home > 通信 >『アセンション館通信』(第623号):意味は非実在の中にしかない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/03/20(第623号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在841名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意味は非実在の中にしかない

2.いただいたお手紙から:hikarikoさん

3.編集後記
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■ 1.意味は非実在の中にしかない
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霧に煙る薄明るい空から雨が降っています。

さっきまではかなり強い雨だったけど、いまはもう音はない。

見慣れた里の風景の上を霧が隠している。

劇の中の登場人物がそれをこうして文字にしています。

別にこの登場人物の幸福のためにこの光景があるわけではない。

たとえこの登場人物がそう思っていたとしても。

ふ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

以前は何のために毎週こんなものを書いているのか、
わかっているつもりでした。

でも、今はわかりません。

昔はこの身体が関わるあらゆる行為に先立って
自分の意志があると当然のように思っていたものです。

でも今や、
実際に自分の意志などないことが了解されてしまいました。

そんなことが了解できるときが来るとは、
ほんと思っていなかったんですけどね。

でも、初めてマハラジのこの言葉を聞いたとき、
これが事実だということがなんとなく感じられてしまいました。

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 質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。
 
 マハラジ
 試してみるがいい。
 しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐ
 に理解するだろう。
 
 質問者 私は私の意志にしたがって行為することができます。
 
 マハラジ
 行為した後になって、はじめてあなたはあなたの意志を知るのだ。

 『私は在る』(p373)
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(-||-)

> 質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。

こう思っていたんですよね。

> マハラジ
> 試してみるがいい。
> しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐ
> に理解するだろう。

しなければならないことをしているだけ……。

これ以上的確な言葉はみつからない。

だって、実際そうなんですから。(^_-)

> 質問者 私は私の意志にしたがって行為することができます。

一応、エゴとしては最初はこう反論します。

でも、結局は、サンタクロースなどいないことを知ってしまった
小学生のようなものです。

たとえ、口では「サンタクロースはいるよ!」と反論しても、
実際はいないことが了解されてしまったわけです。

もう元には戻れない。

> 行為した後になって、はじめてあなたはあなたの意志を知るのだ。

まったくです。

もちろん、社会はこんなことを認めるわけにいきません。

それではこの次元の人間ドラマは成り立たない。

だから、殺人犯を捕まえて、
裁判で当人の“殺意”を立証して、刑に服させるわけです。

それはそれで、劇の中では当然のことだと思います。

だから人間ドラマのなかにはこんな場面もあるわけです。

たとえば、

     <何故にすべては始まってしまったのか?>

などと大層な思いを抱えたりとか。

もちろん、当人は
自分がその思いを思いついたのだと思っています。

すると、カラマーゾフの兄弟のイワンが現れる。

そして、たとえこの世界を許容する神の法則があったとしても、
自分はそんなものを認めることはできない、と言うのです。

全身全霊、そのイワンの思いに共振したものです。

 「赤心(しゃくしん)もとゞまらず、片々として往来す」

その思いは、劇の中で記憶と想像によって引き伸ばされ、
意味を与えられて、新たな展開を紡ぎます。

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の
「大審問官」の場面を、当時の新聞記事から発想したそうです。

なんでも、母親の目の前で、
兵隊が赤ん坊を空中に放り上げ、それを銃剣で突いたのだとか。

何でこんなことが必要なのかと、哲学頭なら思いますよね。

現象の解釈にはさまざまな角度や、深度があるでしょう。

だから、同じ現象を前にしても、
じつにいろいろな解釈や理解がありうる。

初めは素朴に、現象に立ち会った個体の観点から、
ごくごく感情的な解釈が起こります。

でも、その時点ではその解釈が
自分という固有の立場で色づけられていることは知りません。

子供の頃は、“悪い人”というのがいると思っていましたから。

でもそのうち、誰もが自分と同じに感じているわけでもないことを
知り始めるんですよね。

だいたい、子供同士の中だっていろいろ意見が違いますし。

ましてや大人の意見となると、またずっと違っているものです。

そうやって、そのうち現象の解釈には
いろいろな観点からのものがあることがわかってきますが。

そうやって世界を踏み固めながら、
世界のなかで大人になっていくわけでしょう。

わたしの劇の場合、
事柄がそういうふうには進みませんでした。

ひとりで孤立して、夢のなかで苦しんでいた。

たとえば、わたしの劇の中ではこんな思いがわきました。

この瞬間が、まったく無駄だったことを覚えていよう、と。

未来のいつかに、この瞬間の意味がすべて明らかになるようなこと
が、起こりうるかもしれない。

しかし、たとえ、そういうことがいつか起こったとしても、
今この瞬間がこうだったことを、誰がどう補償できるというのか?

今この瞬間の意味は、
今この瞬間の中にしかありようがないではないか?

とまあ、そんなふうに思ったわけです。

でもですね、どうやらそのときわたしは、
そのことを本当とは信じていなかったようです。

人生の意味を問い詰めるその思いに疑問符を置いて、
誰かを問い詰めるような気でいましたから。

意識的にはそう思いながら、でももっとずっと深い構造の中には、
何かそれに応えるような意味があるのだろうと思っていた。

ここまで問い詰めても、
エゴはエゴとして死ぬつもりはさらさらないわけです。

だから、アセンションとか、ハイヤーセルフとか、
宇宙の多次元構造とかいう話に、まだまだ迷いこむ気だった。

そんな劇の中にいるわたしに
とても新鮮に聞こえたのはこんな言葉です。

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 そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。
 あなたが最高位の自己なのだ。
 ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。
 あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドと
 その幻想的な観念でもなく、社会があなたに演じるように強要し
 た個人としての役柄でもないと、信念と理性があなたに告げてい
 るのだ。
 偽物を捨て去りなさい。

 『私は在る』(p536) 
------------------------------------

> そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。
> あなたが最高位の自己なのだ。

こういうことを、こういう表現で言ってくれる方は
他にはいませんでした。

【あなたが最高位の自己なのだ】……。

(-||-)

> ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。

(-_-)O

> あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、

はい。

> またマインドとその幻想的な観念でもなく、

はい。

> 社会があなたに演じるように強要した個人としての役柄でもない

はい。

> と、信念と理性があなたに告げているのだ。

間違いありません。

> 偽物を捨て去りなさい。

わかりました。

(-_-)

するとそこで……あらためてこんな問が起こってきます。

本当のところ、わたしは自分を誰だと思っているのか。

「私は誰か?」……。

わたしは架空の問を問いつづけていたい想念なのか?

もしわたしがその想念であるというなら、それは知覚の対象です。

それはつかの間の現れにすぎない。

それがわたしのフリダヤムなのか?

それがわたしの中核なのか?

それがこの問をしている当人なのか?

この世界の存在を前提にした様々な観点・解釈は、
今も無限に湧きつづけています。

今も際限なく肉体が誕生しつづけているように。

もし、世界の存在を前提にした様々な観点・解釈が実在なら、
間違いなくこの世界こそが実在の目的とも言えるでしょう。

実在は、劇中のわれわれ一人ひとりの観点をつうじて
世界を体験しているということになるわけでしょう。

いま様々な観点で宇宙を体験しているのが、
わたしであり、あなたなのだ、と。

ニューエイジスピリチュアルのあらゆる観点が
立ち上がってくることになるのかもしれません。

もちろん、すべては劇の中にあります。

現象の中に意味を求めるかぎり、物語中毒はつづくでしょう。

意味とは知覚の対象である
気づきの内容の中に立ち上がるのですから。

わたしはその意味を必要とするのか?

わたしはどこまでもマインドの中を彷徨い歩きたいのか?

「私は誰か?」……。

(-_-;)

するとまた、ラマナ・マハルシが言っているのは
いったいどういうことなのか?、と思われてくるのです。

------------------------------------
 質問者 もしジニャーニもアジニャーニも同じように世界を知覚
     するのであれば、彼らの間にどんな違いがあるというの
     でしょうか?
     
 マハルシ
 世界を見ながら、ジニャーニは見られるものすべての根底にある
 真我を見ているが、アジニャーニは世界を見ていようといまいと、
 彼の本性である真我について無知なままだ。
 映画のスクリーン上で動いている画像を例に考えてみるといい。
 映画が始まる前に、あなたの目の前にあるのは何だろう?
 ただのスクリーンである。
 あなたはその劇をスクリーンの上に見ている。
 そして画像が現れている問、それらはみな現実であるように見え
 る。
 だが、行ってつかみ取ろうとしてみなさい。
 何をつかむだろうか?
 ただのスクリーンである。
 映画が終わって画像が消え去ったあと、何が残っているだろうか?
 やはりスクリーンである。
 
 真我もそれと同じなのだ。
 ただ真我だけが存在し、画像は来ては去っていく。
 もしあなたが真我とともにとどまれば、画像の現れに惑わされる
 ことはないだろう。
 あるいは画像が現れようと現れまいと問題にはならないだろう。
 ちょうどスクリーンを無視して画像だけを見ていたように、アジ
 ニャーニは真我を無視して世界を実在だと思いこむ。
 あたかも世界が自分から離れて存在しているかのように。
 もしスクリーンなしには画像がありえないように、見る者なしに
 は見られるものもないということを知れば、惑わされることはな
 い。
 ジニャーニはスクリーンも画像も、ともに真我であることを知っ
 ている。
 世界という画像によって真我は形をとり、世界という画像がない
 とき、真我は形をとらずにとどまる。
 ジニャーニにとって真我が形をとるかとらないかは問題ではない。
 彼はつねに真我なのだ。
 だが、アジニャーニはジニャーニが活動的であるのを見て困惑す
 るのである。
 
 『あるがままに』(p66-67) 
------------------------------------

> 質問者 もしジニャーニもアジニャーニも同じように世界を知覚
>     するのであれば、彼らの間にどんな違いがあるというの
>     でしょうか?

そう、何が違うのですか?(?_?)

> マハルシ
> 世界を見ながら、ジニャーニは見られるものすべての根底にある
> 真我を見ているが、アジニャーニは世界を見ていようといまいと、
> 彼の本性である真我について無知なままだ。

あぁ、そういうことか。(*-_-*)

アジニャーニは自分が本当は誰かについて曖昧なんだ。

だから、ついつい自分の拠り所を世界の中に求めてしまう。

> 映画のスクリーン上で動いている画像を例に考えてみるといい。

はい。

> 映画が始まる前に、あなたの目の前にあるのは何だろう?
> ただのスクリーンである。

たしかに。

> あなたはその劇をスクリーンの上に見ている。

間違いありません。

> そして画像が現れている問、それらはみな現実であるように見え
> る。

そのとおりです。

> だが、行ってつかみ取ろうとしてみなさい。

ああ。

> 何をつかむだろうか?
> ただのスクリーンである。

そのとおりです。

> 映画が終わって画像が消え去ったあと、何が残っているだろうか?
> やはりスクリーンである。

たしかに。

> 真我もそれと同じなのだ。

ん。(?_?)

> ただ真我だけが存在し、画像は来ては去っていく。

あ……。

> もしあなたが真我とともにとどまれば、画像の現れに惑わされる
> ことはないだろう。

そうか。(-_-)

> あるいは画像が現れようと現れまいと問題にはならないだろう。

なるほど……。

> ちょうどスクリーンを無視して画像だけを見ていたように、アジ
> ニャーニは真我を無視して世界を実在だと思いこむ。

あーあ。 ⌒★?

> あたかも世界が自分から離れて存在しているかのように。

そういうことか。

> もしスクリーンなしには画像がありえないように、見る者なしに
> は見られるものもないということを知れば、惑わされることはな
> い。

……。(-_-;)

> ジニャーニはスクリーンも画像も、ともに真我であることを知っ
> ている。

はい。

> 世界という画像によって真我は形をとり、世界という画像がない
> とき、真我は形をとらずにとどまる。

そうか……。(-_-)

> ジニャーニにとって真我が形をとるかとらないかは問題ではない。

なるほど。

> 彼はつねに真我なのだ。

(-_-) ⌒★?

> だが、アジニャーニはジニャーニが活動的であるのを見て困惑す
> るのである。

(*-_-*)

……そういうことか。

意味は現象のなかに自分が存在し、
その自分の観点から現象を解釈したときにしか現れない。

意味は非実在である現象の解釈の中にしか存在しないのか……。

意味は非実在の中にしかない。

だから、
現れにはどんな意味もないと覚者方は言うわけだ。

(-||-)

------------------------------------
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ いただいたお手紙から:hikarikoさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回、hikarikoさんという方から、ご投稿いただきました。

早速ご紹介します。

【件名】: これが一体性、今ある、ということ。
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 pariさま
 
 対象に向かう前向きの矢印と、それに気づいている自己へ向かう
 後ろ向きの矢印が意識すること、
 
 これが一体性、今あるということ。
 
 頭の中でつくり上げた抽象的なイメージ、その思考に完全に乗っ
 取られてしまうという現実、これが前向きの矢印ですね。
 
 そしてそれに気づいている自己へ向かう後ろ向きの矢印が意識す
 ること、これが一体性、今あるということ。
 
 「一体性、今ある」ということとは、こういうことだったんです
 ね。
 
 そして・・・
 
 溶け去って知になるという形でストーリーが現れる。
 
 理解とは、知が思考という形で現れたもの。
 
 初めから目覚めだけがある。
 
 
 本当にたくさんの嬉しいお言葉を載せていただきまして、
 有り難うございます。
 
 
 
 すばらしい文章のご紹介を有り難うございます。
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hikarikoさん、ご投稿ありがとうございました。

> pariさま
> 
> 対象に向かう前向きの矢印と、それに気づいている自己へ向かう
> 後ろ向きの矢印が意識すること、
> 
> これが一体性、今あるということ。

はい。

グルジェフ的な表現ですね。

一体性、今あるということ、というような言葉遣いは
使う方によっていろいろなニュアンスがありますよね。

> 頭の中でつくり上げた抽象的なイメージ、その思考に完全に乗っ
> 取られてしまうという現実、これが前向きの矢印ですね。

まあ、前向きの矢印という言葉自体は、
知覚対象に向かう注意全般を指すことが多いのでしょうが。

ただおっしゃるように、前向きの矢印が生きているかぎり、
大なり小なり思考に完全に乗っ取られてしまいそうですね。

> そしてそれに気づいている自己へ向かう後ろ向きの矢印が意識す
> ること、これが一体性、今あるということ。
> 
> 「一体性、今ある」ということとは、こういうことだったんです
> ね。

そうですねぇ。

hikarikoさんは「一体性、今ある」という言葉を、
そういう意味で捉えられたんですね。

> そして・・・
> 
> 溶け去って知になるという形でストーリーが現れる。
> 
> 理解とは、知が思考という形で現れたもの。
> 
> 初めから目覚めだけがある。

はい、ネイサン・ギルはそういうふうに表現してますね。

> 本当にたくさんの嬉しいお言葉を載せていただきまして、
> 有り難うございます。

一向に深まらないタイプらしいので、
とにかくその時々のマイブームを紹介させていただいてます。^^;

苦しみは夢のなかにだけあって、実在ではないので、
現象世界に興味を失うことが準備運動かなと思っています。

> すばらしい文章のご紹介を有り難うございます。

いつも、読んでいただいて、ありがとうございます。

m(_ _)m


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『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 2.編集後記:
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一週間に一度、まるで思い出したように、
こういう文章に戻ってくることをもう十年以上もやっています。

進歩がないこと甚だしいですが、
少しずつ現象に意味がなくなってきているのかもしれません。

ラマナ・マハルシやニサルガダッタ、ネイサン・ギルなどの言葉は、
少し間が開いたほうが、新鮮にヒットしてくる気がします。

初めて聞く言葉のような気がすることもありますし、
薄皮一枚剥けた真意が響いてくるような気がすることもあります。

現象には何の意味もないということが、
本当にそう思われることもありますから。

ところが、現象のリアリティがまた戻ってくるんですよね。(*^_^*)

でも、自前で存在しているのは、
世界ではなく気づいているわたしであることが思い出されます。

ネイサン・ギルは、それを世界とわたしではなく、
気づきの内容に気づくことが起こっている表現するようですが。

今日も比較的早く終えました。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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