home > 通信 >『アセンション館通信』(第611号):巻かれたぜんまいがゆるみます



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2015/12/27(第611号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。

したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在857名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.巻かれたぜんまいがゆるみます

2.編集後記

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■ 1.巻かれたぜんまいがゆるみます
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今日も硝子戸の中は本当に温かい。

いい天気はありがたいですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

われわれがややもすると大層な問題に仕上げるこの人生ですが、
これは要するに、<いま>起こっている気づきの内容です。

このことをネイサン・ギルに教えてもらいました。

同じことを言われていても、じょじょに浸透して来るのでしょう。

ネイサン・ギルとニサルガダッタの表現の違いは、ネイサン・ギル
が最初から、気づきとその内容をひとつものとしていることです。

もっとも、われわれがニサルガダッタと言っているのは、モーリス
・フリードマンの書いた『私は在る』のイメージです。

ラメッシ・バルセカールは、気づきと意識(気づきの内容)に分け
たのは、モーリス・フリードマンの理解だと言ってました。

マハラジ自身は、「存在するのは意識だけだ」とつねに言っていた
そうです。

その意味での意識には、もちろん、気づきと気づきの内容が含まれ
るでしょうね。

で、それはそれとして、マハラジふうの表現では、

(1)顕現はすべて自分ではない。

(2)顕現はすべて自分である。

(3)世界は存在しない。

の三段階を経て、最終的な理解に落ち着くと述べられていました。

しかし、ネイサン・ギル的観点では、(1)も(2)も(3)もすべて、
気づきに現れる内容の違いということになるのかもしれません。

で、両者ともに、気づきに現れた内容の一部である見かけとしての
自分に、できることは何もないというのは同じだと思います。

それで今更なんですが、【見かけの自分にできることは何もない】
という事実の理解というか浸透は、ある意味、決定的ですね。

言葉を換えると、行為者としての自分はいない、です。

平たく言うと、(我々に)できることは何もない、です。(*^_^*)

この「できることは何もない」という事実は、何度も何度も、
よっしゃ、わかった、という気がすることがあります。

が、すぐに、この「できることは何もない」というメッセージを、
より確実に理解するにはどうしたら?などと思っている。(^_-)

まるで、お笑いです。(^^;)

で、ネイサン・ギルは、登場人物が何かを理解することなど、まっ
たくありえないということを美しく表現してくれます。

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 A.劇が展開して、そこに知が浸透してくると、この登場人物は
   単なる見かけであって劇の中のひとつの出来事だということ、
   自分の本質を思い出したり認識したりすることもすべて劇の
   一部だということが明白になります。
   はじめに理解として現れていたものは溶け去って知になり、
   目が覚めるということはありえないんだとわかります。
   あるのは目覚めだけです。
   そして、登場人物と同一化するという劇がある種の催眠作用
   として起こっているんだとわかります。
   ずっと求めていた目覚めというのは、目覚めはじつはすでに
   あったという認識のことで、それは今この瞬間に起こってい
   るんです。
 
 『すでに目覚めている』(p240) 
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> A.劇が展開して、そこに知が浸透してくると、この登場人物は
>   単なる見かけであって劇の中のひとつの出来事だということ、
>   自分の本質を思い出したり認識したりすることもすべて劇の
>   一部だということが明白になります。

ネイサン・ギルは、劇のなかに「知が浸透してくる」という言い方
をするんです。

ヒロさんが「知」と訳した単語は「knowing」なんでしょうか?

どこかに「知だけがある」みたいな言い方もあったようなので、
知ることだけがあるとすれば、「knowing」かもしれませんね。

で、実際にあるのは「知」だけなんだという、その「知」が、劇の
なかに浸透してくるのかもしれません。

劇のなかにその「知」が浸透してくると、この登場人物も「劇の中
のひとつの出来事」だということが明白になってくる。

すると、「自分の本質を思い出したり認識したりすることもすべて
劇の一部だということ」が明白になってくる、というのです。

>   はじめに理解として現れていたものは溶け去って知になり、
>   目が覚めるということはありえないんだとわかります。

最初のうちは自分(登場人物)が理解するのだと思われていたこと
が、ただ「知」があるだけであることが自明になってくる。

>   あるのは目覚めだけです。

自分(登場人物)が目覚めるのではなく、自分は劇の中の出来事で
あり、最初から目覚めだけがあるのだと自明になってくる。

>   そして、登場人物と同一化するという劇がある種の催眠作用
>   として起こっているんだとわかります。

「登場人物と同一化する」というのは、その劇のある種の味つけ、
催眠作用なんだということが自明になってくる。

>   ずっと求めていた目覚めというのは、目覚めはじつはすでに
>   あったという認識のことで、それは今この瞬間に起こってい
>   るんです。

われわれが求めていた「目覚め」というのは、【目覚めはじつは
すでにあったという認識のこと】だと、自明になってくる。

美しい表現ですねぇ。(-_-)

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 Q.自分はひとりの登場人物だという催眠が起こっているときに
   は、気づきの側面が目立たなくなっているという意味ですか?
   言っている意味が通じますか? ここではふたつのことにつ
   いて話しているように思います。気づきと気づきの内容です。
   それで、気づきの内容との同一化が起こっていると、気づき
   の側面がなくなってしまいます。そういう理解で合っていま
   すか?
 
 A.そうではありません。
   僕が言っているのは、気づきはつねにありますが、催眠状態
   になって登場人物としての劇にだけ集中するということが起
   こっていると、自分の本質のうち気づきの側面が見落とされ
   てしまうということなんです。
   気づさは劇の内容にずっと気づいているわけですが、そうや
   って気づいているということが認識されていないんです。
   認識されていなくても気づいてはいます。
   つまり、劇に対する集中、劇の内容に対する集中が起こって
   いるわけですが、それが「誰か」としてひとつの中心になる
   ということの意味なんです。
   けれども、自分の本質が認識されていると、自分の本質
   (一体性)というのは何でもないもの──気づき──で、そ
   れと同時にあらゆるもの──気づきの内容──でもあるとい
   うことがわかります。
 
 『すでに目覚めている』(p240-241)
------------------------------------

ここ、質問者とネイサン・ギルの表現の違いはとても微妙ですね。

なんなら、ネイサン・ギルの回答は、「そうですね」という言葉で
始まってもおかしくはない、とも思えます。(^^;)

まあ、強いて言うなら、質問者の「気づきの側面がなくなってしま
います」の【なくなる】の解釈が異なったのかもしれません。

>   僕が言っているのは、気づきはつねにありますが、催眠状態
>   になって登場人物としての劇にだけ集中するということが起
>   こっていると、自分の本質のうち気づきの側面が見落とされ
>   てしまうということなんです。

この「気づきの側面が見落とされてしまう」を、質問者は「なくな
ってしまいます】と表現したのかもしれませんね。

それはともかく、

>   気づさは劇の内容にずっと気づいているわけですが、そうや
>   って気づいているということが認識されていないんです。

このことは、決定的に重要です。

>   認識されていなくても気づいてはいます。

これは確かです。

>   つまり、劇に対する集中、劇の内容に対する集中が起こって
>   いるわけですが、それが「誰か」としてひとつの中心になる
>   ということの意味なんです。

ええ。

ドラマの登場人物の観点から言うと、ひとつの中心になったまま、
その状態にハマってしまっているわけでしょう。

突き放して言えば、そういう場面であるだけですが。(^^;)

>   けれども、自分の本質が認識されていると、自分の本質
>   (一体性)というのは何でもないもの──気づき──で、そ
>   れと同時にあらゆるもの──気づきの内容──でもあるとい
>   うことがわかります。

マハラジふうに言うなら、わたしが在るがゆえに、すべては現れて
いる。

ネイサン・ギルふうに言うなら、わたしは何でもないもの(気づき)
であり、同時にあらゆるもの(気づきの内容)でもある。

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 Q. 一方では、この催眠作用という側面は悪いことであるかのよ
   うな話しかたをしていますが、それでもそれもひとつの大き
   な全体の一部なんだということを言っているんですね。
 
 A.ええ。
   催眠状態には何も悪いことはありません。
   単なる劇なんです。
   同一化している登場人物の観点から見ていると──内容にだ
   け注意を向けていると──、何かが間違っているように感じ
   られますが。
 
 Q.それは苦しみなんでしょうか?
 
 A.そうです。
   それで劇の中ではそれが劇の外に抜け出したいという動機に
   なって現れます。
   今日のこの話の文脈で言うと、それは同一化している登場人
   物あるいは「私」による探求として、理解しょうとする動き
   として現れるんです。
   
   知は──それは僕たちの本質ですが──、はじめに劇の中に
   広がりだすときには、人生で問題のように感じられることを
   どうにかするための理解を求める旅や欲求という形で現れま
   す。
   ただし、理解というのは、知が思考という形で生じている現
   れにすぎません。
   そして劇の内容の一部である思考には、絶えず動き続けなが
   ら変わり続けるという性質がありますから、知が理解という
   形で現れたとしても──それは登場人物にとっては安心をも
   たらすものではあるんですが──、それが「私」の土台を崩
   すことはないわけです。
   理解は「私」がする何かとしてとらえられます。
   
   自分の本質を思い出すということが繰り返される中で──そ
   れがどういう形をとるにしても──、知があきらかになるこ
   とがありますが、そうすると「私」は見抜かれて、理解には
   用がなくなります。

 『すでに目覚めている』(p241-243)
------------------------------------

> Q. 一方では、この催眠作用という側面は悪いことであるかのよ
>   うな話しかたをしていますが、それでもそれもひとつの大き
>   な全体の一部なんだということを言っているんですね。

どの場面も劇の一部を構成しているということなのでしょう。

あるいは、大宇宙という虚構の大伽藍に貢献しているとか。

> A.ええ。
>   催眠状態には何も悪いことはありません。
>   単なる劇なんです。

はい。

>   同一化している登場人物の観点から見ていると──内容にだ
>   け注意を向けていると──、何かが間違っているように感じ
>   られますが。

その歴、長いです。(*-_-*)

> Q.それは苦しみなんでしょうか?

いやー、苦しみですよ。(;_;)

> A.そうです。

ええ。

>   それで劇の中ではそれが劇の外に抜け出したいという動機に
>   なって現れます。

子供のころ以外は、一生それをやってました。

>   今日のこの話の文脈で言うと、それは同一化している登場人
>   物あるいは「私」による探求として、理解しょうとする動き
>   として現れるんです。

まさしく。

>   知は──それは僕たちの本質ですが──、はじめに劇の中に
>   広がりだすときには、人生で問題のように感じられることを
>   どうにかするための理解を求める旅や欲求という形で現れま
>   す。

ですよねぇ。

東久留米の観音堂に行って、インドにまで行ったもんなぁ。

>   ただし、理解というのは、知が思考という形で生じている現
>   れにすぎません。

あ、これはとても的確な表現ですね。

   【理解】 = 【知が思考という形で生じている現れ】

>   そして劇の内容の一部である思考には、絶えず動き続けなが
>   ら変わり続けるという性質がありますから、知が理解という
>   形で現れたとしても──それは登場人物にとっては安心をも
>   たらすものではあるんですが──、それが「私」の土台を崩
>   すことはないわけです。

はは。(*@_@*)

ここに見事にpariパターンの状態が表現されている。(^_-)

何回も何回も「わかった!」と思って、

たしかに、安心をもたらすものではあるんだけど、

それが「私」の土台を崩すことはないわけだ。(*-_-*)

>   理解は「私」がする何かとしてとらえられます。

理解は登場人物の自分がする何かとしてとらえられているから。

>   自分の本質を思い出すということが繰り返される中で──そ
>   れがどういう形をとるにしても──、知があきらかになるこ
>   とがありますが、そうすると「私」は見抜かれて、理解には
>   用がなくなります。

「自分の本質を思い出すということが繰り返される中で」……。

こうしてネイサン・ギルの表現にも触れて、
やがては「私」が見抜かれ……、理解には用がなくなる……。

そうか。

ちゃんと、自然現象は起こっているんだ。

次の質問がとても良くて、ネイサン・ギルのとても優しい表現を
導き出しています。

ちょっと質問が長いので、まず質問だけ読んでみてください。

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 Q.ちょっと別のことについて聞いてもいいですか。
   これもまた分離した「私」という感覚から出てきているのは
   わかっているんですが、それでも質問したいんです。
   日常生活でこの心身がすごく苦労しているという感覚が強く
   なっているんです。自然な生き方に逆らっているという感じ
   がします。言いかたを変えると、心身が疲れたら休まなけれ
   ばいけないのに、そうできないことが多いんです。
   生活費を稼がないといけません。生きるためにいろいろなこ
   とに対処し続けなければなりません。木々を見ても、花々を
   見ても、外にいる動物たちを見ても、彼らはただ流れにまか
   せていて、時が来たら倒れて死ぬだけです。
   でもなぜかはわかりませんが、ひとりの人間としてこの世界
   に生きていると、自然に感じられないやりかた、やすらぎを
   感じないやりかた、落ち着いて満たされている生活にはつな
   がらないようなやりかたを心身に押し付けないといけないよ
   うな気がします。それについて何か話してもらえませんか?
 
 『すでに目覚めている』(p243-245)
------------------------------------

いやー、まったくわたしの代弁をしてくれているなぁ。(-_-)

こういう言葉が出てくると、
やはり、それにふさわしい言葉が出てくるんでしょうね。

ネイサン・ギルの優しい表現を見てみましょう。

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 A.ええ。
   登場人物とだけ、「誰か」とだけ同一化している観点から見
   ると、自分の本質は全体性であって、はじめから完全なんだ
   という本来的な知が隠されて見えなくなります。
   全体に戻ろうとして、ひとりの人間としての見かけ上の苦闘
   が起こるというのは、この劇の性質です。
   この苦闘は、それからいろいろな形をとって現れる探求もそ
   うですが、いわゆる目覚めとか全体性だけを求めるものでは
   ないんです。
   物質の獲得、性的な満足、生活費、やすらぎなどとして現れ
   るものを求めることもあります。
   この苦闘と探求は、自分の本質が認識されるまで、もしくは
   少なくともこの認識が劇の中に浸透しはじめるまでは続きま
   す。
   それまでは、ひとりの人間としての苦闘がたいていは続きま
   す。
   
   ですからはじめは、ひとりの人間の観点からすると、自分の
   本質についてのこのメッセージが劇の中に浸透していっても、
   個人としての「私」にとって生きることの苦闘のように思え
   ることに対して何か影響が及んでいるようには見えません。
   でも、登場人物がこのメッセージを聞くということが繰り返
   し起こると、全体性の認識が次第に進んでいくことがあって、
   そうすると気楽さがあきらかになります。
   緊張は──それを時計のメカニズムである巻かれたぜんまい
   にたとえてもいいですが──ゆるみます。
   徐々にやわらぐんです。
   そしてこの気楽さの中で、同一化している登場人物の観点か
   ら以前は苦闘のように見えていたもの、生活の困難、生きる
   ことの困難のように見えていたものが、単なる劇だったとい
   うことがわかりはじめます。
   
   つまりこういうことすべてが劇として展開していきますが、
   知(それは劇の中ではじめは探求や理解として現れます)が
   あきらかになるまでは、生活の苦闘は続いていくように見え
   ます。
   これは劇の中での苦闘にすぎないんだと理解されていたとし
   てもです。
   こんなことを聞いても、同一化している登場人物にとっては
   もちろんまるで救いにはならないでしょうね!
 
 『すでに目覚めている』(p243-245)
------------------------------------

> A.ええ。
>   登場人物とだけ、「誰か」とだけ同一化している観点から見
>   ると、自分の本質は全体性であって、はじめから完全なんだ
>   という本来的な知が隠されて見えなくなります。

はい、たしかに。

>   全体に戻ろうとして、ひとりの人間としての見かけ上の苦闘
>   が起こるというのは、この劇の性質です。

はい。

>   この苦闘は、それからいろいろな形をとって現れる探求もそ
>   うですが、いわゆる目覚めとか全体性だけを求めるものでは
>   ないんです。

なるほど。

>   物質の獲得、性的な満足、生活費、やすらぎなどとして現れ
>   るものを求めることもあります。

たしかに。

>   この苦闘と探求は、自分の本質が認識されるまで、もしくは
>   少なくともこの認識が劇の中に浸透しはじめるまでは続きま
>   す。

やっぱり、そうですよね。

>   それまでは、ひとりの人間としての苦闘がたいていは続きま
>   す。

はい。

>   ですからはじめは、ひとりの人間の観点からすると、自分の
>   本質についてのこのメッセージが劇の中に浸透していっても、
>   個人としての「私」にとって生きることの苦闘のように思え
>   ることに対して何か影響が及んでいるようには見えません。

これぞわが状態かもしれん。(*^_^*)

>   でも、登場人物がこのメッセージを聞くということが繰り返
>   し起こると、全体性の認識が次第に進んでいくことがあって、
>   そうすると気楽さがあきらかになります。

いや、これも本当。

これもわが状態かもしれん。(*^_^*)

>   緊張は──それを時計のメカニズムである巻かれたぜんまい
>   にたとえてもいいですが──ゆるみます。

なんとなく、わかるような。

>   徐々にやわらぐんです。

たしかに。

>   そしてこの気楽さの中で、同一化している登場人物の観点か
>   ら以前は苦闘のように見えていたもの、生活の困難、生きる
>   ことの困難のように見えていたものが、単なる劇だったとい
>   うことがわかりはじめます。

わかりはじめます。(*^_^*)

>   つまりこういうことすべてが劇として展開していきますが、
>   知(それは劇の中ではじめは探求や理解として現れます)が
>   あきらかになるまでは、生活の苦闘は続いていくように見え
>   ます。

はい。

>   これは劇の中での苦闘にすぎないんだと理解されていたとし
>   てもです。

わかりました。(-_-)

>   こんなことを聞いても、同一化している登場人物にとっては
>   もちろんまるで救いにはならないでしょうね!

(*^_^*)

ありがとうございました。m(_ _)m

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
------------------------------------

はい。

(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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このところ、『すでに目覚めている』にハマってます。

今日はまだ明るいようです。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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