━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2016/03/06(第621号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
何でもないものが、あらゆるものになってみている。
今この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こってい
る。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在837名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.誰が真我を知るのだろう?
2.いただいたお手紙から:しゅうさん(フリダシ系とアガリ系)
3.編集後記
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■ 1.誰が真我を知るのだろう?
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春になりましたね。
いつまでこんなものを書いているのかわかりませんが、
これは単純に不可思議です。
ただいつもやっていることが繰り返して起こるようです。
湧いてくる想念に注意を払っているわけですから、
無心のなかでただ安らぐことはできないということでしょう。
何も起こっていないという想念も湧くものの、
一見何かが起こっていそうな見かけに注目しているのは事実です。
でも見かけの現れのなかに何かの解決を求めるのは、
まったくバカげているという知も浸透してきているようです。
湧いているすべての夢にどんな意味もない。
何でもないものが虚構の何かに制限される夢を見て、
魘(うな)されているだけのことでしょう。
でもその夢が醒めそうになっているということも、
ありえないことではありません。
ふ。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
見かけの劇はとてもリアルなので、
ちょっとフォーカスすればすぐに劇の世界に巻き込まれます。
それは長いこと慣れ親しんできた現実という文脈のある世界です。
見かけのドラマを構成する虚構のゲームの規則です。
それはすべてがすべてを定義し合う世界。
すべてが他のすべてに責任を転嫁し合う世界です。
まるで自己など無いかのように。
にもかかわらず、まるで自己があるかのように。
でも自己の真の存在を委ねたのだから、それは仕方ない。
その世界はその世界で虚構の辻褄を合わせるしかありません。
どんなに汚れたからといって、
汚れが純真無垢の助けになるわけではない。
でもなぜか、汚れのほうが純真無垢より良さそうなのです。(*^_^*)
静けさよりも、騒音のほうが良さそうなのです。
若者が都会を目指すようなものかもしれません。
(あーあ……あの暗い無人の路地をさまよいながら、
遠い祭り囃子を聞いたのはそういうことだったのか……。)
ふふ。
イエスは、「放蕩息子」という喩え話を使ったようです。
放蕩息子は、歓楽のなかに何かがあると思ったのかもしれません。
でもそこには実際は虚構の辻褄を合わせの汚れしかなかった。
何かになるとは努力すること、無理をすることでしかなかった。
つかの間の雲の形に、
大空の姿を見出そうとするような無謀にすぎなかった。
何かを求めるとは、永遠の自己探しです。
自己とは何か?
むろん、探しているその当の本人です。
自分が自分を探している。
純真無垢が汚れのなかに自分を探している。
静寂が騒音のなかに自分を探している。
バカげています、もちろん。
でも、飽きずに、永遠にそれをやっているのです。
たくさんのたくさんの帰還の物語を紡ぎながら、
永遠に飽きることなく新たな彷徨いの物語を紡ぎつづけている。
漆黒の無限の闇のなかに、永遠のドラマを投影しながら。
誰がそのドラマを見ているのか。
わたしが、そしてあなたが見ているのです。
何のために?
その劇の登場人物になるために。
新たな帰還の物語の主人公を演じるために。
ラマナ・マハルシは、
この自分探しを木陰から熱射の路上に出かけることに喩えました。
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24 幸福とは何でしょうか?
幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思って
いる。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻って
おり、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得
たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去っ
たりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我―幸福を楽し
むのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、
また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと
感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻
ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人は、ブラフマンを離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い
歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は平和
を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである。
『あるがままに』(p404-405)
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> 心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
(-_-)
> このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、
> また戻ってくるということを繰り返している。
はい。
> 木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
> 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと
> 感じる。
たしかに。
> 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻
> ってくるのは愚かなことである。
(*-_-*)
> 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
(-_-;)
> 実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
わかります。
> 世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は平和
> を体験する。
はい。
> 世界が現れると、不幸を味わうのである。
(;_;)
あまりにも明白で、言葉が見つかりません。
(-||-)
このメルマガをご覧の方で、
自分が真我であること自体をご存じない方はいないと思います。
でも、もしまだ確信がないという方がいたらですが、
こんなマハルシの言葉はいかがでしょうか。
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あなたは今まであまりにも客観化することに慣れてしまったため、
あなた自身の知識を失ってしまったのだ。
なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。
『あるがままに』(p49)
------------------------------------
> なぜなら、真我を客観視することはできないからである。
わかっています。
真我で在ることはできても、真我を見ることはできない。
> 誰が真我を知るのだろう?
真我を知るのは誰か?
> それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
ありえません。
> あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
はい。
> それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
たしかに。(-_-;)
> あなたが真我なのだ。
(-_-) ⌒★?
疑問の余地はありえません。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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■ 2.いただいたお手紙から:しゅうさん
(「フリダシ」系と「アガリ」系)
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
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今回もしゅうさんから、メールをいただきました。
では、早速ご紹介します。
【件名】: こんにちは
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pariさん、ご高説ありがとうございました。私は現下の精神世界は
大別して二系統存在しているように思います。これを双六に喩える
と、「フリダシ」系と「アガリ」系です。前者の代表格が、般若心
経、ニサルガダッタ、パパジ、ガンガジ、などであり、後者の代表
格が、日月神示、ラムサ、バシャール、などです。
そして自分の出自=「フリダシ」=ヴォイド=超意識=原初意識を
志向する人には「私は在る」、一方、光輝く本当の自分=「アガ
リ」=キリスト意識を志向する人には「うれし・たのし」「愛」あ
るいはバシャールの「ワクワク・ドキドキ」が羅針盤になっている
ように思います。
どちらを志向するかはその人の勝手であり、とやかく言うつもりは
ありませんが、最終的にどうなるかは、ラムサが明言しています。
「自分以降、覚醒したものは一人もいない。もし本当に覚醒したな
ら、その人は必ず光る」と。要は、さまざまな想念を溜め込んで振
動数が低くなった肉体を光の振動数にまで上昇させない限り、「ア
ガリ」にはならないということです。
その昔、数十年間毎朝サマディに浸っておられるインド人にお話を
伺いましたが、毎回至福の光の中、何も覚えていない、ということ
でした。サマディ時、意識は光の中にいるが、自分の肉体が光って
いるわけではないそうです。
pariさん、突然のメールにもかかわらず、お返事いただきありがと
うございました。次回は、私の肉体が光った時にメールします。冗
談です(笑)
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しゅうさん、ご投稿ありがとうございます。
> pariさん、ご高説ありがとうございました。
ご高説と言われても。
> 私は現下の精神世界は大別して二系統存在しているように思います。
はい。
> これを双六に喩えると、「フリダシ」系と「アガリ」系です。
ほう。
> 前者の代表格が、般若心経、ニサルガダッタ、パパジ、ガンガジ、
> などであり、後者の代表格が、日月神示、ラムサ、バシャール、
> などです。
なるほど。
> そして自分の出自=「フリダシ」=ヴォイド=超意識=原初意識を
> 志向する人には「私は在る」、一方、光輝く本当の自分=「アガ
> リ」=キリスト意識を志向する人には「うれし・たのし」「愛」あ
> るいはバシャールの「ワクワク・ドキドキ」が羅針盤になっている
> ように思います。
おっしゃる意味はわかりました。
> どちらを志向するかはその人の勝手であり、とやかく言うつもりは
> ありませんが、最終的にどうなるかは、ラムサが明言しています。
ほう。
> 「自分以降、覚醒したものは一人もいない。もし本当に覚醒したな
> ら、その人は必ず光る」と。
なるほど。
> 要は、さまざまな想念を溜め込んで振動数が低くなった肉体を光の
> 振動数にまで上昇させない限り、「アガリ」にはならないというこ
> とです。
しゅうさんの「アガリ」の意味はわかりました。
> その昔、数十年間毎朝サマディに浸っておられるインド人にお話を
> 伺いましたが、毎回至福の光の中、何も覚えていない、ということ
> でした。サマディ時、意識は光の中にいるが、自分の肉体が光って
> いるわけではないそうです。
なるほど。
> pariさん、突然のメールにもかかわらず、お返事いただきありがと
> うございました。次回は、私の肉体が光った時にメールします。冗
> 談です(笑)
ははは。(*^_^*)
で、しゅうさんの定義では、
「フリダシ」と「アガリ」は別なものを意味するわけですね。
「フリダシ」とは、さまざまな想念を溜め込んで、
振動数が低くなった肉体を光の振動数にまで上昇させていない状態。
「アガリ」とは、さまざまな想念を溜め込んで
振動数が低くなった肉体を光の振動数にまで上昇させた状態だと。
で、唯一本当に覚醒して光となったラムサが一番偉い、
としゅうさんが判断されている、ということなのかもしれませんね。
そうすると、想念を溜め込んで振動数が低くなった肉体を、
ラムサはリアルな個々の実体と見なしているわけですね。
苦海で溺れるたくさんの振動数が低くなった肉体たちを、
ラムムサは何とか救おうと努力なさっているというわけでしょうか。
しかも、肉体を光の振動数にまで上昇させて光となった肉体は、
ラムサお独りであるらしい。
しゅうさんの描くラムサは、
過去と未来の存在を信じていらっしゃるのかもしれませんね。
そして、過去に自分が光となったように、
苦海に沈む存在たちが未来に光となるのを助けているのかも。
存在は多種多様な夢を投影しつづけて飽くことがないようです。
なので、その多様な夢の登場人物の一人にすぎないわたしが、
他の登場人物を判断するのは、もともとバカげた話です。
でも、このわたしという登場人物が負わされた観点は、
<何故にすべては始まってしまったのか?>
というものでした。
この観点の登場人物なら、
ラムサにこう言ったかもしれません。
何のために、そんなことが必要なのか?
もし、最後には光の振動数まで上昇させる必要があるというなら、
最初から光であればそれでいいではないか?
この途中の、想念を溜め込んで振動数を下げたり、また振動数を
光まで上昇させるとかいう大騒ぎが、なぜ必要なのか、と。
で、こういう観点の登場人物にとって、
じつに明快な回答がありました。
いや、何も必要ない。
あなたは今のままで、まったくなんの問題もなく真我だ。
あなたが覚醒なのだ。
ただ、あなたは今夢を見ていて、自分は真我ではない、
覚醒ではないと頑張っているだけなのだ、と。(^^;)
そりゃ、
はじめは何を言われているかわかりません。
でも、落ち着いて何度か聞き直してみたら、
意味はわかりますよ。(*-_-*)
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誰が真我を知るのだろう?
それ自体では生命力をもたない身体がそれを知るのだろうか?
あなたはいつもあなたの「私」について語ったり、考えたりしている。
それにもかかわらず、尋ねられるとあなたはその知識を否定する。
あなたが真我なのだ。
『あるがままに』(p49)
------------------------------------
(-||-)
わたし以外の誰が真我を気にしたりするでしょうか?
真我を気にする者、それこそが真我でしょう。
光であるかどうかは別として、
真我が未来に獲得できるようなものでないのも明らかです。
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真我に到達するというようなことはない。
もし真我が到達されるようなものなら、それは今ここにはなく、
未来に獲得されるべき何かを意味する。
新たに得られたものは、やがて失われるだろう。
それゆえ、それは永遠のものではない。
永遠のものでないなら、そのために努力する価値はない。
だから私は、真我は到達されないと言うのだ。
あなたは真我である。
あなたはすでにそれなのである。
『あるがままに』(p36)
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(-||-)
強いてそれが光かどうかを気にするならですが。
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誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだ
ろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んで
いる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、
「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
……
それはただ存在なのだ。
『あるがままに』(p21-22)
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(-||-)
それから、しゅうさんの喩えの、
「フリダシ」系と「アガリ」系ですが。
これだと失敗者と成功者というような暗示を抱懐しかねません。
むしろ、しゅうさんの意図に対しては、
「在る」系と「成る」系とでも言ったほうが客観的な気もします。
以前わたしは、
「中性子」系と「陽子」系に喩えたことがあります。
「覚者」系と「神様」系とか、
「実在」系と「ニューエイジ」系など、いろいろ喩えられますね。
要は、現象を同じ夢とは認めながら、それをリアルと認めるか、
ただの「見かけ」と認識するかの違いだと思います。
マハラジはこう言っています。
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未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのもので
あるように、成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ること
の本性そのものなのだ。
この在ることと成ることの交替は不可避だ。
だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。
『私は在る』(p435)
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と……。
(-||-)
そしてサマーディですが、
これは他の体験と同じただの体験です。
何十年ハマっても、醒めれば元の木阿弥であるのは当然です。
覚醒とは、自分が見かけとはまったく無関係であることを
知っていることですから。
しゅうさん、こういう言葉はすべて夢のなかですね。
しゅうさんが「私」といい、pariが「わたし」というもの、
それがまったく同じものであるのは自明なのですから。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
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■ 3.編集後記:
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今日は、比較的早く終えました。
今日は地元では御輿を担ぐお祭りの日なんです。
あまり見たことはありませんが。
これからバイクで散歩でもしてこようかな。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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