━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/11/22(第606号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。
したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在856名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.すべては想像なのだということが
2.編集後記
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■ 1.すべては想像なのだということが
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いやー、なんか久しぶりに晴れた感じですね。(^^)/
晴れるのもいい!
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
いろいろ頭のなかが、疑問と問題でいっぱいの人間でしたが、
気がついてみると、いつの間にか、疑問はなくなっていました。
だから、どうだというのでは、ありません。
もしいまEOさんに、
「だからどうだというのだ?」と聞かれたら、
いえ、別にどうということでもありません、と答えるしか
ないでしょうね。(^^;)
頭のなかに疑問はありませんが、
想念が何も浮かんでこない、というのではありません。
四六時中いろんな想念が起こっていて、
心配やら、欲望やらも、わいてきます。
でもそれは、意識が夢見る場面のなかの、
ある登場人物の役割として起こっているだけです。
そういうと、とても観念的な信念にハマっているようですが、
そういう面もあるでしょうが、そればかりでもない。
要するに、事実として、すべては想像なのだということが
自明になってしまったということです。
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そこには想像があるだけだ。
知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされ
てしまった。
あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほ
ど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなって
しまったのだ。
想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。
それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
かにあり、実際は存在しないのだ。
『私は在る』(p306-307)
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このこと↑が、腑に落ちてしまったということです。(*^_^*)
実際に、わたしの頭のなかにあったすべての疑問は、
要するに、一瞬の想念としてしか存在していなかった。
問題が【在る】ように見えたけれど、
> それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
> かにあり、実際は存在しないのだ。
というわけでした。(^^;)
わたしは、このpariという夢のなかの登場人物について、
まだまだ真面目なところも担いでいるので、
経済的な自由を得たいような気もするし、
苦しいより楽な方がいいとも思っています。
でも、そういう観念は、すべて現象世界のなかにある。
現象世界のなかでは、
すべてすばらしいものは、すばらしくないものがあるという前提で
存在できるわけです。
こんなの、当たり前でしょ。(^_-)
そりゃ、ニューエイジスピリチュアルのなかには、
宇宙の理法にしたがえば、
そのうち病気もなくなれば、フリーエネルギーも手に入る
といった話もあります。
わたしもそういう話が大好きでしたし、
今も別に嫌いじゃありません。
これまで充分に悩んできたんだから、
そういう景気のいい場面に入っていくのもいいじゃありませんか。
その前にちょっと、第三次世界大戦もあるのだ
といったような話もあるらしい。
でも、こういう物語が、
すべて自然現象で起こっているのだということが、
なんか当然の理解になってしまったんです。
つまり、pariというような実体があって、
それが何かを理解したというようなことではまったくない。
ただ、そういう場面が投影されている、
そういう現象、そういう見かけが起こっている、というだけです。
そういうことが起こっている理由については、
いろいろもっともな理屈が、観念として発明されるかもしれない。
でも、事実それがそうであるかないかなんて、
誰にもわからないし、そもそもその【誰】も存在していない。
すべての現象が、
現象世界のなかに織り込まれていて、
現象世界のなかに織り込まれていないものは、
そもそも現象することができないからです。
これも当前ですよね。
というわけで、
どうしてそんなことが起こるのか、という疑問も、
ちゃんと自然現象として起こることになっているわけです。
だから、その答えを求める疑問も起こります。
<何故にすべては始まってしまったのか?>
などと……。(*^_^*)
もちろん、疑問がわいてきたのだから、解答だってわいてきます。
現象のなかにその理由を求めるなら、
「天気予報」程度の理由はいくらでも見つかるわけです。
あれは南から吹いてくる風だから南風で、
その温かい南風が吹き込んでくるので、
上昇気流が生まれて、
雨雲が発達して、天気が下り坂になっているのだ、などと。
視野に入ってきたごくわずかの範囲の見かけに関して、
あたかも原因とその結果であるかのような観念も紡げます。
いや、天気予報にケチをつけてるんじゃないですよ。(@_@)
われわれが真面目に取り合ってきた物語は、
見かけをそんなような物語に組み上げては、
そのなかで舞い上がったり、落ち込んだりしているだけだということが
はっきりしてしまっただけです。
誰がエライわけでもない。
誰がバカなわけでもない。
それで……、
この「誰がエライのか?」とか
「誰がバカなのか?」とかいう問題は、
この現象世界というゲームのなかではメインテーマなんです。
「誰が悪いのか?」とか「誰が正しいのか?」とか……。
これは現象宇宙(夢中)ドラマのなかでは、
流行り廃りのない、永遠の人気テーマです。
この現象宇宙ドラマのなかには、
それ以外のテーマは存在しないかもしれない。(*^_^*)
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在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのもので
あるように、成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ること
の本性そのものなのだ。
この在ることと成ることの交替は不可避だ。
だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。
『私は在る』(p435)
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> 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのもので
> あるように、成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ること
> の本性そのものなのだ。
かー、渋いっ! (>_<)
こういうことを、言うかねぇ。
> 在ることのなかに平和を探すことが、
> 成ることの本性そのものであるように、
われわれは、このフェーズで夢中になっているひとひらの想念。
ならば、
> 成ることのなかに冒険を見いだすことが、
> 在ることの本性そのものなのだ。
といった想念もまた
どこかで同時に起こっているわけでしょう。
> この在ることと成ることの交替は不可避だ。
もしこれだけなら、
ニーチェの永劫回帰と、そう違わないとも言える。
でも、ニサルガダッタは、
> だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。
こう言うわけですよね。(*^_^*)
それは、
二元性という約束事のなかでしか現象しない【見かけ】に、
いかなる重要性も見いだしていないからなのでしょう。
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世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。
それは在り、しかもそれはない。
私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこ
に在る。
私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。
それは原因がなく、何の目的にも仕えない。
それは私たちが放心しているときに起こる。
まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味も
ない。
ただその傍観者だけが実在なのだ。
彼は真我ともアートマとも呼ばれる。
真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れら
れてしまう、ただの色鮮やかなショーにすぎない。
何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、
あるいは笑い転げさせようと、常に彼はそれがただのショーだと
知っている。
欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。
『私は在る』(p196)
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> 何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、
> あるいは笑い転げさせようと、常に彼はそれがただのショーだと
> 知っている。
ああ……。
> 欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。
それだけのことなんだ……。
(-||-)
でも、それがまだまだ現象を楽しみたいエネルギーなら、
その前にはこんな世界が広がる。
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意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、
また何に成るべきかという観念も立ち現れる。
これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。
成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。
なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。
創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして
在ることは純粋な存在へと溶け去る。
それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能な
ものだ。
『私は在る』(p523)
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> 意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、
> また何に成るべきかという観念も立ち現れる。
そういうふうになっているのか……。(-_-)
> これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。
なるほど。
> 成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。
ん?
> なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。
ああ……そうか。
> 創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして
> 在ることは純粋な存在へと溶け去る。
(-_-)
> それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能な
> ものだ。
(-||-)
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マインドを超えたところに体験はない。
体験とは二元的状態だ。
実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。
ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成
ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろ
う。
実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割
不可能だからだ。
そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちら
も「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。
これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを
逃すことになる。
『私は在る』(p123)
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> マインドを超えたところに体験はない。
……。(-_-)
わかりました。
> 体験とは二元的状態だ。
たしかに。
> 実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。
了解です。
> ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成
> ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろ
> う。
……。(-_-)
(@_@)
「在ること」も「成ること」も体験なのか……。
そして、体験とは二元的状態であり、
マインドの状態なんだ……。
そして、「マインドを超えたところに体験はない」……。
いったん、それが理解されたら、
「在ること」と「成ること」を分離して、
対立したものとして追い求めたりはしない……。
そうかぁ。
細かいことを区別して、あれこれ追いかけるのが
マインドというもののあり方なのかもなぁ。(-_-;)
> 実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割
> 不可能だからだ。
そうなんだ……。
> そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちら
> も「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。
なるほど。
> これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを
> 逃すことになる。
おお……。
(-||-)
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ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。
あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだ
ろう。
在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。
そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。
『私は在る』(p352)
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> ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。
わかります。
> あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだ
> ろう。
たしかに。
> 在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。
ああ……なるほど。
> そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。
(*_*) ⌒★?
……そういうことか。
そして、それまでのゲームでは、われわれは
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それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与える
のだ。
あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されて
しまうのだ。
日が照るとき、色彩が現れる。
日が沈むとそれらは消え去る。
光なしに、色彩はどこにあるだろうか?
『私は在る』(p352)
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> それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与える
> のだ。
はい。
間違いありません。
> あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されて
> しまうのだ。
たしかに。
> 日が照るとき、色彩が現れる。
ん?
> 日が沈むとそれらは消え去る。
ええ。
> 光なしに、色彩はどこにあるだろうか?
ああ……。
そうか……わたしはその光なのか……。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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はい。
(-||-)
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永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
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■ 2.編集後記:
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今がそういうフェーズなのでしょう。
心配しようとしても、何かが本気で心配していない。(*^_^*)
納得しながら、少しずつ
心配を手放していっているようです。
手放している当人なんて、もちろん、いないんだけど。
ずいぶん長く、心配を掴んでいたからなぁ。
この有機体は、そういうことをするために誕生したのでしょう。
良い休日をおすごしください。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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