home > 通信 >『アセンション館通信』(第627号):ネイサン・ギルの理解と知



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/04/17(第627号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在841名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.ネイサン・ギルの理解と知

2.編集後記
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■ 1.ネイサン・ギルの理解と知
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花曇り……。

これを書いているのは土曜日ですが、
昨日はとてもいい天気でした。

そして今日は曇りですが、明日は雨になるそうです。

いま、わが家の庭が一年中でいちばん華やかなときなんです。

正面のピンクの花桃が満開です。

その下の黄色のレンギョウはもう終わりかけている。

チューリップは一番元気に咲き誇っていますね。

赤紫の深山つつじが咲きはじめ、
その上に見える桜がまもなく満開です。

そして東側には白い花桃です。

この季節、全部いちどに咲きだすんです。

前方の山の若草色が日に日に濃くなっていきます。

そんな光景の上を一面の曇天が覆っています。

ところが時々あたりが急に明るくなる。

陽の光が雲間から差し込むときがあるんです。

なんということもないんですけどね。

ふ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

──────────────────
 探求者は消え去るが、探求は続く。
 探求は究極であり、永遠の実在だ。
 
 『私は在る』(p241)
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こういう言葉、
いったいどういう意味なんだろうと思ったものです。

でも、いつの間にか、
探求者というのはいない、探求があるだけというのが、
あまりにも当然という感覚があります。

すべてそれぞれの風景なんですね。

どういう意味があるのかと思う探求者がいるわけではない。

ただ、そういう場面もあるというだけです。

探求があるだけだということを納得した
探求者がいるわけではない。

ただ、そういう場面もあるというだけです。

いろんな理解レベルの探求者がいるわけではない。

いろんな解釈の場面があるだけです。

そういう理解のレベルを
操作できる探求者がいるわけではない。

あの強烈に不幸をかこった
若いわたしがいたわけではない。

そういう想念が今のなかにわいただけです。

こんなこと、
理屈で納得してもしょうがない話です。

ネイサン・ギルは、「理解」という言葉について
こういう言い方をしています。

──────────────────
 Q.この状態にずっとあり続けるようになると、時間の経過とと
   もに理解が深まっていくんでしょうか?
 
 A.理解が深まることはありません。
 理解に用がなくなるんです。
 理解というのは、登場人物と同一化した観点からだけ成立するこ
 とです。
 この自分の本質としての知が劇の中に浸透しはじめると、はじめ
 はそれは探求や理解として現れます。
 でもそれが続いて、本来的な知が劇に広がっていくにつれて、理
 解は要らなくなるんです。
 
 『すでに目覚めている』(p103)
──────────────────

なるほど。(@_@)

> Q.この状態にずっとあり続けるようになると、時間の経過とと
>   もに理解が深まっていくんでしょうか?

これが「理解」という言葉の通常の意味ですよね。

ところがネイサン・ギルはこう言います。

> A.理解が深まることはありません。

【理解が深まる】などということはない、と。

> 理解に用がなくなるんです。

理解というようなものが要らなくなる。

なぜなら、

> 理解というのは、登場人物と同一化した観点からだけ成立するこ
> とです。

というわけです。

この表現はとても説得力がありますね。

> この自分の本質としての知が劇の中に浸透しはじめると、はじめ
> はそれは探求や理解として現れます。

対象に集中している劇のなかの登場人物に
一体性である自分の「知」が浸透しはじめると
【はじめはそれは探求や理解として現れ】る、と。

> でもそれが続いて、本来的な知が劇に広がっていくにつれて、理
> 解は要らなくなるんです。

そして一体性である自分の本来的な知が劇に広がっていくと、
やがて【理解は要らなくなる】と。

──────────────────
 Q. ストーリーの単なる一部ですね。
 
 A. そうです。
 つまり、劇の中の登場人物の観点から見ていると、理解がすべて
 です。
 「わかる」べきことがあるように思えます。
 でも実際には、それは自分の本質としての知が理解という形で劇
 の中に浸透しているだけです。
 知があきらかになるにつれて理解は不要になって、そもそも理解
 する必要などあったことがなかったということ、心理的な自己感
 覚はいつ完全に脱落してもおかしくないこと、そのどれもがいず
 れにしてもどうだっていいということがわかります。
 つまり、理解の必要などないんです。
 理解というのは劇です。
 
 『すでに目覚めている』(p104)
──────────────────

> Q. ストーリーの単なる一部ですね。
> 
> A. そうです。

理解というのはストーリーの一部だ、と。

> つまり、劇の中の登場人物の観点から見ていると、理解がすべて
> です。

たしかに。

> 「わかる」べきことがあるように思えます。

はい。

> でも実際には、それは自分の本質としての知が理解という形で劇
> の中に浸透しているだけです。

なるほど、言われてみるとそのとおりですね。

> 知があきらかになるにつれて理解は不要になって、そもそも理解
> する必要などあったことがなかったということ、心理的な自己感
> 覚はいつ完全に脱落してもおかしくないこと、そのどれもがいず
> れにしてもどうだっていいということがわかります。

なるほどなぁ。

> つまり、理解の必要などないんです。

そうか……。

> 理解というのは劇です。

納得です。

(-||-)

と、まずこう伺っておきましょう。

そしてわたしが見ている劇の登場人物が好きな
哲学などに触れてこんな言い方もします。

──────────────────
 Q.じゃあ、たとえば何かに興味を持っていたとします。何でも
   いいですが、主に頭で考える類のことです。哲学とかそんな
   感じの。そういう関心はすっかり落ちてしまうんですか?
 
 A.登場人物の立場でこの生を解明しようとすることはまったく
 なくなります。
 生はありのままにありますが、それをどんな形にせよ解こうとす
 るのは同一化している登場人物がしている探求なんです。
 解明すべきものなど何もありません。
 スクリーン上に映画が映っているだけです。
 
 でも実用的なこと、たとえば刺繍や庭仕事や考古学のような趣味
 について言えば、それはそのまま続くだろうと思います。
 登場人物には固有の傾向がありますから。
 そういうことは、劇から抜け出す方法を見つけようとしてやって
 いるわけではなくて、劇の中で楽しもうとしているだけです。
 ただ、劇から抜け出ようとしたり、劇をうまく展開させようとし
 たりすることはすっかりなくなります。
 そういうことに関心がなくなるんです。
 
 『すでに目覚めている』(p105)
──────────────────

> A.登場人物の立場でこの生を解明しようとすることはまったく
> なくなります。

この【まったく】というところがミソですね。(*^_^*)

> 生はありのままにありますが、それをどんな形にせよ解こうとす
> るのは同一化している登場人物がしている探求なんです。

反論の余地が無いです。^^;

> 解明すべきものなど何もありません。

はい。

> スクリーン上に映画が映っているだけです。

たしかに。

> でも実用的なこと、たとえば刺繍や庭仕事や考古学のような趣味
> について言えば、それはそのまま続くだろうと思います。

おお。

> 登場人物には固有の傾向がありますから。

なるほど。

> そういうことは、劇から抜け出す方法を見つけようとしてやって
> いるわけではなくて、劇の中で楽しもうとしているだけです。

ですね。

> ただ、劇から抜け出ようとしたり、劇をうまく展開させようとし
> たりすることはすっかりなくなります。

アチャ。(>_<)

これがわたしが見ている劇の登場人物が
よくやっていることです。(*^_^*)

あんまり生き上手の登場人物じゃないらしく、
いまだにうまくやろうと足掻いています。(^_-)

> そういうことに関心がなくなるんです。

(*-_-*)

そしてネイサン・ギルは
「理解」についてこういうきついこともいいます。

──────────────────
 Q.行為する人はいないという観点から考えるのは、ものすごく
   役立つ気がします。「自分で人生を作っているわけじゃない
   んだ。ものごともコントロールしていないんだ」という感じ
   で。そう考えることで、ものごとを変えるために何かしなく
   ちやいけないという罪悪感からだいぶ解放されるんです。さ
   きほど話したように、自分の娘と接するときは感情的な負荷
   がかかってしまってすごく難しいんですが、その狭い領域か
   ら離れると、それ以外のことは楽になってきています。
 
 A.ええ、なるほど。
 生という劇の中で同一化している登場人物の観点から見れば、自
 分は行為者ではないというような概念は、それが劇の中に浸透し
 てくるときには、かなり役に立ちます。
 というのは、頭を悩ますものをある意味ではすっかり手放せるか
 らです。
 ですから、理解をそうやって深めるということが起こるとき、そ
 れが登場人物の立場からだとしても、劇の中ではそういう概念に
 は感情の解放やくつろぎをもたらす大きなカがあります。
 ただし、どんなに理解したところで、それは登場人物との同一化
 から目を覚ますことにはつながりません。
 というのも理解というのは劇の一部だからです。
 知が生じると理解には単純に用がなくなります。
 
 『すでに目覚めている』(p108-109)
──────────────────

> Q.行為する人はいないという観点から考えるのは、ものすごく
>   役立つ気がします。「自分で人生を作っているわけじゃない
>   んだ。ものごともコントロールしていないんだ」という感じ
>   で。そう考えることで、ものごとを変えるために何かしなく
>   ちやいけないという罪悪感からだいぶ解放されるんです。

このへん、わたしが見ている劇の登場人物も賛成みたい。(^_-)

>   きほど話したように、自分の娘と接するときは感情的な負荷
>   がかかってしまってすごく難しいんですが、

わたしが見ている劇の登場人物はお金が鬼門みたい。(^_-)

> A.ええ、なるほど。

この質問者のおっしゃることはよくわかりますよね。

> 生という劇の中で同一化している登場人物の観点から見れば、自
> 分は行為者ではないというような概念は、それが劇の中に浸透し
> てくるときには、かなり役に立ちます。

ええ、なんか楽にはなります。

いまいち、真剣になれなくなる。

> というのは、頭を悩ますものをある意味ではすっかり手放せるか
> らです。

そう、ある意味では、たしかにそうです。

> ですから、理解をそうやって深めるということが起こるとき、そ
> れが登場人物の立場からだとしても、劇の中ではそういう概念に
> は感情の解放やくつろぎをもたらす大きなカがあります。

それは、体験的にわかりますね。

> ただし、どんなに理解したところで、それは登場人物との同一化
> から目を覚ますことにはつながりません。

アチャ!(>_<)

> というのも理解というのは劇の一部だからです。

そうかぁ。(;_;)

> 知が生じると理解には単純に用がなくなります。

わたしが見ている劇の登場人物には、
知は生じていないわけだなぁ。(-_-;)

(*^_^*)

とはいえ、劇の登場人物に
何かできる余地があるわけでもなし。

ネイサン・ギルは別のところで、
理解から知への移行を次のように描写しています。

──────────────────
 A.催眠状態には何も悪いことはありません。
   単なる劇なんです。
   同一化している登場人物の観点から見ていると──内容にだ
   け注意を向けていると──、何かが間違っているように感じ
   られますが。
 
 Q.それは苦しみなんでしょうか?
 
 A.そうです。
   それで劇の中ではそれが劇の外に抜け出したいという動機に
   なって現れます。
   今日のこの話の文脈で言うと、それは同一化している登場人
   物あるいは「私」による探求として、理解しょうとする動き
   として現れるんです。
   
   知は──それは僕たちの本質ですが──、はじめに劇の中に
   広がりだすときには、人生で問題のように感じられることを
   どうにかするための理解を求める旅や欲求という形で現れま
   す。
   ただし、理解というのは、知が思考という形で生じている現
   れにすぎません。
   そして劇の内容の一部である思考には、絶えず動き続けなが
   ら変わり続けるという性質がありますから、知が理解という
   形で現れたとしても──それは登場人物にとっては安心をも
   たらすものではあるんですが──、それが「私」の土台を崩
   すことはないわけです。
   理解は「私」がする何かとしてとらえられます。
   
   自分の本質を思い出すということが繰り返される中で──そ
   れがどういう形をとるにしても──、知があきらかになるこ
   とがありますが、そうすると「私」は見抜かれて、理解には
   用がなくなります。

 『すでに目覚めている』(p241-243)
──────────────────

> A.催眠状態には何も悪いことはありません。

そうか、催眠状態が悪いものに見えるのは、
劇の登場人物の立場から見ているからか。

>   単なる劇なんです。

悲劇は悲劇の登場人物にとって悪いだけ。(*^_^*)

>   同一化している登場人物の観点から見ていると──内容にだ
>   け注意を向けていると──、何かが間違っているように感じ
>   られますが。

たしかに。

なんのためにこんなものがあるのかと思いましたよ。

> Q.それは苦しみなんでしょうか?
> 
> A.そうです。

ですね。

>   それで劇の中ではそれが劇の外に抜け出したいという動機に
>   なって現れます。

間違いない。

>   今日のこの話の文脈で言うと、それは同一化している登場人
>   物あるいは「私」による探求として、理解しょうとする動き
>   として現れるんです。

なるほど。

>   知は──それは僕たちの本質ですが──、はじめに劇の中に
>   広がりだすときには、人生で問題のように感じられることを
>   どうにかするための理解を求める旅や欲求という形で現れま
>   す。

たしかになぁ。

>   ただし、理解というのは、知が思考という形で生じている現
>   れにすぎません。

はい。

>   そして劇の内容の一部である思考には、絶えず動き続けなが
>   ら変わり続けるという性質がありますから、知が理解という
>   形で現れたとしても──それは登場人物にとっては安心をも
>   たらすものではあるんですが──、それが「私」の土台を崩
>   すことはないわけです。

ああ、それはわかるなぁ。

>   理解は「私」がする何かとしてとらえられます。

はい。

>   自分の本質を思い出すということが繰り返される中で──そ
>   れがどういう形をとるにしても──、知があきらかになるこ
>   とがありますが、そうすると「私」は見抜かれて、理解には
>   用がなくなります。

そうか。

「理解」ということが、
劇のなかの一場面にすぎないことが見抜かれるわけか。

「私」が見抜かれたら、理解には用がなくなる。

(-||-)

──────────────────
 A.劇が展開して、そこに知が浸透してくると、この登場人物は
 単なる見かけであって劇の中のひとつの出来事だということ、
 自分の本質を思い出したり認識したりすることもすべて劇の一
 部だということが明白になります。
 はじめに理解として現れていたものは溶け去って知になり、目
 が覚めるということはありえないんだとわかります。
 あるのは目覚めだけです。
 そして、登場人物と同一化するという劇がある種の催眠作用と
 して起こっているんだとわかります。
 ずっと求めていた目覚めというのは、目覚めはじつはすでにあ
 ったという認識のことで、それは今この瞬間に起こっているん
 です。

 『すでに目覚めている』(p240)
──────────────────

> A.劇が展開して、そこに知が浸透してくると、この登場人物は
> 単なる見かけであって劇の中のひとつの出来事だということ、
> 自分の本質を思い出したり認識したりすることもすべて劇の一
> 部だということが明白になります。

なるほど。

これが、
ネイサン・ギルという窓から見たときの風景かぁ。

> はじめに理解として現れていたものは溶け去って知になり、目
> が覚めるということはありえないんだとわかります。

【目が覚めるということはありえない】とわかる。

> あるのは目覚めだけです。

最初から、あるのは目覚めだけ。

> そして、登場人物と同一化するという劇がある種の催眠作用と
> して起こっているんだとわかります。

それが自明になったとき、
腹が立つよりは、笑ってしまうわけか。

> ずっと求めていた目覚めというのは、目覚めはじつはすでにあ
> ったという認識のことで、それは今この瞬間に起こっているん
> です。

いま見ているこの実体こそが、
最初から目覚めなんだとわかる。

そして、【それは今この瞬間に起こっている】と。

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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(-||-)

------------------------------------
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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pariという劇の登場人物に起こっているのは、
知ではなく理解かもしれません。

とはいえ、いまさら劇のなかの苦闘に
本気で真剣に取り組むことにも戻れないような。

明けそめているのが知であれ理解であれ、
いずれにせよ時計のゼンマイはゆるみつつあります。

ただ、まだ楽をしたいと画策する
劇がつづいているというだけです。

なにしろ一週間にいちど、
こうして劇に茶々を入れているので。(*^_^*)

劇の中ではテレビが遠く南の方の地震の報を告げているときに、
こんなどうでもいいような話を書いて。

でも劇の中で起こっていることですから、
誰かに責任があるわけでもない。

今日は早く終わりました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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