気現象そのものが消えてしま
う、などと心配する人はいません。

エゴの心配とは、どうもそのようなものらしい。

> あなたは問題を膨らませています。

エゴの心配というのは、まったく身の程知らずのようです。

とんでもない自惚れ屋さんなんですね。

> なぜなら、あなたは自分自身を一人の「自分」と考え、「自分」
> にとっては、この肉体精神機構はこの世界で起こった最大の出来
> 事だからです。

まず我々は、自分が自前で存在しているかのように自惚れます。

そして「自分」の肉体精神機構は宇宙全体よりも大事だと。

「人間一人の命は地球よりも重い」(^^;)   

「こんなことは二度とあってはならない」  \←……(\/U)

> しかし、永劫の時の間、全体性の機能の一部として、神の意志の
> 一部として、対象物は創造され、破壊されてきました。

永遠に、取っ替え引っ替え、創られては壊されてきたのです。

> どれだけ無数の人間機構が創造され、破壊されてきたことでしょ
> うか?

永遠ですからねぇ。

> なぜあなたは一つの機構に重要性をくっつけるのですか?

うん。(-_-)

> (質問者)なぜなら、それは自分だからです。

まあ、そうなんだけど……。

壊れる電気釜の気持ちもわかるけど。

> でも、それを全体的観点から眺めれば、肉体精神機構は何千年も
> の間、創造され、破壊されてきたのです。

他にも、膨大な数の人間が生まれては死んでいくのです。

------------------------------
 世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万
 人、増えています。
 世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれま
 す。
 http://www.arkot.com/jinkou/
------------------------------

> もう一つ肉体精神機構が破壊されたからといって、それがどうし
> たと言うのでしょうか?

どうせまた、次の瞬間に生まれる電気釜も並んでいるのだから。

> 私が今話している全主体的幻想は、「あなた」がこの肉体精神機
> 構を「あなた」だと考え、この肉体が死んだあとのこの「あなた」
> に何が起こるかを心配しているということです。

このラメッシが説明している論理の筋がわかりますか?

主体幻想というのは、分離した「自分」を想像し、それをこの肉体
と結びつけることによって起こっています。

なので、死後の生とかいうのは、肉体が滅びた後の「自分」を心配
しているわけですよね。

でも、肉体精神機構が崩壊したら、その有機体を根拠にして起こっ
ていた意識現象はもう存在しません。

つまり、有機体を根拠に現象している一瞬の想念が、その有機体の
崩壊後にその想念に何が起こるかを心配しているというわけです。

うーむ、難しい。(-_-;)

(*^_^*)

> その「自分」が単なる観念であることをあなたが理解するとき、

【「自分」が単なる観念であること】……。

これを理解するのは、一見とても難しいことのように思えます。

でも、じつはけっして想像するほど難しいことではありません。

ただ、この「自分」という感覚の実体が何かを、一瞬しっかり追い
かけるだけですから。

誰もが言うことですが、実体なんか見つかりません。

想念なんか、すぐ消えてしまうので。

一瞬の想念以外に、「自分」の実体なんて何もないんです。

ただ、「自分」という観念と、この身体を結びつける根強い習慣が
あるだけなんです。

朝、寝起きのまだ半分微睡んでいるときなら簡単です。

ただ、そういうことをしたいかどうかだけなんですよね。

マハラジも保証しています。

------------------------------------
 質問者 夢はいつはじまったのでしょうか?
 
 マハラジ
 それにははじまりがないように見える。
 しかし、事実はたった今だ。
 一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
 
 『私は在る』(p525)
------------------------------------

(-||-)

あ、勘違いしないでくださいね。(@_@)

これは『メンタル体は語る』ですからね。(^^;)

特に何の特別の体験があるわけでもありません。

また、放っておけば、自然に無心になるわけでもありません。

四六時中、想念が湧き起こってます。

というわけで、ラメッシ・バルセカールは言います。

> どうして観念が肉体精神機構の死んだあとに何が起こるかを心配
> することができるのでしょうか?

今の身体を根拠に起こっている想念が、どうしてその身体の崩壊後
の、すでに亡い想念に何が起こるかを心配ができるのか?、と。

このラメッシの説明に、質問者は、もちろん、何かを感じたことで
しょう。

次の質問をこう続けます

------------------------------------
 (質問者)もしこれが実際にうまくいけば、しだいにその「自分」
      はいなくなるのですね?
 
 そのとおりです。
 
 (質問者)でも、そのときまでは一人の「自分」がいます。
 
 はい。
 でも、その「自分」がただの観念にすぎず、対象物でさえないと
 したら、そのときには、どこにその「自分」がいるのですか?
 重要性でそれほど膨らんでいるその「自分」は、どこにいるので
 か?
 
 (質問者)それでも、ここやあそこに坐っている肉体があります。
      私はその肉体に触ることができますし、この肉体もま
      た触られることができます。
 
 はい。
 でも、もしあなたが意識していなければ、あなたの手が触っても、
 肉体はその感触を理解するでしょうか?
 
 (質問者)でも現時点では、これらはただの言葉にすぎません。
 
 これらの言兼は、意識があるから存在しているのです。
 このこと非常にに明確です。
 もしあなたが意識していなければ、これらのどれも起こってはい
 ないことでしょう。
 
 (質問者)それもまた言葉にすぎません。あなたが「それは意識
      です」と言うときも、それもただ言葉です。
 
 はい、そうです。
 あなたがもつどんな問題、わき起こるどんな質問にしても、言葉
 はやはりただの言葉にすぎません、そうではありませんか?
 
 (質問者)はい。私はすべての話を受け入れています。でも、質
      問は常にやって来続けるのです。
 
 わかります。
 「あなた」はすべての話を受け入れ、「あなた」はすべてが幻想
 だという話を受け入れています。
 しかし「あなた」は、自分自身をその幻想の一部だとは思ってい
 ないのです。
 そこに究極の問題が生じるのです。
 あなたはあらゆることは幻想であり、夢であることを受け入れて
 いる。
 でもあなたは自分自身を、その夢というか幻想から分離している
 と見なしているのです。
 それゆえ、問題が起こるのです。
 
 (質問者)なぜなら、私はそれが現実だと思えないからです。私
      はそれを理解しますが、それを現実だと思えないので
      す。
 
 それを現実だと思えない!
 どうしてあなたは幻想を現実だと思えるのでしょうか?
 
 (質問者)うーん……
 
 ですから、もしあなたがそれを幻想だと受け入れるなら、どうし
 てあなたはそれを何か現実的なものだと思えるのでしょうか?
 
 (質問者)それが幻想だから、ということですね?
 
 はい。
 
 (質問者)まさに、それは現実にはなりえないのですね?
 
 それは現実にはなりえません。
 もしあらゆることが幻想なら、そのときにはあなたと私、聞き手
 と話し手の両方ともその幻想の一部です。
 私たちはともにその幻想の一部なのです。
 今起こっているこの出来事もまた幻想の一部です。
 
 (質問者)私はその中にどうやって現実を見つけるのですか?
 
 誰が現実を見つけなければならないのですか?
 それは誰ですか?
 
 (質問者)自分です。
 
 その「自分」が幻想なのです。
 ですから、もしその「自分」が幻想なら、どうしてその「自分」
 は何かを見つけることができるでしょうか?
 どうしてその「自分」は何かを求めることができるでしょうか?
 
 (質問者)でも、どこかに真実があるはずです。
 
 いいえ、違います。
 
 (質問者)違うんですか?
 
 違います。
 真実とか現実はそれ自身が観念です。
 あなたが真実の中にいるとき、あるいは熟睡しているとき、熟睡
 は現実に単に似ているだけですが、その熟睡の状態の中に真実が
 あるのです。
 そして、真実の中にいるときは経験がありません。
 目覚めた状態では熟睡の状態というのは観念です。
 熟睡しているときはそれは真実です。
 でも、あなたが現実について考えた瞬間、主体について考えた瞬
 間、絶対について考えた瞬間、真実について考えた瞬間、それは
 観念です。
 考えることが完全にやむときだけ、真実があるのです。
 あなたは意識し、目覚めた状態にいます。
 ですから、今、存在の感覚があります。
 存在の感覚が存在しているのです。
 あなたが熟睡しているとき、存在の感覚の不在があります。
 目覚めている状態では存在の感覚が存在し、熟睡しているときは
 存在の感覚が不在なのです。
 でも、この存在と不在はともにこの幻想の状態、現象性の中にあ
 ります。
 ですから、もしあなたが正反対のものが存在しない状態を想像す
 ることができれば、その状態は「存在の感覚の存在」が不在なだ
 けではなく、また「存在の感覚の不在」も不在なのです。
 言い換えるなら、存在と不在のすべての観念がそこにはないので
 す。
 私たちが時間と空間について語るとき、私たちは無限の空間と永
 遠の時間を語るわけです。
 それもまだ空間全体と時間全体という思考上の観念にすぎません。
 心は空間─時間が起こる前の状態を考えつくことができません。
 あなたが現実について考えた瞬間に現実は観念です。
 あなたこそが、分裂した心がそこから観念を作り出す現実なので
 す。
 あなたがその唯一の現実ですが、それは「自分」としてではあり
 ません。
 
 『意識は語る』(p190-194)
------------------------------------

> (質問者)もしこれが実際にうまくいけば、しだいにその「自分」
>      はいなくなるのですね?

もしこれが実際にうまくいけば、しだいにその「自分」はいなくな
る……。

これこそが、わたしなんかも狙える線じゃないですか。

知覚可能なもの、現象世界の何か、に自己同一化している何かは、
絶対の主体、真我でないことは理解しています。

また真我は、対象としての知覚が不可能なことも理解しています。

知覚可能なもの、思考可能なものに興味があるかぎり、それは無縁
でしょう。

現象に支えられた「考えること」に興味を失うとき、しだいにその
「自分」はいなくなるのですね。

> そのとおりです。
> 
> (質問者)でも、そのときまでは一人の「自分」がいます。

そう、そのときまでは一人の「自分」がいます。

> はい。
> でも、その「自分」がただの観念にすぎず、対象物でさえないと
> したら、そのときには、どこにその「自分」がいるのですか?

そうか。

考え事をしていない瞬間には、その「自分」はいない。

> 重要性でそれほど膨らんでいるその「自分」は、どこにいるので
> か?

実際は、分離・独立した「自分」なんて最初からいない。

> (質問者)それでも、ここやあそこに坐っている肉体があります。

そう、現象世界の一部として色々な肉体がある。

>      私はその肉体に触ることができますし、この肉体もま
>      た触られることができます。

うん。

> はい。
> でも、もしあなたが意識していなければ、あなたの手が触っても、
> 肉体はその感触を理解するでしょうか?

意識があるからこそ、そういう接触感もありうるわけだ。

> (質問者)でも現時点では、これらはただの言葉にすぎません。

この瞬間、質問者は(観念のなかでも整合性のある)真理を指し示
す観念を、否定する側に立ち位置を移している。

> これらの言兼は、意識があるから存在しているのです。

それらの説明の言葉が存在できるのも、意識があるからこそ。

> このこと非常にに明確です。
> もしあなたが意識していなければ、これらのどれも起こってはい
> ないことでしょう。

もし意識であるあなたがいなければ、何一つ起こってはいない。

> (質問者)それもまた言葉にすぎません。あなたが「それは意識
>      です」と言うときも、それもただ言葉です。

すべては意識があるから存在できる、というきわめて妥当な言葉さ
えも、ただの言葉だ、と主張するめちゃくちゃぶり。

論理的であるふりもできない、形振り構わぬ「エゴ」の余裕のなさ。

> はい、そうです。
> あなたがもつどんな問題、わき起こるどんな質問にしても、言葉
> はやはりただの言葉にすぎません、そうではありませんか?

言葉はそれを必要とする人のためにのみ存在するのですから。

> (質問者)はい。私はすべての話を受け入れています。でも、質
>      問は常にやって来続けるのです。

正直ですよね。

> わかります。
> 「あなた」はすべての話を受け入れ、「あなた」はすべてが幻想
> だという話を受け入れています。

すべての現象は記憶(となった解釈)を紡いだ観念にすぎないこと
を、あなたは受け入れています。

> しかし「あなた」は、自分自身をその幻想の一部だとは思ってい
> ないのです。

でも、あなたは自分自身がその観念の一部であると思っていない。

> そこに究極の問題が生じるのです。

その幻想が見破られないかぎり、問題は生じつづけます。

> あなたはあらゆることは幻想であり、夢であることを受け入れて
> いる。

あなたはすべては夢だという話を受け入れている。

> でもあなたは自分自身を、その夢というか幻想から分離している
> と見なしているのです。

でも、自分自身をその夢の一部だと認めていないのです。

> それゆえ、問題が起こるのです。

だから、まだ問題を作り続けることに意味を感じるのです。

> (質問者)なぜなら、私はそれが現実だと思えないからです。

おお、ここでついに質問者(エゴ)は本音を吐き出します。

>      私はそれを理解しますが、それを現実だと思えないの
>      です。

私は理解したふりはしたい、でもそれが事実だとは思っていない。

エゴは追いつめられると、結局、こう言うことになります。

この現象がすべて夢だなんて思えない、と。

すべてが夢だなんて話が本当だとは思えない。

> それを現実だと思えない!

ここまでの話をすべて理解して、でもそれが本当だとは思えない!
というのですか!

> どうしてあなたは幻想を現実だと思えるのでしょうか?

では、逆に質問します。

あなたはどうしてそこまで幻想と理解したことを、現実だと思える
のですか?

> (質問者)うーん……

気持ちはわかります。(*^_^*)

> ですから、もしあなたがそれを幻想だと受け入れるなら、どうし
> てあなたはそれを何か現実的なものだと思えるのでしょうか?

もし幻想だと受け入れたというのなら、どうしてそれを現実的なも
のと思えるのですか?

> (質問者)それが幻想だから、ということですね?

もしそれが幻想だったら、それは幻想でしかない、というのですか?

> はい。

だって、他にないでしょ。

> (質問者)まさに、それは現実にはなりえないのですね?

じゃ、やっぱり、それは現実にはなれないんですね?

> それは現実にはなりえません。

ははは。(*^_^*)

> もしあらゆることが幻想なら、そのときにはあなたと私、聞き手
> と話し手の両方ともその幻想の一部です。

もし現象しているものがすべて【見かけ】にすぎないのなら、そこ
で想像されたすべての観念は、全部幻想でしかありえません。

> 私たちはともにその幻想の一部なのです。

話し手も聞き手もともに、すべてその幻想の一部です。

> 今起こっているこの出来事もまた幻想の一部です。

ここで起こっている問答も、また幻想の一部です。

> (質問者)私はその中にどうやって現実を見つけるのですか?

では、現象のなかのどこに現実を見つけられるのですか?

> 誰が現実を見つけなければならないのですか?

現象のなかの誰が現実を見つけたいと言っているのですか?

> それは誰ですか?

そう言っている人は誰ですか?

> (質問者)自分です。

自分です。(^^;)

> その「自分」が幻想なのです。

その「自分」が幻想なのです。(*^_^*)

> ですから、もしその「自分」が幻想なら、どうしてその「自分」
> は何かを見つけることができるでしょうか?

意識が見る夢に登場する「自分」が幻想だと理解しているのなら、
どうしてその幻想の「自分」が何かを見つけられるのですか?

> どうしてその「自分」は何かを求めることができるでしょうか?

どうしてその夢のなかの「自分」が、夢のなかで何かを求めること
ができるのでしょうか?

もちろん、あなたがこういう話を全て受け入れているならですが。

> (質問者)でも、どこかに真実があるはずです。

でも、どこかに真実があるはずです。(←わかります。(^^;) )

> いいえ、違います。

いいえ、現象世界に真実などなにもありません。

現象世界がすべて【見かけ】にすぎないということ、すべては単に
想像された解釈、観念にすぎないというのが事実です。

現象世界が夢だという話のほうが真実なのです。

> (質問者)違うんですか?

え、じゃ、現象世界に真実はなにもないんですか? (@_@)

> 違います。

現象世界に真実は何もありません。

> 真実とか現実はそれ自身が観念です。

ただし、真実とか現実はそれ自身が観念ですけど。

> あなたが真実の中にいるとき、あるいは熟睡しているとき、熟睡
> は現実に単に似ているだけですが、その熟睡の状態の中に真実が
> あるのです。

はい。(-_-)

> そして、真実の中にいるときは経験がありません。

わかりました。

> 目覚めた状態では熟睡の状態というのは観念です。

それはよくわります。

目覚めた状態で語られる“熟睡の状態”は言葉にすぎませんから。

> 熟睡しているときはそれは真実です。

はい。

> でも、あなたが現実について考えた瞬間、主体について考えた瞬
> 間、絶対について考えた瞬間、真実について考えた瞬間、それは
> 観念です。

(論理としては)よくわかります。

> 考えることが完全にやむときだけ、真実があるのです。

ああ。

> あなたは意識し、目覚めた状態にいます。

はい。

> ですから、今、存在の感覚があります。

存在していることを知っている。

> 存在の感覚が存在しているのです。

はい。

> あなたが熟睡しているとき、存在の感覚の不在があります。

はい。意識がない。存在感がない。

> 目覚めている状態では存在の感覚が存在し、熟睡しているときは
> 存在の感覚が不在なのです。

目覚めの状態には存在感があり、熟睡状態には存在感がない。

> でも、この存在と不在はともにこの幻想の状態、現象性の中にあ
> ります。

おお……。(@_@)

> ですから、もしあなたが正反対のものが存在しない状態を想像す
> ることができれば、その状態は「存在の感覚の存在」が不在なだ
> けではなく、また「存在の感覚の不在」も不在なのです。

大人にある髭のある状態と、髭のない状態の、両方の可能性が不在
な赤ん坊の状態の比喩で、どこかで触れていましたね。

> 言い換えるなら、存在と不在のすべての観念がそこにはないので
> す。

すべての観念がない状態……。

> 私たちが時間と空間について語るとき、私たちは無限の空間と永
> 遠の時間を語るわけです。

はい。

> それもまだ空間全体と時間全体という思考上の観念にすぎません。

はい。

> 心は空間─時間が起こる前の状態を考えつくことができません。

ああ、なるほど。

> あなたが現実について考えた瞬間に現実は観念です。

わかります。

> あなたこそが、分裂した心がそこから観念を作り出す現実なので
> す。

(-||-)

> あなたがその唯一の現実ですが、それは「自分」としてではあり
> ません。

了解いたしました。

(-||-)

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
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       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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馬鹿げて長い引用と復唱をしてしまいました。

ま、こういう夢を見られたのでしょう。

全体の働きの一部としてそういう夢も必要だったのだと思います。

夢のなかでお付き合いいただき、ありがとうございました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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