home > 通信 >『アセンション館通信』(第610号):ネイサン・ギルの『すでに目覚めている』



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/12/20(第610号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在856名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.ネイサン・ギルの『すでに目覚めている』

2.編集後記

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■ 1.ネイサン・ギルの『すでに目覚めている』
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今日も硝子戸の中は本当に温かい。

いい天気はありがたいですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

こうして毎週、ああでもないこうでもないと書きついでいますが、
ほんと海辺で砂のお城を作っている子供と同じなんですね。(^^;)

どんな風景が現れたところで、それは一瞬の夢。

なにか決定的な理解がありうるわけでもなし、
後の理解が前の理解よりましなわけでもありません。

以前は、真理に近づいていくかのような幻想もありましたけど。

吉本隆明さんがどこかで言っていましたが、
詩人は言葉の価値を信じていなければ詩を書けないそうです。

そりゃ、そうですよね。(*^_^*)

別に吉本隆明さんを引っ張りだすまでもなく、
書かれた言葉の価値を信じていなければ、詩は書けないでしょう。

じゃあ、わたしなどは何を信じて
毎週こんなメルマガを書きつづけることができるのか?

だいたい、近頃では、書いている自分という主体が存在する
ということ自体を信じていない。

これ、かなり基本的なことだと思いません?

こうして文章みたいなものを綴りながら、
これを自分が書いているということ自体を信じていない。

ナンノコッチャ、という話です。(^^;)

じゃ、どう信じているというのか?

そうですねぇ。(-_-;)

メルマガを綴るということが、こうして起こっている、
まあ、そのことは信じているわけですよねぇ……。

ただね、もっと、的確な表現も知っています。

こんなの↓です。(^_-)

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 質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。
 
 マハラジ
 試してみるがいい。
 しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐ
 に理解するだろう。
 
 『私は在る』(p373) 
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これ、ほんとです。

“自分”という立場から言うなら、
「しなければならないことを」しているだけですね。

できれば何もしたくない、と思っても、
そういうわけにもいかない、からです。

とはいいながら、【カルマに強制されている】間は、
“自分”という主体性幻想が起こっているのは間違いありません。

現象自体には、現象を引き起こせるいかなる原因的要素もない。

このことが完璧に理解されたら、
もちろん【カルマに強制される】ことも終わるでしょうね。

ところで……。

こういった内容について書くと、言葉というものが、
行為者幻想を描写する道具であることがよくわかります。

言葉は、ドラマを綴るための道具として発達してきたのでしょう。

ラメッシ・バルセカールじゃありませんが、
いつも受動態で話すということはできないわけです。

発信者が独立した行為主体だという前提が、
言葉のなかには暗黙のうちに織り込まれています。

発語すること自体が、行為者幻想を支持し、強化するように
なっているのです。

ただ、そうはいいながら、このマハラジの言葉は理解できます。

「しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐ
 に理解するだろう」

確かに、行為者幻想は「しなければならないことをする」のです。

行為者幻想は【カルマに強制される】のを回避できない。

言葉遣いが……、
ちょっと乱れているというか、安定しないでしょ。(^_-)

言葉を使いながら、それを誰が書いているのかの観念が
とても揺れ動いているのです。

いや、こちらの気分だけのことかもしれません。

火曜日に、三ヶ月ごとの通院外来で、
ホルモン補充のための血液検査で東京に行ってきました。

そのときに久しぶりに新宿の紀伊國屋書店に立ち寄って、
精神世界の書棚を覗いたのです。

買う本なんてほとんどないんですが、書棚を眺めているうちに、
買うなら今回はこれかなぁ、と思って一冊買いました。

ヒロさんが翻訳され、今年の春出版されたネイサン・ギルの
『すでに目覚めている』という本です。

帰りの電車で読みはじめて、すっかりハマってしまいました。

ヒロさんは、ほんとに素晴らしい本を翻訳されてますね。(^^)/

ネイサン・ギルというと、わたしにとっては、
ヒロさんのサイトを知ったキッカケでもありました。

最初、ネイサン・ギルの「CLARITY」を含む一連の文章の翻訳を知
って、ヒロさんのサイトに感嘆したのですから。
http://resonanz360.com/2011/01/14/clarity-nathan-gill/

何ごとも縁というのか、決まっているというのか……。

『すでに目覚めている』が出版されたとき、
すぐに買わなかったのも、まあそうなっていたのでしょう。

ネイサン・ギルという方は、
対話のなかで本領が表現されるタイプの方みたいですね。

この本、読まれることをお薦めします。
http://goo.gl/rx9Q8W

『すでに目覚めている』のネイサン・ギルの表現に触れてから、
メルマガを書くのはこれが初めてです。

それでこういう戸惑いがあるんだなと、今思いました。

言葉は個人のドラマを表現するために最適化されていますから、
どの霊的教師の表現にもその方なりの個人性が感じられるものです。

感じられて当然ですし。

目覚めた方には個人のドラマを語るつもりはないのですが、
そこに一種の個性というか、ある種の主張が感じられたりします。

ところがこのネイサン・ギルの表現は、
そこのところが見事に一般化されているんです。(*^_^*)

これはもう、本当に見事というしかありません。

なぜそうなるかというと、彼の概念では目覚めしかないからです。

この目覚めのことが、括弧つきの〈意識〉とか、全体性とか、
「一体性(Oneness)」と呼ばれたりします。

唯一存在しているのは目覚めですから、
覚者などという別枠は存在しないことになります。

だから、彼の表現はつねに、
そのことが了解されてしまうような表現になるんでしょうね。

ヒロさんの「訳者あとがき」によるとネイサン・ギルは、トニー・
パーソンズと並ぶ「ネオアドヴァイタ」の筆頭格だそうですね。

読んでいてもそんな感じがします。

相変わらず、常識的な範囲を超えて引用させていただきます。

無断引用というより、無料宣伝とご理解いただければと思います。

以下の引用で「Q」は質問者、「A」はネイサン・ギルです。

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 Q.対象は重要ではないけれども、〈意識〉そのものは重要だと
   いうのはどういうわけですか?
   
 A.そうですね、〈意識〉というのはどういう意味なのかをはっ
   きりさせておく必要がありますね。
   〈意識〉というのは全体性あるいは一体性で、ふたつの側面
   があると言っていいでしょう。
   気づいているという側面と、気づいている内容という側面で
   す。
   つまり今あなたが対象と呼んだのは、気づきの内容のことで
   す。
   内容というのは気づきの中に現れるイメージで、気づきの中
   で気づかれています。
   気づきの内容は重要ではないというその考えかたは誤解です。
   そういう考えは、霊性についての伝統的な観念、物質や内容
   を避けようという観念から生まれたものです。
   そのせいで物質が否定されがちなんです。
   でも、存在しているのが〈意識〉だけ──気づきと気づきの
   内容ですが──なのであれば、内容も気づきとまったく同じ
   ように等しく重要だということになります。
 
 『すでに目覚めている』(p52)
------------------------------------

>   気づきの内容は重要ではないというその考えかたは誤解です。

こういう修正は西洋の伝統からしか出てこないでしょうね。

>   そういう考えは、霊性についての伝統的な観念、物質や内容
>   を避けようという観念から生まれたものです。

まあ、インドで育まれた伝統ということでしょうか。

>   でも、存在しているのが〈意識〉だけ──気づきと気づきの
>   内容ですが──なのであれば、内容も気づきとまったく同じ
>   ように等しく重要だということになります。

気づきが実在で、対象は現れにすぎない、というマインドヨガを
長くやってきたので、この観念はとても新鮮でした。(^^;)

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 A. つまりここにふたつの概念があります。
   気づきと気づきの内容です。
   これが〈意識〉のふたつの側面、あるいはふたつの相です。
 
 Q. ええ、なるほど。となると、一体性というのは……。
 
 A. ……気づかれているすべてのものに気づいているということ
   です。
   気づきの内容に気づいている気づきです。
   両方が同時に生じます。
   分けることはできません。
   ですから生じる対象を否定しなくてもいいわけです。
   対象も全体のひとつの側面ですから。
 
 Q. そうですか。そうすると、思考についてはどうなるんですか?
   思考は内容の一部だと言っているわけですよね。
 
 A. ええ、気づきの内容のひとつとして現れているのが思考です。
   思考には形がないという性質がありますから、そのせいで見落
   とされることがあります。
   でも、内容の中に現れるひとつのイメージとして思考を扱えば
   いいんです。
   身体の現れと同時に、「私」という思考が生じます。
 
 『すでに目覚めている』(p54-55)
------------------------------------

>   気づきの内容に気づいている気づきです。
>   両方が同時に生じます。
>   分けることはできません。

じつに平明でわかりやすい。

たったこれだけのこととも言えます。

でもこの平明性と包括性が、
あらゆるストーリー性を洗い流す地平を開くようです。

ま、その前に、
ストーリー性という虚構(娯楽)を生み出す偽りの主体について。

------------------------------------
 A.「私」という思考が生じて、それがこの特定の身体と同時に起
   こるように感じられると、偽りの主体が現れます。
   でもそれは実在してはいません。
   心理的な自己感覚と呼ばれるものです。
   つまりこの「私」という思考はオーバーみたいなものなのに、
   それ以外のあらゆる思考は「私」の思考になってしまって、こ
   の偽りの主体の観点から解釈されることになります。
 
 Q.そうやって二元的になるんですね。主体と対象に分かれて。
 
 A.まさにそのとおりです。
   でも実際には主体と対象はなくて、二元性もありません。
   思い出してほしいのは、気づきと気づきの内容という概念は、
   主体と対象という意味で使っているわけではないということで
   す。
   全体性の側面ですから分けることはできません。
 
 Q.それは素晴らしい。主体も対象もないということがそうやって
   わかるんですね。
   
 A.ええ、気づきはどんなものでもないもので、気づきの内容はあ
   らゆるものです。
   でも「私」という思考が生じると──何でもないものとあらゆ
   るものではなく──、自分は「何か」なんだと考えてしまいま
   す。
 
 『すでに目覚めている』(p55-56)
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質問者がおっしゃっているように、本当に素晴らしいですね。

〈意識〉= 一体性 = 全体性 とは

何でもないもの = 気づき    = 非顕現
あらゆるもの  = 気づきの内容 = 顕現

の両面から成るものだと。

そして、気づきの内容 のない 気づき というものはない、と。

これで、あらゆる「気づきの内容」は、
「あらゆるもの」の一場面だという地平が開かれるわけです。

そのなかに探求とか一瞥とか悟りというような場面もある。

では誰が悟るのか?

ネイサン・ギルを介して表現された観念を見てみましょう。

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 A.ええ。でも、ずっと脱落したままになるとはかぎりません。
   『明晰さ』の中で、庭仕事をしていたときの出来事と自転車に
   乗っていたときの出来事を強調したのは、この点をはっきりさ
   せようと思ったからです。
   あの出来事が起こったとき、同時に「おお、これは悟りだ。
   これが覚醒なんだ!」という考えが出てきました。
   そのとき、この出来事が終わってしまうんじゃないかというパ
   ニックの感覚がかすかに生じました。
   「私」の感覚が戻ってきたときに、その出来事にしがみつくと
   いうことが起こったんです。
 
 Q.言ってみればマーヤが戻ってきたということですか?
 
 A.そうです。
   偽りの主体が徐々に戻ってきたんです。
   
 Q.自分のものにしようとするわけですね。自分の手柄なんだと。
 
 A.まさにそのとおりです。
   というわけで、むしろそういう類の出来事はいつも助けになる
   とはかぎりません。
   たいていのケースでは「私」が戻ってくるからです。
   突然「私」が脱落してそのままになって、偽りの主体が「永久」
   に抜け落ちるという登場人物も稀にはいます。
   でも普通は、一体性の認識が徐々に起こって、劇の中で浸透し
   ていくというケースが多いです。
   登場人物によって認識されるということではありません。
   どちらかと言えば、心理的な自己感覚の本質が見抜かれていく
   ということです。
 
 Q.誰がそれを見抜くんですか?
 
 A.誰でもありません。
  〈意識〉は、劇の中では時間のように見えるものの中で、登場
  人物として現れながら、何でもないもの──そしてあらゆるも
  の──としての自分の本質に気づきだすんです。
  
 Q.もう一度言ってくれませんか? 最後の部分です。自分の本質
   が何でもないものだということに気づきだす、ですか?
 
 A.それから、あらゆるものだということにもです。
   つまり、気づきと気づきの内容があるわけですが、そこには仲
   介者、偽りの主体がいません。
   偽りの主体は見抜かれてしまっているからです。
   この偽りの主体が引き続き現れる可能性はかなり高いですが、
   正体はすでに見抜かれています。
   本来的な知があって、それが僕たちの本質です。
 
 『すでに目覚めている』(p59-61)
------------------------------------

(-||-)

気がつかれました? (^_-)

>   突然「私」が脱落してそのままになって、偽りの主体が「永久」
>   に抜け落ちるという登場人物も稀にはいます。

ここには覚者なんてものはいないわけです。

いろんな登場人物がいるだけです。

すべては、「なんでもないもの」が
「あらゆるもの」になるという娯楽なんですね。

>   でも普通は、一体性の認識が徐々に起こって、劇の中で浸透し
>   ていくというケースが多いです。

この【一体性の認識が徐々に起こって、劇の中で浸透していく】
という表現……じつに秀逸ですね。

そして、

>  登場人物として現れながら、何でもないもの──そしてあらゆ
>  るもの──としての自分の本質に気づきだすんです。

完璧です。

これ以上、何が必要だろうか、といった言葉です。

(-||-)

こういうネイサン・ギルの観点は、
「理解」というような言葉の検討方法にも貫通しています。

------------------------------------
 A.それこそが、この一体性を探すゲームの性質です。
   突然それが起こるという話を何度も聞いたせいで、そう思う
   んです。
   でも調べてみればわかりますが、そういうことは実際にはめ
   ったに起こっていません。
 
 Q.でも、どの時点で最終的な理解というか認識が起こったんで
   すか? 徐々に認識が深まっているように感じられるせいで、
   「ああ、そうか。わかった」という感じの瞬間が最後に起こ
   らなきやだめだという気がするんです。
 
 A.ここで、「理解」という言葉について検討してみるといいん
   じゃないかと思います。
   そうすれば、理解は劇の一部だということ、それから実際に
   は理解する必要があることは何もないということがわかりま
   す。
   つまり、「最終的な理解」というものはないんです。
   劇の中では、自分の本質を探し求めるということに関連する
   理解なら生じます。
   でも、自分の本質そのものは理解できることではありません。
   理解としてはじめに生じるのは、実際には知が劇に浸透して
   きたものです。
   一体性の観点から見れば、理解する必要などありようがない
   んです。
   理解は劇の一部としてしか現れませんし、知にくつろぐとい
   うことが起こると、理解は無用のものになります。
   
   「究極の知」というものはありませんが、知にくつろぐとい
   うことが起こってきて「私」がありのままに認識されると、
   「究極」の境地についての関心はいずれにしても消えていき
   ます。
   そういう関心は、存在するとされていた「私」、「究極」の
   何かといったようなことが起こるのを期待している「私」の
   観点から生じたものなんです。
 
 『すでに目覚めている』(p66-67)
------------------------------------

> Q.でも、どの時点で最終的な理解というか認識が起こったんで
>   すか?

なんか、こういうことを聞きたくなりますよね。

>   徐々に認識が深まっているように感じられるせいで、
>   「ああ、そうか。わかった」という感じの瞬間が最後に起こ
>   らなきやだめだという気がするんです。

まったくですよ。(*^_^*)

> A.ここで、「理解」という言葉について検討してみるといいん
>   じゃないかと思います。

(-_-)O

>   そうすれば、理解は劇の一部だということ、それから実際に
>   は理解する必要があることは何もないということがわかりま
>   す。

【理解は劇の一部】……。(*_*) ⌒★?

いや、まさに。(-_-)

そして、

【実際には理解する必要があることは何もない】……。

たしかに。(-_-)

「なんでもないもの」が「あらゆるもの」になる
ゲームをしているだけなのだから。

>   つまり、「最終的な理解」というものはないんです。

はい。

>   劇の中では、自分の本質を探し求めるということに関連する
>   理解なら生じます。

わかります。

>   でも、自分の本質そのものは理解できることではありません。

はい。

ニサルガダッタなら、
実在は理解を超えている、と言うかもしれません。

「実在の体験というようなものはない。
 実在は体験を超えているのだ。
 すべての体験はマインドのなかにある。
 実在として在ることで、あなたは実在を知るのだ。(p456)」

>   理解としてはじめに生じるのは、実際には知が劇に浸透して
>   きたものです。

ああ、これは的確な表現。

>   一体性の観点から見れば、理解する必要などありようがない
>   んです。

まさに。

理解というのは、個人性の観点からしか意味を持ちえません。

>   理解は劇の一部としてしか現れませんし、知にくつろぐとい
>   うことが起こると、理解は無用のものになります。

なるほど。(-||-)

>   「究極の知」というものはありませんが、知にくつろぐとい
>   うことが起こってきて「私」がありのままに認識されると、
>   「究極」の境地についての関心はいずれにしても消えていき
>   ます。

わかりました。(*^_^*)

>   そういう関心は、存在するとされていた「私」、「究極」の
>   何かといったようなことが起こるのを期待している「私」の
>   観点から生じたものなんです。

まったくです。(*-_-*)

ありがとうございます。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

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るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


      ………○…………○…………○………


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       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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『すでに目覚めている』を翻訳してくださった
ヒロさんに感謝です。(-||-)

今日は晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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