home > 通信 >『アセンション館通信』(第608号):自己同一化に導く過剰な興味



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/12/06(第608号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在856名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.自己同一化に導く過剰な興味

2.「ご投稿・情報提供」:こぶくろアナディさん

3.編集後記

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■ 1.自己同一化に導く過剰な興味
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今日もいい天気!

いい天気はありがたいですね。

人間としてはそうです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

現象世界はつねに<今>のなかで流動しています……。

とまあ、いちおう、書いてみます。

でも、この【<今>のなかで流動している】とは、

いったいどういう意味でしょう?

どなたか、【<今>のなかで流動する】方法をご存知のかた、
いらっしゃいますか?

現象世界は<ひとつ>しかありません。

たとえ、それが観念的には多次元宇宙と想像されたとしても。

なぜそう言えるのか?

それは<無>はひとつしかありえないからです。

二つ目がありえないのが<無>です。

現象世界の比喩でいうなら、空間が一つしかないようなものです。

そんなことを理屈で言っても仕方がないですが。

<無>と言っても、虚無のことではありません。

玄奘三蔵法師が漢訳「般若心経」で、
「色即是空」と訳されている語で言う「空」のことです。

絶対の主体性です。

われわれはこれまで生きてきて、
いろいろな前提や常識を身に着けてきていますよね。

そしてそのことを当然のこととして受け容れています。

だからいろいろなことをわかっているものとして、
そのなかで条件をつけて幸福を求めていたりします。

これまで何かがわかっていたような気がしていたのなら、
それはそのような場面が投影されていたんでしょうね。

でも実際は、何もわかっていることなどないのかもしれません。

そのことが、現象世界のなかでも現れてくるような
そんなタイミングもあるのかもしれません。

じつにいろんな観点が、浮上してきているようじゃないですか。

そういうことすべてに、
興味を失っているのならそれが望ましかったのかもしれません。

でも、わたしの場合は、そんなふうには起こっていません。(^^;)

だから未だに、この世の情報に付き合ったりもしています。

でも、そうすると、そのこの世の情報そのものが、
非常に限度を超えて揺れ動いていて……不思議ですね。(*^_^*)

だから、この世の情報で頼りになるものが、
何もなくなってきているんですよね。

それもまた、とても望ましいことなのかもしれません。

いまは、マインドの限界が簡単に突破されるような
そんな時代なのでしょう。

そうですよね。

現象の【見かけ】のパターンを入れ替えるためには、
現象的にそういう時間帯も必要なはずです。

それで、哲学頭のpariパターンが
いま確かなことを確認したいような感じになったのです。

いちおう、いま確からしいことを確認してみます。

●現象は、知覚なしにはありえない

知覚されない現象に、なにか意味があるでしょうか?

知覚されない現象があったとしても、
そんなもの問題にもできないし、問題にする必要もありません。

“知覚されない現象”とは、単なる語義矛盾でしかありません。

現象は、現象を知覚する者なしにはありえないということです。

そしてまた、

●現象は、変化のなかにしかない

つまり、

●不動は、現象できない

ということです。

ここまでは、なんとなく自明に理解できそうです。

ところが、もう一方で、

●変化は、変化を知覚できない

ということがあります。

変化を知覚できるものは、
変化しないものでなければならない、というのです。

これは、それほど自明には思われないかもしれません。

しかし、もし“変化するものも変化を知覚できる”とすると、
じつは矛盾が起こります。

なぜなら、“変化するもの”は知覚の対象になりますから、
その“変化するもの”を知覚する者がいることになる。

ということは、じつはその知覚されていたものは、
真の知覚者ではなかったということです。

なのに、“自分”を自前で存在している
知覚者だと誤解していたわけです。

この誤解からは、無限に多くの矛盾が発動します。

ここから生まれる果てしのない矛盾が、
この世の永遠に虚しい幸福探しを起動しているわけでしょう。

その“変化するもの”当人は、
自覚的には知覚主体だと思っていたかもしれない。

でも、じつは、“当人”は単なる知覚対象にすぎなかったのです。

この、“知覚対象が同時に知覚主体でありうる”という観念が、
世界という架空のドラマを支える屋台骨です。

絶えず振動ししつづけているある波動が、
別の波動を知覚できるという誤解に基づく前提です。

でも、振動ししつづけているある波動は、
じつは「表現媒体」なのです。

たとえば、心配という想念があります(現象します)。

この「心配という想念」は、その心配を知覚できるでしょうか?

通常われわれは、
自分が心配しているのだと思っています。

でもそのとき、この“自分”という観念のなかに、
心配とその心配に気づいている知覚者の両方を混在させています。

しかし、事実は、
心配波動が気づきの範囲内にわいてきているだけなのです。

そのわいてきている心配波動は、
わいてきている心配波動に気づくことができるでしょうか?

いや、そうではなく、心配波動は、
心配という想念を担うための表現媒体でしかないのではないか?

心配波動は、気づきの範囲内に
心配という想念を表現しているだけではないでしょうか?

ここ、別に信じてもらう必要はありません。

じっくり、自分で考えてみてください。

覚者たちのように、自分で調べてみてください、とは言いません。

自分で考えてみてください。

pariパターンにも、今そういうことが起こっているわけです。

わいてきている心配波動は、
わいてきている心配波動に気づくことができるだろうか? (-_-)

それとも、もしかしたら、そのわいてきている波動の背後に
いつでもそれに気づいている何かが存在するのではないのか?

いや、わいている想念が、それを探そうとすると、
いつでもそれは<無>のなかに消えてしまう。

というか、探そうとする想念自体が、静まって、消失してしまう。

だから、対象として見つかる<気づき>が在るというのではない。

そこには、何も無い。

でも、そこにすべてがわいてくるのです。

すべての現象は、その背景のなかに浮上して、現象する。

だから、事実は、覚者たちがよくおっしゃるように、
ただの、言葉の問題、観念の問題にすぎないとも言えます。

われわれは、「私は心配だ」とか
      「私は○○を心配している」などと言ったりします。

あたかも、「私」=「心配」とか、

     「私」(心配する)「○○」とかいった、
        ─────>

実体としての“主語”や“補語”や“目的語”、
あるいは“動詞”(の“主語”)が存在するかのように。

そういう言語表現の中核にあるのが「私」という観念。

生まれたばかりの赤ん坊にはなかった「私」という観念が、
その後の人生で教育され、習得され、現実になる。

人生という人間ドラマが展開されるために……でしょうか。

と言っても、“誰か”がそうなるようにハメているわけでも、
それにハメられる“誰か”がいるわけでもない。

けっして、何者にもなれない非顕現が、
何者かになるための仕掛けである顕現と戯れているだけです。

この非顕現と顕現を合わせて「意識」と言ったりもします。

その意味で「意識」という言葉を使うなら、
存在するのは「意識」だけです。

この非顕現と顕現は、一つのものの二つの側面。

同じ実在を指し示す二つの名前。

だから顕現に焦点を合わせているときに、
非顕現に焦点を合わせることはできない。

自分を顕現だと見なしているときに、
自分を非顕現と見なすことはできないということです。

当たり前のことです。

そして、現象を見ているかぎり、
そのことに非顕現が何かを言うということもありえない。

どちらも自分であるわけだから。

一方は、ゲームとしての自分、もう一方は、実体である自分。

だから自分は、顕現のなかにいるか、非顕現のなかにいるか、
どちらかしかありえないわけです。

顕現としてあるか、非顕現としてあるか、
そのどちらかでしかありえない。

そもそも、どちらか一方を選べるような誰も存在しない。

他に何ひとつ存在しないたったひとつの無が、
自分のなかに「見かけ」を浮上させて見ているだけです。

その「見かけ」のなかでは、
たくさんの個人的自分が個人的な夢に夢中になっている。

でも、夢のなかに実体は存在しない。

個人的な夢を誕生させたエネルギーが尽きたら、
その個人的な夢は消えるしかない。

そして個人的な夢のなかに、
その夢の展開に影響を与えられるどんな実体(個人)も存在しない。

どんな現れも、すべて表現の媒体であって、
その表現を知覚している実体ではないから。

ここまで、

●現象は、知覚なしにはありえない

●現象は、変化のなかにしかない

●不動は、現象できない

●変化は、変化を知覚できない

ということを、知的に理解しようとしてきました。

もし、ここまで述べたことが妥当であるなら、
その文脈て言えることは、次のことかもしれません。

●不動だけが、現象の知覚者でありうる

言葉を換えると、
現象のなかに体験の知覚主体はいない、ということになる。

これを要するに、

●現象は、変化と不動の両面がなくてはありえない

ということです。

不動なしに、変化だけで自前で現象することはできないのです。

だとするなら、現象自体が不動の存在を明かしているわけです。

般若心経の「色即是空」とは、
現象は「空」である真我の存在を明かしているということ。

また、「空即是色」とは、
「空」である実在の表現が、空なる現象だということでしょう。

それ以外に、何かが在るわけではない。

「空」である実在以外には、何もないわけです。

だから、空なる現象のなかに何かの確証を求めれば、
どこまでの拡散する二元対立のなかに迷い込むことになる。

とはいえ、現象のなかに、
二元対立のなかに迷い込む誰かがいるわけではない。

なぜなら、現象のなかに知覚する者はいないから。

……。

こんな、埒もないことを、
もう十年以上にわたって書き綴らされています。

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 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?
 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。
 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。
 全体としてのあなた自身を知りなさい。
 
 『私は在る』(p355)
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> 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?

在るはずもありません。

> 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。

まったくです。

> あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。

知覚者としてのわたしは、それ以外ではありえない。

> 全体としてのあなた自身を知りなさい。

あらゆる現象は、わたしの存在を根拠に現れている。

もう充分に理解したはずなのに、まだ現象にこだわている。

意識はpariパターンをつうじて、まだ迷妄の夢を見ようとしている
ようです。

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 私は無だ。
 そして無は無を恐れない。
 反対に、すべてが無を恐れている。
 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るの
 だ。

 『私は在る』(p106)
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> 私は無だ。

まだ明確にここに居所が定まらない。

> そして無は無を恐れない。

だから、まだまだいろいろ心配している。

> 反対に、すべてが無を恐れている。

そうか、わたしは無を恐れているのか。(-_-;)

> なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。

あーあ、たったこれだけのことだったんだ。

> 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るの
> だ。

そうか、これを怖がっているだけだったのか。

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 想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。
 それがすべてだ。
 本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることはや
 めなさい。
 あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこ
 と、触れたものやにおいをかいだもの、感じたことや思ったこと、
 期待したことや想像したことは、すべて実在のなかではなく、マ
 インドのなかにあるのだと悟りなさい。
 そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。

 『私は在る』(p219)
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> 想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。

(-_-)

> それがすべてだ。

それがすべて……なんですか。

> 本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることはや
> めなさい。

あ。(@_@) ⌒★?

> あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこ
> と、触れたものやにおいをかいだもの、感じたことや思ったこと、
> 期待したことや想像したことは、すべて実在のなかではなく、マ
> インドのなかにあるのだと悟りなさい。

わかっているつもりで、じつは理解していないのかなぁ。(-_-;)

> そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。

(-||-)

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 そこにはつねに観照される何かがある。
 もし観照されるものがなければ、その不在がある。
 観照は自然なもので、問題のないものだ。
 問題は自己同一化に導く、過剰な興味なのだ。
 何であれあなたを没頭させるものを、あなたは実在と見なしてし
 まう。

 『私は在る』(p368)
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> そこにはつねに観照される何かがある。

何やかや、知覚の対象はあるわけですね。

> もし観照されるものがなければ、その不在がある。

わかりました。

> 観照は自然なもので、問題のないものだ。

はい。

> 問題は自己同一化に導く、過剰な興味なのだ。

ああ、そうか……。

> 何であれあなたを没頭させるものを、あなたは実在と見なしてし
> まう。

実際は、わたし自身だけが実在で、それ以外はすべて
つかの間の空なる現象にすぎないんですね。

いちいち、空想の海で溺れなくてもいいわけか。

このメッセージがどれだけ深く入っていくのか……。

それも、わたしの自由になることではないけれど。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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はい。

(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.「ご投稿・情報提供」:こぶくろアナディさん
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『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………

今回こぶくろアナディさんから情報のご投稿をいただきました。

早速、ご紹介します。

【件名】: 神性を生きる
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 おはようございます
 アナディです
 
 パリさんからのメルマガを
 10年以上受け取っています
 
 真摯な姿勢が好きです
 
 きょうは私の和訳をご紹介したいです
 
 「神性を生きる」
 http://goo.gl/Piopdw
 
 のアダマス・セント・ジャーメインがシェアする情報で
 
 9月から始まったWalk Onシリーズのシャウドを和訳しています
 http://www.crimsoncircle.com/Library/LibrarySeries.aspx
 
 長いので希望する人には
 7つに分けてメールで贈っています
 
 読んで下さるなら
 ここに張り付けるか
 メールで贈ります 
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> おはようございます
> アナディです

こんにちは、pariです。(^^)/

> パリさんからのメルマガを
> 10年以上受け取っています

ほんとですか。(@_@)

では、ほぼ最初のころから読んでいただいているんですね。

当時とはずいぶん書くことも変わってしまって。(^^;)

> 真摯な姿勢が好きです

ありがとうございます。m(_ _)m

> きょうは私の和訳をご紹介したいです

はい。

> 「神性を生きる」
> http://goo.gl/Piopdw
> 
> のアダマス・セント・ジャーメインがシェアする情報で
> 
> 9月から始まったWalk Onシリーズのシャウドを和訳しています
> http://www.crimsoncircle.com/Library/LibrarySeries.aspx
> 
> 長いので希望する人には
> 7つに分けてメールで贈っています
> 
> 読んで下さるなら
> ここに張り付けるか
> メールで贈ります 

ありがとうございます。

では個々に希望される方は、個別にアナディさんに連絡していただ
くとして、よろしければこのコーナーでもご紹介いただけますか?

一回一回は、あまり長大でないほうがいいと思いますので、
毎回分割して適当長さでお願いできればと思います。

ではよろしくお願いいたします。

m(_ _)m

      ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:
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これまでいつも、あるがまま以外を望んできたわけでしょうね。

そのような夢を見られているので、仕方がないのかもしれません。

この十年間あまり変わらずに、

似たようなことを書きつづけてきたようでもあり、

少しずつ諦めが浸透してきているようでもあり。

この身体の終わるときまで、諦めきれないようでもあり。

でも、それもこれも、御心だけが行われているのでしょう。

100%そのことが納得されたら、心配も何も浮かんがとたんに

切り離されることになるのでしょう。

今日はけっこう遅くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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