home > 通信 >『アセンション館通信』(第625号):心と真我の違いは何か?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/04/03(第625号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在841名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.心と真我の違いは何か?

2.いただいたお手紙から:hikarikoさん

3.「ご投稿・情報提供」:ザール隊長さん

4.編集後記
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■ 1.心と真我の違いは何か?
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花曇りのこの季節、
ふっと昔を思い出すような雰囲気があります。

この薄明るい空気の清涼感に、
小学校のころの夢の様な場面がよぎる一瞬があったりして。

まだまだ懐かしさのなかでたゆたいたいのでしょう。

それはそれでいい。

そのような気づきの内容に気づいていることが起こっている。

ふ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

一週間に一度のマインド無礼講は、
pariと称する夢の気取りのスタイルとも言えるのでしょう。

言いたい放題は、
格好のつけたい放題でもあるでしょうから。

でも、その格好づけを、
十年もつづけてご覧なさい。(^^;)

その【格好のつけ方】自体が、
だんだん第二の習い性になってくる。

その時々に配達されてくる、
いちばん格好がいいと思う観念を模写しているだけなのに……。

たったそれだけのことで、
その格好がいい理解がだんだん既成事実になってくる。

もちろん、はじめのうちは、
自分が選んでいると思っています。

でもそのうち「行為は起こるが、行為者はいない」
というような言葉の途方もない格好良さに打たれる時が来ます。

まず最初に、
それが事実であることが直感的に感じられます。

と同時に、
そのことを何とか理解したいという想念も湧いてくる。

一週間に一度ですら、
それなりのパワーはあるのですね。

そのたんびに復唱しては、
そのことを何とか理解したいと思う。

何度も何度も似たような言葉を引用しては、
何とかその言葉を理解したいと思う。

そうしたらいつの間にか、
そんなこと、当たり前だということがわかってしまう。(*^_^*)

だってそうですよね。

自分が選んでいるつもりといっても、
事実は目の前に現れたものを掴んでいるだけです。

自分がそれを目の前に配達したわけでもなければ、
自分がその選択の趣味を見繕って選択したことがあるわけでもない。

もし自分の趣味と称するものを自分で選択したのだとしたら、
いったいどうやってそれを選択できたのだろうか?

選択するには選択するための基準が必要です。

その基準はどうやって選択する?

誰がそれを選択するのか?

誰かがそれを選択したという立場に立つなら、
まあ、神様がDNAの配列を決めたのだとでも言うしかない。

そういう観念のなかでは、
人間の選択はDNAに命令されて“入れ食い”で掴まされるだけです。

あまりにも自明なお話です。

ぎりぎり、お釈迦様がおっしゃったように
「行為は起こるが、行為者はいない」と言うしかないのです。

とはいえ、頭でそれが納得できたからと言って、
「聖なる催眠」が解けて「分離の夢」が終わるわけではない。

でも、通常自分だと思っているこの身体もそこに湧く思考も、
自然過程の一部にすぎないことが了解されてきます。

その自然過程の一部を自分と呼ぶのは僭称でしかない。

自分の振るまいをコントロールするどんな実体もいないからです。

次に自分にどんな思考が湧くのかもわからなければ、
思考することをやめることすらできない。

ものの一分も自分の思考を止められないのなら、
その思考を自分と呼ぶのはどう考えても笑止です。

餌をやらなければ身体は生存すらできないのなら、
この身体は重荷ではあっても、自分ではないでしょう。

この身体は、
現象世界という自然過程の一部です。

同時に配達されてくる一連の思考群も
現象世界という波動世界の一部です。

要するに、この肉体精神機構は
波動世界という自然過程の一部なのです。

わたしはわたしのようにしか振るまえないし、
あなたはあなたのようにしか振るまえない。

わたしとかあなたとか言って、
「見かけ」の一部を切り離すこと自体が笑い話にすぎません。

夢を創造するための「時間」という虚構のフィルターを外せば、
すべては今の中に同時に投影されているのでしょう。

本屋の中にすべての本が同時に存在しているように。

ある本『A』は劇の登場人物Aにとっては過去で、
別の登場人物Bにとっては未来であるかもしれない。

ところが別の本『B』は登場人物Aにとっては未来で、
登場人物Bにとっては過去であるかもしれないのです。

成長も進化もありはしない。

アセンションもディセンションもありはしない。

すべての夢が夢の大伽藍を支えているだけでしょう。

アセンションはアセンションの夢として、
ディセンションはディセンションの夢として、
夢の大伽藍を支えているのです。

現象世界は「二元性原理」の支配下にあり、
両極間を振動せずには現象できない世界なのですから。

これを要するに、
現象世界はあるがままの自然過程として現象しているだけです。

それが現象する内部構造について、
お釈迦様は「縁起」ということを言われたそうです。

見かけの中の物語の展開は、
因縁因果によって次々と紡がれると。

因縁も因果も物語の中にしかありえない以上、
意味というようなものもまた夢のなかにしかありえない。

関心を持ち、目を向ければ、見かけは現れる。

それ自体の中に特段の意味はありません。

ただ物語の中に入り込めば、
文脈が現れ、立場が現れ、意味が現れる。

物語の筋がわかれば、感情移入する対象もわかり、
やがては画面の指揮にしたがって感情もシンクロしてくる。

テレビの画面と同じです。

面白がっていいけれど、
何も苦しむほどシンクロしつづける必要もない。

──────────────────
 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。
 それは在り、しかもそれはない。
 私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、
 それはそこに在る。
 私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。
 それは原因がなく、何の目的にも仕えない。
 それは私たちが放心しているときに起こる。
 まったく見たとおりに現れはするが、
 そこには何の深みも意味もない。
 ただその傍観者だけが実在なのだ。
 彼は真我ともアートマとも呼ばれる。
 真我にとって世界は、
 それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、
 ただの色鮮やかなショーにすぎない。
 何であれ、
 舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、
 あるいは笑い転げさせようと、
 常に彼はそれがただのショーだと知っている。
 欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。

 『私は在る』(p196) 
------------------------------------

(-||-)

> 常に彼はそれがただのショーだと知っている。

そのほうがいいのだろうか?(-_-)

> 欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。

もちろん、そのほうがいいさ。(*^_^*)

──ならば、そっちに向かわなければ。

え、どうやって?(?_?)

──────────────────
 あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、
 本当にうんざりしていなければならないのだ。
 そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から
 自由となる緊急の必要性を見なさい。
 この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が
 成功の秘密なのだ。

 『私は在る』(p528) 
──────────────────

あ、そうか。

そうだよなぁ。

──────────────────
 一般的な常識でさえ
 欲望を満たしたいのならそれを思いつづけなさいと言う。
 もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、
 あなたの存在の秘密があばかれるまで、
 つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。

 『私は在る』(p373) 
──────────────────

わかりました。(*-_-*)

(-||-)

夢を見ている者と、夢を可能にする実体について、
マハルシはこうおっしゃっています。

──────────────────
 質問者 心と真我の違いは何でしょうか?
 
 マハルシ
 何の違いもない。
 心が内側に向かえば真我であり、
 外側に向かえばそれは自我、そして世界となる。
 綿からつくられたさまざまな衣服を、
 われわれはさまざまな名前で呼ぶ。
 金からつくられたさまざまな宝飾品を
 われわれはさまざまな名前で呼ぶ。
 けれども、すべての衣服は綿であり、
 すべての宝飾品は金である。
 実在はひとつであり、
 数多くあるのは単に名前と形でしかない。
 
 『あるがままに』(p30) http://tinyurl.com/2aar6zj
──────────────────

> 質問者 心と真我の違いは何でしょうか?

ええ、何でしょうか?

> マハルシ
> 何の違いもない。

(@_@) ⌒★?

> 心が内側に向かえば真我であり、

はい。

> 外側に向かえばそれは自我、そして世界となる。

ああ……。

> 実在はひとつであり、
> 数多くあるのは単に名前と形でしかない。

そうか……。

(-||-)

──────────────────
 質問者 もしジニャーニもアジニャーニも同じように世界を知覚
     するのであれば、彼らの間にどんな違いがあるというの
     でしょうか?
 
 マハルシ
 世界を見ながら、
 ジニャーニは見られるものすべての根底にある真我を見ているが、
 アジニャーニは世界を見ていようといまいと、
 彼の本性である真我について無知なままだ。
 
 映画のスクリーン上で動いている画像を例に考えてみるといい。
 映画が始まる前に、あなたの目の前にあるのは何だろう?
 ただのスクリーンである。
 あなたはその劇をスクリーンの上に見ている。
 そして画像が現れている問、
 それらはみな現実であるように見える。
 だが、行ってつかみ取ろうとしてみなさい。
 何をつかむだろうか?
 ただのスクリーンである。
 映画が終わって画像が消え去ったあと、何が残っているだろうか?
 やはりスクリーンである。
 
 真我もそれと同じなのだ。
 ただ真我だけが存在し、画像は来ては去っていく。
 もしあなたが真我とともにとどまれば、
 画像の現れに惑わされることはないだろう。
 あるいは画像が現れようと現れまいと問題にはならないだろう。
 ちょうどスクリーンを無視して画像だけを見ていたように、
 アジニャーニは真我を無視して世界を実在だと思いこむ。
 あたかも世界が自分から離れて存在しているかのように。
 もしスクリーンなしには画像がありえないように、
 見る者なしには見られるものもないということを知れば、
 惑わされることはない。
 ジニャーニはスクリーンも画像も、
 ともに真我であることを知っている。
 世界という画像によって真我は形をとり、
 世界という画像がないとき、真我は形をとらずにとどまる。
 ジニャーニにとって真我が形をとるかとらないかは問題ではない。
 彼はつねに真我なのだ。
 だが、アジニャーニはジニャーニが活動的であるのを見て
 困惑するのである。
 
 『あるがままに』(p66-67) http://tinyurl.com/2aar6zj
──────────────────

> 質問者 もしジニャーニもアジニャーニも同じように世界を知覚
>     するのであれば、彼らの間にどんな違いがあるというの
>     でしょうか?

どんな違いがあるというのでしょうか?

> マハルシ
> 世界を見ながら、
> ジニャーニは見られるものすべての根底にある真我を見ているが、

はい。

> アジニャーニは世界を見ていようといまいと、
> 彼の本性である真我について無知なままだ。

あ!(>_<)

> 映画のスクリーン上で動いている画像を例に考えてみるといい。

はい。

> 映画が始まる前に、あなたの目の前にあるのは何だろう?
> ただのスクリーンである。

わかります。

> あなたはその劇をスクリーンの上に見ている。

たしかに。

> そして画像が現れている問、
> それらはみな現実であるように見える。

ええ。

> だが、行ってつかみ取ろうとしてみなさい。

……。

> 何をつかむだろうか?
> ただのスクリーンである。

はい。

> 映画が終わって画像が消え去ったあと、何が残っているだろうか?
> やはりスクリーンである。

たしかに。

> 真我もそれと同じなのだ。

(-_-)

> ただ真我だけが存在し、画像は来ては去っていく。

(-_-;)

> もしあなたが真我とともにとどまれば、
> 画像の現れに惑わされることはないだろう。

そういうことか。

> あるいは画像が現れようと現れまいと問題にはならないだろう。

なるほど。(-_-)

> ちょうどスクリーンを無視して画像だけを見ていたように、
> アジニャーニは真我を無視して世界を実在だと思いこむ。

たしかに。

> あたかも世界が自分から離れて存在しているかのように。

(*-_-*)

> もしスクリーンなしには画像がありえないように、
> 見る者なしには見られるものもないということを知れば、
> 惑わされることはない。

(-_-)

> ジニャーニはスクリーンも画像も、
> ともに真我であることを知っている。

そういうことか。

> 世界という画像によって真我は形をとり、
> 世界という画像がないとき、真我は形をとらずにとどまる。

はい。

> ジニャーニにとって真我が形をとるかとらないかは問題ではない。
> 彼はつねに真我なのだ。

ああ……。

> だが、アジニャーニはジニャーニが活動的であるのを見て
> 困惑するのである。

……。(*-_-*)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 2.いただいたお手紙から:hikarikoさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回も、hikarikoさんからご投稿いただきました。

早速ご紹介します。

【件名】: Pariさま
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 この幻想の夢の中 
  
  
 勇気
  
  
 興味の失墜
  
  
 情を捨てる
  
  
 恩を捨てる
  
  
 諦め
  
  
  
 その苦しみは
  
 みずからへの深い信頼であり
  
 みずからへの深い愛であることを
  
 ・・・ 知る
  
  
  
  
 お人好しのわたしでありましたが
  
  
 そのお人好しは
 じつは 他人へ向けての依存であることを知りました
    
  
  
  
 あなたは在る
 ほかのすべては現れにすぎない
  
  
  
  
 土曜日楽しみにしています
  
  
  
 どうぞよろしくお願いいたします
  
  
  
  
 hikariko
──────────────────

hikarikoさん、ご投稿ありがとうございました。

週に一度のわたしのマインド無礼講が

もしもhikarikoさんにとって

何かのお役に立っているのなら嬉しいです。

いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

m(_ _)m


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■ 3.「ご投稿・情報提供」:ザール隊長さん
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『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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ザール隊長さんという方から
ご自身のMLへの参加者募集情報をご提供いただきました。

早速、ご紹介させていただきます。

【件名】: メーリングリスト参加者募集
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 「日月神示 日本の近未来」(ザール隊長)というメーリングリ
 ストを立ち上げました。
 私はノストラダムスの予言を研究しています。
 みろくの世に向けて、日月神示・大本・予言に関心のある方のお
 知恵を拝借したいと思います。
 参加希望の方は「 shimataka373@yahoo.co.jp 」まで「『アセ
 ンション館通信』見た」と記入してメールください。
 ご招待状をお送りします。
──────────────────
 
ザール隊長さん、ご紹介させていただきました。
 
この場所を利用していただき、ありがとうございます。

m(_ _)m

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■ 4.編集後記:
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一週一度のマインド無礼講とはいいながら、
こうして実力以上の話を吹聴しまくるのはいかがなものか?
という感じをいつももっていました。

でも、それは劇のなかのお話でした。

そのことに責任のある誰がいるわけでもない。

全体のなかの働きとして、
そういう登場人物が現象しているだけです。

ラマナ・マハルシのお話では、
心(マインド)と真我は同じものだそうです。

般若心経でも

色即是空 空即是色

といいます。

劇の中ではいろんな情緒が行き交います。

劇の文脈の中に入り込めば、
止めどもなく意味は分岐する。

でも、すべては観念であり、
すべてが想像のなかにあるのも間違いありません。

劇の中で舞い上がったり落ち込んだりするのは、
ゴミ箱あさりのようなものかもしれないけれど。

ゴミ箱をあさっている誰かがいるわけでもない。

わたしが興味をもっているだけなのでしょう。

今日は、まだまだ明るいです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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